たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

本当の意味で研究を進捗させる上で重要なこと

2024-03-31 04:14:10 | 自然科学の研究
 自然科学分野において本当の意味で研究を進捗させる上で重要なことをまとめておこうと思う。筆者は生物物理(実験), 再生医療が専門なので、この分野に特有のことを無自覚に書いてしまうと思うが、理論研究を含めたなるべくすべての分野に適合することを書きたい。
 この記事は順次更新するようにしていきたい。(最新更新日2024.3.31.)

・研究するとは何か

 研究とは新しいことをすることだ。
 新たな研究テーマに着手するとき、まずは自分自身にとって新しいことをするだろう。そして、次第にそのチームにとって新しいことをするだろう。さらに、その分野において新しいことに到達するだろう。これが即ち、研究の出力になる。人生で一度くらいは人類にとって全く新しいことをしてみたいのが人の常だが、なかなかそうもいかない。その分野において新しいことまできちんと到達することを目標に、毎日どの段階かの「新しいことをすること」を意識して研究に取り組むべきである。
 逆に日々「今までと同じことをひたすら繰り返す」ことは、研究とは呼ばない。実験研究における標語は同じ実験を繰り返すな!である。急いで付け加えなければならないが、再現性を確認することはとても大事なことである。しかし、それは上記した「新しいこと」が前提である。新しいことを恐怖するがゆえに同じことを繰り返している場合、今一度研究とは毎日新しいことをすることと唱えてほしい。「たくさん実験したね」「いっぱい計算したね」と言われたいだけなら研究を掲げないことだ。

・安全性について

 この項目は実験研究において(バイオ系や有機系)だけかもしれないが、自分自身の安全を絶対に確保しながら研究するべきである。
 具体的には、白衣を着ることゴーグル(メガネ)をかけること。また白衣の中に着る普段着も、なるべく動きやすい服装であることが好ましく、短いズボンやスカートで足を露出してはいけない。なるべく実験室で一人にはならないこと。また、実験終了前後は手を洗うこと。
 そして、週に一度はきちんと掃除をすること。実験とは、その系の中での現象を掌握することである。系の中に不要なものがある状況下で実験などできるわけがない。机の上が汚いのは構わないが、実験環境は整理整頓されていなければ正しい実験ができず、精度や成功率も下がる。まずここまでが基本中の基本。

 実験室で最もリスクが高いものは回転するものである。遠心機はチビタンであっても油断せず、バランスをしっかりとって使用すること。
 自分が使う実験装置については、簡易マニュアルだけでなく、その原理からきちんと理解すること。

・目標

 月に一つは論文や報告書に掲載できる図を作成できるように。
 論文のFiguresが4つ欲しいのだとすれば、半年で一本分のデータは揃うはずである。実際できるかどうか別にしても、多くの分野でこのくらいの意識で進めなければ、博論はストレートに仕上がらないと思っている。
 ただし、論文を量産することに最適化しないように。それをすると研究の定義である「新しいことをする」と矛盾しがちになる。魂を売って論文製造機にならないこと。

・基礎学力

 高校理科と高校数学に不安な点がある場合は早急にこれをマスターすること。これができていないと安全が完全には確保されない。
 統計力学までの物理学(基本だけで良い)と数理統計学の理解はどの分野でもなるべく習得することが望ましく、いくら実験系でも(バイオ系でも)、昨今このベースがないと本当の意味でオリジナリティのある研究は難しいのではないかと思う。実験装置がそれらを基本にしている以上、実験原理について理解できない箇所がある状態で実験に臨むべきではないからだ。統計力学までの物理学と数理統計学については、筆者が研究従事者向けに主宰している物理会(2022.3.-現在まで)のYouTubeがあるので(限定公開)、機会があればその全体を紹介したい。自分の同僚がその理解不足に陥っている場合、筆者はいくらでもフォローしたいと思っている。

・他者の報告を読むことについて

 自分の分野について最低限、その礎となっている文献を読むことは必須である。しかし昨今、「新しいことをしてもいないのに(いろいろな事情で)まとめてしまった」論文というものが世に溢れかえっている。これはジャーナルのインパクトファクターに依らずに起きていることなので、毎日論文を必死になって追う必要はないと考えている。情報は確かな武器だが、情報がゴミに埋もれているわけで、再現性が得られるかも分からないようなゴミを頭に入れる時間はもったいない。
 上記した基礎学力をもってその分野の基礎を正確に習得し、日々新しいことをしながら必然性を追いかけていれば、自然と研究になるというのが筆者のスタイルである。

 だが、視野が狭くなるのはいけないことなので、(少なくとも)あらゆる研究分野のアブストをパラパラ読む程度はしたほうが良い。
 論文を体系的に読むことも(筋トレ的な意味で)重要なので、2ヶ月に一度くらいは自分が読んだ論文について紹介する機会があることが望ましい。この際には「自分がこのテーマを引き続き行うのだとしたら明日から具体的に何をするか」まで分かっている状態になっていないといけない。

 自身の研究成果を発表するときには、当然だがきちんと文献検索をするべきである。その際にどこにもオリジナリティがないということであれば、それは基礎学力を疑うべきである。研究テーマは日々変わっていくはずのものなので、研究の最初に一生懸命に文献検索をしても仕方ない。代表的なものを5報(そのなかの気になった引用も)も読めば十分であろう。

 この項目の最後に逆説的なことを言っておくと、1週間で最大どれくらいの論文をきちんと読めるだろうかということは試すに値する。(筆者が学生時代に試してみた際は50報が限界であった)

・学会や展示会の参加について

 何らかの集会に出席して、自分の研究を相手に伝えてフィードバックをもらったり、誰かの研究を直接言葉で聴くことは重要である。
 しかし、学会や展示会に関しても昨今、乱立してしまっているので、どれに行くべきかは精査した方が良い。また、発表を聞く際に期待しすぎないこと。一つの集会で一つ有用な情報に出会えればそれで良いと筆者は思っている。実際、それくらいの率であると思う。
 出席したら必ず報告書を作成すること。政治力学に奔走したいなど忙しい場合は、その場でメモ程度でも構わない。それが何年後かにヒントになることもありえる。(実際に何度もあった)

・手を動かす人と口を出す人の比率

 少子高齢化の影響で、口を出す人の方が手を動かす人よりも多い、という事態が発生しやすくなっている。手を動かす人というのは、実際に実験をする人、計算機で計算をする人である。
 たとえば、手を動かしている人の報告を極たまに聴くタイミングでしかそのテーマのことを思い出さないのであれば、考究していないわけだから口を出すだけ邪魔であることは多い。そういう人が3人もいれば、もう研究は先に進まない。烏合の衆はダメに決まっている。
 この時代であるからこそ、研究管理者ではなく研究従事者であろうとすることが重要である。そのテーマに関して口を出すのではなく実際に何ができたのかを意識するべきだし、口だけ出してくる人には協力を仰がないように進捗させないと、結局のところ研究が前に進まない。それくらいの気概がなければ、疲弊した状況を抜け出すことはできない。

・余裕があること

 これがもっとも難しいこと(かつ精神的なこと)であるが、余力を常に20パーセントは残しておきたい。できれば60%くらいの力で何事も臨んでいることが重要だと思う。
 新しいことをすることはストレスである。だからこそ、余裕がないと研究は実行できない。全力で60%の力を出す、なんだか矛盾しているようだが、これを意識したい。


 研究者とは職業ではなく、もはや一つの生き方である。理想的で実行的なことをたくさん書いたが、上記のように取り組んでいれば、必ずや生活は楽しくなる。
 読者が、より楽しくより意味のある研究生活を送れるように願っている。自戒も込めて。
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微積物理と仕組まれた自由

2024-03-12 02:17:38 | 自然科学の研究
 高校物理の内容を(高校で習う)微積分を使って理解することを「微積物理」と呼ぶらしい。
 本来、微積分(というか解析学)は物理学の理解に必要不可欠であり、微積分を使わないで物理学を理解することなどありえない。しかしながら、高等学校の理科の学習指導要領では、高校数学で微積分を習いたての生徒に配慮しているためか、高校物理で陽に微積分を使って説明することを避けている。

 これは一部の意欲的な生徒たちには歯痒いことであろう。特に難関大学を理系で目指す高校生たちは物理学に憧れを持っていることが少なくないため、高等学校の指導要領に従った指導では満足できないことが多々見られる。
 私自身も高校生・浪人生の頃(ちなみにこのブログは私が浪人生の時から書いている)、微積分を使って高校物理を理解することを試みていた。単振動や回路など、暗記に頼らず、微分方程式を用いて記述することで体系的に理解することに深く感動していたのだ。特に浪人生の時には、大学レベルの微分積分学の教科書や演習書を図書館から借りてきて、減衰振動の一般解を自分なりに求めてみるなどしていた。当時の自分の気持ちを想像するに、「自分は浪人しているが、大学レベルの物理学を理解するまでに達している」と自由を求めての行いであったように思う。

 今から考えてみると、受験対策として、高校レベルを逸脱して理解することに何の意味もない。そりゃ変位を微分したら速度になる、くらいはパサパサ使ったら良いと思うが、、上記したような基礎を確立していない上での「自分なりの研究」をやっている暇があるなら、有機反応を一つでも覚えるとか英単語やコロケーションを一つでも覚えるとか、当時の自分にとって無意味であるような勉強(別に今でも多少そう思っているけど笑)をしたほうがよほどに実益であろう。
 けれど、若い頃というのは「将来のため」に生きているわけではない。そんな腑抜けた受験に即した勉強をするくらいだったら、第一志望(東工大であった)に受からなくても良い、と思っていた。

 さて、その求めていた「自由」は、本当に「自由」だったのであろうか。
 自分なりに微積分を使って高校物理の範囲から足を踏み出して、自分なりの丘陵から自分なりの物理学を眺めることは、どれほど有意義であったのだろうか。

 確かにその「熱さ」が今に活きていることはあるだろう。だが、若者がすべきことは、物理学を理解することだけではない。若い時にしかできないことは沢山ある。
 もっと他の教科を真剣に勉強していたらどうだったろうか。そもそも勉強じゃなく、バンドや歌を思い切りやっていたらどうだったろうか。友達ともっと本気でぶつかり合ったらどうだったろうか、気がつかぬフリをし続けた恋愛をあの時に思いっきりしていたらどうだったろうか。
 私は物理学科に入ってからのほうが、高校物理の参考書を開く回数が多かったように思う。それは私が定性的な理解を置き去りにして、微積分を使って、(自分にとっての)複雑な計算をしている自分に酔っていたからである。結局、高校物理を完全にマスターしたと強く自信を持って思えたのは、大学を卒業してからであったと思う。

 そう思い、以下のポストを投げた(同じようなことは前にも言っているが)。特に「微積物理」をやたらに持ち上げる大人を目にすると、「本当にそうだろうか?」という気持ちになってしまうのである。
 
 “高校物理を微積で理解するというのは、「よちよち。高校生なのに偉いね。そんな本質的に理解してるんだぁ」で9割以上の子が満足するので、もはや好きにすれば良いと思う。どーせベクトル解析やってないでしょ?高校数学の微積しか使わないんでしょ?とか本当のこと言うと嫌われるので”
 https://x.com/KayT0309/status/1765667542335389708?s=20

 もちろんネタというか、言い回しが冗談だろうということは明らかにわかると思うのだが(マジに捉えた人すみません。だって、こう思っちゃったんだもん)、本当の本当に物理学を心から理解したいのであれば、大学以降の「ただの物理学」をやるべきで、高校の範囲を意識した理解にはならないはずなのである。せめて、ベクトル解析には手がつくはずだ。
 これはお節介な老婆心というよりも、自分自身の失敗を、今また複雑な数式や実験手法に酔いそうになる自分への戒めとしてのポストに近かったのだが、思いのほか心ないコメントが受験生や大学生、大学院生、また研究者からも届いてきた。達観視している自分もいながらも、大学院生以上の人からの心ないコメントには、正直久しぶりにネットの反応で悲しい気持ちになった。なぜなら「多かれ少なかれ物理学を志している人たちのはずでしょ?」と思うからである。言い回しが下品というのはあるのかもしれないが、それにしてもこの感覚を理解してもらえないということは、指差している物理学がお互いにかなり違うものなのであろうなと思ってしまうからである。

 またそれ以上に、昨今は「競争に勝って自分自身の自由をとにかく最大化したい」という気持ちも強いのだろうと思う。自由主義は、自分とその他の人の自由を最大化したいわけであるが、自由主義の皮を被った自分勝手を自由主義の文脈で肯定化してくる態度を当然にとる人が多くなっているのかもしれない。
 そりゃ、高校物理でも微積をガンガン使った方が自由であるし、掛け算の順序はないほうが自由である。しかしながら、それは本当に自由なんだろうか?「仕組まれた自由」なのではないだろうか?

 社会人になって分かったことの一つに、世の中には「起業させられている人」というのが沢山いる、ということがある。経営者になれば自由になれる、だから、このフランチャイズ登録して、独立してみませんか。という甘い文句は沢山ある。果たしてそれは、本当に自由なのだろうか?

 自由を求めながら勝利することで他者を管理したがる人は「じゃああなたもやれば良いじゃん」「勝てば良かったじゃん」と言いたがる。転売ヤーっていうけどさ、うちらだけが儲けてるのが悔しいんでしょ?あなたもやれば良いじゃん?やれないわけだよね?それは能力がないってことじゃん?認めろよ?
 こういう人は、微積物理をやや批判的に書いただけで「学部で東大に落ちたからそう言ってるだけだろ」「理科大のくせに」と言ってくる人に似ている。18歳時点での評価を絶対視している愚かさを脇に置いておいても、関係のない文脈で「自由競争で圧倒的に勝てなかったくせに」と自分の価値観のままにこちらに問いかけてしまう的外れさに気がつけない。多くの人にとって高校物理は「どうであるべきか」という美徳性を主張しているわけで、今の場合、自由度や競争はどうでも良い。

 ちなみに関連している人のためにも一応言っておくと、今回、理科大の貶められ方にも驚いた。私は東京理科大学の理学部第一部物理学科出身で、大学院は東京大学大学院の総合文化研究科広域科学専攻で博士号を取得した。東大の内部について普通よりはよく知っているつもりであるが、はっきりいえば、東大のある学部学科よりも理科大の物理学科のほうが教育的にはかなり良いのではないか、と思っているので、そんなに入るのが簡単でもない理科大に対してクソでしょ的な扱いをするのは、とても違和感がある(ただ理科大がダサいというのは多分にある笑)。

 あくまで微積物理は一部の生徒のためであって、それをスタンダードにはできない。自分がその一部の生徒であったとしても、「自分なりの理解」をすることはとても危険である(予備校講師が先導していても同じ。定式だったものとは呼べないから)。自分なりの理解をするよりも、高校レベルは、教科書に書かれている内容をきちんと正確に理解することの方が遥かに大事である。
 というのが、私の(おふざけなしの)意見である。

 “微積物理”というのは、高校の範囲という鎖ありきの「仕組まれた自由」であり、そこに本質もなければ、勝利もない。
 では、物理学に意欲的な受験生はどうするべきか。中途半端だからいけないだけである。大学以降の物理学をガチでやってやるという覚悟があれば、いつだって「自由」よ。受験は時間がないというなら微積物理なんて中途半端さを捨てて、若い頃の熱さを認めてくれという甘えも捨てて、覚悟を持って大学物理をやること。

 まぁ40年前、夜の校舎の窓ガラスを割ることで、仕組まれた自由に気がつかずに足掻いていた頃なんかよりも、自分の覚悟の無さと甘さに気がつかずに「微積物理やらせろ!!」と足掻いているのは、人類の青春の迎え方として進歩しているとも言えるんだけどね。
 そんな足掻きを実はとても可愛く思っているんだけど、別にそんなことは伝わらなくて良い。なぜなら、顔も名前も知らない後輩たちに興味を持ちようがないから。
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2024-03-09 03:18:27 | Weblog
 新年明けてから自分の誕生日までブログもYouTubeもやらなかったのは、ネットで何らかの発信をし始めてから、初めてじゃないか。
 遅くなりましたが、なんとか現場復帰しつつあります。新年が始まってすぐに緊急事態が起きまして、生活がかなり一変しました。それについては4月ごろまでにYouTube限定公開で詳しく説明しようと思うので、俺のことを直接知ってる方で聴きたい人は連絡してください(物理会の参加者などの方には直接貼りますので大丈夫です)。今の段階で言うべきではないかもしれないけれど、そこそこは公益性があると思うのでいずれは全体に公開すると思いますが、何年先になるか分からないので、聴きたい人はぜひ。

 色々と計画がズレながらも何とか復帰できていること、その下地を作ってくれているすべての人とこの国のあらゆるシステム、そして、運良くこの時代に生まれ、サイエンスがこれだけ発達していること、何よりも現状を知って手を差し伸べてくれた人たちに、心から心から、ありがとう。
 あと、痛みがなければ生きていけない。けれど、痛みが大きすぎれば身動きが取れなくなってしまう。そんなときに必要なのは、実はほんの少しの痛みなのかもしれない。
 ・・・そんなことを思いました。

 大きな犠牲と変化とともに、素晴らしい巡り合いも同時にあった。本当はそのことだけを書きたいのに、その瞬間にすぐに記録として残したいのに、そうはできなかった。まぁそれも”運命”なのかもしれない。何よりも、どんな形であれ、”命”が”運”ばれて良かった。
 生活環境の一変と同時に、世界の観測の仕方も一変させられてしまったので、何がどう変化したのか確認しようがなかったりもする。年下の子たちを年上に感じざるを得ない心情になってしまえば、心配事のレベルもかなり変わる。もっともっと、自分自身がしっかりとこの国のこの状況を打破させていかないと、もしくはそれに準ずるより良い環境を捜し当てないと。

 無難さに収束させてしまうことがありふれた状態であるのに、より無難さから遠ざかるを得ない現状を考えてみると、これまでの軌跡はすべて間違っていなかったのだろうなと実感する。これからもっと楽しくなるし、この厳しい現状も楽しめている。
 これまでの道のりで、傷つけてしまった人、時間を無駄にさせてしまった人に対しても、どうか同じ気持ちで、今も楽しく未来も楽しいと確信できる状態でいて欲しいなと思っている。いま(たとえ俺から)絶縁を選んでいても、少なくとも俺は、あなたに対してそう思っているよ。

 憎悪を向けられても、その知覚があることそのものが嬉しい。
 どんなに言葉の刃を向けられても、どんな理不尽な扱いを受けても、それを認識できることに感謝してしまう。
 そんな自分になりたくはなかったけど、そう思う存在を感じることができるのだから、ものすごい可能性に満ちている。

 さあ、ここから、また、はじめよう。新しい絶対的な仲間もいる。
 そんなふうに思う誕生日です。
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