たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

「トイ・ストーリー4」の感想 -「生きる」とは何だろうか-

2019-07-15 05:44:01 | ディズニー
  (ネタバレありです)

 涙脆い俺にとって、観ていて涙が止まらない作品はそう珍しくはない。だが、観てから数日経っても、思い出しては何故か落ち込み、考えさせられる作品はそんなに多くはない。
 トイ・ストーリー4は、俺にとって、確実に心のどこかに傷をつけるものだったし、脳裏に焼きつく何かを与える作品であった。

 一言で言ってしまえば、「自分が必要とされなくなった時にできることは何か?」というテーマだ。

 本筋のテーマを語る前に、まず、そもそも子供にとってオモチャとはなんだろうか?と考えてみたいと思う。
 フォーキーという存在は、「大人によって造られた完全なオモチャ」なんて所有しなくても、子供は創造性(想像性、でもイイかもしれない)だけで楽しむことができることを示唆している。だとすると、ウッディ達の存在意義が危ぶまれてしまうのだ。大人になればなるほど、子供(相手)に対して完璧を与えてあげなくてはならないと勘違いしてしまうが、実はそうでもなく、子供(相手)が受け入れられるか否かというのは理不尽極まりない判定基準(クライテリア)だったりするわけだ。
 僕らは、受け入れてもらいたい誰かにいつまでも受け入れてもらえないことに関して、ギャビー・ギャビーが自身のボイス・ボックスが壊れていることを気にしているように、客観的にわかりやすい欠点を大義名分(イイワケ)にすることで、自身を納得させてはいないだろうか。たとえどこかが壊れていたとしても、気に入ってくれさえすれば、創造力によって大事にされる。この創造性を学習するための道具がオモチャなのではないだろうか、と思うのだ。
 理想を追求することは尊い。デューク・カブーンが飽きられてしまったのは、彼自身がCMを体現できなかったことに原因があるわけではなく、子供がそれを補完するだけの創造性をまだ有していなかっただけのことだ。そして、オモチャとは、子供がその創造性について未発達であった場合には、ただ理不尽に消費されるだけの存在なのである。

 僕らはオモチャではないが、昨今、オモチャのように消費されるような社会的抑圧を受けながら生活をしている。だからこそ、「年収が足りないからモテないのだ」と嘆いたり、「結局男は若くて可愛い女の子が好きなんでしょ」と問題を矮小化してみたり、「この環境は自分の理想から大きく外れている」と言って安易に職場を変えてみたりする。ある価値観の軸に帰着させることで、問題を二元論的に語ることは容易だ。だが、そこに内在している現実は、実はもっともっと理不尽極まりないもので、完成されたオモチャであるウッディ達よりもフォーキーが一番大事にされるような、ランダムネスとしか思えないような性質が働いている可能性が高い。
 何者でもなかったとしても、少しだけ趣味でギターを弾いていることに対して夢を見てくれるように、社会的信頼性から少し外れるようなことをしていたとしても、心の純粋さが垣間見える発言にホンモノを見出そうとするように、そこに肯定化したい「何か」さえあれば、僕らは頑張って創造性を働かせ、受け入れたり受け入れられたりすることができる。だが、その「何か」というのは、記述可能ではないかもしれないのだ。

 そして、その「何か」とは、突然に出現し、突然に消失してしまうものでもある。劇中においては、フォーキーは、ボニーの一番のお気に入りだ。でもそれは、いつ消失するかわからない、一過性の「指名」である。いつ、どんなキッカケで、一番のお気に入りの座を降ろされるかはわからないのだ。ゴミを創造で保管させることで成立しているオモチャは、いつでも作れるがゆえに、完成されたオモチャよりも、失くしやすいし、忘れやすい。それを、「自分はゴミだ」と思い込み、すぐにゴミ箱に入りたがるキャラクターに仕立てる喩えは、非常に上手く、いわゆる「大人の価値観」がいかに現実に即しているかを教えてくれる。そして、「これが一番」と決めつけてしまうことの恐ろしさを知るのだ。
 そう、フォーキーを一番のお気に入りのオモチャにすることは、ものすごいリスクなのである。そのようなリスクを享受し、不利益を被った経験を経て、初めて僕らは、現実的な判断基準の中から、一番のお気に入りを選ぼうとするのだ。「やっぱり男は年収高くなくちゃね」と嘯く婚活女子のように。

 だとしたら、まったく選ばれなくなってしまったウッディが、自らのボイス・ボックスを失ってまで、その一時のボニーの気持ちを守ってあげようとする理由はなんだろうか?
 ボー・ピープは、必死で奪還しようとしていたオモチャが、フォーキーであったことに不満を漏らしている。「先割れスプーンじゃない」と。誰もがわかっているのだ、ボニーの気持ちが一過性であることを。アンディがウッディに寄せていた気持ちとは完全に異質であることを。
 確かに、一時の気持ち、かもしれない。明日にも、すっかり忘れられてしまうようなことかもしれない。しかし、その純粋な気持ちを守り、尊重することが、ボニーの未来と周囲を確実により良くする。その確信があるからこそウッディは、自らを犠牲にしても、一過性の気持ちを守ってあげる選択をとった。それは、オモチャとして、ウッディがボニーにできる唯一の奉仕なのだと思う。ギャビー・ギャビーはそれを「ボニーへの執着」と言ったが、他者からそう思われたとしても、私利私欲を脱し、自己犠牲による自己実現をどこまで貫けるかが、「生きる」という惨めな現象なのかもしれない。

 僕らもウッディと同様に、いずれゴミ同然になる。誰かや集団からだけではなく、いずれ、この世のすべてから必要とされなくなる日がくる。ゴミ箱に対して、暖かくて、落ち着くようになる日が来るのだ。
 それまでに、どれだけのホンモノの気持ちと出会えるか。そして、それを通り過ぎてしまった先に、どんなことができうるだろうか、と考え続けることの重要性を教えてくれた映画だと思う。

 だから、こんなに苦しくて、こんなに切なくて、こんなに何かを感じてしまう作品なのだと思う。
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「ズートピア(Zootopia)」の感想 -現代社会の差別における「たとえ話」-

2016-08-27 03:12:38 | ディズニー
 さて、またしても今更になってしまいますが、久々のディズニータグ、今回は、「ズートピア」の感想を書いてみようと思います。
 最初に見たのは結構前なんですが、書くのがだいぶ遅くなってしまいました。以下、ある程度、見た人を前提に書きますが、あまりネタバレしないように書いていきます。

 現代社会の「たとえ話」として、これほど精緻な作品も他にないだろうと思う。流石ディズニー。だから、目が離せないんだよなぁ。本作品は、主に差別のたとえ話となっています。
 肉食動物と草食動物、大きい動物と小さい動物、ずる賢い動物と泣き虫な動物。これらが、現代の、人種差別、宗教差別、世代間格差、学歴差別などのたとえ話となっていて、全然関係ないおとぎ話なのにも拘らず、自然と作品に入り込んで、最終的には泣けます。

 ウサギ史上初の警察官ジュディが、ずる賢いキツネのニックとペアを組んで、ある奇怪な事件の謎を解く、というのが主なお話の流れです。
 最初、ジュディの幼少期から始まって、ジュディのお父さんが「お父さんとお母さんは、夢を諦めたから、幸せになれたんだ」という言葉をジュディにかけます。このときに、「ディズニーのわりには、格言の逆説をかなりダイレクトに伝えてくるな」っという印象があったのですが、本作の深すぎるメッセージを掴むためには、これくらいは前提知識みたいなんもん。夢を諦めた方が手っ取り早く幸せを掴めるけども、それで本当にイイのか?、というようなことを考えたいのであれば、他のディズニー作品を見てください、ってことなのでしょう(アラジン、魔法にかけられてetc.)。

 この「ズートピア」のすごいところは、単に差別する側と差別される側に分かれていて、差別される側がかわいそー、という単純構造に終始していないところ。差別されていることを公に前提とした差別されている側の差別、もしくは、明らかにそれぞれの人生のなかでの努力の度合いor個人が不利益を被りうるがみんなにとって重要な選択によって現在の違いがあるにも拘らず、みんな一緒でしょ?平等でしょ?、と平等化されてしまうことの差別、などの、なかなか一見すると考えにくい差別を、うまく表現しているところが、本当に上手。さらに、ここに、多数派・少数派の物理法則が関与してくるあたり、本当にマジでガチで上手なたとえ話だなっと思います。
 まぁ、俺としては、最近本当に感じることだけど、自然科学内の分野間格差、理系と文系における利益・不利益を語った時の「でも、学問の本来は、貴賤はないはずでしょ?」と現状を一切加味しない起源への絶対視というのは、こういう問題をはらんでいるんだよなぁ。何を持って、どの時点で、対等とすべきか、というのは、本気の本気で思考していかないといけないことなのに、ここにマジョリティのロジックと需要と供給のロジックが入るから、複雑な現象が意外と簡単に理解できたようにみえるんだけど、ほんの少し摂動を与えてしまえば(何かの事件が起きれば)、大きな対立となってしまう危険が常に存在し続ける。(いや、たとえばだけど、俺、本気で、本来的なことを言えば、大学教養課程までの積分がきちんとできる博士号取得者って、それだけで無条件で年収700万円を最低ラインにしたくらいで、やっとトントンだと思うよ?そんなん、多数派のロジックと、短絡的な需要と供給の関係から、絶対に無理な(気がする)んだけどさ)

 この、いわば、アンバランスが定常化してしまったバランスに対して、バランスに戻そうとする力のなかに差別意識を感じとったキツネのニックが、ウサギのジュディに「俺が怖いか?」と試しに襲いかかるような素振りをするシーンは、ものすごく視聴者に恐怖を植え付けます。単なる「草食動物を食べる肉食動物の本能」として理解したい気持ちと、「平等と仲良し」を信じたい気持ちが葛藤するからです。このシーンは、本作品の俺のベストシーンです。ディズニー、うますぎる。本当に怖い。キツネがウサギを食べてしまうかもしれないから怖いのではなくて、俺自身が、このシーンをキツネの短絡的な本能として理解しそうになるから、怖いのです。

 もちろん現実は、本作品と違って、こんなに簡単に原因が解明されるわけもなく、その解決法が発見されるわけも無く、いつまでもいつまでも、生物学的な違いの存在に悩まされるわけですが、そこは「ありのまま」でいられない、「すべてにチャレンジする」気持ちを持って、一人ひとりが、世間を少しでもより良くするしかないのだと思います。
 そう、この作品は、「アナと雪の女王」の「ありのままで〜」だけで理解してしまっている多くの視聴者に、「そうじゃないですよ?」と教える役目も持っているのかもしれません。まぁ、当たり前ですが、「アナと雪の女王」は「ありのままでいい」なんて言ってる作品じゃないわけです。

 アナ雪やラプンツェルで、だいぶディズニー哲学が精緻化してきていて、今後どうするんだろう?と思っていましたが、さらに先のTrue Loveをディズニーは提供してくれています。二体系で帰結していたTrue Loveを多体系に拡張した作品と言えるでしょう。俺としては、アナ雪の続きとしても見ることができました。エルサの魔法の脅威はアナには受け入れられたわけですが、あの国の国民すべてに受け入れられたのかどうか?の描写が一切なかったですから。このエルサの魔法の脅威を、そのまま今回の作品内の肉食動物の脅威と同一化して作品を見ることができると思います。
 ただ、この多体系のTrue Loveについて、すべてを説明し尽くしているほどめちゃくちゃ精緻か?と言われると、そこまでではないので、、この次の作品がまた楽しみですね。

Shakira - Try Everything (Official Video)
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スターウォーズ エピソード1~6をまとめてみました

2015-12-24 22:44:04 | ディズニー
 今日はクリスマスイブです。なので、今日はスターウォーズについて、まとめを書いてみようかと思います笑。あ、あと、俺はまだ最新作のエピソード7を観てません。

 エピソード7を観るために、この12月、12時間(以上)かけて、改めて、エピソード1から6まで続けて観てみましたが、いやー、本当によくできている。旧三部作を、ある程度、前に観たことあるんだけどなぁ程度であれば、俺は、1,2,3,4,5,6の順で観ることをオススメします。たぶんこれであってると思うんだけども、、うーん。4,5,6,1,2,3と公開順に観るよりも話の流れがすっきりわかる部分が多い気がするのよね。まぁ、もちろん、ベストは、4,5,6,1,2,3,4,5,6,1,2,3とかでしょうけど、皆さんがそんなに時間があるとは思えないので(笑)

 さて、このスペースチャンバラ、スターウォーズの流れを大きく掴むと、実にシンプルで、シスの時代(お話の中だけ, 1000年前)→銀河共和国時代(エピソード1~3)→帝国時代(エピソード4~6)
 スターウォーズがすごいのは、エピソード4~6でジェダイを正義とか憧れの存在と思わせて、エピソード1~3で「え?ジェダイって正義か?」と疑問に思わせるところ。その伏線がエピソード5や6にたくさんあります。

 そもそも、ジェダイは人助けなどではなく、「ジェダイは(フォースを用いた)兵器である」と考えるのがジェダイの正しい捉え方です。ジェダイは恋愛禁止です、っていうか、感情や判断を持つことそのものが許されていません。感情を持つことはダークサイド(シス)に繋がっているとされています。エピソード1で、後にダース・ベイダーになるアナキン・スカイウォーカーが、幼少期にも拘らず「お母さん(シミ・スカイウォーカー)に会いたい」と思ってるだけで、マスターヨーダ(ジェダイで一番偉そうな緑のおじいさん)から「お前はジェダイには向かない」と言われてしまいます。そして、奴隷であるシミ・スカイウォーカーを、ジェダイは頑なに助けません。元老院が判断するべきだからです。で、これがのちに、アナキンがダークサイドに落ちてしまう根源的な理由です。
 ジェダイを動かしているのが元老院。この元老院が人数が増えまくってしまっていて判断が遅くなり、惑星ナブーにおいて連合軍の侵略に対して事態を改善できない点がエピソード1のポイントです。パドメ・アミダラ(のちにアナキンと恋に落ちる)がはっきり言っています「もはや元老院が機能していないことがよくわかりました!」と。
 連合軍の黒幕であるダース・シディアスの弟子であるダース・モールと、アナキンを見出したクワイガンとその弟子のオビワンが戦うわけですが、クワイガンが死んで、オビワンにアナキンを託すことになります。この幼少アナキンはかなりすごくて、惑星ナブーの侵略を抑えたのは、ポットレースのノリで敵の戦艦をやっつけたアナキンでした(ここがエピソード4とシンクロしてる)。

 エピソード2では、ヨーダは最大の失敗を犯してしまいます。それはクローン兵を使って連合軍に立ち向かい、アナキンやその師であるオビワンたちジェダイを助けてしまったことです。ヨーダ、お前こそが感情に支配されてるだろ!、しかもクローンかよ、と誰もがツッコミを入れるポイントです。いくらピョンピョンと飛び跳ねてドゥークー伯爵と対決してカッコつけてても、この判断はいいのかよ?
 シミを殺されパドメを愛し、感情むき出しのアナキン。アナキンのダークサイド面が表れ始めるのが、エピソード2です。

 っで、エピソード3はところどころすごく重要で、最大は、パルパティーン最高議長がダース・シディアスだったのかよ!ってところ。ここで普通はエピソード1と2を見直したくなるはずです(笑)。で、アナキンがジェダイ評議員には選ばれるのに、ジェダイにはならないという決定が評議会で下され、アナキンがむかついているシーン。ジェダイに選ばれるかどうかはアカポスみたいなもんです(笑)。ジェダイも元老院も、どんどん、ただの保守派に回り始めます。そんなアナキンに付け入るため、パルパティーンは「ダークサイドの力を手に入れれば、生命を創造できる、生き返らせることも可能だ」ということを言います。たぶんこれが重要で、だから、旧三部作で、ダース・ベイダーはダース・シディアスと一緒にいるのでしょう。
 短絡的な感情を優先させるダークサイド、シス。その黒幕であったパルパティーンを元老院の指示で逮捕しなくてはいけないところ、マスターウィンドゥがパルパティーンを殺そうとします。それをアナキンは止めるため、マスターウィンドゥを殺してしまいます。で、さらに、幼いジェダイ見習いであるパダワンを皆殺しにしてしまいます。さらにクローンがジェダイに対して反逆。っま、だから、ある意味では、アナキンはやっぱり予言通り「フォースにバランスをもたらす者」であったわけですね。パドメは生きる意欲がなくて死亡、アナキンとの子供である、ルークとレイアを残して。アナキンはオビワンとの闘いで重傷を負い、ダース・ベイダーのあの格好になります。

 ジェダイとシス。これは表裏一体で、どっちが正義でどっちが悪ってわけじゃなく、どっちもフォースという不思議な力を操る存在。一方は感情を持たないように努める兵器、一方は感情を持つように努める兵器です。

 エピソード4ではアナキンの子供であるルーク・スカイウォーカーが主人公になります。元老院が崩れ共和政が壊滅し、ダークサイドであるシス卿パルパティーンによる帝国時代が始まりました。ひっそりと暮らしていたルークにオビワンやハン・ソロなどの仲間ができます。
 オビワンにフォースの心得を教わったルークは、敵の最強兵器デススターを壊滅させます。でも、オビワンはかつての弟子であるダース・ベイダーに殺されてしまいます(オビワンが殺させた?)。フォースを駆使して宇宙戦闘機を操縦するルークはデススターを壊滅。エピソード4は、意外とこんなもんだろ。

 ホスの闘いで帝国との戦いが激化しているのがエピソード5。この時代の戦闘マシーンが古びているのは、映画が古いせいではなく、帝国時代によって武力が全然進歩してないことを示しているのだそうです。
 で、ルークは、マスターヨーダに会いに行きますが、このヨーダ、全盛期(新三部作)と違って、グレまくってます。やっぱ、こいつこそが、ダークサイドに堕ちてるんじゃないか?と思うんですが、違うかな。。でもジェダイらしく、ハン・ソロとレイア姫を助けにいくよ、と言うルークに対して、ヨーダは「行くな!フォースに従え!まだ制御できないだろ。助けたいと思うな!」と意味の分からないことを言っています(だからやっぱりエピソード1から観たほうが良い気が)。どんどんルークがダークサイドに堕ちそうになるのですが、父であるダース・ベイダーはマジで強く、ルークの手をはねて、お前を殺したくはない、お前とともにダース・シディアスを倒そう、と提案してきます(で、たぶん、お母さんパドメとおばあちゃんシミを生き返らせよう、的な発想があるように俺には想える)。で、ルークはそれを断って、命辛々レイア姫の待つミレニアムファルコン号に帰ってきます。

 そして、ラスト、エピソード6。やっぱりお父さんはダークサイドじゃない!と信じてやまないルークは、ダース・シディアスの前で、ダース・ベイダーと戦います。これがダース・シディアス、パルパティーンとしては、予想通り。要らないダース・ベイダーの代わりに、ルークを弟子にしようとしてるわけです。考えてみると、このダース・シディアス、弟子を持ちまくってる。
 ルークはダース・ベイダーを倒したが、ダース・シディアスには手も足もでません。そのとき、ダース・ベイダーがルークを助け、ダース・シディアスを倒し(いや、結局ここで倒すなら、あのとき倒しておけよ、とマスター・ウィンドゥは思っただろう)、アナキン・スカイウォーカーとして死んでいき、30年ほど続いた帝国は(ハン・ソロのおかげで)滅びました。

 というように、人数が増えまくったせいで機能しなくなった民主主義を、恋愛という感情によってぶっ壊し、そこから始まてしまう独裁制を、父と子の愛でぶっ壊す、という話です。
 こういうとらえ方をしながらスターウォーズって観られているのかな?

 エピソード1は4と、2は5と、3は6と、色々シンクロしていているので、エピソード7は1と4が対応してくるはずです。
 で、予告によると、何者かがダース・ベイダーを引き継ぐわけだから、俺としては、やっぱり、生き返らせ伝説(ダース・プレイガスの伝説)を実践し、過去のジェダイとかシスを生き返らせたりとかして、ぐちゃぐちゃな話とかになったらおもろいかなぁと思うんですが、どうでしょうか?

 というわけで、イブの夜にふさわしく、スターウォーズを簡単に解説してみました。と思ったら長くなってしまった。
 ディズニーに売ったんだから、ディズニータグでいいよね?(笑) 

 そんなわけで、メリークリスマス。
 フォースとともにあれ。


参考動画

オタキングが公開直前のスターウォーズ~フォースの覚醒を誰よりも面白く見れる方法を教えます


ゆっくりとスターウォーズのお話ししませんか?ジェダイ編


90秒でわかるスターウォース
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実写版シンデレラの感想

2015-08-16 03:30:32 | ディズニー
 さて、久々にディズニーを更新します。
 公開からかなり時間が経ってしまっていますが、今回は、実写版の「シンデレラ」の感想を書いておきます。ちなみに観終わった方を前提に書きますので、以下ネタばれ注意です。

 一言でいうと、うーん、現代版に寄せきれてないかな?、ってのが観終わったときの感想です。

 どうしてもディズニー映画シリーズの履歴をある程度は前提としないと感想を書きにくい。なので、ちょっとだけ履歴を語ります。
 「白雪姫」からスタートしたディズニー映画。この頃は、出会ってすぐに運命を感じてキスして結婚。運命は決定づけられたものだったんですが、「美女と野獣」あたりからお姫様サイドもかなり冒険をしなくてはいけなくなりました。そして、ディズニーが禁じ手を使ったのが「魔法にかけられて」です。この作品は、ある意味過去のディズニー映画のすべての恋愛を否定するシナリオで、運命の定義が変わり、true loveの意義がより深くなりました。よって、「魔法にかけられて」以降の作品はすべて、綿密で繊細にtrue loveを伝え、「いかに素直になるか?」「それを誰と共有するか?」というような内容が多くなりました。

 この流れの中で、いかにして「シンデレラ」という王道中の王道作品を現代版にリメイクするか?ということなんですが、まぁ、表面的には、その努力は至るところに見られます。
 まず舞踏会以前にシンデレラと王子が森で出会っていること。シンデレラ自身がさっさと家を出ていっても構わないという選択肢が見られること。最後ガラスの靴を試すシーンで、継母から行くな!と言われることなど、「優しい」お姫様に「勇気」がなければ達成できないようなリメイクになっています。

 しかし、「シンデレラ」の大筋は、自分の力ではどうしても状況を変えることのできない純粋な召使が魔法によって玉の輿、というある種のありきたりな物理現象を語ったベタなので、リメイクするなら、この根本を変えてしまっても良かったんじゃないかなっと思うわけです。

 旧作のアニメ版のシンデレラは、現実的な恋愛をせずに、(ネズミなどの動物たちに優しいなどということを除けば)とにかくこの単なる物理現象を理想的に描いた作品であるのに対し、今回の実写版では、それが現実的に柔和に伝えられています。
 さらに、結論から難しく言ってしまえば、恋愛における滅私と自己表現の絶対矛盾的自己同一性という西田哲学の教えに近いところが、より随所に現れているのが、今作とも言えると思います。

 継母の実娘である二人の姉は、華やかなドレスに身をまとって舞踏会に参加し、まぎれもなく玉の輿を狙っています。一方のシンデレラは、「あの森で出会ったキッドとまた逢いたいわ」という純粋経験に依存した気持ちで舞踏会に参加しています。つまり、シンデレラは男たちの眼差しのもとに、媚態として「かわいい」のではなく、自らが一生懸命に自足しようとする構造体としての「かわいい」を体現している。だから、魔法を使った後も、青いシンプルなドレスなのです。この点は四方田犬彦著の「かわいい論」でも、セーラームーンとその敵の性質を分析して語られていますが、シンデレラでもまったくの同一だと思います。
 純粋な者の敵とは、常に、「生きていくために」と他人に媚びることを正当化する態度そのものなのです。シンデレラの実の父が死んだときに「これからどうやって生きていくのよ」と言い放った継母がそれを象徴しています。
 他人とインタラクションするためには、まずは本当の自分を押し殺さなくちゃいけません。それが「滅私」です(これで止まっているのが継母の実娘2人で、心情としての対比がきちんとできるように、この2人もアニメ版よりも実際に美しくなっています)。西田幾多郎の善の研究では、滅私を前提として、自分を精一杯に「ありのままに」魅せなさい、というような結論に達します。自分を押し殺していくことと自分をめいいっぱいに表現することの絶対矛盾的自己同一性が、結局はホンモノの恋愛に至る(≒王子と結婚できる)、というところを主張しているのが、今回の作品である気がします。滅私を前提としているからこそ舞踏会に行くためには「ドレス」が絶対に必要であり、未成熟なところに美を見出しながらも胸を大きく開けたドレスに身をまとい、最後、王子に名前は?と聞かれたときにエラではなくシンデレラと答えるのは、「ありのままの私を愛してね?」と要求しているのです。

 だけど、かなり厳しいことを言えば、それってシンデレラ側はtrue loveなんかな?ディズニーさん?って俺は思います。
 これは俺が穿った見方をし過ぎているのかもしれないけど、純粋さを貫く過程で、実はキッドが王子だった、ってなった瞬間に、運命を再確認するのって、それって本当にロマンティックなのかな?と思います。それは結局のところ、媚態でしょ?
 現代の日本の恋愛にも多くみられる気がしますが、自由意志から恋愛をして、本当に好きになった相手が、家柄が良かったり、年収が良かったり、とにかく物理的な条件が合っていると分かった瞬間に、ポジティブフィードバックがかかって、やっぱりこの人しかいないわー、と思う女性の嫌らしさは、年収いくら以下の男とはそもそも付き合わない、とか言ってる媚態的意識の女と、順序が違うだけであって、根本的には同じだろ、ってことなのです。友達や親戚などの周囲に、この結婚や恋愛はホンモノの愛以外の目的じゃないと思われたいと思っていることまで計算している可能性も高いから、むしろ、一番悪いくらいかも。
 それは少なくとも純粋ではないし、true loveを掴みかけて、最後のひと押しでそれを冒涜しているし、継母たちの考え方とあまり変わらないんじゃないかなぁと思うのだ。

 本当に優しさを持って、本当の勇気を持っているのは、王女と政略結婚せず、資産も何もないシンデレラを、気になるから!好きだから!と追いかけ、優しいから!!と結婚まで貫き切った、キッド王子のほうじゃないだろうか?そっちを視点にリメイクしたらよかったんじゃないだろうか?
 彼はこの先、自分の力で小国を築きあげ、国民からの非難を弾き飛ばしながら、生きていかなくちゃいけない。ありのままを愛して?って国民や周囲に媚びても無意味で、本当の能力を高める必要があります。それを、男女平等の現代的観点、つまりは50:50で、責務を負っている自覚があるとは、このシンデレラ王女には思えない。女は美を提供しさえすればいい、という時代を引きずっているリメイクにしかなっていない。

 優しさと勇気を貫くことは、シンデレラが思っている以上に、辛く困難で並大抵の覚悟じゃできないこと。それを男側にすべて押しつけて、自らの幸せを自らの優しさと勇気で掴んだと思っているのなら、甚だ勘違いもいいところだ。

 まぁ、確かに、、世界的に時代がそこまで追い付いていないのかもしれない。

 フェアリー・ゴッドマザーがドレスとガラスの靴を用意せずとも、かぼちゃの馬車という幾何学的手段のみを準備すれば、ホンモノの愛を掴めるようになる時代が、俺には想像できる。それだって、精神世界のなかで、滅私と自己表現の絶対矛盾的自己同一性を共有し、ありのままの素直な自分を魅せることに苦労するというのに。

 夢をかなえるためには、まずは思い描くことが確かに大切。でも、やっぱり、それだけじゃダメで、本当に実現するためには、少なくとも素直さを表現する具体的な能力をきちんと身につけたうえで、圧倒的な優しさを目指して実行する勇気が必要なのである。
 それをあなたのお母さんは言ってたんじゃないの?、とシンデレラに問いかけたくなる。

 …と考えてしまう作品でした。笑

Lily James - A Dream is a Wish Your Heart Makes (from Disney’s “Cinderella”)
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アナと雪の女王「FROZEN」の感想 -Putting Someone Else's Needs Before Yours-

2014-06-22 02:33:37 | ディズニー
 今さらだけど、「アナと雪の女王」の感想を書いておこうと思います。これを今書くことに意味があるので。まだ劇場公開しているのかわかりませんが。。
 ディズニータグをなかなか更新してなかったしね。

 最初に観たときに、観終わって一番に思ったのは、『ディズニーも姫にだいぶ酷な冒険をさせるようになったなぁ』
 「True Love」というのが何度も作中に出てきていますが、これはディズニーの大事なテーマです。この「True Love」は時代と共に変わってきました。

 ディズニーのプリンセスがでてくる系の映画でいくと、「白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs),1937」や「眠れる森の美女(Sleeping Beauty),1959」は、出会った瞬間に運命を感じて結ばれる、というのが「True Love」でした。ディズニーに対してこういうイメージを持っている人は今でも多いと思います。
 それが「美女と野獣(Beauty and the Beast),1991」や「アラジン(Aladdin),1992」くらいから少しずつ変わります。きちんと恋愛をして過程を経て「True Love」に辿りつくようになりました。「リトルマーメイド(The Little Mermaid),1989」からすると歴然でしょ?しかし、それでも、作品観ている人からすると、「どうせこの2人がくっつくんだろ?」っとわかるような作品です。

 大変革が起きたのは、「魔法にかけられて(Enchanted),2007」です。この作品を観たときは素直に「スゴイな」っと思いました。なぜなら、ディズニーのこれまでの作品をディズニーが真っ向から否定してきたからです。
 最初から結ばれている相手以上に大切な人がでてきて、現実的な「True Love」が存在することを描いた、この作品以降、出会った瞬間に運命を感じて結ばれる、という手は使えなくなりました。

 「塔の上のラプンツェル(Tangled),2011」では、「親離れ」と「夢」を中心に描きながら、恋愛はオチとして使われました。そしてこの作品は、ヒロインにまぁまぁ酷な冒険をさせるようになるんだな、っと思いました。それは、終盤のシーンでラプンツェルが塔から落ちるゴーテルを助けようとするワンカットに象徴されます。
 ディズニーが何が正しいのか?をこちらに問いかけるようになってきたのです。そういう意味で酷だな、っと思いました。(ちなみに、あまり知られていないですが、ラプンツェルとユージーンは「アナと雪の女王」に出ています。本編開始16分頃です。)


 さて、最新作の「アナと雪の女王」では、エルサ(雪の女王)が強大な力を持ってしまうところから物語がスタートします。

Do You Want To Build A Snowman ? - from Frozen (HD)


 「We used to be best buddies, and now we're not」
 このシーンだけでも泣けるだろ、って感じですが、ドアをノックする行為がこの話の重要な伏線になっています。とても仲の良い関係が、相手を想う気持ちがあるがゆえに、物理的な問題となってしまって、それが原因で決別になってしまいます。こういうことは、ホンモノの愛「True Love」を求めれば求めるほど、現実でもよくあることです。
 アナは少し空気が読めない子なので(笑)、何も考えずに、どんどんエルサと距離を詰めていこうとします。

 氷の力を持ち過ぎてしまって、女王という立場で世間体も気にしなければならず、でも誰よりもアナを愛しているエルサは、自分のせいでアナが不幸せになってしまうことを一番に恐れています。
 余裕がまったくなくなってしまっているエルサに対して、何も考慮せずに、ガンガン距離を詰めようとするアナに、最初はまったく共感できませんでした。

 しかし、エルサが創りあげた雪だるまのオラフの言葉によって、アナは「True Love」が何かを知ります。

Disney's Frozen - Olaf Explains Love to Anna


 正直、オラフが「Love is..」って言ったときは、マジで震えて毛布を握りしめました(笑)。『おお、ディズニーが、ついに、愛について、明確な答えを一言で述べてくるか』っと。
 この瞬間にストーリーのすべてがみえて、エンディングまで想像できました。そしてそれはピタリと当たりました。よーするに、心から共感できたんだと思います。

 自分の幸せを犠牲にしながら相手を想えた時、奇跡が起こる。それは、どんなに能力が無くても、どんなに自分に自信がなくても、どんなに心に余裕が無くても、自分よりも相手を、というその気持ちだけで現実に寄与していき、必ず相手に伝わるものだと思う。
 それが伝わった相手は何をするべきか?その答えがこの作品にはある。

 物語りが終わった時に、この先エルサは大丈夫だろうか?と思いましたが、きっとアナと支え合って、エルサはエルサで、アナとの愛とはまた異なる、ホンモノの信頼関係を掴むと想像することができました。

 ただの夢見な作品から、現実を理想に変えていく作品に、なっています。やっぱりディズニーはとても素晴らしい!

 そして、現実は物語とイコールになり、現実は理想通り変わるだろう。きっと明日から。
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東京ディズニーランドで一番カッコイイキャストは誰か?

2014-04-06 06:15:39 | ディズニー


 俺はディズニーが大好きだ。
 マジでディズニーが好きなので、ディズニー好きの私ってかわいいでしょ?という男への下心でディズニーが好きだと言ってる、スプラッシュマウンテンのストーリーすらまともに言えない女を観ると、怒りに震える。

 まあでも確かに、男でディズニーが好き、というのは手放しにカッコイイと言えるもんでもない。どうしたら、ディズニー好きのカッコイイ男になれるのか。
 簡単な話だぜ。東京ディズニーランドのキャストで、一番カッコイイ人を参考にしたらイイのだ。

 そこで今日は、東京ディズニーランドで一番カッコイイキャストはいったい誰なのか?を考察してみよう。

 まず順当なところから。アドベンチャーランドにある「ジャングルクルーズ」のお兄さんお姉さんは普通にカッコイイだろ。熱帯のジャングルを(設定上)3週間もゲストをひきつれて舵を握るその姿はカッコイイ。
 しかも冗談が上手い。船が出てすぐに「早くも2週間が経ちましたー」と言いながら正面を観て舵を廻し、「大丈夫です、わが社ジャングルクルーズの生存率は10%を誇っていますから」とゲストに勇気を与え笑顔を忘れない。
 でもな、ちょっと誤魔化し感があるし、冷めてる感じがカッコイイと言い切れない部分がある。

 だとしたら、やっぱり縁の下の力持ち系を探ってみるか?

 あまり知られていないんだけど、ゲート入って正面、ワールドバザールの左側2つ目の建物(お土産屋さん)の2階には「ディズニーギャラリー」というショップ&展示&アトラクションがあって、まぁサンフランシスコにあるウォルトディズニーファミリー博物館(The Walt Disney Family Museum)のミニ版みたいな感じです。
 パラパラ漫画とかあって面白いんですが、なんせわかりにくい場所、ここ入ってイイの?という場所にあるため、人がめちゃくちゃ少ないんです。だから「ディズニーギャラリー」にいるキャストは、ものすごく辛抱強いだろうなぁっと笑。だって、すぐ下の1階ではめちゃくちゃ人がいて、あの沢山あるレジで順番待ちをしているんですよ。なのに、自分たちのところには全然人が来ない。これはかなりの忍耐が無いと無理です。
 俺がここのキャストだったら、どーせ我慢できませんよ。階段のところに立って、客引きしてしまいます。でもそんなことしたら人が沢山来ちゃってギャラリーの感じじゃなくなっちゃいますし、うーん、俺には無い部分やね。

 あと縁の下の力持ち系で言うと、、あっ。

 東京ディズニーランド、東京ディズニーシーって、一番大切なコンセプトにしているのは「安全性」です。転んだり、何かにぶつけてケガをすることは子供にとって一大事ですし、せっかくディズニーに来てるのに、イヤな想い出にしては絶対にいけません。
 そこで東京ディズニーリゾートでは、極力、そういうことになってしまいそうな危険因子を取り除いています。だから床も結構ふかふかしてるでしょ?

 で、一番厄介なのはササクレです。ササクレができないように東京ディズニーリゾートのすべての場所でトゲが無いように閉園後開演前に必ず毎回チェックしているはずです。姿すら絶対に見せない、しかし絶対にいるであろう、トゲチェッカーのキャストは、マジでカッコイイ。
 東京ディズニーリゾートのすべての場所とはマジすべての場所です。ビックサンダーマウンテンの順番待ちのとこの岩とか、トムソーヤ島の丸太やインディアンのテントとか、ロジャーラビットが出ていった跡が縁どられてるドアのとことか。もう全部です。これをすべてチェックして、子供をササクレから影で守っているなんて、めちゃくちゃカッコイイ。

 でもね、やっぱり地味だよね。ある程度表舞台で、しかも男から見ても女から見てもとしてカッコイイのって、どの類いのキャストだろう?

 全体的に総括するとですね、僕は、クリッターカントリーにある「ビーバーブラザーズのカヌー探検」で、カヌーの一番後ろで一番一生懸命漕いでくれているキャストだと思います。つーか、カヌーのキャストは、ホントにカッコイイ!
 ゲストが漕いでるのなんて、ぶっちゃけ大した意味ないんですよ。「水面に対してまっすぐ垂直に入れてこいでくださいねー。はい、いっちにっ、いっちにっ」その後ろで黙々とカヌーを前に進めるパワーキーマン。俺だけで十分こげるんだけどなぁ、と思いながらも、そんなことは(当たり前だけど)一言も言わない。
 ディズニー×体育会系!これはヤバい。マジでカッコイイ。カヌーで女性のキャストは俺は観たことないけど、たぶんいたら見惚れると思う笑

 え?ディズニー好きな体育会系くらいじゃダメ?いやいや、カヌーのキャストはインテリでもあります。
 ウェスタンランドにある、あの川は、他に2つのアトラクションが同時進行しています。蒸気船マークトウェイン号、トムソーヤ島に行くいかだ、そしてカヌーです。当然ですがこの3つの乗り物は絶対にぶつかってはいけませんから、タイミングが超重要です。それを考えてカヌーを動かすだけでも厄介なはずです。

 ということは、つまり、カヌーのキャストは、3体問題を確実に解きながら、ゲストに笑顔でディズニーサービスをして、自らの筋肉で黙々とカヌーを漕いでいるのです。もう、めちゃくちゃカッコイイだろ。

 だから、俺も明日からカヌーを、、、無理っす。(笑)

 まぁ俺は、ディズニーのIT系、公式のリアルタイム待ち時間を逐一更新しているキャストを目指すかな。このキャストも表舞台じゃないだけでかなりカッコイイ。
 ホーンテッドマンションをわざわざ「13分待ち」にしたりするあたり、なかなかのセンスの持ち主だしね。

 ちなみに、東京ディズニーシーだったら、ダントツでクラッシュが一番カッコイイ(クラッシュへの秀逸な質問 -東京ディズニーシー タートル・トークについて-)。どんなオフェンス(質問)に対しても、誰も傷つけずに絶対にディフェンス(回答)できるクラッシュは、研究者の卵として尊敬に値します。
 俺が書いた上の記事クラッシュの傾向と対策の記事は、「タートルトーク」でGoogleで検索してもらうと、なんと2件目に出てきます。Wikipediaの次、公式ページを超えてます笑。これはたぶんオリエンタルランドのスタッフにすでに目をつけられていますので、もしかしたらこの傾向と対策では役に立たないかもしれません。なので近日中に、タートルトークについての対策の続編を書きます。

 おいディフェンスの神、クラッシュ!お前これを観てるか?俺はさらなる対抗策を思いついた!誰も傷つけず、みんなの役に立ち、楽しくなるような質問をして、お前に勝つ方法を!
 覚悟しとけよ笑

 まぁ、誰がカッコイイかなんて、俺ごときが言うのはおこがましい。ディズニーリゾートのすべてのキャストを心から尊敬しています。
 オリエンタルランドのみなさん、今日も頑張ってみんなに夢を届けてくださいね!

 っていうか、、ディズニー行きてぇなぁ。笑

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クラッシュへの秀逸な質問 -東京ディズニーシー タートル・トークについて-

2014-01-14 02:37:01 | ディズニー
 今日は東京ディズニーシーにある人気アトラクション「タートル・トーク」でクラッシュに秀逸な質問をすることを考察してみようと思う。

 このアトラクションでは、ファインディング・ニモに出てくるカメのクラッシュと大勢のゲストが対面して、話をすることができる。ここでクラッシュへの質問タイムがあるのだが、なかなか特異的で面白い質問をするのが難しい。なにせ、芸人の千原ジュニアでさえ、クラッシュと絡むのは難しかった、とすべらない話で告白しているほどだ。

【すべらない話】2013.6 千原ジュニア 亀のクラッシュ MVS


千原ジュニア ウミガメのクラッシュとのお笑い対決!?


 しかし、俺は今やオフェンスの神。実は俺は今まで、面白く価値があり意味のある質問ができないことを悟って、タートルトークの会場であるコロンビア号で、一度も手を天につき上げた事が無いのだが、次にシーに行った時のために、今一度ここで、クラッシュへの質問を考えておこうと思う。

 オフェンスをするには相手の話の流れを掴むことが大切、それがオフェンスの基本だ。タートルトークの流れを確認しておこう(以下ネタばれ注意)。

 「お前たちー、最高だぜー!」「うぉー!!」のやり取りを練習する。→親子を見つけて「訊く」「答える」ことの大切さを確認する→泳ぎが得意なヤツとの会話→質問2~3つ→クラッシュの海での拾いものネタ→ドリーとクジラ語。
 中間~後半にある質問タイムが、こちらからオフェンスできる唯一のチャンスであるが、クラッシュのディフェンスは完璧で、何を言っても面白おかしく返してくる。

 子どもからのよくある質問は、「何才ですか?」「食べ物は何が好きですか?」「何して遊ぶのが好きですか?」などだ。これらの質問は、子どもが手を上げやすい質問だから、大人がとってしまってはいけない。
 一方の大人は、「付き合ってる人はいますか?」「どうしたら結婚(彼氏・彼女が)できますか?」などの結婚・恋愛ネタばかり。これらはすべてクラッシュのパートナーであるシェリーへと繋がってしまうだけだし、自分のことや自分の友達のことを訊くのは質問者本意でありすぎるのでイイ質問とは言えない(それでもクラッシュは面白くしてくれるけどね)。まぁ、学会やセミナーでの知識自慢の質問と似てるかな。

 大切なのは、向こうの価値観、向こうが得意なことの中から、みんなの楽しさを創発するような質問をすることだと思う。
 クラッシュは、地上のこと、人間のこと、教養的なことは、いっさい知らない。しかし、海のことやカメのことについては、とても詳しいので、こういうことのなかから質問をすると、会場のゲストみんなの理解や楽しさに繋がると思う。

 逆に質問してはいけないタブーは、システム上のことや深刻すぎる質問。例えば「俺らをどこから見てるんですか?」「毎回ゲストの相手をしていて疲れないですか?」「離婚しようか迷っています。」など、子どもの夢と希望を壊すような質問をすれば、その会場にいる子どもたちの夢と希望は確実に壊れてしまう。
 いくらクラッシュが「なんでも質問していいぜ。大人も遠慮すんなよー。」と言ってくれていても、ディズニーで夢を壊すようなことはやめよう。

 これらを考慮して、質問を考えているのだが、なかなかイイのが浮かばない。
 ホントにクラッシュってディフェンスが完璧だと思う。

 俺『お前たち最高だぜ―、うぉー!、って、カメのなかなら、どこでも通じるんですか?』
 (予想される)クラッシュ「え?少なくとも俺の周りのウミガメ達には通じるぜ??なんだ、たかはしけいは、この挨拶に、何か不満があるのかい??」
 『ないですけど。』
 「不満がありそうだぜー!!ごめんな、今日は我慢してやってくれ。面白い質問だったぜ、ありがとうな。」

 『カメは進化論的に重要な分岐点になったと我々人間は考えているのですが、カメとして、その意見、どう思いますか?』
 「…知らねえよ。なんだか、難しい言葉ばかり使うな。っていうかさ、進化、ってなんだ?」

 ダメだ、、普段のオフェンスがいかにサイエンス的なものかを物語ってくれる。
 もっとシンプルに、もっと、みんなで楽しめる、質問が、どうして思いつかない。

 『逆に、僕らが、クラッシュ、最高だぜー!!、ってやりたいんですけど、うぉー!!ってやってくれますか?』
 「なんだ、たかはしけいは、俺に憧れてたのかー。もちろん、いいぜ!」

 なんて、どうかな??うーん、永続的に考えるようにしよう。笑
 ついでに、USJのターミネーターにいる客いびりにも、どう対抗すべきか考えておこう。

 っま、クラッシュへの質問は、子どもに任せとけばいいんだけどね。俺も今のオフェンス力の根源的なところはディズニーランドにあるし、それを未来のオフェンサーに託すのも、大切なことだと思う。

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