以下はフィクションです。実在の人物や団体などとはいっさい関係ありませんし、サイエンティフィックな内容についても実際には正しいことではないことも含まれます。
前のお話
3. スマートグラスの威力/『研究コントローラー』
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2016年4月15日(金)
ある程度経験を重ねれば、その女がその日すぐにヤレるのか否か、出会った瞬間にわかるようになる。一言も会話を交わさなくても、顔つき、仕草、ちょっとした表情から、すぐに判断がつくようになる。そして事実、今日も俺の読みは当たった。会社の先輩と行った合コン後、またしても俺は自分の部屋へと女を持ち帰ることに成功している。単純なゲーム。そして、スポーツ。行為のあとの独特な、汗と化粧品が混ざった臭いを戦利品として味わいながら、タバコに火をつけることで香ばしさを促進させ、今日あったばかりの愛美に対して、早く帰ってくれないかな?と思い始めていた。
「ねぇ、私も吸いたい」
セミロングの髪を後ろに流しながら愛美が話しかけてきた。禁煙を終えてからタバコの味が余計に美味しく感じる。そんな一服に水を差すような愛美の言葉に、面倒くせーな、と思いながら、アカマルの箱から一本取り出し、愛美に取るように促した。
「そうじゃなくて、直樹くんが吸ってるやつ」
そういうのいいから、と思ったけど、あからさまにその態度を見せるとヤバいだろうから、俺は優越感を装った表情を作りながら、自分が吸っていたタバコを愛美に渡した。愛美は俺の吸っていたタバコを手にするなり、不器用なフリをしながら、フィルターに付着した俺の唾液をいやらしく眺める様子を見せた。果てた後にそんなことをしても男はしらけるだけだということに、どうして多くの女は気がつかないのだろう?すぐに服を着たところから察するに、さっさと帰ってくれそうだったのだが、意外に面倒くさいのかもしれない。すでに、メガネまでかけているのに。まったく早く帰れよ。かなりふちの大きな、真っ赤なメガネを右手でずらしながら、俺が吸っていたタバコのフィルター部分を、まだ、いやらしくまじまじと見つめている。すると突然、愛美が、
「彼女さんも、タバコ吸うの?」
と言ってきた。俺は、バレた!、とビックリしながらも、すぐに、どーでもいいや、と思い直した。どーせワンナイト。あわよくばフレンド。だが、俺の心の中に残っているほんの僅かの罪悪感のせいで、愛美を見ることができなくなってしまい、少し俯きながら、
「どうして?」
と訊いた。愛美は、悪女が独特に魅せる笑顔を顔いっぱいに含みながら、右側だけ髪を前に戻し、
「さっきスマホで会話してるの見えちゃったし、なんとなくね」
と言った。いつも決まった時間にSMSで連絡をとるマメな俺の性格が裏目に出たらしい。俺は開き直って、愛美に面と向かった。
「彼女っていうか、うーん、まぁ、そういう関係を連続的に保っている、と言ったほうが正確だぜ?」
「わざわざ回りくどい表現使っちゃって、まったく。それで?彼女さんも、タバコ吸うの?」
と言った。どうも視界がぼやけている。急激に眠気が襲ってきている。眠い。俺は、少し怖くなりながら頷き、答えた。
「いや、吸わない。あいつは、真面目だからな。理系の大学院生だし。あ、もう卒業したのか。まぁ、俺が何回か勧めたことはあるけど」
そう言うと、愛美は表情を変えずに、「そう」と言った。今度はタバコを口に思い切りくわえ、吹かしながら、
「私と彼女さんと、どっちがよかった?」
と訊いてきた。面倒くさい、と思っていると、愛美はタバコを灰皿に置き、ベッドに横になると、俺にも寝るように促してきた。眠気に耐えきれず、俺はベッドに沈んだ。今夜は帰るつもりはないのか?毛布にくるまりながら、
「まぁ、いいけど」
と言ってきた。果てた後のこの感じ、全身が気持ちいい。シャワーを浴びたいと思っていたが、まぁ明日浴びればいいか。このまま眠ってしまおう。俺は目を閉じながら、急速にどこかへと落ちていくのを感じた。名古屋の夜はすっかり更けている。夢なのか。現実なのか。とにかく気持ちがいい。感情と思考が交差するなかで、かすかに愛美の声が聞こえてきた。
「最後まで、ただのバカで良かった・・・」
2016年4月25日(月)
日吉駅で電車を降り、青空を眺めた。ついに今日は慶明大学大学院有機合成化学専攻にある山岡研究室に潜入する日だ。いや、「潜入」という言葉を使うのはマズいか。仕切り直そう。ついに今日は山岡研究室に伺ってRCの共同研究をスタートさせる日だ。まず教授室で、山岡忠雄教授と、高野翔特任准教授と話すらしい。そのあとに山岡研究室の全メンバーで研究室ゼミが行われると訊いている。そこに戸山くんも出席してほしい、と高野先生からメールで言われている。高野先生は野崎の知り合いらしく話は簡単に通ったみたいだが、山岡先生は昔ながらの教授という感じで、始めこの共同研究に難色を示したようだ。だが、高野先生が山岡先生に「戸山渉くんと私の共同研究についての科研費はすべてRC制度が負担する」と強調すると、山岡先生は首を縦に振ったらしい。野崎からパラレルスマホ上のSMSで、「高野さんは依頼人の一人ではあるが、高野さん自身も決して油断はしないように」と忠告されている。果たして、山岡研はどんな研究室なのだろう?
親友の村川晋也と彼女の綾瀬香奈には、RCのことは全て話した。二人とも至って冷静で、純粋に俺を応援してくれている。相談にも随時のってくれるらしい。他言しないことも約束してくれた。そして二人から、
「で、RCって結局、どんな意味だったの?」
と訊かれ、はっとした。俺はそんなことも認識せずに話を進めて、シンポジウムでの任務まで遂行させられていたことに落胆した。野崎にSMSで尋ねると、意外に質素な答えが返ってきた。てっきり、野崎が指示をリアルタイムで出すことをパロディって、「Research Control」だと思っていたが、よくよく考えてみれば、RC研究遂行制度、と言っているのだから「研究」がかぶる。
この時期はどこの大学でも人が多いんだな、と思いながら、新年度特有の香りを楽しんだ。RC助成金で新調した腕時計に目をやると9時半を少し回ったくらい、いつの間にか理工学部がある4号館に到着していた。山岡研究室は3階か。階段に足をかけた。古い建物だ。普段いる都王大のキャンパスよりも古く感じる。階段の一段一段が少し高い。壁にはインターンシップのチラシやらサークルのチラシやらが混在して貼られている。3階のフロワーに着くと、廊下の椅子に座っている小太りの40代くらいの男が目についた。少し表情が暗く見えたが、常にニコついているような顔つきだ。おそらく、高野先生だろう、と思っていると、
「やぁ、君が戸山くんかい?」
と話しかけてきた。このタイプは読みにくいんだよなぁ、と思いながら、俺は丁寧半分、フランク半分くらいで挨拶した。
「高野翔先生ですよね?戸山です。宜しくお願いします」
「はい、僕が高野です。こちらこそ宜しくね」
高野先生は丁寧に挨拶をした。第一印象はまずまずか。この人となら一緒にやっていけるかもしれないと思わせるような風貌だ。
「さすが野崎くんが見込んだ院生だ。約束の20分前。真面目なんだね」
野崎の名前がでて、少しビックリした俺は
「すいません、ちょっと早すぎましたか?」
と訊いた。高野先生は「そんなことないよ」と言いながら、お茶部屋に案内された。靴を脱いで上がるタイプの部屋らしい。「まぁ、座ってよ」と言って、椅子を引いてくれた。机の端には機材や試薬のカタログが置いてあり、真ん中にはおまんじゅうが置いてある。その視線に気がついたのか、
「よかったらどうぞ。でも、これ、誰のお土産だろう?”名古屋デカまんじゅう”か」
と言ってくれた。その直後、後ろから女性の声がした。
「あ、私です。こないだ就活で名古屋に行ったんですよ。高野先生も、どうぞ。あれ?どなたですか?」
振り向くと、ふちの大きな赤いメガネをかけた女性がひょっこり顔を出した。カワイイというより、キレイな人。すっと立ち上がり、セミロングの髪を後ろに流しながら近づいてきた。こちらに近づいてくるたびに、微かな香水の匂いが増していく。直感的にわかる。こいつ、あきらかに男を利用するタイプだ。カワイイを振りまいて、仕事を押し付けてくる姑息なタイプ。
「僕は都王大のD1の戸山渉と言います。高野先生と共同研究をさせていただきに来ました。これから宜しくお願いします」
そういうと、細い指で大げさにパーにした両手を口に持っていきながら、
「すごーい、都王大なんですね。じゃぁ頭良いんですね。私はここでM2してます、原田愛菜って言います。こちらこそ宜しくお願いします」
そう言うと原田さんは髪を右側だけ前に戻した。そして、ドアを開いて実験室へと向かった。M2か。肌の質を見るともう少し老けていそうな気もするが、有機化学の研究室なんかにいるから肌が荒れているのだろう。
「靴を履いてあっちの扉を開けると実験室になっていてね。さて、山岡先生との約束まで、まだあと40分もある。野崎くんからだいたい訊いているが、君も大変だね。こちらも助かるっちゃ助かるんだけど」
「えぇ。まぁ」
野崎が言うには、高野先生には問題にならない範囲で、すべてを伝えているらしい。しかし、本当に気兼ねなく喋って良いのだろうか?
「高野先生は、野崎先生とお知り合いなんですか?」
すると、ニコついていた表情が一瞬曇り、すぐに元の表情に戻ると、
「あぁ、僕が学部の2年生のときに、1年生の彼と知り合ってね。もう15年以上も前だが。都王大の教養学部時代に彼も含めて5人くらいでファインマン物理学の自主ゼミをしていたんだ」
と言った。俺は野崎がもともと都王大出身ということを知らなかった。少し驚きながら、高野先生をまじまじと見つめた。
「野崎くんは当時1年生のくせに、ファインマン物理学なら高校時代にすでに一通り読んだことがある、と言い出してね。最初は、都王大1年生特有のハッタリだろうと思ったんだが、確かにファインマン物理学をすべて理解していた。1年生なのに頭は良いし、言うことは適確だし。それが悔しくてね。自分には物理は絶対に無理だと思い知らされたよ。それで僕は進振りで化学を専攻することにしたんだ」
進振りというのは、都王大独特のシステムで、2年生の半ばに一斉に進学する学部学科を選ぶシステムだ。成績順に決まるため、都王大の1年生は特に力を入れて勉学に励むのだと言う。
「その後は、戸山くんも知っているだろう?野崎くんは物理学科に進学し、大学院でバークレー工科大学の応用数学コースに入学した。そういえば、彼は都王大の経歴が恥ずかしいのか知らないが、都王大出身ということを公に出していないね。バークレー工科大学大学院中退、としか見たことが無い」
なるほど、プライドの高い野崎がやりそうなことだ。そのプライドの高さがあるなら、博士号をとっておけば良いのに。
「野崎くんはかなり親身に戸山くんに指示を出すことになっているみたいだけど、戸山くんはそれでいいのかい?」
「ええ、まぁ。僕は野崎先生のような思考力は持ち合わせていませんので」
そう答えると、高野先生はいぶかしげな顔をしながら、
「戸山くんがイイのならそれで良いけど、戸山くんの都王大での指導教員の渡辺先生はそれで良いのかなぁ?」
一瞬、腹黒い渡辺先生の顔が思い浮かぶ。あのその場凌ぎ至上主義の渡辺先生が、俺の実力を危惧するような心配をするとは思えない。
「渡辺先生にも野崎先生がお話ししていますし、僕もこのテーマで3年間やると決まったわけじゃないので」
「あぁ、そうだそうだ。テーマね。肝心なことを忘れていた」
潜入する、ということが、俺と高野先生の間に共通認識としてあったということが示された。この人は、潜入に時間が割かれることを気にしているのだろう。
「えーっと、リポソームに大腸菌が入るようにするんだっけ?まぁ、とりあえずは新規に有機合成する感じを出さないとココに来ることの意味がなくなってしまうから、膜としての柔軟性が保持できるような脂質分子を新たに作ってみようか。大腸菌がリポソームに突っ込むときに、膜が壊れない程度の弾力性を保つことが必要だね」
なるほど。そこまで考えてくれていたとは。研究テーマはどうでもいいから、と野崎にあまりに言われていたせいで、すっかりテーマの内容と解決策を考えるのを忘れてしまっていた。
「ところで、これって、どういうモチベーションでやるんだろう?戸山くん、なんか訊いてるかい?」
「確か、共生からの進化を模倣する、的なことを言えばウケるだろう、と仰っていましたが」
すると、高野先生は合点がいった顔をしていた。
「なるほどね。原核生物から真核生物への進化の過程として、共生のモデルを作りたいわけね。有機合成系であるウチと、生物物理系である渡辺研を両方使おうとすると、確かにそういうテーマはいいかもしれないね。で、だから、RCってわけか」
え?どういうことだ?俺が不思議そうな顔をしていると、高野先生が言葉を続けた。
「RCは”Rare Case”だろ?”Rare Case”研究振興補助制度。自然現象としては稀な出来事にフォーカスをあてて、それが次の段階の発展的な現象として重要だったことを模倣したり判断したりするわけだろ?だから、原核生物が共生し始めた瞬間みたいなものの実験モデルを立てたいわけね。どう転んでも、野崎くんが好きそうなテーマだ」
確かに野崎から、RCの意味は”Rare Case”だと訊いていた。少なくとも表向きには、そういう現象にフォーカスをあてているのだろう。RC研究生は他に2人いる。帝都工業大学の大学院生の吉岡剛史は、北東大に潜って、酵母をいったんバラバラに殺して、もう一度組み合わせることで復活する可能性があるかを探るというテーマをやると言っていた。さらに、RC制度のスポンサーの一人で斉藤自動車の会長を父親に持つ、日本茶女子大の大学院に通う斉藤結衣佳は、菌からマウスまで、あらゆる生物に共通の特異的なダイナミクスを見出すために京阪大に潜る予定だと、パラレルスマホ上のSMSで作成した「RCグループ」で聴いている。確かに、どれも”Rare Case”に関連している。しかし、この人、野崎の思考回路がよく分かっている。それともただ単純に賢いだけか?
「テーマはよく分かったが、このプロジェクトの本質はそこじゃない・・・だろ?」
俺は我に返って高野先生をまじまじ見つめた。
「そうです。手がかりを」
「ま、あまりここでその話をしない方がいいだろう」
高野先生は小声でそう言った。そして立ち上がり、入ってきたドアを見た。
「そろそろ、教授室に向かおうか。まぁ、すぐ終わると思うよ。僕に一任すると言っていたし、ラボ内ルールの最低限のチェックだけだ」
教授室はお茶部屋と実験室の部屋から歩いて30秒ほど、同じ3階のフロアーにあったが、高野先生がノックしてドアを開けた瞬間に、かなり距離があるように感じた。それはどこの大学でも同じなのであろう。教授室と実験室との間に見えない壁がある。
「山岡先生、戸山くんが来ました」
高野先生はそう言うと、部屋の中に入るように促した。
「どうもこんにちは。どうかな、慶明大学のキャンパスは?」
山岡忠雄教授は大きな黒い椅子に座り、2つのスクリーンでパソコンを操作している。こちら側を向くと、脂ぎった顔面全体にしわをよせていた。自分自身の権威を示そうとしているらしい。いかにも今の平均的な50代といった印象だ。
「そうですねぇ、とてもトラディショナルなキャンパスだなぁと思います」
そう言うと山岡先生は少しだけ明るい表情になり言葉を重ねた。
「そうか。都王大は新しい建物が多いのか?」
「そういうわけでもないんですが。まぁ、私がいる建物がそういう建物なので」
と曖昧に答えると、山岡先生は「なるほど」と勝手に納得してくれた。
「ラボのルールや試薬の買い方などは、准教授の高野くんから訊いてくれ。僕から話すことは特に何もない。まぁ、出入り許可カードがあるから、それだけはきちんと申請をしないといけないな。僕が事務に言えば即日で発行してもらえると思うよ。とりあえずは、これに記入して」
その後も山岡先生が主体的になって、高野先生と3人で話をしたが、慶明大学の化学系のカリキュラムや最近九州地方で起こった大震災のことなど、日常の話ばかりだった。それも終焉にさしかかりそうになったところ、
「ところで、戸山くんは普段どんな雑誌の論文を読むんだ?」
えっ?と俺は困った。普段、論文は読まない。いや、読んだところで何か意味あるか?そう思っていると、突然スマートグラスに文字が表示された。
“Biophysics LettersやJBSE(Journal of the Biophysical Society of Europe)、あとは3大誌が出しているOpenジャーナルはそれなりにチェックしています、と言え”
野崎だ。俺は何も考える時間もなく、野崎の言葉をそのまま山岡先生に言った。
「なるほど、物理ではそのようなジャーナルを読むのか。やはり、戸山くんは有機化学に関しては、ずぶの素人らしい。高野くん、しっかり”化学の指導”をしてやってくれ。どこかの捏造教室と同じにならないようにな」
その言葉をあとに、俺は、教授室を出た。高野先生は新学推領域に出す科研費に関して少しだけ山岡先生と話すらしい。
山岡先生が言っていた捏造教室というのは、このあいだのシンポジウムの一件があった、村松研であろう。しかし、野崎の突然の指示にはビックリした。外に出る時は常にスマートグラスをかけていろ、と言われたが、そんなに連絡は来ないだろうと思いきや、またもや勝手に盗聴して勝手に指示を出してきたらしい。まぁ、その分、危険からは遠ざかっていると言えるし、実際、どんな論文を読んでいる?という山岡先生の質問には答えようがなかったからヨシとするか。
それにしても山岡先生はバカだなと思った。会話の節々から感じてはいたが、最後のは決定的だ。こちらが生物物理系の雑誌を普段読んでいると言うや否や、「生物物理」という物理の中でもかなり特殊な分野を「物理」という一語に落とし込み、その分野の論文を読んでいるということは、お前は有機化学はできないのだろう、と決めつけている。ここから読み取れることとしては、こいつは数式を見ると「自分にはこんな難しい概念は理解できない!だから無価値だ!」とやってきた数式アレルギーのある教授なのだろう。物理にチャレンジしてみたが野崎という天才を知ったせいで化学を専攻したと白状している高野先生は、山岡先生と比較すると、理系としてかなり紳士的に見える。山岡先生は、普段から自分と少しでも差異がある者はすべて異分野と見なし、自分の領域の中に入れてトップダウン的に指示を出している様子が見て取れる。きっと常習化しているのだろう。山岡研は生物物理との共同研究が重要だというふうにホームページにも書いてあったが、こういう態度なら、そもそもそんなこと書かなければ良いのに。
お前は有機化学ができない、と決めつけられて、この潜入にあたり少し有機化学を勉強してきた俺はムッとしたが、重要なのはそこではない。殺人や行方不明に直結するような因果関係や事実を見つけなくてはいけない。
教授室に出ると、すぐにゼミが始まる、と言われた。ゼミ室につくと、「コ」の字形になったテーブルに着席した。少し寒い。すると、隣に座っていた男性が話しかけてきた。明らかに年上で、顎髭を生やしている。
「戸山くんだろ?俺はここでポスドクをしている豊杉です。よろしく」
と言って、挨拶してきた。俺は短く「どうもです」と答えると、豊杉さんは他のみんなにも話しかけるように言った。
「彼、都王大なんだって。確かD1だよね?」
すると、「へー」という声が聞こえた。皆、豊杉さんを見ている。彼がこのラボのリーダー格らしい。学部は地方大の出身である俺からすると、慶明大も都王大もそんなに変わらない気がするが、本人達はそうでもないのかもしれない。
「都王大のどこのキャンパスなんですか?もしかして、柏?あ、僕は森下真治って言います」
「えーっと、根津キャンパスなんですけど」
「一番おおもとのキャンパスですね。じゃぁ、いつも赤門通ってるんですか?」
「いえ、そういうわけじゃ・・・」
また、別の人が話しかけてきた。ヤバい、ホームページで一通り確認したはずだが、全然把握できない、と思っていると、スマートグラスが、“D1 権田卓”と名前を表示してきた。また野崎か?顔を認識すると名前が上に表示されるらしい。
“全員の顔を歯でダブルクリックして認識してから、右側のボタンを押してみろ”
とスマートグラス上にメッセージが流れた。言われた通りにすると、
“M2 岸信明 原田愛菜、D1 権田卓、D2 森下真治、PD 豊杉雷之佑”
と表示された。これで全員か?と思っていると、野崎がさらにメッセージを送ってきた。
“この5人に加えて、特任准教授の高野翔先生、教授の山岡忠雄先生、今日はいないが秘書の友川多恵さん、そして忘れてはいけないのは、行方不明になっている、現在D5相当の井川英治くんだ”
このスマートグラスはパラレルスマホと連動している。メッセージはすべてパラレルスマホで保存されるし、パラレルスマホを起点としてスマートグラスで電話をかけることもできる。
「戸山さん、どうしたんですか?大丈夫ですか」
権田くんが話しかけてきた。しまった、会話が不自然に途切れてしまったか。
「はい、少し新しい環境で目がくるくるしてしまって」
我ながら上手い返答だと思った。
「そうですよね、大変ですよ。これから毎日いらっしゃる感じですか?」
遠くの席から原田さんが訊いてきた。こいつは女として油断ならないヤツだったな。
「いえ、月水金で来ることになっています」
「じゃあ、ノブくんや私とはあんまり会わないかもしれないですね。私たちも就活でしばらくはあんまりラボにいれないので。ねー」
と言いながら、セミロングの髪を後ろに流した。悪女特有の笑顔で岸信明くんに同意を求めている。ほら、もう男を利用していそうな態度を示している。逆に言えば、こういうヤツは行動が読みやすいとも言えるのだが。
「みんな、揃ってるね」
山岡先生と高野先生がゼミ室に入ってきた。
「今日は進捗と論文紹介が一件ずつか。進捗は、えっと誰だったかな?」
「僕がやります」
そう言って、D2の森下さんがスライドを準備し始めた。
「そのあとの論文紹介は?」
「僕です」
D1の権田くんが手を上げた。
どちらの発表も新規有機合成の話で、森下さんはゲルを研究しているらしい。論文紹介は液晶に関してだった。途中、野崎から、
“色々言いたいことはあるかもしれないが、いっさい質問はするな”
と命令された。意外だった。また、質問することで相手を追いつめるのかと、少し覚悟していたからだ。だが、確かに、いきなり、こないだのJTSシンポジウムのようなことになったら大変だ。今日は様子見と言ったところだろうか?
「さて、連絡事項ですが、何かある人はいますか?」
高野先生がそう言うと、特に誰も手を挙げなかった。
「あ、みんな、たぶん知っているとは思うが、都王大学から戸山渉くんが高野先生と共同研究をしに来ている。主に月水金で研究室に来ることになっている。月曜のこのゼミにも参加してくれることになっている」
山岡先生にそう言われ、俺は軽くお辞儀をした。
「さて、今年の学推は、この前、僕の決定を話したと思うが、森下くんと岸くんだったな。二人はどこまで進んでいる?」
俺はそう話す山岡先生を見ながら、どういう意味だ?、と思っていると、森下さんが、
「はい、これまでの研究内容とインパクトなどのところは書き終わりました」
と答えた。その後、山岡先生と高野先生とD2の森下さんとM2の岸くんの四人が会話をし始めたため、俺は小声で隣に座っているPDの豊杉さんに訊いてみた。
「お二方は学推を出されるんですね」
と言うと、豊杉さんは俺の顔を見るなり、こっそり囁いた。
「あぁ。山岡先生の指示だよ」
俺は驚きながら、
「え?どういう意味ですか?だって、学推は学生個人の主体性で応募して、学生個人の能力で評価されるものですよね?」
と言うと、山岡先生がギョロっとこちらを見てきた。
「その主体性の有る無しと、院生個人の最低限の能力を僕が最初に評価するというわけだ」
そう言うと、スマートグラスにメッセージが表示された。
“余計なことを言うな。黙ってろ”
野崎からだ。でも、俺は我慢ができず、言葉を続けた。
「え?じゃあ、山岡先生に認められないと、学推に出すこともできないということですか?」
ゼミ室にいる全員が俺の顔を一斉に見ている。確かに、言わなければ良かった、という空気になった。
「その通りだ。僕の最低限の評価も通らない院生が、学推に採択されるわけがないからな」
山岡先生は四人とディスカッションを続けている。他の者は部屋に帰っても良いそうだ。こんなことが許されるのか?どうせこのバカが評価書を書くのがメンドクサイだけだろう?それも先ほどの話からすると、岸くんはM2で就職活動をしている。権田くんはD1だが学推を取っているわけではない。それなのに、権田くんは学推に出すこともできないのか。俺は権田くんの顔を見た。表情を動かさない努力をしているように見えた。喜怒哀楽と4つの軸をとったときのちょうど真ん中、という表情だ。
“戸山くん、決してそれ以上余計なことを言うな。それから、暇をみつけて電話してくるように”
野崎からメッセージが入った。何がそんなにまずいのか?
ゼミは終わりトイレに行くと言って、人通りの少なそうな所を探した。俺は建物が周囲を囲んでいる場所を見つけ、地味なベンチに座った。午後1時、真っ昼間なのに日がほとんど入ってこない。新入生は授業中だし、ここならほとんど誰も来ないだろう。パラレルスマホからSMSのアプリを開き、野崎のアイコンをタッチし、電話のボタンを押した。スマートグラスとの連動モードにして、パラレルスマホをポケットに入れた。
「もしもし、戸山です」
「戸山くん、いい加減にしてくれ。こちらの指示には従ってもらわないと困る」
明らかに野崎の声は怒っている。こんな野崎の声をこれまでに聴いたことがなかった。
「すいませんでした。でも、つい。学推を出すか出さないかを教員が決めるなんて、おかしくありませんか?」
これは本音だった。少なくとも自分がこれまでに入った研究室ではありえないことだったし、周囲にもそんな話は聴いたことがない。
「君はこのRC制度をまだ理解していないのか。私は君に慈善活動をしてもらうために研究室に潜入させているわけではない」
「もちろん、おっしゃる通りです。でも、野崎先生は不正を正し、これまで数々の研究室をより良くしてきているじゃないですか?」
野崎はため息をつきながら、荒げた声を少しだけ取り戻しながら、
「それはお金を頂いているからだ。私は慈善活動やボランティアとして、コンサルタントを引き受けているわけじゃない」
と言ってきた。俺は驚きながらも、論理的に筋が通っている野崎の言葉に「はい」と言うしかなく、言葉の続きを待った。
「確かに学生が応募する学術推進会特別研究員のDC1やDC2を、教員の立場から、出すとか出さない、とか言うのは、本来的には正しくはない。だが、そんなこと、全国的には、よくあることだ」
俺は野崎からの言葉とは思えない、その言葉を理解できずにいた。確かに野崎は言い方が厳しいところはあるが、理不尽に対して「よくあること」と片付けてしまうほど論理性がない人物ではない。思わず「そんな。でも!」と言うと、今までで一番の怒号で返してきた。
「RCは”Rare Case”と言っただろう!?そんな、どこの研究室でもありがちな、よくあるケースに着目して、どうする?我々は、連続殺人事件について調査しているのかもしれないんだぞ!そこに直結しているレアな事実(ケース)と、因果関係を掴むのが君の仕事だ。何が重要なのか、優先順位として、もっと自覚を持ってくれないと困る」
「でも、あの、D1の権田くんの顔は見ていられませんでした!」
そういうと、野崎は唐突に、「待ってくれ、ちょっとマズい」と言った。そう言うと、
「必要なら君の方からまた後で、かけなおしてきてくれ。とにかく、君にはあれだけの給与を出しているんだ。私の指示には従ってもらう」
と言って、電話を一方的に切られた。俺は、野崎のことを、信用できるのかな?、と思いながら、とりあえずは山岡研に戻ろうと歩き始めた。
俺は、早稲田にある事務所から、大学院生の戸山渉くんの電話を受けていた。まったく、俺の指示を無視して、どうでもいいことに意見を言って、今後下手に山岡教授に目を付けられて、調査ができなくなったら、どうするつもりだ?どいつもこいつも、ことの重大性をまだ認識していないのか?「そんな。でも!」だと?最近の若い男は女々しいったら、ありゃしない。
「RCは”Rare Case”と言っただろう!?そんな、どこの研究室でもありがちな、よくあるケースに着目して、どうする?我々は、連続殺人事件について調査しているのかもしれないんだぞ!そこに直結しているレアな事実(ケース)と、因果関係を掴むのが君の仕事だ。何が重要なのか、優先順位として、もっと自覚を持ってくれないと困る」
そう言うと、戸山くんは感情で返してくるだろうと思った。そして、その通りになった。
「でも、あの、D1の権田くんの顔は見ていられませんでした!」
ほらな。俺は「若いヤツの死に顔よりも見れない顔はないぞ!」という言葉を用意していたが、その言葉は、俺の手元のパラレル回線を使ったノートパソコンが制した。3月のJTSシンポジウムでパラレルスマホを渡した、あの女の子からのメールが届いたからだ。本文は短い。
「直樹が死んじゃいました。野崎さん、助けてください」
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5. 殺人の根拠/『研究コントローラー』につづく
この文章を書くにあたって、事前に読んでくださった方、相談にのってくださった方、誠に有り難う御座いました。
いやー、しかし、行方不明っぽい名前、悪女っぽい名前、頭良さげな名前等々を考えるのが大変。もっと大変なのは、Journal名。「さすがにこれはないだろ」とテキトウにつけたJournal名は必ず実在している笑。やっぱり論文って闇深すぎ。
次回はもう少し早めにアップできる予定。今月は俺も「学推」的なものとか色々書いてたんで笑