「犬が人間を噛んでもニュースにはならないが、人間が犬を噛むとニュースになる」
っというのは、情報理論の最初に必ずと言って良いほど出てくる定言だ。
情報量というのは、ある着目した全事象に対する確率に対数をとったものにマイナスをつけて定義される。( I = - log P )
よーするにレアなものほどその情報に価値があることを示しているわけだ。たとえば、俺が「音楽が好きだ」と言ったとしよう。音楽が好きな人なんて非常にありふれているわけで、日本人全体の中で1/2は音楽好きだとすれば、1bitの情報量しかない。一方で俺が「物理が好きだ」と言ったとしよう。物理が好きな人は文系優位社会である日本人全体の中でそこまで多くはない。物理好きは128人に1人くらいだとすると(リアルにこれくらいだと思う笑)、情報量は7bitだ。
もちろん、こういうお話的な部分で情報理論を理解した気になってはいけないが(最近になってからこっそり読み始めた読者に対して、特に本当に注意しておく)、まぁ「音楽が好きだ」という発言よりも「物理が好きだ」と言われた方が、その人を表すのに(少なくともこの資本主義の腐った世の中では)大いに役に立つはずだし、7倍くらい価値があるんじゃないかというのも、完全にわからないわけではない。
さて、こういうことを前提にすると、完全に情報量がない発言というのをいくつか考えつくことができる。
「私、おいしいものが好き」というのは、その筆頭であろう。このなんの情報価値も含んでいない発言をもう一度読んでほしい。おいしいものを嫌いな人なんていないのである。もし、「おいしいものが嫌い」というのが偽ではないのであれば、それは無限大に近い価値の情報をもっており、それを論理的に話すことができれば、ブログでもYouTubeでもヒット間違い無いと思うのだが、「おいしいものが好き」というコメントからは何も得られない。しなくて良いコメントである。コメントをするためのエネルギーが無駄なのだ。
他にも、「やるしかないからやるしかない」とか「楽しい人といると楽しい」とかね。
これは自明なものは全て意味がないということではない。相互に認識できていることをまずは確認してみる、という意味では、例えば「今日はいい天気ですね」などは有益なコメントなのである。
しかし、あまりに自明なコメントをし続けすぎてしまえば「なんでそんなに認識を確認するのかな」という気分になってくる。
昨今、情報量がゼロのコメントをし続ける人をリーダーに立てるような構造が目に余る。
組織のトップや国の代表者のコメントの情報量を精査してみると、だいたいが何も言っていない。きちんと方針を言っておらず、否定はできない自明なことばかりに終始する。「おいしいものが好き」というコメントに対しては、情報量がゼロがゆえに、叩きようがない(情報量がゼロ、というコメントが唯一のストレートな叩き方)。そして、「こいつは味方」「こいつは敵」という情報だけは、クリティカルに発せられる。
胡散臭さというのは、案外、こういう風に定量化できるのかもしれないなぁと思うのですよね。
(本文章のように)論理の飛躍が激しいとか、未定義な言葉を平気で使うとか、信じている事柄がぐらついているとか、そういうこと以上に(それらのことに関しても一つの指標ではあるのだが)、情報量がゼロのコメントをドヤ顔で恥ずかしげもなく語っている割合が多い人、というのが、俺にとってはものすごく胡散臭く感じる。
情報化社会の弊害で、俺たちは「無難さ」というのに真っ先に飛びつくようになってしまったのかもしれない。情報過多だからこそ、情報量のないコメントをする人をトップにあげてしまう。
まぁ確かに、犬を噛むような人をトップに据えたく無いからね。レアなものっていうのは、悪い事柄もあれば善い事柄もある。そんなこともわからないほど、情報過多なのかもしれないね。
っというのは、情報理論の最初に必ずと言って良いほど出てくる定言だ。
情報量というのは、ある着目した全事象に対する確率に対数をとったものにマイナスをつけて定義される。( I = - log P )
よーするにレアなものほどその情報に価値があることを示しているわけだ。たとえば、俺が「音楽が好きだ」と言ったとしよう。音楽が好きな人なんて非常にありふれているわけで、日本人全体の中で1/2は音楽好きだとすれば、1bitの情報量しかない。一方で俺が「物理が好きだ」と言ったとしよう。物理が好きな人は文系優位社会である日本人全体の中でそこまで多くはない。物理好きは128人に1人くらいだとすると(リアルにこれくらいだと思う笑)、情報量は7bitだ。
もちろん、こういうお話的な部分で情報理論を理解した気になってはいけないが(最近になってからこっそり読み始めた読者に対して、特に本当に注意しておく)、まぁ「音楽が好きだ」という発言よりも「物理が好きだ」と言われた方が、その人を表すのに(少なくともこの資本主義の腐った世の中では)大いに役に立つはずだし、7倍くらい価値があるんじゃないかというのも、完全にわからないわけではない。
さて、こういうことを前提にすると、完全に情報量がない発言というのをいくつか考えつくことができる。
「私、おいしいものが好き」というのは、その筆頭であろう。このなんの情報価値も含んでいない発言をもう一度読んでほしい。おいしいものを嫌いな人なんていないのである。もし、「おいしいものが嫌い」というのが偽ではないのであれば、それは無限大に近い価値の情報をもっており、それを論理的に話すことができれば、ブログでもYouTubeでもヒット間違い無いと思うのだが、「おいしいものが好き」というコメントからは何も得られない。しなくて良いコメントである。コメントをするためのエネルギーが無駄なのだ。
他にも、「やるしかないからやるしかない」とか「楽しい人といると楽しい」とかね。
これは自明なものは全て意味がないということではない。相互に認識できていることをまずは確認してみる、という意味では、例えば「今日はいい天気ですね」などは有益なコメントなのである。
しかし、あまりに自明なコメントをし続けすぎてしまえば「なんでそんなに認識を確認するのかな」という気分になってくる。
昨今、情報量がゼロのコメントをし続ける人をリーダーに立てるような構造が目に余る。
組織のトップや国の代表者のコメントの情報量を精査してみると、だいたいが何も言っていない。きちんと方針を言っておらず、否定はできない自明なことばかりに終始する。「おいしいものが好き」というコメントに対しては、情報量がゼロがゆえに、叩きようがない(情報量がゼロ、というコメントが唯一のストレートな叩き方)。そして、「こいつは味方」「こいつは敵」という情報だけは、クリティカルに発せられる。
胡散臭さというのは、案外、こういう風に定量化できるのかもしれないなぁと思うのですよね。
(本文章のように)論理の飛躍が激しいとか、未定義な言葉を平気で使うとか、信じている事柄がぐらついているとか、そういうこと以上に(それらのことに関しても一つの指標ではあるのだが)、情報量がゼロのコメントをドヤ顔で恥ずかしげもなく語っている割合が多い人、というのが、俺にとってはものすごく胡散臭く感じる。
情報化社会の弊害で、俺たちは「無難さ」というのに真っ先に飛びつくようになってしまったのかもしれない。情報過多だからこそ、情報量のないコメントをする人をトップにあげてしまう。
まぁ確かに、犬を噛むような人をトップに据えたく無いからね。レアなものっていうのは、悪い事柄もあれば善い事柄もある。そんなこともわからないほど、情報過多なのかもしれないね。