(ネタバレありです)
涙脆い俺にとって、観ていて涙が止まらない作品はそう珍しくはない。だが、観てから数日経っても、思い出しては何故か落ち込み、考えさせられる作品はそんなに多くはない。
トイ・ストーリー4は、俺にとって、確実に心のどこかに傷をつけるものだったし、脳裏に焼きつく何かを与える作品であった。
一言で言ってしまえば、「自分が必要とされなくなった時にできることは何か?」というテーマだ。
本筋のテーマを語る前に、まず、そもそも子供にとってオモチャとはなんだろうか?と考えてみたいと思う。
フォーキーという存在は、「大人によって造られた完全なオモチャ」なんて所有しなくても、子供は創造性(想像性、でもイイかもしれない)だけで楽しむことができることを示唆している。だとすると、ウッディ達の存在意義が危ぶまれてしまうのだ。大人になればなるほど、子供(相手)に対して完璧を与えてあげなくてはならないと勘違いしてしまうが、実はそうでもなく、子供(相手)が受け入れられるか否かというのは理不尽極まりない判定基準(クライテリア)だったりするわけだ。
僕らは、受け入れてもらいたい誰かにいつまでも受け入れてもらえないことに関して、ギャビー・ギャビーが自身のボイス・ボックスが壊れていることを気にしているように、客観的にわかりやすい欠点を大義名分(イイワケ)にすることで、自身を納得させてはいないだろうか。たとえどこかが壊れていたとしても、気に入ってくれさえすれば、創造力によって大事にされる。この創造性を学習するための道具がオモチャなのではないだろうか、と思うのだ。
理想を追求することは尊い。デューク・カブーンが飽きられてしまったのは、彼自身がCMを体現できなかったことに原因があるわけではなく、子供がそれを補完するだけの創造性をまだ有していなかっただけのことだ。そして、オモチャとは、子供がその創造性について未発達であった場合には、ただ理不尽に消費されるだけの存在なのである。
僕らはオモチャではないが、昨今、オモチャのように消費されるような社会的抑圧を受けながら生活をしている。だからこそ、「年収が足りないからモテないのだ」と嘆いたり、「結局男は若くて可愛い女の子が好きなんでしょ」と問題を矮小化してみたり、「この環境は自分の理想から大きく外れている」と言って安易に職場を変えてみたりする。ある価値観の軸に帰着させることで、問題を二元論的に語ることは容易だ。だが、そこに内在している現実は、実はもっともっと理不尽極まりないもので、完成されたオモチャであるウッディ達よりもフォーキーが一番大事にされるような、ランダムネスとしか思えないような性質が働いている可能性が高い。
何者でもなかったとしても、少しだけ趣味でギターを弾いていることに対して夢を見てくれるように、社会的信頼性から少し外れるようなことをしていたとしても、心の純粋さが垣間見える発言にホンモノを見出そうとするように、そこに肯定化したい「何か」さえあれば、僕らは頑張って創造性を働かせ、受け入れたり受け入れられたりすることができる。だが、その「何か」というのは、記述可能ではないかもしれないのだ。
そして、その「何か」とは、突然に出現し、突然に消失してしまうものでもある。劇中においては、フォーキーは、ボニーの一番のお気に入りだ。でもそれは、いつ消失するかわからない、一過性の「指名」である。いつ、どんなキッカケで、一番のお気に入りの座を降ろされるかはわからないのだ。ゴミを創造で保管させることで成立しているオモチャは、いつでも作れるがゆえに、完成されたオモチャよりも、失くしやすいし、忘れやすい。それを、「自分はゴミだ」と思い込み、すぐにゴミ箱に入りたがるキャラクターに仕立てる喩えは、非常に上手く、いわゆる「大人の価値観」がいかに現実に即しているかを教えてくれる。そして、「これが一番」と決めつけてしまうことの恐ろしさを知るのだ。
そう、フォーキーを一番のお気に入りのオモチャにすることは、ものすごいリスクなのである。そのようなリスクを享受し、不利益を被った経験を経て、初めて僕らは、現実的な判断基準の中から、一番のお気に入りを選ぼうとするのだ。「やっぱり男は年収高くなくちゃね」と嘯く婚活女子のように。
だとしたら、まったく選ばれなくなってしまったウッディが、自らのボイス・ボックスを失ってまで、その一時のボニーの気持ちを守ってあげようとする理由はなんだろうか?
ボー・ピープは、必死で奪還しようとしていたオモチャが、フォーキーであったことに不満を漏らしている。「先割れスプーンじゃない」と。誰もがわかっているのだ、ボニーの気持ちが一過性であることを。アンディがウッディに寄せていた気持ちとは完全に異質であることを。
確かに、一時の気持ち、かもしれない。明日にも、すっかり忘れられてしまうようなことかもしれない。しかし、その純粋な気持ちを守り、尊重することが、ボニーの未来と周囲を確実により良くする。その確信があるからこそウッディは、自らを犠牲にしても、一過性の気持ちを守ってあげる選択をとった。それは、オモチャとして、ウッディがボニーにできる唯一の奉仕なのだと思う。ギャビー・ギャビーはそれを「ボニーへの執着」と言ったが、他者からそう思われたとしても、私利私欲を脱し、自己犠牲による自己実現をどこまで貫けるかが、「生きる」という惨めな現象なのかもしれない。
僕らもウッディと同様に、いずれゴミ同然になる。誰かや集団からだけではなく、いずれ、この世のすべてから必要とされなくなる日がくる。ゴミ箱に対して、暖かくて、落ち着くようになる日が来るのだ。
それまでに、どれだけのホンモノの気持ちと出会えるか。そして、それを通り過ぎてしまった先に、どんなことができうるだろうか、と考え続けることの重要性を教えてくれた映画だと思う。
だから、こんなに苦しくて、こんなに切なくて、こんなに何かを感じてしまう作品なのだと思う。
涙脆い俺にとって、観ていて涙が止まらない作品はそう珍しくはない。だが、観てから数日経っても、思い出しては何故か落ち込み、考えさせられる作品はそんなに多くはない。
トイ・ストーリー4は、俺にとって、確実に心のどこかに傷をつけるものだったし、脳裏に焼きつく何かを与える作品であった。
一言で言ってしまえば、「自分が必要とされなくなった時にできることは何か?」というテーマだ。
本筋のテーマを語る前に、まず、そもそも子供にとってオモチャとはなんだろうか?と考えてみたいと思う。
フォーキーという存在は、「大人によって造られた完全なオモチャ」なんて所有しなくても、子供は創造性(想像性、でもイイかもしれない)だけで楽しむことができることを示唆している。だとすると、ウッディ達の存在意義が危ぶまれてしまうのだ。大人になればなるほど、子供(相手)に対して完璧を与えてあげなくてはならないと勘違いしてしまうが、実はそうでもなく、子供(相手)が受け入れられるか否かというのは理不尽極まりない判定基準(クライテリア)だったりするわけだ。
僕らは、受け入れてもらいたい誰かにいつまでも受け入れてもらえないことに関して、ギャビー・ギャビーが自身のボイス・ボックスが壊れていることを気にしているように、客観的にわかりやすい欠点を大義名分(イイワケ)にすることで、自身を納得させてはいないだろうか。たとえどこかが壊れていたとしても、気に入ってくれさえすれば、創造力によって大事にされる。この創造性を学習するための道具がオモチャなのではないだろうか、と思うのだ。
理想を追求することは尊い。デューク・カブーンが飽きられてしまったのは、彼自身がCMを体現できなかったことに原因があるわけではなく、子供がそれを補完するだけの創造性をまだ有していなかっただけのことだ。そして、オモチャとは、子供がその創造性について未発達であった場合には、ただ理不尽に消費されるだけの存在なのである。
僕らはオモチャではないが、昨今、オモチャのように消費されるような社会的抑圧を受けながら生活をしている。だからこそ、「年収が足りないからモテないのだ」と嘆いたり、「結局男は若くて可愛い女の子が好きなんでしょ」と問題を矮小化してみたり、「この環境は自分の理想から大きく外れている」と言って安易に職場を変えてみたりする。ある価値観の軸に帰着させることで、問題を二元論的に語ることは容易だ。だが、そこに内在している現実は、実はもっともっと理不尽極まりないもので、完成されたオモチャであるウッディ達よりもフォーキーが一番大事にされるような、ランダムネスとしか思えないような性質が働いている可能性が高い。
何者でもなかったとしても、少しだけ趣味でギターを弾いていることに対して夢を見てくれるように、社会的信頼性から少し外れるようなことをしていたとしても、心の純粋さが垣間見える発言にホンモノを見出そうとするように、そこに肯定化したい「何か」さえあれば、僕らは頑張って創造性を働かせ、受け入れたり受け入れられたりすることができる。だが、その「何か」というのは、記述可能ではないかもしれないのだ。
そして、その「何か」とは、突然に出現し、突然に消失してしまうものでもある。劇中においては、フォーキーは、ボニーの一番のお気に入りだ。でもそれは、いつ消失するかわからない、一過性の「指名」である。いつ、どんなキッカケで、一番のお気に入りの座を降ろされるかはわからないのだ。ゴミを創造で保管させることで成立しているオモチャは、いつでも作れるがゆえに、完成されたオモチャよりも、失くしやすいし、忘れやすい。それを、「自分はゴミだ」と思い込み、すぐにゴミ箱に入りたがるキャラクターに仕立てる喩えは、非常に上手く、いわゆる「大人の価値観」がいかに現実に即しているかを教えてくれる。そして、「これが一番」と決めつけてしまうことの恐ろしさを知るのだ。
そう、フォーキーを一番のお気に入りのオモチャにすることは、ものすごいリスクなのである。そのようなリスクを享受し、不利益を被った経験を経て、初めて僕らは、現実的な判断基準の中から、一番のお気に入りを選ぼうとするのだ。「やっぱり男は年収高くなくちゃね」と嘯く婚活女子のように。
だとしたら、まったく選ばれなくなってしまったウッディが、自らのボイス・ボックスを失ってまで、その一時のボニーの気持ちを守ってあげようとする理由はなんだろうか?
ボー・ピープは、必死で奪還しようとしていたオモチャが、フォーキーであったことに不満を漏らしている。「先割れスプーンじゃない」と。誰もがわかっているのだ、ボニーの気持ちが一過性であることを。アンディがウッディに寄せていた気持ちとは完全に異質であることを。
確かに、一時の気持ち、かもしれない。明日にも、すっかり忘れられてしまうようなことかもしれない。しかし、その純粋な気持ちを守り、尊重することが、ボニーの未来と周囲を確実により良くする。その確信があるからこそウッディは、自らを犠牲にしても、一過性の気持ちを守ってあげる選択をとった。それは、オモチャとして、ウッディがボニーにできる唯一の奉仕なのだと思う。ギャビー・ギャビーはそれを「ボニーへの執着」と言ったが、他者からそう思われたとしても、私利私欲を脱し、自己犠牲による自己実現をどこまで貫けるかが、「生きる」という惨めな現象なのかもしれない。
僕らもウッディと同様に、いずれゴミ同然になる。誰かや集団からだけではなく、いずれ、この世のすべてから必要とされなくなる日がくる。ゴミ箱に対して、暖かくて、落ち着くようになる日が来るのだ。
それまでに、どれだけのホンモノの気持ちと出会えるか。そして、それを通り過ぎてしまった先に、どんなことができうるだろうか、と考え続けることの重要性を教えてくれた映画だと思う。
だから、こんなに苦しくて、こんなに切なくて、こんなに何かを感じてしまう作品なのだと思う。