たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

サボりのすすめ

2016-09-30 01:43:51 | Weblog
 自分が今持っている可能性以上に実力を高めたいなら、サボることが必要不可欠だ。
 (結果に対して実質的に何も寄与しえない、という意味での)何もしていない時間というのを、きちんと長く設定する事は、実は、無駄じゃないどころか、必要な事なのだ。

 前にも何度かここで書いているが、自分がこの知識は必要だと思ってそれを仕入れていく作業に慣れてくると、即物的には上手く行くことが多いけど、どこかで頭打ちが来る。自分のレベルアップに多様性をきちんと追加するためには、ランダム性が必要不可欠なのだ。ここで特に必要になってくるのが、他者に依存しない「遊び」の要素である。
 つまり、がっつりと、しっかりと、真面目に、「サボれ!」ということである。この部分が無いと、誰かのコピーになりやすいし、感情や気持ちの表現の乏しい自分になってしまうケースが多い。

 この「サボる」ということが優等生ほど出来ない。だから、中学高校と、一回も学校サボったことないヤツなんてダメなんだよ、っとAグループから言われたくなかったら、とりあえずは、まともにバックレてみることだ。これは、とにかくやってみないと、良さはわからない。
 
 そして、これを優等生諸君にやってもらえるだけの実力と信頼が俺に無いといけないとも思う。
 バックレを誘う側に圧倒的に能力が備わっていさえすれば、どんな人でも付いて来てくれるはずである。ここについて問題を抱くという事は、俺にそこまでの能力が無いという事で、そこまできちんと信頼関係を結べていないことが多いという事なのだと思う。

 ただし、忘れないでほしい。
 あなたが、優しい心さえ持っていれば、何をしていても、何を無駄にしていると思っていたとしても、人生における自分の行動で無駄な事など、ただの1つもないのだ。すべては時間が経てばわかることであり、自然体で生きる事があらゆる悩みを解決する。
 そこから、徐々に、何もしていない時間帯から、自分の興味に従って、ゆっくりとゆっくりと、時間を贅沢に使いながら、あらゆることを考究したら良い。とかく賢い人たちほど、思考を急がせることばかり慣れてしまっているが、どーせ生き急いでも死に近づくだけ。だとしたら、焦って答えを無理矢理に出すよりも、ちゃーんと考えた方が得策だと思わない?

 今すぐに、能力が無くて、賢くなくて、ごめんなさい。でも、そのぶんだけ、せめて俺は、あなたのすべての行動を論理的にも感情的にも肯定化することを、ここに誓おうと思う。

 (っと、いうわけで、サボることの重要性を説いた訳ですが、、えーっと、今月分のネット小説「研究コントローラー」が書けませんでした。あちゃー。
 いや、月毎に書くとは行ったけど、非連続だとは言ってないもんね(←それっぽそうなことを言ってて、意味分からない)。一回が月にまたがるのはルール通りだもん。というわけで、9-10は二つまとめてあげます。構造はできていて書き始めているのですが、他の仕事が色々あって間に合わなかったのと、直前でちょっと考えさせられることがあって、それなりに構成を変えたのが、遅れている原因です。お待ちの皆さん、すいません。もうちょっと、待っててね)
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"I(dω/dt) = N"を意識して

2016-09-21 01:12:24 | Weblog
 どうも自然科学における研究者や大学院生は、あまりに戦術的になりすぎる。頭の回転が速すぎるのだ。
 頭が良いという事は、単に頭の回転が速いということではない。戦術的な賢さ(回転が速い)と戦略的な賢さ(回転が遅い)を自在に使える人が賢い人なのであると思う。

 大学受験の頃、よく、数学の先生に、たかはしくんは短絡的に解答を出そうとしすぎる、と注意され、もう少し1つの問題をゆっくり深く考えるようにしてみましょう、と言われたが、戦略的にじっくり練って、自分の思考力を高めようとすることはとても大事な事だ。そういえば、小さい頃、ピアノを習ってた時も、一曲をもっと完璧に!、どんどん速くなる!、と言われていた。頭の回転を速めて、スピードに乗って動作まで速くなると、戦術的になって確かに良い事もあるのだが、その分、仕事が雑になったり、思わぬところで足下を救われたりする。
 だから、もっともっと戦略を考えられるようになろう。そういう時間帯では、解が出てくるまでに時間がかかるし、ゆっくりになるし、他人よりも遅くなるから焦るけれど、こういう時間をきちんと取り続けていないと、とたんに薄っぺらい人間になる。対応主義、と俺が名付けている、その場限りの対応ばかりにとらわれ、「ブレてる」人間になってしまうのだ。そして、研究業界には、やたらにこういう薄っぺらい人間が、割と偉そうな顔をしているケースが多い。

 あなたが今以上に賢くなりたいなら、まずは「ブレない」芯が通った人間になることから始めるのが基本だ。
 そのためには、問題を頭の中に飼っておく必要がある。常に大きな問題に関して頭の中に置いておいて、それをいつでも取り出せるようにする。例えば、うちの研究内容の界隈で言えば、「生命とは何か?」「生命起源はどんな感じだったか?」というような問題を頭の中に飼っていない人はいない。どんなときでも、つまり、スーパーで買い物しているときや、何かの映画を観たとき、極論寝ている時も、常にこの問題が思い出されうる状態でなくてはいけないのだ。
 これが自らの戦略家的な側面を育てる上で、非常に重要なのだ。日頃のここの訓練が無いと、「こないだ○○の論文で、生命とは○○だって言ってた。これ、あってるかもしれないし、ここが違うかもしれない。その昔、○○の論文では、こう言ってた。色んな人がいるねー」と単なる批評家になってしまったり、そうじゃなくても、ただの流行追いになってしまうこともある。「で、結局お前は、どう思ってるんだよ?」という事に対して、考え続けられているか?という、視点が大切なのである。これがあれば、答えが出ていなくても、「ブレていない」人になれるわけだ。

 だが、無理矢理にでも、今この瞬間にとにかく答えを出さなくちゃいけないことも、あるだろう。戦略的になると、全体として「しっかり」はするが回転が遅いために、やたらに実質的に前に進まないことが多くなる。なので、これとは別に、戦術家的な訓練も必要なのだ。この能力は、善人ぶってる、正統派ぶってる、多くの研究者たちには、もうこれ以上に必要ないくらいに高いことが多い。だが、なぜだか、研究社会で、しか使えないことも多く、学生や若手が真似するのは危険でもある。
 実はこの戦術的な能力は、Aグループ(ノリの良い集団の総称)の人がめちゃくちゃ得意です。たとえばウィンドウショッピングできる人は、この能力が高い。お金を使わずとも、大義名分がなくとも、何かの映像や何かの体験を共有しなくとも(映画or遊園地)、街中にあるモノに思いつきでどんどんツッコミを入れていくだけで、女の子を喜ばす事ができれば合格最低ライン。
 なので、ここから応用すると、この戦術的な能力(頭の回転の速さ)が無い人は、まず、街中で一人でツッコミを入れ続ける事。街中で何か疑問に思ったら、なんでも誰かに質問する。順番待ちでは、自分が仕切ろうとすること。これだけで、だいぶ、思考をパサパサ早く展開できるようになります。

 ま、戦略が二次試験で、戦術がセンター試験だと思ってくれれば、(お勉強における)戦術(だけ)が得意な人には、わかりやすいかな?
 で、勉強初めるなら、しっかり理解しなくちゃいけないから、まずは戦略からでしょ?で、戦術をマスターする。ね?やっぱりこの順番。

 あー、書いてて思ったけど、俺、どっちも無いなぁ、と落胆してきたわ。
 とりあえず、街に繰り出すようにするか!だって別に俺は頭悪くても、良いもん!笑

 さて皆さん、たとえ話です。
 何が慣性モーメントで、何が角加速度で、何がトルクでしょうか??暇だったら、飼ってやってください。え?飼うまでもないって?はいはい、頭イイですね〜。
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EXILEの歴史と考察 -15周年の前に-

2016-09-19 03:26:13 | Weblog
 さて、今日は、EXILEの歴史と考察を、語ってみたいと思います。

 ツイッターではちょこっと言った気がしますが、こないだ偶然チケットが手に入って、EXILE TRIBEのライブ「HiGH&LOW THE LIVE」に行って来て、それ以来EXILEの歴史と考察について書きたくて、けっこう時間が経っちゃいました。
 EXILEのライブは第一章のSHUN(清木場俊介)がいた時代しか行ってなくて、あの頃のメンバーがもうATSUSHIしかいないなかで、どんなもんなん?、って気持ちで最新のライブに行ったんですが、色々考察できて楽しかったです。

 音楽好きって言うと、じゃあどんなの聴くの?とよく言われる。これ、けっこう困る質問で、色々聴くからなぁと思うんですが、一番は?と言われたら、俺はEXILEと答えています。え?あんな人数がいる人たちが好きなの?と言われると、あんまりそうじゃなくって、どうしても、EXILEって、俺のイメージ、ファーストアルバムの「our style」なのよね。なので、一昔前のダンス4人+ツインボーカル、みたいなのが好きです。って言うと、じゃぁ、三代目は?って訊かれるんだけど、うーん、彼らは代表曲しか知らない、っという。。

 じゃあ、EXILEのどこが好きなの?って感じなんですが、考えてみると、俺はEXILEの「負け犬仲良し不良、でも実は礼儀正しい」感が好き。そもそもEXILEって、「国外追放、放浪者」って意味ですから。
 もともと、ASAYANってオーディション番組のCHEMISTRY選抜落ちで結成されているのが、ボーカルのATSUSHIとSHUN。ATSUSHIは候補者5人にまで入りながら最後の4人に入れず脱落。SHUNは審査員と喧嘩して辞退。当時のSMEの審査員には、のちにEXILEに「Lover's again」「Ti amo」などの作詞を提供する松尾潔氏も参加しており、彼らの歌のルーツはこのオーディションにあります。
 CHEMISTRYの成功を目の前に躍起になって歌っているツインボーカルと、当時ダンサーって職が今よりももっともっと不健全なイメージがあった3人のストリートダンサーを、ZOO時代の栄華を取り戻そうと躍起になって踊っているHIROが率いる、荒くれ者のグループ、、それがEXILEでした。ここに、当時の、第一章の良さがあったのだと思います。

 他に第一章までのEXILEを具現的に表すなら、「対等と対称性」。これに尽きます。
 ATSUSHIもSHUNも歌う量は全く同じ、見せ場やフェイクも含めてだいたい同じくらい。パフォーマーもめちゃくちゃ対等。見せ場もそれぞれの個性を出しながら、1つにまとめていく感じ。この仲良し要素に加えて、ATSUSHIがテクニカル、SHUNがエモーショナルな歌い方をして、それぞれの良いところを参考にしあっている感じが、とても新しさを感じた。

 が、2006年3月、SHUNが脱退。ここにAKIRA(パフォーマー)とTAKAHIRO(ボーカル)が新たに入り、EXILEは7人組で再結成したのです。
 ここから徐々に、負け犬っぽさが消え始め、対等でもなくなっていきます(TAKAHIROが後から入ってるから当然っちゃ当然)。対等さの象徴であったハモリも、ライブではほとんど聴けなくなってしまいました。これは、当初TAKAHIROにハモリまで生で入れることを任せるのが不安だったのが、そのままになってしまったのが原因だと思います。
 ちなみに、一応今のファンの方に言っておくと、俺は現EXILEで一番好きなのはTAKAHIROです。いや、別にSHUNを含めても、TAKAHIROが一番かもしれない。彼の歌声は素質に恵まれており、それだけでもかなりのもんですが、EXILEの知名度がある程度知れ渡っている後に加入したので世間の重圧は半端無かったと思います。そこに絶えられる精神性が、歌に(なかなか反映されるシーンは少ないですが)反映されるとき、絶大な力があります。普段音を取れていなかったりしがちですが、そこを差っ引いても、力を出しきっている時のTAKAHIROのスゴさは並じゃないです。

 2009年4月に、EXILEは7人からいっきに14人に増えます。ここで、EXILEのメンバー内のヒエラルキーは確実なものとなります。それまでもソロ活動などでは、対等ではなくなってきていましたが、少なくとも第一章までのEXILEの対等さを応用するなら、SHOKICHIとNESMITHにも同じくらいに歌わせてあげていたはずです。ここに、ファンの需要を考慮していく、というある種の「対応」に追われるEXILEに徐々にシフトしていきます。

 人数が増えていったり、世間の需要に合わせていくのは、必ずしも悪い事ばかりではなく、たとえば14人になってからの曲で「もっと強く」という曲は、EXILEの1つの完成型だったと思います。これが発売された2010年、ニコニコで(違法?)アップロードされているところに「EXILEの本気」というタグがついていました。これは主にSHUNとATSUSHIの頃の曲にすべてついていたタグですが、はじめてTAKAHIROとATSUSHIの曲に「EXILEの本気」タグがつけられたのが「もっと強く」です。確かに曲としての完成度がものすごく高い曲です。
 それに14人になったことで、ダンサーのなかで光る人の発掘がしやすくなりました。例えば、NAOTOや(後にパフォーマーオーディションで選ばれる)山本世界。この二人は特に、ダンサーとしての実力がずば抜けていると思います。直線的な動きも曲線的な動きも実に繊細で、表情に至るまで精緻に踊れるNAOTO。音ハメとリズムチェンジが驚異的に上手く、その動きを見ていると意識して聴こえていなかった音まで聴こえてくるほどのグッドリスナーダンサーである山本世界。この二人を見出せただけでも、EXILEをやたら量産系にして大勢にして良かったのかもしれないと思わせる。(ドームで、どんなに遠くても、彼ら二人は、そのダンスの上手さで識別できるほどです)

 しかし!、である。最近のEXILEやその弟分たちは、あまりにダンスがメインになりすぎてしまって、あまりに体育会系色が強くなってしまった。
 三代目J Soul Brothersの代表曲「R.Y.U.S.E.I.」は、ダンスありきの曲だ。盛り上がるし斬新だったし、EXILE第一章の「style」のラストサビへのダンス見せ場のように、「R.Y.U.S.E.I.」のラストサビへのダンス見せ場でも一人ひとりが個性を出しながらも全体としてまとまっていくのが体現されている、すばらしいPV。でも、俺はこの曲をダンスなしの、そのままで聴く気にはなれない。「style」は曲としての完成度もものすごく高く、kenn katoの深い作詞とFace2fAKEの斬新なメロによって成り立っていたが、この「R.Y.U.S.E.I.」に関しては曲だけで聴く時も、自然とダンスを思い出しながら聴いている自分に気がつく。まだEXILEの「I Wish For You」を聴いた時は、ここまではアリかな、っと思えたのだが、それ以降のEXILEの全体曲というかダンスありきの曲が、あまりに曲として成り立っていない曲が多すぎると言わざるを得ない。

 今回のEXILE TRIBEのライブ「HiGH&LOW THE LIVE」に関しては、もっともっと曲よりも、パフォーマンスメインのエンターテイメントとなってしまったと思う。EXILEはこのまま音楽を捨ててしまうのだろうか?
 最近のEXILE関連のグループの売り出し方、プロデュースの仕方として、音楽よりもパフィーマンス、いかに魅せるか?に重点が置かれてしまっているのだ。そもそもツインボーカルというのは、攻撃(的な技術)型と受動(的な感情)型が組み合わさると成功しやすい。例えば、川畑(CHEMISTRY)、SHUN、今市(三代目)、数原(GENERATIONS)は主に攻撃型。堂珍(CHEMISTRY)、TAKAHIRO、登坂(三代目)、片寄(GENERATIONS)は主に受動型だと思う(ATSUSHIはSHUNとの時は受動型、TAKAHIROとの時は攻撃型と意識的に変えていると思う)(これはどちらかといえば、という意味で、例外的な瞬間はいくらでもあるし、むしろその瞬間に感動したりすることが多い)。ACE OF SPADESでは、受動型が得意な天性タイプのTAKAHIROをバンドのボーカルにしている(この時点でバンドのサウンドに負けて声が通らないのは必然)。ここに雨宮兄弟として、ルックスだけで、同じ受動型が得意な天性タイプの登坂を起用するのは、音楽としてどうなの?と俺は思ってしまう。ACE OF SPADESにはGLAYのHISASHIもいる。同じGLAYのメンバーとコラボした「SCREAM」のときは、攻撃的で(純粋に)男っぽいSHUNをリードボーカルにして、地声の高音が上手いTERUと柔らかな声をいれられるATSUSHIを上手く使い分けていた。どうして、ああいう音楽性を重視した起用ができないのだろう?
 それから、女子の使い方も、申し訳ないけど、下手だなぁと思う。女の子はパセリではない。もっとメインで使えよ、特にボーカルを、と思う。いつから、EXILEは華やかさを重視するようになったのか。だいたいE-girlsはAyaとAmiしか知らないが(世間的に言えば、これでも知ってるほーになると思う)、もう少しボーカルを大事にしてほしいなと思う。PKCZにはm-floのVERBALがいる。m-floが見出した天才シンガーソングライター、日之内エミのような人材を、EXILE TRIBEが見出せないのは哀しい。

 そして、それ以上に、音楽というのは、技術以外の面があまりに強い表現法であることを、もっともっと考慮しながらプロデュースせなアカン。
 上手に真面目にやろうとすればするほど、EXILEの良さである「負け犬」っぽさと、「不良」っぽさが、失われていってしまう。今市と登坂は、音楽として他人を震わせる技術としては、オーディションのときが一番良い気がする。特に今市にいたっては、本当に感動する歌を唄っていたのに、今は彼の一番良い部分が消えてしまった気がする。松尾潔氏のプロデュースに上手くのらなかったBREATHEも、変に枠に押し込められていない時期が、一番上手かった気がする。E-girlsのなかでも、確か、今は辞めてしまった、オーディションのときに歌がものすごく上手な子がいたはずである(ごめん、名前覚えてないけど)。

 TRIBEになかなか出てこないDEEPや、E-girlsをやめた子、引退してしまった多田(BREATHE)などの、EXILEの波に上手く乗れない人材の方が、むしろ純正のEXILEっぽい。ちなみに、EXILEのヒエラルキーとして王道にのっていて、初代のEXILEっぽい実力があり、歌として完成されているという点では、GENERATIONSが最も有力である。さすがに、武者修行させられて、厳しい状態の中でライブばかりこなしているせいか、ボーカルもダンスも本当に実力が高いし、「なにくそ!」感も強い。「涙」もとても良かった。彼らは何かインパクトのある代表曲さえあれば、すぐに三代目を超えると思う。

 なので、今後、期待できるのは、このEXILEの波からこぼれてしまった人たちから、新しい秩序が出来上がるときに、もっともっと、音楽としての新しい何かを魅せてくれそうな気がしてならない。

 昔うたばんで「EXILE ENTERTAINMENT」というCDアルバムを引っさげてゲストで登場したとき、タカさんから「え?ボーカルとダンサーと、取り分同じなの?SHUNとATSUSHIは、それでいいの?」と言われてしまう程度しかなかったダンサーの地位。このダンサーの地位を一生懸命高めることで、音楽業界の覇を成したEXILE。
 だが、だからといって、ダンサーを重要視しすぎることは、ダンサー自身のクビも絞める事になる。だって、曲として一本それ自身だけできちんと成り立っている、イイ曲がなくなってしまえば、自分たちが踊れる曲と舞台がなくなってしまうのだから。昔からのファンは、もっともっと、聴かせる曲を聞きたいし、それを全面に出したダンスを観たいぜ。

 っというわけで、このように、集団としての「形成からぐらつきまで」を教えてくれるEXILE。彼らの15周年のアルバムがでるらしいです。
 「EXTREME BEST」(2016.9.27)。どお?LDHの方、こんなに頑張って考察して、最後CMまでしたから、ちょっとは収益ください笑 (けっこう厳しく批判しまくったからダメ?でもガチで好きだからこそ、ですよ!笑)

EXILE / 9/27発売「EXTREME BEST」MV53曲全曲ダイジェスト
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心裡留保しないで2

2016-09-14 02:49:05 | Weblog
 たいていの人は別に本気で生きておらず、ただなんとなく日々を過ごしているだけなのだと思い知らされたのは、もうだいぶ前の事である。
 あらゆるところに書いてある高い目標は、たいていの場合がウソであり、ただそう書いておいたほうが聞こえがイイから書いているに過ぎない。その目標を本気で達成しようと思っている人間が一人もいない時点で、そもそもその目標そのものにそこまで興味が無い俺としては、そこに参加する価値がないし、真に受けて目標達成のために、それなりの犠牲を祓うのがバカバカしくなってくる。

 何かを本気で達成したいのなら、手段は選ばないはずだ。
 自分の足りない能力を指摘されたくらいでへそを曲げていてはいけないし、その指摘に「言い方」がどうの、などと言っている暇はないはずである。そして、「何をやるか?」ということと同じくらいに「何をやらないか?」も大切であり、繰り返しの操作の中に安心感を求めていてはいけない。
 論理と勇気で無駄を排除しない限り、やることは増え続ける。だとしたら、「やらない」と決めたところに一切の注力をしてはいけないし、逆に必要な部分は何がなんでも引きずってでも持ってこなくちゃいけない。

 見栄やプライドを超越してでも、その掲げている目標を本気で達成したいと思ってんのか?
 それとも、それなりの実績を作って、それなりの称号を得て、ただ無難な人生を送りたいだけか?

 それなりを途中までやって、そこから本気を出す、などという戯言は聞き飽きている。そういう人間は、いつまでもいつまでもスイッチが入らず、ただ死にゆくだけなのだから、さっさと後者であるという自覚を持ってしまった方が良い。なにも、夢や目標に向かうだけが人生ではないのだから。
 だって、本来的な意味での正しい厳しさを持ってして接していったときに、その事象について、そこまで本気ではない人を傷つけてしまうことは、なるべくなら避けたい。

 「じゃぁ、死ねってこと?」

 反射的に『なに甘えた事言ってんだよ?』と思ったが、この瞬間から今の今まで、少なくとも共同体として、俺が一度も本気のスイッチを入れないくらいのインパクトはあったらしい。今から思うと、ある程度本気になっている自分自身が懐かしい。
 あらゆる人に対して、『でも、どーせ本気じゃないんでしょ?』という前提を持ちながら接していると、遥かにラクだ。『ほーら、本性を現した。偉そうな事言ってても、全然やる気ないじゃーん』とやってれば、自分自身が傷つく事は無いから。

 心裡留保に惑わされているのは、俺のほう?
 それが崩れ去ったとき、相手は突然加害者にされて傷つくし、こっちは騙された気分になって傷つく。自明の理。当たり前の事。

 そして、その虚構に本気にならない分、自分が本気で掲げている目標、、いや、達成しなくちゃいけない目的に、冷酷に行動するようになった。
 しかし、それも、いい加減に飽きつつある。これも同じロジックで、当事者が、当事者でない俺よりも、いつまでもいつまでも、本気で変える気が無いのであれば、そこに注力していても時間の無駄だからである。

 だからこそ、何かの共同体を組織して、俺が本気のスイッチを入れたくなるような事柄に対して、スタートし始めなくちゃいけないと最近は思っている。そうなったら、スティーブジョブズ並にスゴいモノを作れる自信があるし、もっともっと誰かと傷つけ合うだろうと思う。かといって、やる気ないテイも飽きてるしなぁ。

 まぁ、それも人生。あまり深く考え込まないで、楽しもう。
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シン・ゴジラの感想 -このゴジラは今の若者の象徴-

2016-09-11 02:10:37 | Weblog
 さて、かなーりいまさらですが、シン・ゴジラ観てきましたので、感想を書こうと思います。(以下ネタバレ注意です)
 MX4Dで観ました。俺にとって初MX4Dだったんですが、いや、あれ、逆に作品に集中できないと俺は思うんだけども、どうでしょうか?

 今回のシン・ゴジラ、相当話題性があって、いろんな意見を訊いてから観に行きましたが(ちなみに、特撮モノを映画館で観るのって、たぶん初めて)、確かに面白いポイントがいくつかあると思います。
 まずカット割りがやたら多くて、一人ひとりのセリフがパサパサ繰り返されていきます。なので、出てる人の個性が全然みえてきません。オタクさん達いわく、ここがポイントらしくて、その分、ゴジラの個性が引き立つようになっているらしいのです。となると、そのゴジラは、なんなのか?というのが非常に重要になってくるのは当たり前の話です。さて、ゴジラは何なのか?

 俺は、このゴジラは現代の若者の脅威の象徴なんじゃないかなぁ、と思いました。
 もちろん、お話のなかの設定としては色々あるのかもしれませんが、伝えたい内容はここにあるのかなぁと言うのが俺の考察です。

 え?どこが?と思われる方のために、俺が「あ、このゴジラ、現代の若者じゃん」と思ったポイントをお伝えしましょう。
 ヤシオリ作戦(ゴジラに血液凝固剤を注入する作戦)決行直前くらいのシーンで、牧教授の残したゴジラのデータをゴジラ対策チーム全員で観るシーンがあります。そのときの撮り方が、PC側からなのです。わざわざ、文字なども逆になって写っていて。ここに俺は強烈に違和感がありました。「え?ゴジラって、うちらなの?」って感じで。
 この映画は、20ー30代の若者向けです。ゴジラのデータ(つまり本質)が君らだ!と言われている気分がして、それで映画全体を思い出してみると、まぁ、それなりに合っていると思えたのです。

 最初、政府関係者は、ゴジラの存在すら否定します。ネットでの映像を見ても信用していなかった老害たちが、テレビを見ると一気にゴジラの存在そのものは信用するようになりますが、それでも陸に上がる可能性を直視しません。脅威が無いと思い込みたいからです。そして、ついに陸に上がっても、「でも、ただ歩いてるだけですから」。
 これは、若者の中から脅威的な存在が出てくるかもしれない、という時のたとえ話を体現しているとしても、そんなに違和感が無いかと思います。「"ネットで"だけだろ?」「どーせ、ゆとりだし」と言いながら、若者を脆弱な存在としてのレッテルを貼りたいところに、いつの間にかネットでの意見が自分たちを圧迫していく、これまでに聴いた事も無かった、とんでもない事件を犯す。。

 ついにアメリカ軍が攻撃を始めると、なんと、ゴジラは核の威力をもったレーザーを放ち始めます。このシーンあたりから悲壮感が漂い始めるのも、攻撃されているゴジラが、どこか俺らと近いから。
 そして、首相含め内閣の中心メンバーが殺されても、政治力学に余念がない政府関係者たち。結局のところ、どんなに物理的に攻撃したとしても、政治に終始してしまう点での悲しさを謳っている気が、俺にはするのです。

 また、本当に最後の最後のラストシーンでは、固まってしまったゴジラは人のカタチを重ね合わせたようにも見えます。

 そのちょこっと前のシーンで、主人公・矢口蘭堂が「でも、今回は、辞める事ができない」と言っていたのは、この話がバッドエンドだからです。バッドエンドのまま主人公は舞台を降りる事は出来ないことのたとえだと俺には思えます。

 というか、そもそも、話の構造上、ゴジラはバッドエンドにならざるをえない作品です。だって、どんなに話に意味を持たせても、どこからともなくゴジラがやってきて、それを倒す、という基本構造は変えられないからです。まぁ、ミニチュアゴジラになって、皆仲良く暮らしました、ってんならハッピーエンドですが、そういうわけにはいかないでしょう。

 既存のシステムをぶっ壊す象徴がゴジラなのだとしたら、それは短命である事が世の中の常です。歴史上、破壊者は破壊後に短命ですから。
 だからこそ、ゴジラによる破壊と攻撃を受けたときの苦しみはどこか悲しく、脅威であるゴジラが倒れてもどこか切ないのは、痛みを享受しながら、残された人間達が、これから創造していかなくちゃならないことの責任に溢れているのだと思います。

 しっかし、このゴジラ、やたらに怖い。ゴジラ映画って、ほとんどまともに観た事は無かったんですが、こんなに怖いんだっけ?ゴジラって。迫力が圧倒的です。
 これから世界中で混乱期を迎えることは間違いないので、パサパサと決断していかなくちゃいけないようになるだろうなぁ、と危機感を持たせてくれる作品でもあると思いました。
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未来に向かう指針

2016-09-07 03:15:12 | Weblog
 過去に未来はないのに、過去に縋る人は跡を絶たない。
 平日に存分に奴隷をする理由が週末や年末に旧友と昔話をするため。いつまでもいつまでも自分の人生の絶頂期であった入試のことが頭から離れない。カバー曲で一過性の収益を得ようとする。日本全体、特に若者が、上から言われた事を活き活きと根性論的にこなせば、またバブル経済が訪れ、みんなで散財することができるようになると本気で信じて疑わない上場企業の上層部。自分の両親と同じか、その尺度での上位互換となるようなスタイルの結婚生活に憧れを抱き、自分自身が何かをするわけではなく、馬券を買うのと同様に男を選ぶ事で成り上がることを夢見ている、精神性が安っぽい女。

 過去に学ぶ事は確かに必要な事である。時に、歴史や履歴を語り合い、懐かしみ、旧交を温め、時の流れを掌握することも必要だろう。だが、過去の何かに縋り付いていても、仕方ない。
 時の流れに、人は逆らえない。時間が逆行しないことを直面するや否や、妄想や空想の世界に突入していくだけである。現実に根ざした理想ではなく、ただの個人の妄想や空想に、何の面白みも無い。

 だからといって、別に、無理して過去の価値観や習慣から抜け出そうとしなくても良い。何か変えなくちゃいけない!と思えるのであれば、まずは、その場限りで対応するのではなく、ほんの少しでもイイから、先を見ようとしてみることが大事なのだ。不承不承で構わないから。
 昔の友達と昔話をしながら、もし時間が許すなら今度は俺らでどんな面白いことしてみれるかな?、と少しだけ語ってみるのはどうだろうか。自分の栄華を思い出すだけでなく、今後どのような入試にすればより良いか?考えてみるのはどうだろう。みんなが知っている売れた曲をカバーするのじゃなくて、みんなが知らないであろう隠れた名アルバム曲をカバーするのはどうだろう。もしまたバブル経済が訪れたら散財以外に価値のありそうなことは何かなぁ?と問うてみてはどうだろう。男を選ぶときに、単に世間で言われているパラメータを基準にするのではなく、それ以外に自分が絶対に外せないと思う世間的にはレアな条件について、考えてみるのはどうだろう。

 たった、その一歩。ほんのちょっとの、その一歩の思考・試行が、世界を未来に持っていく。

 そう、実は、自分だけが暗闇を歩いている、なんていうことは、ウソだ。殆どの人は、暗闇のなかを、目を閉じながら、ただじっとしゃがみこんでいるだけだ。「自分一人じゃ変えられるわけがないし」とダサいイイワケを言いながら。

 何も見えないなかで、恐る恐る立ち上がり、何かに手を伸ばそうとしただけで、他のしゃがみこんでいる人からすれば、ものすごく明るい道を歩いているように見えてしまうだろう。そして、凡人のあなたには、それだけで十分だと思う。

 だから、何も見えないっちゃ見えないけど、頑張って何かを見ようとしないで、とりあえず立ち上がって、一歩を踏み出してみたら、いいんじゃないかな?
 あなたなら、俺が、すでに手探りして、形状がわかっている道については、訊いてくれれば何でも教えるからさ。
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暗闇を選びながら

2016-09-05 01:59:30 | Weblog
 多くの人が目を開きながら明るい空の下で自由に歩いている一方で、自分だけが目を閉じて暗闇の中を手探りで歩くことは失望感を齎す。

 確かに時間は平等に与えられているかもしれないが、生まれた瞬間に得られる情報の差は圧倒的だ。中にはそれさえ知っていれば、社会的に成功できる率が高まるようなとびきりの有用な情報もあるし、たいていそういう情報は、一般人には提供されない。
 しかし、一部の支配階級や知識階級だけが所有する有益な情報について、絶望することは稀だ。たいていは、あらゆる社会や人間関係のなかに、自分だけが得られずに損をすることに対して、ショックを受ける。

 たとえば、能力の低い人間でも忠義さえ守っていれば社会的に舞台が与えられる。こういう事実を突きつけられても、たいていの人は絶望しない。なぜなら、そんなことは、ありふれているから。
 そうではなく、忠義を守っているにも拘らず社会的に舞台が与えられていない自分の状況を認識したとき。ここに絶望するのだ。"なぜ自分だけが"という運の無さこそが、人からやる気を奪っていく。

 視界が広がらない暗闇を歩きながら、自分が歩む時間の流れ方の遅さに、まったく気がつかないでいる事に慣れ始めた頃、偶然に触ったモノが電気のスイッチで、突然に暗闇を照らす。視界が広がり、情報が自分の目に沢山入ってくる状況になる。

 だけど、たいていの場合、それを素直に喜ぶ事はない。
 なぜなら、入ってくる情報の全てが悪意に見えるからだ。暗闇に慣れてしまい、傷ついた心は、肉体をも浸食してゆく。

 そして、光を当て続ける人間に悪意を感じ始めるのだ。それがどんなに真実で事実であっても。
 さぁ、急いで目を閉じなくちゃ!これなら暗闇を選ぶ方がよっぽど良い!

 そう、確かに、自分だけが暗闇を手探りで歩く事は失望感を蓄積させる。
 だけど、中には暗闇を好む者もいる。長過ぎる暗闇は、人にある種の幸福をもたらす。別名、妄想と空想。これに、どんなに光を当てても、「本当のことを言えばイイってもんじゃない」と一蹴されるだろう。

 自分で目を開けられるようになるまで待たなくちゃ。
 あとどれだけ待てるか、わからないけど。
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小学校の読書感想文は意味無し!

2016-09-01 01:19:08 | Weblog
 さて、9月ですか。小中高生のみなさんは、夏休みが終わりました。まぁ、とっくに終わってるところが多いとは思いますが。
 この夏休み期間で思い出すのは、読書感想文の宿題です。今じゃ考えられないですが、俺、小中学校と本読むのも読書感想文書くのも、どっちもめちゃくちゃ大嫌いでした。まぁ文章の上手い下手は別にしてさ、俺、この歳で誰かに強制されているわけでもないのに、こんなに定期的に文章書いてるわけだし、一時期なんか一日一記事書いてたときだってあるわけで(それのなかで10000pv以上達成の記事とかもあるわけで)、本もまぁ、どんなに少ない時でも月3冊以上は絶対読んでるし、(中学はともかく)小学校の読書感想文って、要るか?、って言われたら、要らないと思うのが本音なのよね笑。(いや、ほんとは中学も要らないと思ってるんだけど)

 そもそも、他人の文章読んで、それについて文章書かせるって、かなり高度だと思うんですよ。インプットしたものを、自分のなかに落とし込んで、そこからアウトプットする。そんな高度なこと、その辺の大人だってマトモにできてんの、なかなか見ないっすよ。そら、小学校中学年までの子だったら、「おもしろかった」しか書けないって、普通。
 んでさ、「その理由を書きましょう」とか言われて(このセリフ何度言われたか分からない)、「○○くんが、こういうときに、こうなったら、△△っていったから、おもしろかったです」。いや、一文で終わりやん!!って何回も思ったわ。
 すると、「あらすじを書きましょう」とか言われて、あらすじを書いてると、「感想は?」って言われる。

 その本を読んでいない人にも原理的にわかるであろう「あらすじ」をそれなりの分量(6割くらい?)で書いて、その上で、自分が思った事(4割くらい?)を書けばイイ。
 これを最初に言ってくれ!!そしたら、「むりっ!」って、当時の俺が言うから!笑

 小学校1年生のとき、やたらめったら文章書かされた覚えがあるんですが、「運動会の感想を書きましょう」みたいなことがあったんですね。自分が体感してるので、読書感想文よりはまだ書きやすいと思うんですが。そんときに、俺、自分で言った事、マジで賢い子だったなぁと思ってるんですが、「勝っちゃったから感想書けない。負けたんだったら、来年は頑張ろう、ってことを書けるのに」。つまりですね、俺はもうこのときに、「書ける科学」やってたわけです。だいたいね、君ら(研究界隈の人)、大学院まで来て、研究者までやって、「(論文に)書ける!(申請書に)書ける!!うひひひひ!!!」って研究してるフリしてるの、幼稚すぎるし、遅すぎるんですよ。そんなん、ふつー、小学校のときに卒業するだろうと笑。
 ちなみに、神様は不条理で、俺、小学校1年から5年まで全勝だったんです、運動会。だから、マジ、文章力鍛えられましたよ笑。いや、たいしてマトモに書いてないから、やっぱり、あーゆーの意味ないと思うんだよね。

 ただの感想書けっていうのでもキツいのに、読書感想文はさらにマジでキツいよなぁ。低学年は無理だよ。
 むしろ、そこで親とかでてきて、教育格差でるし、本来的に無理な事をどう誤魔化すか?みたいな術ばっかり身に付いて、読書感想文って、本当に良くないと思うんだよね。

 だいたい、俺も本の感想書く時とかって、何冊か読んだ中の1冊だし、まずそんな習慣がない小学生は無理でしょ。だから、最初はとにかく、本を読むことって面白いんだ、って思えればいいと思うのよね。(実は俺はそれさえ要らないと思うけど)
 小学校1年生とかだったらさ、自分の好きな食べ物いくつかと、どう美味しいか?の一文を書かせる、くらいでいいんじゃないの?これならできるでしょ。

 めんたいこ・・・つぶつぶしてて、からくて、おいしい
 ステーキ・・・にんにくがおいしくて、たべごたえがあって、おいしい
 ポテトチップスのりしお・・・ぱりっとしてて、かみつづけるとじゃがいもで、おいしい

 こんなんのほうが、読書感想文なんかよりも遥かに自力で文章書く練習にもなるし、感覚を伝える練習って大事なのでイイと思うのですが、どうでしょう?小学校教員の皆さん??
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