たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

解析無しで成り立つ関係

2011-05-31 02:20:10 | Weblog
 何かが動くとき、その何かには必ず何らかの力が加わっている。
 すべてが物理学に従うなら、行動にだって、何らかの力が加わっているはずだし、それを解くためのNewton's Equation of Motionだって存在している。ある時間を切り取って、加わっている力をすべて書き下し、方程式を立式すれば、解けるかも?
 もしも行動がきちんと解析できれば、そのレスポンスを考えることは、非常に容易になる。

 ヒトを構成する基本的な3つの力は、思考、感情(気持ち)、直観だ。これらの力は内力を含むので、互いに打ち消し合う成分があるから、方程式に導入するときには予め計算してから放り込んだ方が解くのが簡単になる。
 さらに、方程式には、外力を導入しなければならない。簡単に言えば、外力は「仕方ない」って力、だ。

 もちろん、ここまでの議論は、一体系であることに注意しなければならない。二体系や多体系になると、もう少し、高度な概念を導入しなければならないが、まぁ、二体問題は一体問題に帰着されるし、多体系もほとんどの系では平均場近似を使えば良いので、簡略化することはできる。

 誰かがある行動をしたときに、とりあえず頭できちんと解析するんだったら、これくらいの議論は、系ごとに、ちゃちゃっと出来た方が良い。これが特に必要なシーンは、リーダーシップを取るとき、かな。

 『え?ほら、例えばさぁ、、ここの文とココ、矛盾してるじゃん。だから、俺に、どうして欲しかったのか、全然解析できなかったんだって。』
 《あー、それは、こっちで打ってるときは、こう思って、だからほら、この上にこれ使ってるでしょ?んで、こっちはさぁ、だって、高橋君、このところで、前に自分でこう言ってたじゃん。》
 『…分かったけどさぁ、、送る前に、読みなおせよ!笑』
 《言われれば、全部にちゃんと理由はあるもんだよ。っで、他には?笑》

 その勝ち誇った表情を見た時に、俺はある超基本的な公式を初めて知った、『本人に直接真意を訊いてはいけない』って。正解を訊き過ぎちゃいけないんだ。
 賢ければ賢いほど、即物的な理由はいくらでも用意することが出来る。今よりももっと教科書を理解できていなかった俺では、非常に綿密にSelf-Consistentに書いてある文章の批判をすることは出来ないに決まっている。だから余計に、真意は察するしかない。どんな系でも、それを決して忘れてはいけない。

 そして、賢ければ賢いほど、行動に対する理由がしっかりある。っということは、悪い言い方をすれば、わかりやすい、ってことだ。
 だから方程式も立てやすいし、それを解くことによって出てくる理論値を用いれば、観測実験における平均絶対誤差率は小さいし、ある意味では、傾向と対策を立てやすいんだと思う。

 ちなみに、解析されにくい自分を作ることは簡単だ。それも物理学が教えてくれる。
 自らの構成要素と外力を、少しずつ暈すんだ。要するに、決定論的な古典力学の世界を離れ、確率論的な量子力学の世界に行けば、自分の行動で解析者を翻弄することができる。
 そして、こんなん、実はみんな普通にやってることだと思う。

 ここまでの解析を、どんな系でも、ずっとしなくちゃいけない??まさか。
 気をつけなきゃいけないのは、勉強のために勉強をしているわけではないということだ。

 こんなバカな解析をしなくてもイイ関係になるために、他に方法を知らないから、とりあえずは仕方なく、勉強しなきゃいけない、ってことを、ちゃんと心に飲み込んでおくべきだと思っている。
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想像もつかない理想

2011-05-30 03:17:34 | Weblog
 即物的な事を使って、即物的な事をホンモノだって誤魔化せば誤魔化すほど、気持ちが小さくなっていく。そして、ひとつに集約されていく。
 もしそんな状態でも、気持ちが自分以外に向いているなら大丈夫、それでも必ず上手く行く。小さくなっても強くなってるから大丈夫なのだ。
 だけど、もし、いつまで経っても、気持ちが自分にだけ向いているんだとしたら、とても可哀相。もう一生、薄っぺらい人間関係しか形成できないかもしれないんだから。

 社会性と道徳性は違う。教科書的に正しい、と言うだけの社会性では、枠組みを超えることはできない。もちろん、社会性は必要だし、規範として大切だ。だけど、さらに大きな枠組みを考える時、きちんと道徳性を働かせて、その正しさは薄っぺらくないかどうかを、確認しないといけない。
 例えば、ある枠組みを1つのクラス、もっと大きな枠組みを日本だと考えてみて欲しい。そのクラスの中での規範は社会性であり、それを超えるのが道徳性なのだ。

 とにかく社会性やルールを守っていれば、地位が高くなり、即物的には成功出来る、っと考えているのであれば、それは大きな間違いだ。即物的な価値は、いつだって後からついてくる。まず最初に、学ばないといけないのは、教科書やマニュアル本からではなく、自らの心、自分の判断基準である道徳心だと思う。そこから、誰かに応用するために、読むべきなのが社会性なのだ。
 社会性は、誰かのためを想う時にのみ効力を発し、自分のために使うべきは社会性ではなく道徳性だと思っている。これを間違えてしまうと、いつまで経っても、どこまでいっても、ホンモノに出会えない。

 お互いに慣れてきたら、自分の道徳性を他人にも使ってみる、ぶつけてみる。ずっとじゃ疲れるけど、それをし合っていくことが、本当の人間関係だと思う。
 もしも、それで離れていくようなら、それはそれで、自分で選らばなくて済んでラッキー、って思えばイイのだ。そんなヤツ、きっと大したことないから。

 …だから、、自らの道徳性とあまりにも合わない社会性を持った集団に飛び込む勇気がないことを、なかったことを、俺はどうとも思わない。それは、むしろ、ヒトとして生きていく上で仕方のないことだと思うから。
 いくら誰もが羨むような言葉を持っていたり条件が整っていても、自らの道徳性を大切にしていないなら何も意味がないし、これは『俺は』だけど、正しいよりも、世間体よりも、優しいを選びたいとずっと思っている。

 そうすることによって、想像する理想よりも素晴らしい理想的な現実が、5年、10年のオーダーで実現するんだと思う。
 想像できてしまう理想なんて、所詮、現実から近い。想像もつかないほどの理想じゃないと、誰も満足なんて、できないんじゃない??
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I See The Light

2011-05-28 01:42:03 | Weblog
 長い間憧れていた世界が、今、目の前にあると、それが大したこと無いかもしれないって思って、怖くなる。
 どこまで行ったって、結局はこんなもん、ってこともよく知ってるから、余計に、殻に閉じこもっていた方が安心できる?

 現実の世界の人間の想いは、おとぎ話のように二元論的ではない。習慣は、物理的にはもちろん、感情とも相互作用して、精神的にも締め付けるし、その感情が想いを締め付ける。だから、簡単に、安心感のある世界から、観続けてきた憧れの世界へとシフトすることはできない。
 だから、悩むし、苦しむし、、でも、複雑だからこそ、楽しいかな。

 本当は、晴れてなんかなくって、雨が降り続いている。それを自分自身に見つからないように隠して、即物的に明るくなって誤魔化しているから、大きなことが言えるし、何を言われても、ある意味では、怖くないのだ。
 忘れていることにしている感情に向きあって、そろそろ真実を見つめるべきだと思う。過去に貰った、莫大な即物的能力の財産を、今に活かしていくことが、今できること。

 すると、もう一歩、違って世界が観えるようになるかも。
 And the world has somehow shifted. It's crystal clear. And it's like the sky is new.
 And at last I see the light. それでやっと、わかるんだと思う。
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本当の財産

2011-05-26 20:37:51 | Weblog
 「時間」をきちんと考えることは大切なことだ。
 どの物理量が時間依存していないのか、どのように変動していく系なのか、どこまでの時間で平衡と見なすのか、どこで区切りをつけるのか、ちゃんと考えないと正しい議論ができない。

 『それって、どこで思いつくんですか?』
 《アンテナをきちんと貼っていれば、そんな物質も無いかなって、想像がつくもんだよ。だって、それさえ知っていれば、自分の研究が大きくブレイクスルーするのに、知らないなんてもったいないじゃん。》

 目的に直接向かっていくばかりじゃなく、とりあえず材料を回収しておくことは非常に大切だと俺も思う。
 それは、時間をきちんと考えることと共通している。その場で、その瞬間で、真実さえ見抜けていれば、解明できていれば、それでイイ、というわけではない、という点で共通しているのだ。

 むしろ、真実は捨てても、そんなことよりも大切なことは山ほどある。誰かの気持ちを汲んだり、能力を持って助けたり助けられたり、感情がどっちに向いてるかをちゃんと判断したり。
 正しさで誰かを傷つけるヤツは賢い意味が無い(十分に注意しておくけど、それは、怠けてイイっというわけではないからね)。そんなことのために、賢さの修行をしてるわけじゃないのだ。

 正しさよりも優しさを選ぶことによって、信頼関係が深まり、次のディスカッションで、もっと深いレベルでの自然現象への追求ができる。一度、不真実を手にしてしまっても、次、もっとスゴイ、ブレイクスルーが待っている。
 この時間発展をちゃんと考えないんだったら、いくら自然科学の中で、「時間」をきちんと扱えていても、無意味っしょ。

 そこに、正しさ以上の稀少価値がある、って思うなら、ホンモノになっていく。

 "And maybe that makes them crazy, we should all be so lucky to end up with somebody who has a little bit of that insanity, somebody who never lets you go. Somebody who cherishes you forever. Talk about a legacy. Loving somebody forever. that's a legacy."

 実質的な結果以上の「財産」を手に出来るかどうかは、能力なんかではなく感情に寄与しているのだ。

 それでも、今、目の前にある正しさを追究する?
 それとも、時間発展を考えて、さらなる正しさとホンモノを求めて、一度、正しさを捨てる勇気を持ってみるか??
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合わせられるなら

2011-05-26 02:14:35 | Weblog
 好きなモノから選び過ぎちゃいけない。

 自分も好きで、みんなもそれが好きだったら、当然、その好きなモノを選びがちなんだけど、それでも、ちょっと躊躇った方が良い。
 むしろ、選ぶときに、自分が嫌いな言葉が少しだけ入ってる方が、俺はちょっと選びたくなる。

 《なら、普通に、それでイイんじゃない??》
 『でも、それこそ、好きなモノを仕事にしちゃいけないと思うんだよね。それだけになっちゃうじゃん。』

 正確に言えば、好きな言葉が沢山入ってるから、って理由だけで、それを選んじゃいけないと思う。
 最初はイイけど、どんどん嫌いになっていく可能性もあるし、もし、そうなっちゃったら、どこを拠り所に生活していけば良いの?

 どんなにしたって、好き嫌いであったり、能力であったり、時間であったり、そういった、物理的な不一致からは逃れられない。どっかは違うはずだし、でも共有していきたいと思ってるから、厄介。
 まぁ、だからこそ、感謝と謝罪が意味を持ってくるし、案外、時として、そんなベタな定式化されていることに、心から涙出来るんだと思う。

 度合いは、「そんなの、人それぞれの基準だから、誰にもわからないこと」だけど、本人の中での、合わせられるってことが、大事なのだ。
 そっちのほうが、ただ表面的に好き嫌いが一致するよりも、尊いと思っている。
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言い訳しないで

2011-05-25 02:39:10 | Weblog
 大事な瞬間、自分の賢さと気持ちだったら、気持ちに重きを置いたほうが、上手く行く気がする。

 結局、出力されていることだけで自己矛盾なく解こうとするのは難しいし、その関数自体があってるかどうかもあやしい。だから、感じたモノをそのまま受け取るほうが信頼性が高いし、そちらに依存した行動をしていったほうが、後悔が無い気がするんだよね。

 いっそ割り切って、表面的になって、賢さのみになりたい時だって、自分の気持ちからは逃げ切れない。自分の気持ちが後から後から追っかけてくるスピードを振り切れないから、怖くって、わざと別の感情を付加して出力する。
 別の感情だけど即物的には本当だし、これで絶対にボロボロにはならない、って、言い訳を残しておくのだ。

 気持ちを感情で隠して、感情を賢さや思考で隠す。
 もし、そんなことを、お互いにし合っていたなら、その系が解析的に解けるわけがないし、やっぱり解析だけじゃ超えられない観点が必要だと思う。

 確かに、経験を積めば、技は練れるし、無難な対応はいくらでも取れてくる。ある低い一定レベルでの物理量の平均的描像は特定できるけど、系全体を把握するなんて不可能だ。
 となると、気持ちを気持ちのまま受け取る方が簡単で正確だし、しかも、ラクだと思わない?

 それに普通は、割り切れず、不安要素が残るからこそ、楽しいのであって、ホンモノなんだと思う。
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いつの間にか叶っている

2011-05-23 23:25:21 | Weblog
 正統な道で頑張り続けていれば、いつの間にか夢が叶っているもんだ。

 ただし、ひとつの道で突っ切ると、きっと上手くは行かなくって、俺みたいな普通の人は、複数の道を同時に歩いてるとイイんだと思う。リスクを恐れて、多くのベネフィットを求めてるみたいだけど、複数の道を着実に一生懸命歩いていると、総体的に、決して諦めない。
 ある1つがダメな時は、他で頑張って、そこで何かパワーをもらえれば、今ダメなその1つも、ダメなのに続けて行くことが出来るから。継続することこそ力なのだ。そして、継続に必要なモノは多様性だと思う。

 だから、いつの間にか、達成されている。自分でも忘れてしまっている、昔の理想の1つが、いつの間にか、叶っている。
 叶えられたいつかの理想は、、まだまだ、一過性だけど、どっかの番組みたいなもんで、かなり楽しかったし、気が付いたら、嬉しかった。

 運もあるし、偶然もあるし、一過性だけど、それでも、即物的に叶った事には変わりない。
 こういうことなら、即物的なことも大切だ、って思える。

 即物的なことを完璧にしたい、って想うことこそが、ホンモノへのプレリュードだから。
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そんなに優位に立ちたい?

2011-05-23 02:58:42 | Weblog
 生きていく上で、自分が優位に立つ技術は、いつかは身につけないといけない。
 常に、誰かに、または自分の持ってる言葉に、どっぷり浸かっていると、外部に出た時に弱々しいし、主体性がなくなってしまう。

 だから、自分主体でガンガン攻めていったり、攻めているかわからないくらい曖昧に攻めたり、色々な手法を実践で学びながら、優位に立つために何が必要かを考えてみることが大切だ。
 恐ろしいのは、能力や感情はあるのに、相手が優位に立っているせーで、自分が実質的な不利益になってしまうこと。そうならないためには、無視することはできないけど自分のイイようにはできない多少メンドーなヤツだ、と思われてるくらいのほうが、複数を相手に、片手間で優位に立つことができる。
 優位に立つ、程度のベネフィットのために、全力になってるなんて、まだまだ修行が足りない。いかにこういうことを片手間でやるか、片手間で1つの集団全ての人間を相手にすることができるか、ここをクリアしないと、本業がおろそかになっちゃうんじゃない?

 ≪それでもイイかなって。≫
 『あのさぁ。根本が間違ってると思う。普通、いくら精神的に負けてもイイの。いかに実質的に負けないかってことだから、重要なのは。精神的にボロボロでも、実質的には負けちゃいけないと思うんだけど、わかんないけどさぁ、違う?』 
 [あー、わかるー、普段、上手くやってるんだなぁ、って思います。笑]

 でも、自分が優位に立つことが、果たして、そんなに重要なのか?、ってのも、ちゃんと系ごとに、考えてみないとね。
 心を奪いつくされていたら、そんなこと、どうでもよくなってくるもんだと思う。むしろ、実質的に負ける可能性が十分にあるくらいのほうが、楽しいかも?

 その系に対する経験が少ないせいで、過大評価しすぎたり、逆に、矮小化しすぎたり、、それは仕方ないから、経験の絶対数って、多少は必要なのかなぁ、って思ったりする。
 まぁ、比較的長い時間スケールの中で、情熱と向上心があれば、たった一回でも、ちゃんと学習できたりするもんだけどね。
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天気がいい朝

2011-05-22 03:29:55 | Weblog
 どんなにIndividualism(個人主義)でも、Collectivism(集団主義)的な側面を少しは取り入れていかないと、人と関わらなくなってしまい、楽しくなくなっちゃう。もともとがっつりなIndividualismの俺が言ってるんだから間違いない。
 だから、好意ある意地悪をされても本気で怒っちゃいけないし、余裕が出てきたらこっちからも、他人にちょっかいを出すようにしてみることが、大切っちゃ大切。

 まずは、自分と相手、周囲との絶対的な能力差を理解しながら、その中で、距離を少しでも縮めるために出来ることを考えてみることだ。
 いつだって、他人に合わせることからホンモノはスタートする。誰だって、基本、相手に合わせるなんてしたくないし、かといって、感情を露呈するのもイヤ。でも、ある程度はこっちの感情を露呈しないと、歩み寄ることは出来ない。すべてを暴露することは今はまだ出来なくても、少しだけ、出来るだけ、ちょっとずつ、、合わせる能力も、お互いに、みんなで、上がっていく。

 感情のintensityが大切で、その中でも、笑顔がいちばんだから、元気忘れないで。いつも、その言葉を胸に、頑張っていこう。
 この方針で日々を過ごしていけば、信じ切れる??ううん、やっぱり、誰かを信じるってこと、難しいもんだね。ごめん、ちゃんと信じられてはいないけど、その可能性があるだけでも稀有なんだと思う。

 まだまだ見上げ続けていた頃と、ほとんど変わっていない。
 休みの日に、天気がいいからって、朝早くから出かけて行きたい気分になるまで、思っているより、そう遠くはないのかもしれない。

 観えないだけで、、忙しいから?

 (kiroroの2ndシングル「未来へ」のカップリング曲。昨日、約10年ぶりに聞きました。某二コ二○どぅ画でみつけたときは、思わず声を出してしまいました(笑)。小学生の時からホントに好きな曲なんだけど、この10年ちゃんと聞いてなくて、記憶だけで聞いてましたので。
 色んな意味で、俺の理想状態であるこの曲は、完璧と言っていいほど、落ち着く曲。こうなったらなー、って、想いが自然にこみあげてきます。
 明日やっとこの曲をピアノで弾ける時間の余裕があるので、超楽しみ。A調、まぁ得意だし、すぐ下ろせるはず。最初のサビから2回目のAメロに入るまでのピアノの間奏が最高過ぎるから、そこくらいはちゃんと完璧にコピってみよ。
 小学生の頃では分からなかった、今になって初めて分かる、この曲の良さがありました。)
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ワーカーを超えて

2011-05-21 02:43:24 | Weblog
 【みんな、ちょっと待って。あのさぁ、こういうのは、実際にやってる人、ってのが、一番偉いわけ。だから、あんまり勝手なことばっか言わないで、ちゃんと訊いてあげて。】
 『確かに。。ごめんなさい。』

 『でも、そこって、割と、経験とかが結構寄与してくるんじゃないんですか。』
 ≪いやいや、高橋君、それは違うよ。実際に取り扱ってる人の方が、確実に知識があるんだ。それを間違えちゃダメだよ。≫
 『そうですかぁ。扱ってる総時間が違いすぎると思うんですけど。』
 ≪ううん。それでも、絶対に、実際に毎日手を動かして取り扱う人の方が、知識がある。これは、経験的な話だけどね。≫

 [いい?君らのが賢いんだからね。全部の科目やってるんだから。僕らは、それぞれで、ずっと同じ教科をやってるから、出来るだけであって。]

 例えば、実験でも、プログラミングでも、アカペラでも、バンドでも、勉強でも、誰かを教えることでも、昔にやっていた事実、じゃなくて、今実際にやってる、ってことが大事であって、ある意味、今やっていないのであるならば、発言権の度合いは2段は下がると思う。
 プロには敵わない。それは、現役選手には敵わないってこと。

 だから、俺は、教員にはなりたくないと思ってるかもしれない。教える、って、今、自分が実際に開拓して(研究して)取り扱ってないと、意味が無い気がするから。
 『昔、俺も、受験生の時は勉強したから、だから、お前らも、今は耐えて勉強しろ、なんて、バカな言い方はしない。俺は今現在、楽しみながら、勉強しているし研究している。だからお前らも楽しんで勉強してみろよ、ってこった。笑』
 そういえば、教えることが専門のピアノの先生よりも、音大生からのほうが、ある種、得る部分があった気もする。

 すべては楽しむ、ってところに集約していく。きちんと情熱を持っていれば、実際にやっていない人間からどんなことを言われても、自分で切り抜けることが出来る。

 『…偉くないですか?』
 <この環境なら、偉いよ。でも、別の普通の環境なら、ふーん、そうかぁ、って感じかな。笑>
 『はーい、心得ときます。笑』

 〈違うよ。だからこそ、お前がスゴイんだ。〉
 『いや、普通でしょ。ごく普通のみんなは、そうなんだから。』
 〈違う違う、普通、強制されなかったら、ああなるでしょ。それを自発的に普通通りに出来ちゃうところが、スゴイんだって。〉

 そう、俺は、俺らは、強制されるような環境じゃなくても、情熱をきちんと持ってい続けられ、まるで強制されているような行動が、笑いながら自発的に出来てしまうからこそ、優秀なのだ。笑
 誰でも、情熱さえ持っていれば、その他の即物的なモノは後からついてくるもんだと思う。

 …残念ながら、本から学べることは少ない。小説でもマニュアル本でも論文でも教科書でも雑誌でもインターネットでも、本当に知りたいことほど書いてない。
 話しかける手法も、無難なレスポンスの仕方も、誰が悪い人で良い人なのかも、即物的な能力に長けた人への失敗のフォローの仕方も、誰かがホンモノなのかニセモノなのかも、自分がこの先の取るべき身の振り方も、どこにも載っていないし、検索しても出てこない。

 だから、自分で、日々、実際に当たりながら、探っていくしかない。先行研究無しで、自分一人で、研究開発するしかないのだ。

 だけど、その中でも、情熱の持ち方だけは、とても簡単だ。
 情熱なんて、ただ単純に、持ちたいと思っていさえすれば、ワーカーを超えて、自然と笑えるようになって、少しずつでも、確実に得られるモノだと思う。いつからでも。

 そうしていけば、同じ繰り返しの日々でも、だんだん意味を見出せて、毎日が激変する。
 だって、今、実際にやってる人が、一番真実を掴んでいて、一番偉いんだもん。
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制限があるからこそのホンモノ

2011-05-20 02:56:03 | Weblog
 ものづくりにおいて、制限があると、素晴らしくなることがある。
 テレビでゴールデンよりも深夜の良さがあったり、ちょっと時間制限があったほうが、出来が良くなることがあるのは、色んな系で言えると思う。

 素晴らしい、っていうかね、もう、ホンモノです、マジで。時間依存性があっても。

 ≪次会えるのはいつになるんですかね。≫
 『案外、空くかもだよね。これで最後かもしれんし。』
 ≪まぁ、そうですね。≫
 『うん、俺、常に、ここに来る時は、これで最後かもしれない、って心に刻みながら来てるつもりだよ。』

 だからこそ、ステージ上、ふいに顔を見合わせたりすると、ホンモノを感じることが出来るし、他の人達のそういうシーンを観ると、切なくなる。
 これで、こうやって、顔を見合わせるのも、最後かもしれない、って毎回毎回、思いながらじゃないと、なんとなく嘘っぽくて。何をやっていてもね。

 制限があるからこそのホンモノを知ってるから、沢山のことに手を出そうとするし、それぞれの系で最大級のモノを作り出す可能性が最も高くなる気がする。

 まぁ、でもやっぱり、時間依存性が無い保証、ってのは、欲しいんだけどね。先が見えないことの美学、ってのも、大事だけどさ。
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都合のイイ人

2011-05-19 02:04:35 | Weblog
 都合のイイ人になってはいけない。まぁ、恋愛においては特にね。

 好きだとある程度仕方ない部分もあるけど、そうじゃないんだったら、決して都合のイイ人であってはいけない。だから、何かしてあげたなら、基本的には、貸しにしておくってことを、曖昧にきちんと伝えないと、イイ気になられては困るんじゃない?
 気をつけなきゃいけないけど、本当に恐ろしいのは、目に見えることではない。失うのがお金や物質的なモノや接してる時間とかなら、量にも依るけど、むしろ、まだイイほーで、即物的な感情に対して都合がイイと、もっと失う感があるんじゃないかなぁ。

 何より、想っていた時間が無駄だしね。

 こういうことは、好きとか嫌いとかの気持ちに依存していく。誰か一人の、ということではなくて、何人かで形成される系全体の、好き、嫌い、で、依存していくのだ。
 自分が原因なのか、相手が原因なのか、自分が原因だとして相手が寄与してるのか、相手が原因だとして自分が寄与してるのか、ちゃんと解析しなくちゃいけないし、ちゃんと解析されたいと思っている。めんどくさいけど、何をするにも、大事だと思う。

 「言ってることは、あってるじゃん??間違ってるわけじゃないから、そっかぁ、って思うこともあるし。」
 『だからこそ、余計にタチが悪いんですよ。間違ってることだったら、間違ってる、そんなこと言うな、でイイんです。でも、正しいからそれは言えない。タチが悪過ぎます。』
 「なるほどね。」

 でも、そんなもんじゃなくて、状況は、もっと。。

 『うーん、でも、そんなんもあるし、まだなぁ。悪意も無いわけだし。』
 ≪K君、あのね、もう、そのレベルは、好きとか嫌いとか、そういう次元じゃない。だって、悪意が無いんだもん。だから、余計にタチが悪い。≫
 『わかった。そこまでおっしゃるなら。』

 あの時とシンクロしていく、もっと深いレベルで。

 《好きになってやれよ。生きてく上で、まぁ、社会の制度的に、そんくらいなら、仕方ないじゃん。》
 『もう、好きになる努力は十分したつもり。絶対に無理、もう一個さらに超えられちゃったし。っていうかね、もう、好きとか嫌いとか、そういう次元じゃないから。』

 こういう難しい状態で、都合のイイ人にならない唯一の手法は、一人で走って逃げる、ってことだ。それが、悪意の無い悪から逃れられる、唯一知ってる方法。

 それ以外に、何か打開の正統な道が見つかることを、自分の思考力と直観力に心からお願いしている。
 だって、目的は、好きな、みんなで、笑い続けることだから。
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セカンドチャンスを逃すな!

2011-05-18 01:35:47 | Weblog
 チャンスきちんと手に出来る人が成功していくんだと思う。
 たった一度のチャンスであっても、きちんと自分のモノに出来る、ってのはスゴイ能力だし、出来ない俺からしたら、天才か、って思うことも多い。

 っで、俺は天才じゃないから、仕方なく、自分に降りかかってくるチャンスの絶対量を増やすことを努力するしかない。
 それでも、初めての種類のチャンスだと、なかなか手に出来なくて、見送りでストライクを取られがち。あぁ、もう、掴めないのかもしれないなー、って思うんだけど、大切なのは、諦めないこと。

 次に同じチャンスがもし来たら、絶対に、手にしてやるっ、って思ってると、何故か、むこうからチャンスはやってくるもんだ。

 セカンドチャンスは、絶対に逃さない。そんなことが大事だなって感じた一日でした。
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自分勝手と優しさ

2011-05-17 00:46:13 | Weblog
 残酷な物理現象の一番最悪の攻撃によって、感情からいっさいの多様性が奪われていってしまうと、ある1つの特殊な想いに収束していく。すると、賢さをフル活動させることができる。
 そして、それはとても不幸なことだと思う。

 与え続けることでしか満たされない状態になってしまうと、即物的なのにホンモノで、泣けちゃうくらい。最低ラインだけは誰にも切らせないように頑張っていくから、それ以外のことはどうでもよくなってきて、よく笑うし、能力はすごく高くなるし、でも、そういう人は、きっと誰にも本当の意味では理解されないんだと思う。俺もわかんないし。

 例えば、そこまで行かなくても、感情に多様性が少なくなってしまうと、これに似た行動を取ってしまいがちだ。そして、たった1つの特殊な感情に振り切ってない限りは、自分勝手だ、ってちゃんと意識していた方がイイんだと思う。
 それに、与えられることを許容することだって、許容してる時点で、立派な優しさだ。

 「まぁ、改善できないんじゃん?欲してないんだから。」
 『だよね。ちゃんと決めたことがあって、、それは、心から変わりたいと思ってない限りは、どんな相手であっても、決して本気では手助けしない、って。』

 「助ける」とか「誰かのために」は、どうしたって自分勝手が介在してしまうことを、忘れないようにしたいと思う。
 人間の、俺の、能力なんて、たかが知れてるんだし。

 まぁ、そんな風に分かっていても、気持ち依存になってしまう時こそが、気持ちそのものに十分な多様性があって、理性的になり過ぎず、面白いのかもしれないけどね。

 (あれ?どっかで理論が矛盾してる??笑 いえいえ、してません、矛盾してるようで、すべては自己矛盾なく回っているのです。もしかして、感情と気持ちが同じモノだと思っていたりするのですか?)
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Is it fabulous to trivialize the lack of passion??

2011-05-16 02:35:33 | Weblog
 ホンモノを感じ続けるためにはどうしていけばイイのか?
 大きく2つ選択肢が思いつく。

 まずは、堅いモノを信じ続けることだ。少なくとも即物的には不足なく幸せでいられるだろうから、具現化することをきちんと感じとっていければ、ホンモノかも。
 即物的なこととホンモノに、相関はある。だけど、ホンモノは、即物的な事の数値に対して、数も量も関係なく、連続的なモノではなく、強さで閾値を持っているような感じなのだ。
 ここさえ、間違えなければ、、って、たぶん無理だね。そんなんじゃ、どんなに権威を持っても、どんなにスゴイ言葉を手にしても、どこまで行っても満足できないから。っていうか、信じていた堅いモノが、実は最低だったら、どうすんの?

 じゃあ、逆に、色んなモノに手をだして、多様的になってみたらどうか?少なくとも、即物的なことを得られないというリスクは減る。
 単純に、沢山のモノに手をだして、気が多いように振る舞っていれば、自分で選ばなくて済むようになる。手っ取り早いモノから順番に手にしていけば、即物的なモノや言葉を得られないという危険性からは逃げることができる。
 だから、ちょっとは自分で選ぶようにしてみれば、、って、たぶん無理だよね。行動と感情はmodulateするから、行動すればするほど、その系へ感情が乗ってきちゃう。すると、自分の身体が自分のモノじゃなくなっていって、自分のことがどこか他人事みたいになってきちゃって。

 《自分ではそういうこと得意だって思ってたんだけど、なんか最近は疲れちゃって。》
 『色んな事いっぺんにし過ぎなんだよ。ちょっとは選ばないと、そりゃ疲れちゃうんじゃない?』
 《でも、もともと私、気疲れで疲れないんだよね。》

 気疲れで疲れない、って矛盾した言葉を聞いてから(笑)、その言葉だけを抽出して、俺なりに努力してみたつもりだけど、やっぱり難しいな、って最近になって思う。

 [違う、むしろ習慣なんだよ。むしろ、K君にとっては、堅かったんだ。]
 『あー、なるほどねー。っで、そっち側を捨てて、もっと堅いモノを手にしようとして、今、手に入っちゃった。』
 [いいじゃん。世間一般からしたら、大正解だよ。]
 『いや、でも、そっちを選んでみたいじゃん。』

 きっと、即物的にもこれで正解だから、自分の行動が飲み込めなかったんだ。嘘っぽくて、薄っぺらいみたいで。

 系を支配するオーダーパラメータとして、唯一相応しいのは、いつだって、情熱だ。
 どんな手法であったとしても、きっと必ず、ホンモノを手にすることが出来るし、笑っていられる。だけど、情熱が欠けていたなら、どんなことをどんな高級そうにしたって、楽しいわけがない。それが、讃えられても、他人から羨ましがられても、ルール上最高峰であったとしても、自分自身に情熱が無いのだったら、意味がない。

 世間では、表面的なことばかりが称賛されてしまうから、情熱があることを、むしろ恐れてしまう。それによって、空回りしたり、変に思われたり、惨めな感じになっても、誰かに多大なる迷惑をかけない限りは、情熱があるほうがずっとイイのに。
 情熱が不足していることを矮小化してしまうことが素晴らしいとは、到底、思えない。矮小化できちゃうなら、そっちのが、惨めじゃね?

 『っで、何喋ったっけー、ってきちんと思い出して、それをちょっと出すんですよ。一人一人に。』
 「うわーぁ、想像しただけで、疲れそう。私には無理だな。」
 『そりゃ、気疲れしますよ。でも、すればするほど度合いは減っていくし、それはそれで努力だって言えません?』

 こういうことに、ちょっと疲れるくらいのほーが、実は情熱があって、イイ感じなのかも。

 もともと、堅いことを信じる性質だけど、今は、多様性サイドも取り入れて、頑張っています。
 手法間の優位性に騙されず、情熱のみに依存して。
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