たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

信念のある人は存在できない

2014-09-30 00:20:08 | Weblog
 結局のところ、信念のない無難さを発揮すれば、原理的に誰かを傷つけてしまう。

 たとえば、俺があるラーメン屋で豆乳つけ麺がめちゃくちゃ好きで、そのラーメン屋に行くたんびに、信念を持って豆乳つけ麺を頼んでいたとする。
 そこに、何を食べても腹が満たされればそれで構わないみたいなヤツがやって来たとして、何の悪気も無く、何の自分の想いも込めず、無難だからというただそれだけの理由でただのラーメンを選ぶのは、非常に迷惑なわけだ。いや、だって、そこでどれが美味しそうか、コスパーが良さそうか、とかで選んでるのならまだ分かるけど、みんながみんな、無難ってだけでラーメン選ばれたら、いつしか豆乳つけ麺みたいなレアメニューが消えちゃいそうじゃん。笑

 こういう不条理を、多数決至上主義者はぜんぜんわかってない。人数が多いことが、獲得票数が多いことが、一番の正義だと考え、何も考えずに、それさえ選べば悪いとは言われないだろう、っという考えのヤツは、無駄に平均値が強固になることの暴力性をまったく考慮していないことが殆どだ。
 多数決というのは、みんながみんな、同程度きちんと考えて、せーのっ、でだして、始めて平等になるものだ。それを、どーせ俺の意見なんて、という蚊帳の外ヤローが自分の存在を成り立たせるためだけに、無難に平均値をとることは、真剣にそれらから何かを選び出している人達への暴力に他ならない。

 というよりも、多数派でいれば誰にも悪いとは言われないだろう、という考え方そのものが俺はムカつくので、、俺一人でも、それは悪い!ダメすぎる!クズすぎる!、と言っておくことで、彼らの計算を狂わすことになるので、俺にとってはコスパーが良かったりして。笑

 まぁマジな話、信念が無く、ガチの能力をつけようと努力してみたら実際には能力がつかなかったときのことを恐れ、本当の能力をいかにつけないで無難な道を選んでいくかの能力ばかり向上させようとしている人は、謙虚に「だから私は意見を言う資格はありません」ヅラしてないで、さっさとそこから出ていけ。と、たまには厳しいことを言ってみる。(たまか?笑)

 というよりも日本人の殆どが無難至上主義者なわけだから、むしろ出ていかなくちゃいけないのは、俺のほう。

 暗闇に一筋の光を持ちこめば、そこが闇だったことが分かって怖いのと同じで、そのような僅かな光で闇を照らす人とその瞬間を、たぶん俺は多く見過ぎてしまっているのだと思う。それは俺が観察力があるからでも、想像力が豊かだからでもなく、単純に、そういう運命なんだと想う。
 果たして、俺にイイ顔してて、裏で無視しているその態度を、俺がわかっていないとでも思っているのだろうか?俺の意見に反論を最後まで起こさずに、俺にイイ顔してその通りだという態度をとったまま、実際に発表するときには無難さだけを主軸にして様々なことをやり過ごそうとしていることを、この俺が気がついてないとでも思っているのかな?

 『っで、あなたはどこを志望するの?』
 「ーと、ここと、こういうとこです」
 『おお、みんなと違って、ちゃんと決まってて良いね。ただ、それなら、たくさん勉強しなくちゃだね』
 「そうですね笑」

 闇のなか、ひとりぽつんと座っているのが気になって、話しかけた。本人はそれで目立ってないとでも思っているんだろうか?こちらから見ると、めちゃくちゃ目立つ。そんな彼女に、わざわざ、みんなと違って、と言葉を選ぶ俺は、意外とSなのかも。
 生まれてからの環境と履歴からすると、それが彼女にとっての無難だったのだ、とわかったのはその数日後だが、、それを俺程度の信頼関係でもこうやって打ち明けてしまうくらいの無邪気さが、あの人にあと少しでもあったら、と思うのはその数年後だ。

 どんな人でも、無難なことを誰も傷つけずに選びたいし、それで誰かを助けたい。信念のある人?そんな人、本当にいるんだろうか?
 いたとして、それがイイのだろうか??誰への想いも存在せず、ただただ何かの信念を持つというのは、むしろ信念のない無難なのではないだろうか?

 でも、ほんの少しだけ人よりも能力があるなら、その丘陵からみえる景色として、多くの人が無意識に他人を傷つけたくはないはずなのに、そうなってしまっている現状に気がつくだろう。

 誰でも純粋な想いがたった数人に解けていくとしたら、これからも、俺のそのたった数人は、優しくて損をしてるバカであって欲しいと願う。お互いに、そっちのほうが、本当に貢献していけるから。
 たったそれだけの違いであったら、本当に、本当に良いのにね。
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本当は相談したかったけど。

2014-09-28 02:55:46 | Weblog
 与えられた現実に満足せず、常に理想のなかの最高の予想に向かって、未来も今もなるべく楽しくなるような幸せを掴んでいこうとすることが、短い人生を充実させて生きていく秘訣だ。

 それは、とても難儀で、何も得られず、いつかは失望してしまう展開が待っているだけかもしれない。だけど、俺らで構築していく関係性があることで、色んな人が笑顔になってくれるなら、俺は、いや俺たちはきっと、表面的にどんなに失敗したとしても満足だし、どんな出来事だって良い想い出になる。そして、そんな状態を持続させていくことこそがどうせ死んでしまう人生を生き続けていく唯一の価値であり、絶対にその理想を曲げてはいけないと思う。そこに対して、その世界で生きていくために、というファクターがどんなに絡んできたとしても、単純に上手く切り抜けようとしてはいけない。なぜなら、悩んだり泣いたり本気で悔しがったりすることこそが、楽しいのだから。みんなでなら、もっと。

 だから、どんなに自分が我慢しようとも、何年経っても変わらない関係性でいたいし、同じ笑顔で素直に愛していたいと願っている。
 それは無謀でも感情的でも子どもっぽい甘ったれでもなく、本当はみんな心の中で願っている真実。

 そのためには、まず何よりも、自分の能力をきちんとつけるために、あらゆる道を一人で歩いてみることを真剣に考えることが必要になってくる。確かにそれはあまりに誠実すぎるかもしれないが、大人のズルさも時には必要だと正当化して、誰かを排除しようと試みてしまうよりは、よっぽど良い。そんな、自分と自分を保つ上で必要なたった数名のことだけしか考えられない無能さと無難さが、無意識にどれだけの人数を死に追いやっているか、、そう、ガチで頑張っている人がこの世に1人でもいる限り、打算的では絶対にいけないのだ。
 ヒエラルキーの山を自分の足だけで登っていくのはリスクがあることだ。一歩一歩自分の足だけで登る本当のリスクを、「無難に安全に」を唯一無二に重要視する人間は、まったくわかっていない。わかっていないから「ある意味、自分があって羨ましい」などと鈍感なことが言えるのだ。
 だが、1から道を作ったり、与えられた足場の中でロッククライミングしたり、どんなカタチであれ、自分の足で登ったという事実はそれだけで、その人を豊かにするものであり、みんなを惹きつける魅力を創るし、次世代を創る。少しでもエレベーターに乗ってしまった人は、次世代に対して何もできない。ただ、従うためのエレベーター作りのロボットにしかならない。それよりも、人類は、新たな山をいかに征服するかをみんなで真剣に考えなくてはいけないんじゃないだろうか。人類にとっての新しい山を制覇するためには、最初の一人は絶対に自分の足で登らなくちゃいけないのだから。

 こういうことは、お互いの関係を深めていく上でも言える。まずは自分と相手の違いを知ること。そして、それが最終目標を見据えた時に見捨てない力になりえる運命を確認すること。違いがあっても心はいつも一緒にいる、ということが経験的に示されれば、それこそが信頼関係の向上に繋がるのだから。
 このスタイルをとれば、困難は当たり前にやってくる。お互いの違う性質を認知するたびに息が止まりそうになって、別れの気配を感じながらもさよならが言えなくて、つい気持ちのなかで勝手に「愛していない」と証明終了されることだってあるし、閉じ込めた言葉と想いが胸の中で理性を振りほどいて暴れ出すことだってあるだろう。そのたびに関係をRe:birthする本当の理由をちゃんと伝えなくちゃいけないし、空が泣きだす前にたった一言簡単な言葉で、そんなに簡単に証明されるわけじゃないって解答にイエスと答えあえるようにしなくちゃいけない。

 だいたい、「愛していない」とか「好きじゃない」という言葉以上に矛盾した言葉を俺は知らないのだから、その事実にかけてみる。

 あらゆる気持ちに対してきちんと行動していければ、意外と理想なんて近いもんで、、ほら、思ったとおりにかなえられてく。。
 もちろん、すべての未来は、夢の中なのかもしれない。

 だとしたら、、だからこそ、、ねぇ、今なら、今ならまだ間に合うのかな?

Acid Black Cherry /「未来予想図Ⅱ」
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相談したいことがあるんだけど・・・

2014-09-27 00:12:50 | Weblog
 与えられた現実のなかで、未来がなるべく楽しくなるような幸せをきちんと掴んでいくことが、短い人生を安全に生きていく秘訣だ。

 そこには、とてもありきたりで、無難で、打算的だと思われてしまう展開が待っているだけかもしれない。だけど、そのなかのとびっきりの想い出と笑顔さえあれば、俺はどんな状態でも満足だ。そして、そんな状態を持続させることが生きる意味であり、絶対にここを破られてはいけない。この安全性にあらゆるファクターが絡んできたとしても、上手く切り抜けようとすべきなのだと思う。

 だから、どんなに自分が我慢しようとも、何年経っても変わらない関係性でいたいし、2人が同じ気持ちでいたいと願っている。
 それは無難でも打算でも妥協でもなく、妥当であるのだ。

 そのためには、まず何よりも、何も失わないために、ヒエラルキーの山を登っていくために先人が用意してくれたエレベーターにいかに乗り続けることができるかを真剣に考えることが重要になってくる。確かにそれはやる気が無く打算的な哲学かもしれないが、戦争なんかするよりも遥かに自殺する人間が多くなってしまった日本、、メンタル戦争の最中、あまりに理想は語ってられないし、理想はプライベートだけに留めておくほうが良い。
 せっかくのエレベーターを無視し、くだらない個人の信念を貫き通すためだと居直って、ロッククライミングをしたり、自力で1から道を作っていたりすれば、そのリスクはものすごく高い。おそらくこういうわざわざ険しい道を選ぶ者は、自力で何かをすることの無謀さをまったく承知していない。風が吹いただけでも、すぐに崖へ突き落されてしまうような状況に、その程度の能力で、いかにして耐えていこうというのだろう?
 それに、エレベーターを利用して上に登っていき、そこで到達した人同士の協力で、次の世代へのエレベーターを建設できる。これこそが、協同としてのものづくりの本質ではないだろうか、と思うのだ。

 こういうことは、お互いの関係を深めていく上でも言える。まずは共通の趣味や話題を創ること。それが信頼関係の向上に繋がるのだから。
 それだけ考えてみたって困難は至る所に待ち受けている。お互いの優しさと強がるクセがすれ違ってしまって「愛していない」と証明終了されることだってあるし、楽しくも無いのに楽しいフリをして苦労していることが伝わらないこともあるだろう。そのたびに関係をRe:birthする演出をしなくちゃいけないし、些細なことで泣かせないように注意を払い、そんなに簡単に証明されるわけじゃないって事実にイエスと答えてもらえるようにしなくちゃいけない。

 だいたい、「愛していない」とか「好きじゃない」という言葉以上に矛盾した言葉を俺は知らないのだから、その事実にかけてみる。

 あらゆることが適確に試行されていけば、、ほら、思ったとおりにかなえられてく。。
 もちろん、すべての未来は、夢の中なのかもしれないけどね。

Acid Black Cherry /「未来予想図Ⅱ」
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誠実さとは何か?

2014-09-25 01:25:16 | Weblog
 誠実さを貫くというのは、とても辛く苦しく情けないことだが、それだけで目の輝きを放つことである。
 自分の私利私欲や、相手に短絡的に好かれようとしたりするために、自分の考えている真実と自分の純粋な気持ちを無視してしまえば、そのぶんだけ目は死んでいってしまうのだろう。
 確かに、俺が尊敬している人はみな、どうしようもないくらいに誠実である。もう少し誤魔化しても良いんじゃないかと俺が思ってしまうくらいに誠実であるのは、これだけ不誠実な社会のなかで、ものすごく難儀なことであると思う。

 だから、やっぱり、俺は、理系の学問のなかでは、一番誠実な「物理学」が大好きなのだ。どんなに役に立たなくても、扱う対象がクソつまんなくても、大したこというわけじゃないのにかなりの数学力を使わなくちゃいけない圧倒的なコスパーの悪さがあっても、誠実さに関しては、文句なしのナンバーワンだ。
 それに対して、生物学は、誠実さが足りなさすぎる。あくまで統計的な率の話ではあるが、多くの生物学における研究が、どうでも良いタンパク質や遺伝子発現の性質調べであり、それが薬に使えます、治療に使える可能性があります、農業に活かせるかも、などと実は原理的に不可能なことでも大義名分を言ってりゃイイ、という誤魔化しが横行している。

 しかし、勘違いして欲しくはないのだが、俺は、「生物学」そのものと、この誤魔化しの習慣に何も疑問を持たずに「研究とはそんなものだ」と勝手に決めつけている多くの研究者まがいヤローが嫌いなだけで、生命現象そのものについては、とても素晴らしく深遠であり、むしろ、クソつまらない物理現象なんかよりも大好きだ。
 というわけで、生物を誠実に扱いそうな「生物物理学」をとりあえず選んでみたが、これはむしろ、一番最悪なパターンであることが多くて悲しくなってしまう。生命現象のクソつまらないところにわざわざ着目して、不誠実に研究遂行しているのが「生物物理学」の多くの現状だ。むろん例外はいくらでもあるが。
 なかなか研究テーマと自分の専門分野を決めていくというのは、難しいものだよね。笑

 このような環境に身をおいていると、特に、誠実さとは何だろうか?、とよく考えてしまう。
 Nを10回以上にして誤差解析をきちんとしているのが誠実なのか、自分(たち)の研究目的にとって都合の悪いところもデータとして記述することが誠実なのか、それともまったく価値観の尺度を変えて、他者に対しての不完全義務を可能な限り果たそうとあらゆることに対して行動することが誠実なのか。。

 よくある極端な例でいうと、ガス室送りになるのがわかっていながら「あの人はユダヤ人だ」と正しいことを正しいままに主張することが誠実か否か、という例題がある。
 この問いに関するよくある定石解としては、嘘も方便であるのだから、正直は最良の策ではない場合もある、ということである。基本的にはこの定石解に賛同するが、その理由をわざわざ細かく主張しておくと、ユダヤ人であることは生まれながらに変えられないことであり、かつ特段悪いことでもないわけだから、悪法に背くのが善である、と考えているわけである。

 誤魔化しが横行している研究潮流のなかで、誠実さを主張すれば、ほとんどバカみたいな扱いを受ける。
 つまり、彼ら無感動派の「とにかく研究の世界で生きていければそれで良い」派の連中にしてみると、どうやら、ほんの少しでも誠実さを主張されてしまうと、「彼らは全員ユダヤ人です」と冷酷に密告されているように聞こえるらしい。俺の耳に「精神的に向上心のない者はバカだ」という短絡的なフレーズがよぎる。
 この性質は年寄りほど顕著で、本当に酷いケースだと「そういうことは若いうちは言わないほうがいい。年寄りになってから言いなさい」などと言う始末。
 こちらからすると、俺はあなた方に主張したいのであって、俺が年寄りになった頃にこの世にいないであろうあなた方に言いたいのであって、なぜこの瞬間にしかできないことを大切にできないのだろうか、、そして、年寄りで経験豊富なわりに、そんなこともわからないくせに、俺に対して生意気に、年寄りになってから言え、などと言ってるのであろうか、と二重に三重に意味がわからなくなる。もし(ほとんど有り得ないことだが)、俺の大成を願って、他の年寄りの圧力によって俺が諦めてしまうことを危惧しているのなら、とてもじゃないが、余計な御世話だ。

 ならば、そういう人に対しては、お座成りの媚び諂った言葉やあえて自分自身を謙虚に偽った話を聞きたいのであろうから、残念ながら俺はそのような不誠実さは大嫌いであるので、金輪際こちらの意見を主張しないようにして、ただただ、経験豊富な学問上の誠実さという視点からのご意見だけを素直に訊いておくのが、得策というものである。

 俺が意見を言う対象については、少なくとも俺は、ものすごく期待している。このブログを含め、うるさく感じていたら、とても申し訳ないのだが、俺が口を出したすべての事象が、俺のおかげでより良く変わってくれることを、本当に願っている。
 ほんの少しでも良いから、俺も含めた一人ひとりが、今よりも誠実に、他者に対する不完全義務を果たすことに一生懸命になり、どん底まで損をし続け、優しさという不治の病にかかり続けて欲しいものである。
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アクセス解析無料おためし期間140924

2014-09-24 01:11:08 | Weblog
 また、アクセス解析のおためし期間ですね。一年に何回も体験期間もうけるんじゃなくて、もうデフォルト機能にしてくださいよ、NTTレゾナントさん。

 ちなみに説明しておきますが、、このブログを書いてる俺が、普段アクセス解析としてみれる情報は、一日の閲覧数と訪問者数とランキング。これがこのブログだと、閲覧数が一日だいたい350-750くらい、訪問者数が一日だいたい100-250くらいなわけです。ランキングは2000000ブログ中3000-5000位くらい。こないだ、みんなにも一部みえるように、右側に一日の閲覧数といままでの総閲覧数を置いておくようにしました。総閲覧数が47万件を超えているっ!怖い。。
 っで、このアクセス解析にお金をかける、もしくは、今のように無料体験期間だと、1時間ごとの閲覧数と訪問者数、検索キーワード(どんな検索ワードでこのブログに入ってきてるか?)、ページごとの閲覧数、閲覧元のURL、ブラウザリスト、が見れるわけです。

 なので、まぁ、ぶっちゃけいうと、どんな人がどのくらいの時間にどんなものを見てくれているかがわかります。

 っていうかなぁ、お前らなぁー、マジで言っとくけど、「研究室 やめたい」とか「研究 やめたい」で、たくさん入ってくるな!マジで笑。こっちのモチベーションまで下がるわ!!どんだけ研究やめたいねん、もっと頑張れよ!!!
 確かに「研究室をやめたい理由リスト」で一般的な記事は書いたけどなぁ、こっちの予想よりも遥かに研究やめたいヤツ多すぎて、実際数字で見るとヘコむんじゃバカヤロー。「研究 楽しい」とかで「研究室の選び方」とかで入ってこいよ。おかげで、「研究室をやめたい理由」の記事、消そうかと思ったくらいだわ笑

 そして、「タートルトーク」がいよいよヤバい。「タートルトーク」に関しては、だいたい、休日や休日の次の日のアクセス数がめちゃくちゃ高いんですが(TDS行ってきて確認する人が多いのかな)、こないだの祝日だと、「タートルトーク」の記事だけで閲覧数150突破です。他の日も100を切ることはほとんどありません。これは嬉しい。マジで嬉しい。あの記事書いたのって1月なので、まぁ息が長いっす。落ちない!むしろ始めよりもアクセス数が上がってる!

 今までも、「実はたかはしさんのブログ読んでます」って言われることは、よくありました。が、だいたいは理系の人だったし、参考書や研究室の選び方から入ってくる人が多かったんですが、ここ最近は、この前たかはしさんのタートルトーク読みました!ブログやってるんですね!、と理系じゃない人に言われることが多くなりました。

 いまや、俺の世間的評価は、タートルトークのたかはしです。笑

 まぁ、この程度でバズったと思ってはいけないっす。まとめサイトに載ったら、完全にバズったと定義して良いのでしょうが、俺はそれはあまり望んでいません。怖いですから笑
 幸か不幸かわかりませんが、うちのブログは、アクセス数は良くなりましたが、コメントが一切ないので、まとめに行くことは無いでしょう、大丈夫。このブログ、初期はコメント今よりは多かったのですが、アクセスがあるからって、コメントされるわけじゃないんだなぁ。そこまでコメント欲しくも無いので、良いですけど。

 ちなみに、アクセス解析おためし期間は、このあと一週間くらい続きます。
 たまには、観測者問題も良いかなぁって。笑
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HEART of GOLD

2014-09-23 01:04:40 | Weblog
 人生で最も大切なモノは感情だ。
 これを無視したり、無いものと決めつければ、あらゆる知識と努力の集積はまったく意味の無いものになり、手元に何も無くなってしまうだろう。

 あくまで輝かしい結果だけに拘り、感情を含めないことこそが成功できるという個人的な成功経験を持ってくるなら、それはまったくもって大したことない結果であり、誤解であり、もっともっと重要な価値基準に気がつかねばもったいないと思う。即物的に具現化された結果だけに重点をおいてしまえば、感情を無視することが正しいと誤魔化し続け、いつも誰かのせいにして、弱い者を傷つけ続けることになってしまうだろう。

 みんなホンモノを求めているくせに、そのホンモノのカタチに条件をつけすぎてしまう。一般的に評価されていなくちゃダメだとか、無難で社会性が無くちゃダメだとか、このタイミングじゃないとありえないとか、これくらいの額を使っていないとダメだとか、現実が辛すぎて、贅沢なホンモノだけを望んでしまう。
 ホンモノを直視したいなら、罪の意識や先入観や社会の価値観や他人の意見を聞いてはいけない。ただ、自分の心の声だけを冷静に訊き続けることが大事なのである。でないと、条件をつけたがゆえに形成されてきたカタチが幻だという自分の声に反発する羽目になる。

 人は、過去と現在の自分の正当さが崩れてしまうような、真に正しい鏡を持ってくる他人に、容赦はしない。レゾンデートルを守るため、それがたとえ自分自身であっても、容赦なく叩き潰す。
 ひとり部屋にひきこもり、極力誰も部屋に入れようとせず、現実社会という真実の鏡をどんどん遠ざけ、自分にとって都合の良い人間だけに優しい言葉をかけ、生き続けるためには心を閉ざし続けることこそが正しいのだと自分自身を誤魔化す。人は、それほど、弱い存在なのだ。

 だが我々は生きている限り、仲間と共に、世界初の新たなモノを社会に対して提供し続けなくてはならない。
 特に、社会に喧嘩を売り続け、若い自分たちだけで自己実現していくためには、それぞれ全員がそれぞれの真実の鏡を目の前にし続けなくちゃいけないし、孤立して生き抜くためには全てを脱ぎ捨てストリップし続けていかなくちゃいけない。それこそが自己防衛になるし、このブログはその一環だったりして。

 ものづくりは、3Dのジグソーパズルに似ている。感情の糸でそれぞれを編み上げていかなくちゃ、組み立てることはできない。感情の糸なしで知識のピースを蓄積しても、儚く崩れ去ってしまうだけだ。
 そして、出来あがったジグソーパズルが、上の階層のもっと精緻なジグソーパズルのひとつのピースとして積みあがっていく。最後には糸をほどいて、まるで感情など、何も働かなかったかのように完成する。
 その様子だけをみて、ジグソーパズルを感情無しで能力の上だけで積み上げても、幾何学的に完成するかもしれないし、精緻なジグソーパズルにフィットするかもしれないが、なんの価値もない造形物として次第に忘れ去られてしまうだろう。

 本質的なものづくりには、少なくとも積み上げる過程では、感情の糸が必要なのだ。その後にすべての糸を引き抜いてしまうんだとしてもね。

 ―だとしたら、私はベストを尽くしたんじゃない?
 『確かにそうかもしれないです。少なくとも積み上げる過程では、どんなカタチであれ、感情の糸はあったのですから』
 ―なら、どうして、そんなに悲しい顔をするのかわからない。これが、あなたにとってのベストでしょ?
 『わかってるくせに。そんなことは全然ありません』
 ―本当にベストだと思ってるんだって。どっちにしたって、あなたは幸せには辿りつけない。だって、満足できないんだから。だったら、現実の上だけでも、その選択肢をとるほうがいいんじゃない?
 『それに何の意味があるのでしょうか?俺はホンモノに条件を付け過ぎるほどバカじゃない』
 ―そうかなぁ?他人の目の前にわざわざ鏡を持ってくるような性格のくせに。
 『"You're wrong, about one thing. I'm gaining on happiness, and I am gonna get there one day."』

 いつか、、負けたとしても多勢に無勢とイイワケできると居直って、みんなで楽しくモノづくりできたらと思う。

 EXILE - HEART of GOLD【LIVE】
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子どもにやらせたい習い事

2014-09-22 03:07:42 | Weblog
 最近は子どもにどんな習い事をさせるのが良いと考えられているんだろ。
 っとふと思ってしまったので、ちょっと考えてみましょうか。

 習い事っと一言に言っても、いろいろある。そして、カネもかかる。だいたい、どんな習い事も都心なら、お月謝一万円以内くらいが相場じゃないかと思う。ただ、どの習い事も、初期投資と道具や交通費などの費用がかかるので、もう少し高めをみておく方が良い。
 なんかネットで「習い事 子ども」くらいでググって見てると、週4個まで!とか言ってるけど、正気の沙汰じゃねーなマジで。俺も子ども用の実験教室でバイトしてたときに、週にいくつもやってる子たちに大変さを訊いていたが、いくつもいくつもやっても、そんなんマジで疲れるだけだぞ。

 てなわけで、本人のやりたい気持ちを一番に考えることが大事ですが、少ない数を集中させて何かしらやらせるのなら、何が重要か考えてみましょう。まぁ、社会を知る、って意味でも、幼稚園や学校以外の場を与えるって意味でも、時間とお金に余裕があれば良いのかも。

 最近の習い事の流行を一通りネットで見てきたので、人気のある習い事を挙げてみましょう。

 「水泳」
 なんと、子どもの習い事の人気ナンバーワンは、水泳。個人的にちょっと意外でした。
 ま、確かに水の事故は危ないし、確かに泳ぎ方はちゃんと知ってるほーがなんやかんや良いと思います。スイミングスクールなら水着とキャップとゴーグルくらいだし、それを半年から一年ごとに変えるんだとしても、まぁ投資としては安いほうかもですね。
 本当に小さい子でも、努力しただけ結果が反映されやすいと言われている水泳は、子どもが、やれば必ずなんでもできる!、というその後の根源的な自信に繋がりやすい習い事であると訊いたことがあります。

 「英会話」
 これも人気上位。英会話ねぇ。経験上、耳が良くなったり楽しかったって意味では良いですけど、週に2回でも1回でも、語学はそうやっては取得できない気もします。
 ただ、何もしないよりは、そりゃ英語が知ってる感にはなるんじゃないかなぁっとは思います。英語そのものよりも、よその国の文化を知る、という点で重要かもしれません。英語のほかに、もうひとつ言語やるってのも流行ってるそうで、最近の子どもは大変ですねぇ。どうだろ、俺らの価値観からすると、スペイン語とか北京語とかが良い気がしますが、日本人で生きていくなら、日本語をきちんと使えることも大事だ思いますが。

 「ピアノ」
 ピアノも、音感がついたり楽譜が読めたり、って意味では良いですね。
 小学校以降で両手でそれなりに弾ければ、先生に褒められる率が圧倒的に上がって、根源的な自信を持てるようになります。俺も全然知らない先生から、ピアノ上手なんだって?、っと言われた記憶がいくつかありますし。まぁ、クラスに一人はピアノ弾ける人材がいなくちゃいけないですから、分配の関係からピアノ弾けると先生の間では目立つんですよ、たぶん小学校では。
 ちなみにピアノは思ってるほど意外とお金かかりませんよ?本当にくそ安い電子ピアノなら88鍵盤で5万以内で買えるし(そういえばピアノ欲しいな、USBさせるヤツ)、あと教材(楽典と楽譜)とメトロノーム。っま、ネットやスマホに落ちてるの使えば、もっと安く、、って、子どもじゃそういうわけにはいかないっすけどね。
 俺は最後にちゃんとピアノ習ってから15年近く経とうとしてますが、確かに今日も暇なときにピアノふわっと弾いたし、趣味の範囲なら楽しくて良いかも。ガチになったら知りません。

 「書道」
 字を丁寧に書くのは大事ですよね。それだけで得する気もします。エントリーシート書くときとかも、やっぱり字がきれいなほうが採用されやすいです。
 初期投資少なそうだし、小学校の習字の時間では得するし、良いかも。前に研究室で書き初めやろうとしたときに、書道セット揃えようとしたんだけど(結局やってないけど笑)、そこまでかからなかった記憶があります。もちろん、本格的なやつ揃えようとしたら大変です。まぁ、それはどの習い事も同じ。
 ただ、書道やってた方曰く、あまり努力が結果に表れないらしいっす。何段とかとれても曖昧だし、ほぼ潜在的な能力が勝つ気も確かにしますね。

 「ダンス」
 ダンスがランキングに入っててびっくりしたけど、これはEXILE効果やろ笑。まぁ、ダンスもなんやかんや、ちょっとはやってたほうがイイです。将来、国際学会で踊ることもあるでしょうから笑
 体操やバレエと同じノリで、ふわっとリズム感と身体を健康に保つ目的ならイイかも。一緒にしてるところもあるみたいだし。お金がどれくらいかかるのか想像つかんけど、曲かけて身体動かすだけなんだから、ほぼウェアくらいだろ?ピアノほどじゃないはず。たしか今、ダンスは中学の体育で必修だし、日本人はラテンノリになっていくんかなぁ。

 「空手,柔道,合気道,剣道などの武道系」
 うん、これは必要。俺、自分に子どもがいたら、男の子だろーが女の子だろーが強制的にやらせるレベル。特にCグループ(がり勉系ノリが悪い集団の総称)の親は、子どもも大抵Cグループなんだから、いじめられないために必須です。このご時世、最悪、いじめられたとしても、受け身はとれろ!っと思うんですが、どうでしょう?
 剣道以外は、必要なもんは柔道着くらいだし、他の習い事に比べて安いイメージがあります(ちゃんと見てないからわからないけど)。柔道着はちょい大きいの買っとけばそこまで買い換えなくても大丈夫だったと思うし、うむ、これはやらせよう笑

 こんなん全部やらせようと思ったら、それだけで月10万くらいかかりそうやね。いやー、子ども育てるのって大変なんだね。

 最近は、幼稚園よりも保育園が主流と訊いて、少し不安になりました。まぁ、この辺は男女参画的にも微妙なので明言は避けますが、、習い事たくさんやらせて、いろんなとこへ子ども預けっぱなしで、子どもに愛情与えなかったら、薄っぺらい能力はたくさんあるけど、他人の気持ちを考える余裕の無い人間が、ここ10~20年で凄く増えそうだなって。というわけで、俺は主夫を目指そう!笑
 学習塾漬けで、その履歴から、どうしたって、学校や集団生活をバカにするようになっちゃって、大学に来てるのにその感覚が抜けず、スタンドアローンな研究室の雰囲気になってしまうのを目の当たりにしてると、本当に必要なものはなんなのだろうか?っと疑問が湧いてくることは多い。

 一人でコツコツするために大きな集団から離れ小さい重要な集団にアジャストする≒自分の能力や業績を上げることができる

 という公式が頭にあるようになっちゃうなら、習い事なんて、そんなにするべきじゃないと思うのだけど、皆さんは、どうお考えですか?
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正しいルール

2014-09-21 04:33:54 | Weblog
 何が正しく何が間違っているかを考えることはとても難しい。
 難しくはあるが、なるべくなら自分が正しいと感じられるように生きていきたいと誰もが願っているはずだと思う。

 このようなことを第一に考えた場合、若い人は、どのような学問に青春を捧げたら良いのだろうか?

 …と考えた時に、理数系の科目が思いつく人は理系的センスに恵まれていると思う。理系は論理的に正しいことをいうことが主な仕事だからだ。確かにあらゆる自然科学の学問領域は非常に「正しく」構築されている。
 しかし、少し考えてみればわかるように、「生物学」は「化学」や「物理学」からみると、「化学」は「物理学」や「数学」からみると、「物理学」は「数学」からみると、あまりの杜撰さにコメントもしようがないくらいに感じると思う。そういえば高校の頃、「浸透圧」に関する説明が「物理」と「化学」と「生物」で全部違って、矛盾してるように思えて、たくさん考えてしまって、無断な時間を過ごしてしまったけ?こういうことは、たくさんたくさんあるから、(特に受験生は)くだらないことは考えてはいけないかもしれない。せっかく他人より考えたのに、(少なくとも日本では)誰も評価してくれないし、その時間損するだけだし。
 ってなわけで、階層が違いすぎるから仕方ない部分は大きいのだが、精緻である≒正しい、という公式を受け入れるなら、「物理学」も「化学」も「生物学」も間違っている。

 そういう意味では「数学」は、非常に正しい。三平方の定理はこの宇宙が終わっても必ず正しいし、それに限らず、四色定理もラグランジュの定理も、フェルマーの最終定理だろうがなんだろうが、数学の定理は絶対的に正しい。
 正しすぎて多くの人の人生を狂わせる。著名な数学者や有名予想に纏わる影の人々だけでなく、多くのただの数学科の学生とその家族を狂わせ続けてきたのは、数学という学問そのものに他ならない。

 だとしたら、物理好きなヤツからのこういう意見が聴こえてきそうだ。
 「そんなものは正しくない。正しすぎるというのは、人生を豊かにするという点で正しいわけではないのだから。むしろ、実空間上で実験検証でき、さらに論理が一番しっかりしている物理学という正しさからは誰も逃れられない」と。それは、おそらく、実験をよく知らないがゆえに、聊か勘違いが過ぎる。だって、繰り返し同じことが起きるからといって、正しいとは限らないではないか。
 繰り返しの重要性をまとめた学問である数理統計学は数学としての特色が薄く、あくまで実学としての数的処理の取り決めだ。だから、これを用いても、正しいことにはならない。

 自然科学は「再現性」を神にした宗教だ。
 この主張が受け入れられないなら、自然科学に熱を入れるのは止めた方が良い。多くの理系研究者や博士課程以降の(もしくはそれを志す)学生は自然科学が宗教とほぼ同一であるという考えが明確に頭に入っていないから、先生や教授を神にしてしまう愚か者が増え、自分だけでは何をどうしても何もどうにもできないと勝手に悟り、目が死んでいってしまうのだ。私は、自然科学が宗教であるとわかっている程度には、(枚挙的価値観の立場から)冷静な科学的としての価値観を大切にしている。

 そうすると、正しさの是非は、基本的には人それぞれだが、何かの決定時には多数決こそが正義であるというような論理がでてくるだろう。みんなが「治療」や「医療」を求めているのだから、理学のなかなら生物系は沢山お金使うよ!みたいな。
 自然科学もカネの論理、つまりは多数決によって決定される、大義名分上は血税を支払っている国民、本来上は相互評価社会である研究世界における研究者たちからの、需要を無視はできない。自然科学が市場の原理から逃れられない以上、市場原理は自然科学よりも本質的だとすら言える。

 では、果たして、多数決、つまりは民主主義は正しいのだろうか?

 民主主義は、その意思決定について適切な判断が可能なだけの知識と論理を持ち合わせないわりに、一票だけは入れてしまうような無能な者も、有能な者と対等に、等しく尊重しなくてはいけないから、どうしても衆愚政治になりがちだ。衆愚政治は、その状況を上手く利用する悪人にとって、独裁政権をとりやすい環境になるので、次第に独裁政治になるだろう。
 つまり、個人で考えるのがめんどーだから、みんなの意見訊きます、価値観はそれぞれですから訊いてみなきゃわからないよね!、ってのは、怠惰ゆえの独裁と何もカワラナイのだ。だから、何かの意見がぶつかるたびに「価値観は人それぞれだ」という思考停止を皆に押し付けてしまう者ほど、逆に、「これしか価値観を許さない!」というような独裁性、権威主義の様相を放つ心となってしまうのだ。民主性を強く主張する者や権威に反抗する者が、時間が経って民意が得られ、逆に政権を握ると、権威的もしくは独裁的になってしまうのは、多くの歴史が示すところで、特に科学信者には説明の必要は無いように思う。

 さて、困ってしまった。これでは、何が正しいのか、何も発言できないではないか。
 そもそも、この世に、正しいことなど存在しないのかもしれない。

 「ルールが嫌いなんですよ、彼らは。たかはしくんや僕が、どんなルールを作っても、ルール嫌いって言われちゃったら、無理ですよね」
 『ルールが嫌いって。。まったく!どうしたって、人と人が共通の空間にいたら、ルールは必要でしょうに。…OK,わかりました。だったら、こうしましょう。誰でも好きなときに自由に顕微鏡を使う!これでルールは無いでしょう?』
 「かぶったら、どうすんの?」
 『コイントス』
 「マジで?!」
 『何時間かごとに、先に使ってる人に対してチャレンジできて、勝ったほうが使う。まぁ、顕微鏡の使用がかぶるたびに、決闘してらんないですからね。実験室で血が流れたらコンタミするし笑』
 「えー、それはダメでしょ?」
 『なぜです?これもルールっちゃルールですが、確率論ですし、どこにも不平等さは無いと思いますよ?』
 「だって、例えば2日間ずっとタイムラプスするなんてことが、できなくなるわけだし」
 『そもそも、学会や論文に動画を投稿するとき動画は圧縮しますから、その時点で不条理だし、それに熱力学的にどうにでもできるはずです。温度や濃度上げるとか。うちはホメオスタシスが重要になってくる物理系である「生物」を使ってるわけじゃないんだし』
 「確かにそうだけど」
 『確かに、いかなるルールを新しく創っても、誰かにとっては不平等になります。いかなる精緻な予約システムがあっても、結局、その集団のなかの力の強い人が、暗黙のルールのなかで得をするようになってしまうでしょう、このケースの場合マキシマムは俺ですが笑。今のルールだと、そもそも2日間も使ったとしたら、結果が出なかった時のリスクは誰がかぶりますか?顕微鏡を使う研究をするその他の人ですよね??確かに先に予約した者のほうが計画性はあるけれど、だからといって、重要な結果がでるとは限りません。研究として世界初の新しいことをしてるわけですから。それが何時間かに一回、必ず誰かが邪魔するかもしれないっとなった場合、果たして本当にその実験は必要なんだろうか?、そのリスクを冒してもやらなくちゃいけないんだろうか?、っときちんと考えるようになります。リスクを受けるべき実験者本人がリスクを受けるようになるわけですから、マジでこれがいいかもしれません。もちろん、エキセントリックすぎるので、満場一致じゃない限りは、今のルールでそのままいきましょう笑』
 「みんな、コイントスになったら、予定を各自話し合ったり、コミュニケーションが今よりも増えて円滑になったりして笑」
 『週ごとに、ダイス、ルーレットと、いろんなギャンブルやりましょ笑』

 人生とは不条理で、世の中とは理不尽なもの。
 だとしたら、その理不尽さを、とことん楽しんでやろう。それが、今の私が答えられる最大の正しさなのかもしれない。

 ―完璧に正しい人間には誰もなれない。だが、完璧な人間に一歩近づこうとする努力は誰でもできる。
 『そのような完璧さに、私はもう何も言えません。そして、私が何も言えないなら、多くの人はもっと何も言えないでしょう』
 ―それはいけない。我々が物理学を勉強しているのは、ほかでもない、正しいことを正しいと、はっきりと主張するためなのだから。
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目をそらさないで

2014-09-18 00:55:26 | Weblog
 いつしか、その文字を探すことが日課となってしまった。
 確実な決別を意味するかもしれないその文字こそが、少なくともより良い未来へと誘ってくれるからである。

 感情を一切介在させずに、ものごとをきちんと、ありのままをありのままに見つめることは非常に難儀なことだ。どうしたって、顕微鏡をのぞいていれば自分にとって都合の良いように解釈しがちだし、自分が手っ取り早く安心していられる解釈へと事実を捻じ曲げてしまいがちだ。比較的簡単な物理法則によってのみ支配されているのが真相で、それが目の前に落ちていても、なかなか気がつけないのだ。

 そして湧きあがる感情が、怒りや悲しみや、どうしようもない不条理、なかなか誰も理解してはくれない分かりにくい痛みであれば、余計にそうで、ちゃんと冷静に真実を見つめることはとてもとても難しいかもしれない。

 だけど、俺はあなたにそれを要求する。
 ここで、どんなに上手く暗号を仕組めたとしても、あなた程度の頭脳じゃ、きっと解読されないだろう。だとしたら、俺が身を持って明らかにした確実なヒントと事実を、冷静に読みとってくれることを期待する他あるまい。
 何をすべきか、俺があなたに託したことを、微妙に左上を見ながら、よく想い出して欲しい。お願いだから。

 もうすぐ、俺のもとに、探すことが日課となっていた文字が浮かび上がる。
 それは、創造の始まりか、滅びの始まりか、今はまだわからないけれど、少なくとも、何かの始まりであるのだから、前進しているだろう。

 まずは感情を消して、自らの周辺の真実を直視すること。これに尽きる。
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ものづくりの基本中の基本

2014-09-17 00:36:44 | Weblog
 純粋な者が純粋さのベールに包まれた舞台を去るいつものパターンは許せない。
 いつだって、どんな世界だって、不純な者が所属しやすいようになってしまいがちだ。

 だが一方で、不純な者が、果たして本当に不純なのだろうか?むしろ、どうしようもない社会のなかで、苦しみながら、苦渋の選択をし続けながらも、居場所を探し続け、そのなかで虎視眈眈と自己実現のタイミングを伺っているとは言えないだろうか?という思考が湧いてくる。
 真実から目をそらしながら、得られうる現実的な幸せを求め、妥協の中から妥当にベストを選びだし、その枠組みの中で、捨てるべき子どもの頃の夢を捨てているだけに過ぎないのではないか。

 第一、真実から目をそらす行為は、生きていく上で必要だ。純粋さを純粋さのままで振りかざすことは暴力だし、大抵の純粋さを追求し続けたい者は、真実を超えて、何もしないくせに、深遠な真理をただひたすらに求め過ぎなのだ。

 ここではっきり明示して、このパラグラフくらいはガチの俺の、たかはしけいの意見を書いておくが、、真実から目をそらすことで得られる現実的な幸せをただひたすらに求めることは、現代社会においての大人な対応ではあるが、なんともつまらないものだと思うし、無感動であるし、何よりもそれは誤魔化しでしかない。何がどう誤魔化しかというと、結局のところ、死んでしまうのだから何も意味が無いだろう、という真実からの誤魔化しだ。しかし、だからといって、成功者を不純だとあらゆるケースで決めつけ、不純にならないために何も行動しないというのも、同じくらいどうかと思う。純粋なのはたいへんに結構なことだが、自分なりの幸せを見出そうと努力しようともしないのは、真実から目をそらすことでありきたりな幸せを得ることを考えている愚か者と等しく、あまり他人のことを考えられてはいない。

 視点が1体系だから解が見えないことはよくあることだ。
 相手のことを考える、という視点に立てば、あらゆる「生きにくさ」は解消され、どのように振る舞えば良いかのヒントは見えてくる。
 ここで注意が必要だが、自分の一番大切な人のみを一番に考えてしまっては、上のように、いかに場合分けをしても全部ダメダメ、になってしまう。なぜなら2体系は1体系に帰着されがちだからである。結局のところ、自分の一番愛している人一人だけについて、最高の思考を巡らせるというニセモノの愛も、一見ホンモノにみえるのだが、自分勝手と同義なのだ。
 では、どのような相手「たち」に、どのような分布で、いかなる手段でより良きを提供していけばいいのか、っという問題になるが、それは各個人で思うようにやっていったら、それが一番良いのではないかと思う。

 集団化するとき、その集団のなかだけで閉じている世界を創るために集団化するなら、非常にバカバカしい。なぜなら、その集団は1000年ほど経てば、絶対に消え去っているからである。いかに精緻な論理体系を創ろうとも、いかに深遠な真理を得るための新しい技術を構築しても、それ自体には何も意味が無いし、何の価値も無い、と言っているのはこういった理由だ。
 でも、気持ちがきちんと入っている集団形成のなかで行われたものづくりは、絶対に意味がある。1000年経とうが、1億年経とうが、どれだけの時間が経ったとしても、より良きのために何かをしたという履歴は消えることが無い。人類が絶滅しようが、この宇宙がなくなろうが、絶対に意味があると、俺は確信が持てるのだ。

 ぜひ、みんな仲良し、まずは楽しくやることをモットーに、全世界に向けて、本質的なより良きを供給したいと願う価値観ゆえに集団化して、ものづくりをしていこう。。
 というよりも、これこそが、あらゆるものづくりの基本中の基本の価値観だと思う。
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ミッドナイト・クラクション・ベイビー

2014-09-16 01:45:38 | Weblog
 予定外のときにやるパフォーマンスこそが、その人やその人達の本当の実力だと俺は思う。

 あらゆることを想定していても、予期していないところで、ちゃんとキメなくちゃいけない瞬間は誰にでもある。そこでは、リハーサルもしてなければ、練習もまったくしていない状況で、いきなり何かを発表しなくちゃいけなかったり、いきなりちゃんとしたパフォーマンスや演奏をしなくちゃいけない。

 ここでお手本とも言えるべき、急遽で申し訳ないけどパフォーマンスしてくれ!、を見事にこなした例を紹介しよう。

ミッドナイト・クラクション・ベイビー THEE MICHELLE GUN ELEPHANT

 いやー、マジで、、、Soweluと今井絵理子、可愛いなマジで。笑

 …じゃなくてー、、この2003年の有名な出来事、t.A.T.u.がMステをバックレしたときに、代わりに空いた時間をパフォーマンスしたTMGEはマジでカッコイイと思う(ってかこれがもう10年以上前とかね)。これがどれほどカッコイイか、どれほどすごいことか、お分かりいただけるだろうか?単純に、1曲のところを2曲歌っただけだろー、なんて思ったら大間違いだ。

 リハ無しで、何かを演奏するなんて、少なくとも俺には考えられない。出だしだけでも、やってるのとやってないのとでは、雲泥の差がある。よく言われることだけど、リハは本番との差を感じるために存在する。本番で、リハとこれくらいの差があるから、という指標のためにリハをやるのだ。
 特に、こういう生放送で演奏する番組では、通常のリハーサルに加えて、カメラリハーサルもあり、2回以上は必ずリハをやってるはずだ。

 そう、これは、演奏そのものはもちろん、PAやカメラワークや照明など、その他もろもろが「急遽」なのである。それはそれは緊張感もあるし、上手く行くかもわからないし、TKも尺が入るかどうか微妙なわけだ。

 こんな最中に地上波初登場の彼らが堂々とパフォーマンスする姿に俺は感動した。
 バンドって、やっぱカッケー、と素直に思った一曲。普通にt.A.T.u.がパフォーマンスするよりも、俺の心に今でも残っている。TMGEはお世辞にもお行儀が良いバンドではないが、このパフォーマンスができるというだけで、もう、日本が誇れる最高のバンドだと思うのだ。

 俺も、なんやかんや、いきなりやって!、ってなることは意外と多い。時間がわかんなかったり、発表するかどうかもわからなかったり、つい最近だと、よその研究室に伺わせてもらってる時に、いきなり「なんでもいいから何か話して」ってこともあった。
 そのたんびに、この最高の急遽パフォーマンスを思いだす。どんな状況でも、自分ができる最高のパフォーマンスができるための準備を日々しておくべきだし、そこには誤魔化し無しのガチが待っている。

 TMGEやこのときのスタッフのようには上手くはいかないけれど、精一杯に全力で自分を出せる舞台があるならば、リハありだろうが突然だろうが、とにかく突っ込んで行くまで!

 それがロックンロール、カッコイイのだ。
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甘口カレー

2014-09-15 02:18:55 | Weblog
 「言葉を正しく使う」というのは、何とも難しいことである。それが文章にもなればなおさらであるのだが、「言葉」そのものだけでも、きちんと考えて使う、ってのは本当に難しいものだ。
 難しいけど、そこを意識するのとしないのとでは、全然違う。言葉の定義をきちんと考えて、それから吟味しながら、新しいところに使っていこうとするのとしないのとでは、全く違うのだ。

 っというわけで、とりあえず、下の音声を聞いて欲しい。

ガキの使い トーク 松本が甘口カレーにキレた「甘くて刺激があるのは恋愛」


 甘口カレーって、確かによくよく考えてみると変だよね。
 なんか「薄口カレー」とか「辛さひかえめカレー」とかにすべきだと確かに俺も思う。っていうか、甘口カレー、甘くねーし。

 俺なんか、こういうちゃんと言葉を定義していないせーで、実被害でたことあります。
 あるお店で「チキンカツカレー」を頼んだのだけど、俺は「チキンカツ」と「カレー」がくるもんだと思っていたが、「チキン」と「(豚)カツカレー」だったのだ。これには正直びっくりした。マジか、こういうすれ違いがあるのか、と。
 まぁ、確かに。よく考えてみれば、「シーフードカツカレー」と書いてあって、「海老フライ」と「カレー」がくるわけないもんね。そう考えれば確かに。
 いやいや、俺は悪くない!分かりにくいのが悪いのだ。「豚カツチキンカレー」だったら絶対に間違わない。

 特に理系は注意して欲しい。論文を書くときやプレゼンをするとき、読み手やリスナーがなるべく勘違いしないような言葉を一語一意に選ぶというのは基本中の基本なのだから。

 ちなみに「甘口カレー」に匹敵する、矛盾しちゃってる、変な理系用語は沢山あります。

 「求電子剤」
 相手を求電子的にするのなら「剤」を用いるのはわかるが(洗剤、酸化剤など)、自分が求電子的であるのに「剤」を使うのはオカシイ。なんじゃそりゃ。同じように求核剤も変。求電子「的」、求核「的」と使うのが正しい。

 「高い特異性を有する」
 特異性ってのは、特に基質特異性であれば、ある抗体が特定の抗原と「だけ」結合することを言う。そこに「高い」とか「低い」とかの優劣が入ってくるのはオカシイ。「高い特異性」ならば、それは特異的ではない!ただ結合する性質があるだけである。同様に、「ノンスペ」もオカシイ。どれくらい結合するのかを述べるか、もしくは、まったく結合しないなら、相互作用しない、で十分。

 「高温超伝導」
 高温じゃねーし。なんやったら低温だし。「低温物理の世界ではとても高温なんですよ、-150℃は」うるせーな、Cグループ!そんなこと言ってるからモテねーんだよ、バカヤロー笑。夢の「室温超伝導」って、室温のが高温って意味になっちゃうだろぅが。だいたい、高温とか低温ってのは、比較対象で使うものだ。だから、厳密な物理学の世界で、そもそもこういう言葉を使ってる時点でオカシイ。「100K級超伝導」などと言えば良いだろ。

 他にもたくさん、「自発的対称性の破れ」を薄っぺらく使ったり、ホント意味の無い政治力学によって作られた、矛盾している言葉がたくさんたくさんありますが、それらはすべて「甘口カレー」くらいダメです。
 っとか思うと、それくらいなら、まぁ、いいか、って気分になってきますが、、

 「それはたかはしくんの意見でしょ?」
 いや、意見じゃなーい!!!
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The end of the world 3

2014-09-14 03:02:41 | Weblog
 あれから、ゆっくり時が流れて、でもあっという間で、一緒に過ごした日々がどんどん嘯いていく。
 まるで、現実に起こった過去が、夢のように思えてくる。

 目の前の日常を直視して、これが現実なんだ、って言い聞かせながら、どうでもいいことに冗談を言ったり、柄にもなく意見を言ったり、愛想笑いをしていくことで、誤魔化していく。事実を知っている人も、だんだん触れなくなってきて、本当になんにもなかったかのようになっていく。
 新しいムーブメントを起こそうとして、結果、波はおろか何かの運動モードさえも何も残っていないのに、いまだに世界は続いていて、何事もなかったかのように、日常が続いていく。まるで世界が終ったなんて、誰も思ってもいないかのように、日々は続いていく。そこに押しつぶされそうになってしまう。

 終わったあとに、感情的な行動をとろうとしたって、何の変化も起こるわけがないのに。。
 一瞬、本当の一瞬に、想いをこめて、感情由来の行動や、不自然な言動をして、、まだ終わっていない!、と言われて今の自分の悲観的な気持ちを否定されたい気持ちが湧いてくる。攪乱によっていきなり世界が戻って欲しい。でもたぶん、こういう他人任せなところが、破滅をもたらしたのかもしれない。
 それを個人的に改善しても、戻るわけじゃないんだから、何も意味が無い。

 想い出を担ぎながら、新しいドアを開けて、これまでの想い出を糧にここから始めていこう、と決心するけど、その想い出が邪魔をして、前に進めない。

 終わったら死んでも良いとずっと思ってやってきた。
 だから、終わったあとにはどうすればいいのか、よくわからない。

The End Of The World
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Don't let the world win!6

2014-09-11 01:23:29 | Weblog
 理不尽なのは常であり、努力したって決して報われない。

 よく「成功した人間はすべて努力している」なんてキレイゴトが言われるが、それは間違っている。成功だって、努力なんて一切しなくても、本当にたまたま天から降ってくることだってあるし、誰よりも努力しまくっても、偶然に不運が降ってきて、何の意味のない結果に終わることだってある。

 しかも、恐ろしいことに、偶然に成功してしまえば、それまでの理不尽さや、どうしようもない現実に打ちのめされていた事を、すっかり忘れてしまう。まるで自分が成功した原因が、自分だけの努力によって起こったものだと心の中で決めつけ、心の表層上や表現上はそんなこと億尾にも出さず、「こんな環境を与えてくれた人たちみんなに感謝します」などとまたキレイゴト。
 そして、自分よりも失敗して、認められていない者の存在が、信じられなくなる。自分でさえも、このくらい成功しているのだから、ここまで来れないというのは、さすがに本人の努力のせいなのではないか、っと思い、それを相手に対して言い放つ始末。そうすることで、自分の成功が努力によるモノだと確固たる自信にしてしまい、その分、誰かを傷つける。
 成功するか失敗するか、上手くいくかダメになるか、なんて殆どが「運」であり、それを自分の努力のおかげであると無理矢理に思いこもうとしているだけだ。だとしたら、野心や無謀な挑戦などやめて、無難な道を選択し続け、そこに疑問を持たないほうが良い。

 勝負をしないほうが、つまり最初から不戦勝狙いのほうが、負けない。特に大学院では、負けない技術、つまりはディフェンスの仕方ばかり教えられる。その研究を遂行する大義名分をいかに持ってくるか?、そしてそれをセルフコンシスタントにストーリー作りすることこそが、研究者としてもっとも大切です、ってね。
 オフェンスについては誰も教えてはくれない。オフェンスはそのまま攻撃であり、科学の世界で攻撃などしても常に相互評価ゆえ自分が損するだけだからだ。だから、カタチだけの学芸会を開き、誰も何も意見を言わずに終了、ということがものすごく多い。っで、飲み会になってはじめてちょこっと本音を語りあう、全体としてのやる気の無さ。それを一流の研究者でさえも仕方が無いと思ってしまっているほど腐っている。もちろん、そうじゃない研究会もあるにはあるけどね。

 負けなければ世間は認めてくれるし、誰もが干渉しあわないようにしておけば、みんながみんな、自分の科学を「書きやすい」。
 だから、大学に残る選択をする者は、他人に媚び諂うことにしか関心が無い推薦タイプが多いのだ。

 ―なぜ、いま、たいへんな、つらい勉強をしているの?っと、昔、私が君に訊いた問いの答えは、そろそろ出たかな?
 『どうでしょうか。深遠な真理をただただ知りたいから、というのはあまりに無機質な感じがしますし、それを大義名分にみんなで楽しくものづくりがしたいから、というのも本心ではありますが、あまりに幼稚な気もします。でも、これらの複雑な気持ちをそのまま周囲に伝えることで、取り返しのつかない傷を他人につけている気がするのです』
 ―それは、どういうこと?
 『他人には他人の価値観があります。私は互いに価値観を認め合うなどという短絡的な発想は嫌いですので、自分の価値観を他人のそれと戦わせ続けるようなことを望んでおります。しかし、みんながみんな、そのように干渉しあいたいわけでもなく、ただただ無難に、そつなく、スタンドアローンに生きることを望んでいる人が多いようで、その価値観ゆえに犠牲者がでても厭わないような環境に、私は喧嘩を売り続けてきました。それは、実は、最も傷つけてはいけない人を、傷つけていることに他ならないことに気がついたのです』
 ―決定の一つひとつ、発言や行動の一つひとつに、君の気持ちに濁りはあったのか?
 『いえ、無かったはずですが、驕りがありました。私は、私だけが、その世界に溢れるくだらない既成概念を打ち破れると驕っていたのだと思います。私は間違っていたのかもしれません』
 ―私はあの時、私の正解を君に投げた。苦労して苦労して、いまいろんな知識や技術を身につけ、それを将来、人のため、世のために役立てるためだよ。苦労した分、ひとの役に立つことができる。人の上に立つより、人の役に立つ人間になりなさい。と。それを実行してみただけなのだから、実行しようとしただけなのだから、、それなら、過去を悔むことはあるまい。そんな君の行為に助けられた人もいたはずだ。だから、これからも、自分が信じた道を進めば良い。

 その世界全体を相手にしていたら、確かに疲れてしまう。時には戻って休みたいこともあるだろう。
 それに、"That which does not kill us makes us stronger"という真実を糧にすることはできる。運不運が付き纏う理不尽な世界であっても、能力をつけることそのものは、大変に平等であり、楽しくすることもチャンスは平等に与えられている。
 だとしたら、世界に喧嘩を売り続けることくらい、大したことないだろ?

 "The world is no longer a romantic place. Some of its people still are however, and therein lies the promise. Don't let the world win!!"

 I only want to be with you- Vonda Shepard
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2014-09-10 00:45:44 | Weblog
 本当の価値観に立ち帰ると、プラスとマイナスは原理的に一緒にすることはできない。
 3+(-2)は解無しが正解だ。

 マイナス側はプラス側を大切に想えば思うほど、自分なんかと一緒にいないで高く飛び立って欲しいと願ってしまう。自分と一緒だと、お前一人のときよりも、値が下がってしまうんだぜ?って。そして、自分のことをマイナスだと勘違いしているマイナス側のことをプラス側はすべて理解していながらも、マイナスが勝手に定義したゼロを超えてプラス側へと転移してくれることを一番の解として求めてしまう。
 マイナス側が最低最悪であれば、相手を落とし込んでまで、一緒になろうとするから、その場合は解があるようにも思える。しかし、それはカタチの上で一緒になることはあったとしても、本質的に一緒ではないわけだから、やっぱり定義できない。

 そう、プラスとマイナスを一緒にしようとすることは、どこかで矛盾が生じる、原理的な無理ゲーなのだ。だから、3+(-2)は1という解に落ち込まない。解無しが正解なのだ。

 そもそも、ゼロを超えていきなり現象が変わるってのは、よくよく考えてみるとオカシイ。
 クーロンの法則、つまり単なる電磁気学的な物理現象では、(当然)さっきと逆で、異符号は引き合うが、同符号だと反発する。
 なぜゼロを境にこんなにも物理現象が異なるんだろうか?よくわからないなぁ。

 え?そんなことよりも、なぜさっきと逆なことが当然なのか?って??
 だって人は、自分の行動が単純な物理現象となってしまうことを危惧することで、自分の中にある本質的な価値観を守るのだ。お互いに私利私欲にまみれていたり、試験管のなかの人工培養のような結婚が、どこか気持ち悪いのは、それが物理現象、つまりあまりに単純な物理すぎて、感情が入っていなさ過ぎるから、だろ?

 っと補足したところで、、つまり、実軸は、ゼロという特異点を持って、非連続的な連続性を有しているように、俺には思える。

 ここまでの議論から、自分自身をマイナスだと勝手に勘違いしているものは、マイナス以外と一緒に過ごすことができない。マイナスとマイナス、それはさらなるマイナスを生み、お互いに社会に背を向けながら、共依存する関係性であろう。
 さらに、自分がマイナスであるがゆえ、自分ではまったく選ばなくなる。自分がマイナスなのだから、選ぶ権利は無いという理屈で、選んでくれる相手を待つようになり、自分を選んでくれた相手に選んだということの責任を強烈に意識させることに忙しくなる。

 マイナスである自分を選んだのだから、お前が高く跳べなくても、仕方ないだろ!文句をこっちに言うのはお門違い、だってお前がわざわざ自分を選んだのだから!
 ってね。

 さぁ、ここで、疑問が生じてくる。果たして、何のどんな価値観を持って、プラスだとかマイナスだとか、勝手に定義してるんだろうか?
 ちなみに、社会全員がマイナスである可能性だって、全然あるんだぜ?

 研究潮流の中で、多くの研究者や多くの博士課程の学生が、自分の力ではどうにもできないことを悟りながら、コツコツと無意味な作業をこなし、学年が進むたびに、研究者として生きていくためにと目が死んでいってしまうのは、自分がマイナスだと思っているからではないのか??
 プラスの人間からすりゃ、そりゃ、自分の力でどうにもできないと思っているならどうにもできるわけがないだろ、まずは、たぶんできるはずっと思わなきゃ仕方ない、っと正論の鏡を持ってきたくなる。

 そんな暑苦しい人間を、マイナスの人間全員で、正論の鏡もろとも、ぶっ壊し続ける。マイナスにならないなら、「現実を見れていない!よってお前は研究者に向いていない!!」などと一つの研究室、もしくは一つの分野しか知らないクセに、分かった風な口をきく。
 だから、研究で、本当の意味で「実」を伴う「夢」のある話は、なかなか聞けない。というか、夢を語ることそのものを禁止するエセ研究者・エセ教育者が研究世界には多すぎる。常に相互評価だから、そういうホントのことも、誰も言えないしね。確かにねぇ、あの空気感だと、夢を語るって、バカみたいだもんね。

 2ヶ月ほど前、ここ10年の理系生活の中で、もっとも有意義な理系の公演を訊くことができた(尊敬する人の尊敬する人に、みんな会うべきだと思う。すると予想もできない素晴らしい出来事が起こる)。そのとき、普段、不平不満ばかり漏らしている俺が、不覚にも涙を流してしまった。
 そして、そんな自分をまた、悲しく思う。こんなにも、マイナスばかりに埋もれているのか、っと愕然とするからだ。
 しかし、まだ感受性そのものがあることに、安堵すべきだろう。

 結局のところ、自分がマイナスだと思ってしまった場合、自分の力でプラス側へ這い上がるしか、道は残されていないのかもしれない。
 手助けされることはできても、上っていくのは、どんなにしても、自分自身なのだから。まぁ、手助けされることくらいは厭わない覚悟はないといけないかもしれんけどさ。

 だとしたら、それこそが、3+(-2)の解になりえるのかもしれない。
 もしくは、この解無しの数式に、外乱が起こることで無理矢理に解に収束するものがあるならば、その外乱こそが運命なのかもね。
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