たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

Twitterというパサパサツールを使い始めて

2016-10-31 01:27:25 | Weblog
 Twitterをちょこちょこ使い始めて10ヵ月くらい。だいぶTwitter文化に慣れてきました。
 これまでTwitterってあんまり好きじゃなかったのですが(観るのは好きだったけど)、Twitter上で、ある方にこのブログをCMしてもらって、いっきにバズって、その重要性を教えてもらったので、俺もやらなくちゃかなぁと思って始めたのがキッカケです。今はそこそこ面白いツールだと思えています。

 確かに、一気に拡散させるならTwitterは便利。でも、拡散から解放されるのがあまりにも早くて、ちょっと話題になっても、一週間もすれば、みんなその事実を忘れてるんじゃないかなぁと思います。たぶんなんだけど、このブログでの固定客さまはある程度の時間放置してしまってもそんなには離れない自信があるんだけど、Twitterだといつ離れても、おかしくない。Twitterって、当たり前なんだけど、あまりにもパサパサ感が強すぎて、深くじっくり考えなくてもわかる内容がリツイートされまくるという性質があるんじゃないかなぁと思う。
 ぶっちゃけ、ここで書いた文章をTwitterに投げたとして、これまで「おお!これはめちゃくちゃ本質的なツッコミだ」と思うのは観たことないですね。みんなナンクセつけるのばっかりが好きで、なんだかなぁと思う事のほうが多い。

 あー、そういえば最近、超久しぶりにゼミをしたんですが、(研究室程度の不特定多数の)誰かに意見をもらうのってやっぱり大した意味が無くて、そら、いくつか重要なコメントがあったとしても、圧倒的にコスパが悪い(第一、プレゼンがネット上に残るわけじゃないので、何かのもったいなさを感じる)。どう考えても、自分一人で考えちゃったほうがマシだし(そしてそれをネットに投げた方がまだマシで、どこかの場所でプレゼンするのって最もコスパ悪い)、俺の脳内で勝手に形成している信頼関係コミュニティのなかに投げたほうが、よほど重要な意見をもらえる。
 あくまで、論理って玩具で戦いごっこしてるだけの暇つぶしとしての意味しか、研究室ゼミの意味がない、ってのも、どうなのかなぁ。まぁ、そういう意味ではうちの研究室(というか、うちのキャンパス)なんかはまだマシで、去年いた医療センターなんかはあらゆるセミナーで「戦いごっこをしているフリ」くらいしかできていなくて、こっちが戦いごっこを仕掛けると誰か無難風味を醸し出した人が全力で止めるか、何かの権威を振りかざして制止するしか脳がないからなぁ。それはそれで、一年くらい観てるぶんには、良い暇つぶしなんだけどさ笑。

 Twitter上でも、研究の世界でも、ひいては一般社会でも、あまり深く考えていない短絡的なヤツが圧倒的多数を占めていて、しかもそいつらが成功している風味を出してくる現代に絶望すら感じる。まぁ、本当の本当に、そういうヤツらが楽しくて幸せか?といったら、話は別であるとは思うけどさ。
 そもそも俺ってディベートみたいなの嫌いだし(ディベート自体は、俺さえいれば、敵味方がどんな人間であっても絶対に勝てる、というくらい、めちゃくちゃ強い自負はあるんですけど)、ロジック同士を戦いあわせる暇つぶしが本気になっちゃうと、本格的に本当にくだらないなって思うのよね。しかもTwitterとかって、本当に表面上のレベルで(ただの足の引っぱり合いだったり、くだらない揚げ足取りばかりで)、そういうことしているシーンが目立つし。

 相手がさ、俺から発せられる言葉をとにかく全部ねじ伏せなくちゃいけない!と躍起になっている目を見つけると、「うわー、こいつ、マジもんのアホだわ。どんだけ、今のお前の状態を、このあと俺が、友達やネットに拡散すると思ってるんだよ」っと心の底からバカにしてしまうし、そういう自分があまり好きじゃない。
 かといって、深くモノゴトを追及せずに、パサパサわかりやすい意見を言って、信念や気持ちを殺したとしても、何かを誤魔化したとしても、とにかく、いかにして旧世代の価値観に乗っかるか?、いかにしてその世界の多数派に迎合していくか?ということしか考えていないバカに成り下がる気もない。

 だとしたら、まぁ、俺と付き合ってくれるような奇特なヤツと付き合っていく、ってのが最良の策かもしれないな、っと最近は思っている。
 たとえ、Twitterのようなパサパサツールでも、ほんのわずか、話せる人というのもいて、ネットがなければ出会えない人と出会える時代なんだから、気の会う人と出会える確率は昔よりも圧倒的に高いわけだし。

 『いやー、無理っす。俺みたいにめんどくさいヤツ、誰も雇いませんよ?』
 「めんどくさいフリしてるだけやろ?」

 このくらい見抜いてくる人もいるわけで、こういうところに期待を持つしかないだろう。
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「辞めればいいじゃん」って軽々しく言わないで! -ブラック環境について-

2016-10-25 01:46:51 | Weblog
 ブラックな環境下にいる本当に心ある人にとって、「ブラックな環境だと思っているなら、さっさと辞めればいいじゃん」という言葉はものすごく傷つく。
 これはレアなケースではないし、それなりの多数派として存在している程度の「心ある人」であって、何かのエクスキューズではない。だから、一概に、短絡的に「ブラックなら逃げればイイじゃん」と言い切れないだろう。

 確かに個人個人が完全に自由状態であることをベースとしているリバタリアン的な思想からすると、「そんなに文句あるなら、やめればいいじゃん」は、一見、至極正しいかのように感じる。
 しかし、ちょっと考えてみて欲しい。ブラックな環境をそのまま享受している人の思考回路を。その人たち全員が、ただ単に、怠惰であり、惰性であり、意見を主張したり、その場を離れるための準備をする、などという無難じゃない行為を具現化できない無能だから、その場所を離れないわけではないだろう。
 だって、実際にそういう人の中で、まともに他人のことを思いやれる人に話を訊いてみると、「自分がいなくなったら、その分の仕事を誰かがしなくちゃいけなくて困るから」「私がいなくなると、この研究テーマを引き継ぐ人がいなくなっちゃうから」と、目立たないながらも、確実に誰かのためになろうとしている優しい心の存在に気がつくだろう。こういうクズじゃない人が、あらゆる社会の側面で支えになっている事を、行動力のある人は決して忘れてはいけないのだ(みんながみんな、辞めてしまえば、すべては成り立たなくなる)。ブラックな研究室を勢いで辞めたり、ブラック企業を真っ正面から批判できる、行動力のある目立つ人は、確かに大きい枠組みでみると社会に貢献しているケースはあるのだが、実のところ自分のことしか考えていなかったりする場合もそれなりに多い。

 実は、厭だったら辞めればいいじゃないか、という言葉は、それだけでは二重に間違っている。この言葉には、人間は本来自由意志があるのだから何でもかんでも好きに選べるはずでしょ?(つまりいつでも辞められるはずでしょ?)というリバタリアン的な発想と、そういうブラック環境に対する強烈な反抗と拒絶が結果的に社会全体における最大多数の最大幸福に繋がるという功利主義の側面を、同時に併せ持っているかのように見えるが、前者は(突き詰めたときに、ただの)自分勝手、後者は(かなり)ただの理想論に近く、実際のところ、本当にたった一人で、そこまで背負い込めているのだろうか?日本国民の中で考えたとしても、1億人以上いるわけで、1人の人間では、マトモに考えて1億分の1くらいしかより良くできないはずだし、せいぜいよくても100万分の1。
 そんな世間全体から観ると、ほんのちょっとの「より良く」のために、目の前の、より知っている、もしかしたらものすごく大事な人かもしれない人に対して、多大なる迷惑をかけながら、とにかく自分がいなくなりさえすれば、それでいいのだ、とは言い切れないのではないだろうか?

 これは大昔にここで書いた事があるが、俺は、華岡青洲を心からは尊敬できない。どんなにその後により多くの人にとって役に立つ全身麻酔を開発しようとも、自分の母を死なせ、自分の妻を失明にするという犠牲は、生涯悔やむに値する罪なんじゃないかと俺は思う(し、華岡青洲本人もそう思ったのではないかと思う)。
 より大いなる善のために、目の前の誰かを犠牲にすることは、結局人を後悔させるし、そこまで行かなくても、そこまで気が行っていなかったとしても、単純な優しい気持ちから、その場所にいる人たちを見捨てたくなく、でも自分には具体的にどうすることもできなく、仕方なく、ブラックな上司やブラックな教授の指示に従う事で、他人に迷惑をかけないように、そのなかで他人をより良くできるようにと、邁進している人は確かに(それなりの多数派として)存在しているし、そういう人に対して、「辞めりゃいいじゃん」は少々思慮が足りないのではないだろうか。

 いや、だからこそ、そんな優しいヤツが損をしているのは観ていられないからこそ、自分が被害者であることを認識して、「さっさと、辞めてくれ!」と言いたい気持ちはわかるし、俺自身もそういう思いでいる。
 ただし、真面目で優しくて損している人であるからこそ、「助けて!」と具体的に声を上げていなかったとしても、どうにかしなくちゃいけないと俺にやる気を起こさせ、俺が愛しく想えるのだと思うのだ。

 だから、俺は、ブラック環境から脱出した後になったときに、その自分がいたブラック環境にまだ居続けている他人の事を「大丈夫かな?」っと、おそらく思えないであろう人に対しては、積極的に助ける気が失せるのである。
 もちろん、求められている以上、(俺に学びがあるから)助けるが、こういう人を助ければ助けるほど、もしかしたら、巡り巡って、本当に助けなくちゃいけない、俺が本当に助けたい人が、その瞬間に辛い想いをするんじゃないだろうか、と想像してしまうからだ。

 どんな環境で、どんな選択をするにしても、そこに働く気持ちこそが大事なのである。
 ブラック研究室、ブラック企業に身を置いてしまったときに、逃げようと思うも善し、(自分はまだ我慢できるから)居続けようと思うも善し、である。そこに誰かへの善意さえ本気で働いているなら、あなたのどの選択も常に正しいし、俺が責任を持って肯定化しようと思う。

 そう、どんな選択をしようとも、任意の人生において、失敗は原理的に存在しないのだから。
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ブラックな環境に身を置いたら

2016-10-24 01:54:17 | Weblog
 ブラック企業から派生して"ブラック研究室"という言葉が、ここ数年のうちに市民権を得た。何にでも"ブラック"とつけるのが流行っているらしい。
 俺は、基本的に、たいていの「ブラックで困ってます」事案に関して、「いや、やめればいいじゃん」と思っているのだが、これがなかなか伝わりにくいらしい。((特に研究室の)"やめ方"が分からない人は、soudan.atamanonaka.2.718あっとまーくgmail.comまで、お気軽に連絡ください)

 そもそも、「恵まれていません」ということをあらゆるシーンで全面に押し出して、こちらが『いや、話盛り過ぎじゃね?』『ウソじゃね?』と言いにくいような空気を全開で出しておくことで、自分を守ろうとするクズが、ここ最近特に増えている。
 だってさ、明らかに、「いや、別にカネならあるし」と言うよりも、「カネないんだよなぁ」と言うほーが、共感集められそうでしょ?そういう状況がすでに、「自分は恵まれていない」と捏造をしているクズが多いということです。だいたい、「恵まれていない」って、周囲の人たちへの全否定だから、本当に心ある人だったら、本当だったとしてもそんなことは、ちょっぴり言いにくいはずなのよね。まぁ確かに、俺も、正々堂々と、俺って恵まれている!、ラッキーなことが多い、と言い切れるのだけど。

 「自分は恵まれていない弱い存在なんだから、自分は何もしなくとも誰かがなんとかしてくれるべきであり、自分のことを怠惰とか言っちゃいけません。私は優秀であることを前提として、そこだけは守りながら、議論してください」っていうのを、よくもまぁー、恥ずかしげもなく言えるなって思います。
 後半の「自分が優秀であることは前提として!」は50代60代にもものすごく感じる話で(特に団塊の世代の(さっさと完全リタイアしろ世代の)教授の多くなんかは、本当に能力ないのに、ここだけは人一倍強い)、「あー、特別扱いが通常になってしまったんだなぁ」というある種の可哀想感があるのだが、とかく最近の若者は、これにプラスして「誰かがなんとかしてくれるべき」ということを、匿名とはいえ、よくもまぁ、恥ずかしげもなく、誰もが簡単に観れるツイッターで堂々と言えるなぁ、と思います笑。だから、匿名ってダメなんですが(ここは自虐です笑)。
 んで、クズ(だと思っている)先生やクズ(だと思っている)上司の目の前では、調子良さそうにペコペコしてるんでしょ?表面上だけ礼儀正しければイイと思っている、このような若者の裏側を全然見抜けないおじさん達もどうかと思うけど、そんなこと以上に、ブラック研究室やブラック企業についてネット社会という影で匿名で色んな悪口を書きながら、現実的に"社会人として"ペコペコしているのは、ブラック環境を肯定しているのと同じなのに、そこは触れずに「誰かなんとかして」に終始して、こっちが何か言うと「死んでやる」。それって、人として、どうなの?

 いや、現実だけを直視してもらいますけど、「助けて」と声をあげなかったら、世の中、誰も何もしてくれないですからね?わかってますよね??
 道は自分で切り開くものだし、誰かが突然に自然となんとかしてくれたとして、それが当たり前みたいな信念を持って何らかの成功をした人がいたとして、俺としては、なんてつまらない人生なんだ、そういうヤツほど、こんな人生を自分で選んだわけじゃない、などと意味の分からないことを言って自分を正当化するんだろ?どーせ?っとしか、思わないよ??

 みんなさ、今のダメな環境から逃げたり、ダメダメな環境をどうにか変えたりする事に対して、「無難に」「その他大勢であり続けながら」という条件を大前提にするのやめろよ。ある程度、特異的な振る舞いを享受しないと、何かを変えられるわけないだろ?
 だいたい、博士課程にまで来ている人ですら、自分が無難でいることは大前提でいようとするのって、どうなの?って思うのよね。厳しい事言うけど、無難な博士じゃ、学術的な存在価値はねーんだぜ?

 もちろん、例外的に、本当にまずい状況の人は存在するし、ブラックな環境で原理的に逃げられない人も存在している。それはカネとか、逃げればいいじゃんとか、そういう次元じゃなく、マジでマズい人は、本当の本当に存在しているし、そういう人からのヘルプには(全力になりたい、ではなく)全力にならなければいけない。
 ただ、率はものすごく少ない。自分って恵まれていない、とアピールしている人のうち100人に1人くらい。おそらく、アピールしていない人の方が、マジでヤバい状態の人率は高いのだろうが、そういうケースは、(俺ですら)発見しにくい。

 そうではない、圧倒的大多数の「ブラックだー」と言ってるケースに対しては、「いや、逃げればイイじゃん」「やめればいいじゃん」「引き受けなきゃいいじゃん」と思う。何度でも言うが、基本的に、(学生だろうが社会人だろうが)本人がブラックだと思っていて、それでもそこに居続けようとする人は、ブラックだと思って実際にきちんとそこから逃げ出そうしている人から見ると、この場所がブラックである事を肯定している人にしか観えないんだからな?
 そして「自分は無難でありたい」という気持ちを、頼むから捨ててくれ。そんなもん、何の役にも立たない。

 そろそろ、きちんと、厳しい社会のルールのなかに身を置いてみるのも、悪くないと思うぜ?
 言ってる意味、わかるよね?大多数である限り、もしくは表立って反抗しない限り、正式なルールを知らなくても生きていける、という怠惰さが、無難であろうとする気持ちを助長する。
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微積とバネからわかる権威主義の創発

2016-10-20 02:49:38 | Weblog
 理系の皆さん。たとえば、高校生に、「フックの法則ってF=kxでしょ?仕事は"力×距離"だから、kx^2のはずなのに、どうして弾性力の位置エネルギーは1/2が前につくんですか?」と聞かれたら、なんと答えますか?
 ここで、「そら、仕事は本当は積分だからだよ」っと答えればいいかというと、それだけだと不十分かなぁと俺は思います。

 確かに積分だからなんだけど、もう少しだけよく考えてみよう。積分だからって理由だと、覚えてるだけじゃん+定量的な理解。もっと定性的に考えられるはず。
 バネの一端を固定して、反対側からバネ引っ張ったときに、引っ張れば引っ張るほど、引っ張りにくくなる。その地点からさらに引っ張ろうとすると、またさっきのぶんよりも、さらにしんどくなる。それは距離に従って、しんどさに傾斜がついてるから。バネが自然長から離れるほどにエネルギーを使うから。そう考えるとkx^2では明らかにおかしい。だから、ひとまず、バネは例外として捉えよう。だから、わざわざ教科書に弾性力の位置エネルギーとして載っているんだ。
 バネを引っ張ると、バネに生じる力から短絡的に想像したぶんの仕事量(kx^2)から比べて1/2だけコスパが良い。つまり、ある意味、バネが半分だけ引っ張るのを手伝ってくれるわけだ(どんなに引っ張っても"バネでいてくれる"から)。しかし、そのお手伝いも距離を増せば増すほどに、手伝ってくれなくなる(バネであることを維持しようとするから)。それを超えて引っ張れば、バネがバネでなくなり、いっきにうわっとなるだろう。その瞬間に(残りの)1/2 kx^2ぶんだけ、うわっとなる。

 そう、実は、ただ単に積分だから、としてしまうのは二重に良くない。ひとつは、上のように定性的に考えてみていないこと。もうひとつは、どうして仕事が積分で定義されるかを考えていない。力の距離依存性に従って力を積算していくイメージが仕事であって、だからこそ仕事は力が及ぼされる経路に沿って実空間で線積分(積算)しなくちゃいけないわけで、単純に実空間で積分すればいいというものではない。この上の例からも、経路にそって線積分しなくちゃいけないことが、力の(距離的な)勢いを示そうとしている仕事の役割だと気がつくだろう(力の時間的な勢いを表すのは力積)。

 このように、ある知識を下の階層の知的レベルに示そうとしたときに、実はその知識の無理解が権威的な枠組みに繋がってしまうことは、よくあることだ。だって、上の例でも、高校生が「積分じゃん」とだけ理系大学生以降の人から聞いたら、「高校物理でだまされたー」となるだけだからだ。こういう繰り返しが、ちゃんと理解する、ということよりも、とにかくテクニックに走って計算の切り抜け方ばかりが重要視されるようになってしまう所以だ。高校物理のすべての教科書では、ちゃーんと図使って説明しているし、定性的な説明もきちんとしている。
 微積を使えることが正しいわけではなく、大学に行って、あまりモノゴトを深く考えていないバカでも正しい結果だけは出てしまう、微積という武器を手に入れただけだ。この辺りが、俺が、基礎がちゃーんとできることが本当に大事、っと言っている部分。

 こういう基礎はあらゆる分野で使える。どうモノゴトを考えるべきかの指針を与える。だが、仕事は力の積分、とだけ覚えていると、どうしても使いどころがない。だって、いつも計算できることとは限らないわけだから。定量的に計算ができる事はとても大事(もちろん、積分ができないのでは、理系としてお話にならないのだが)だが、それ以上に俺は定性的理解は重要だと考えている。

 それから、相手の論理の土俵のなかで正しく考える、ということも大切だ。高校生に対して、いきなり「あとから習う、こっちが正しいんだ!」と、結果だけが正しい、間違った捉え方を与える事は、犯罪にも近いと俺は思う。本当は、その、本当に正しいロジック、に関しても、きちんと理解していないくせに。
 そして、こういう無理解が権威主義を生み、この分野では正しい、というような横柄な態度と間違ったことを正当化するロジックが蔓延するのだと俺は思っている。

 ・・・って、今日はやけに、一般化しすぎかな?
 ちゃうちゃう。そこは、なんでもかんでも調和振動子で一般化しすぎる物理学の歴史に敬意を表しているのだよ笑
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手法が一般化されている学問と対象が一般化されている学問

2016-10-11 00:45:15 | 自然科学の研究
 「車を運転できる」ということは、ほぼすべての車を(少し説明を受ければ)すぐに運転できるということだ。トヨタの車は運転できるようになったが、日産の車は運転できない、ということはありえない。
 それは、車というものがユニバーサルデザインになっており、各社で共有している前提知識の数が多いからだ。

 だが、A社の顕微鏡を使えるからといって、すぐにB社の顕微鏡が使えるだろうか?そら、一回も顕微鏡使った事の無い人よりは他社の顕微鏡も使えるとは思うが、それなりに説明をきちんと聞かなくてはならず、真面目にやろうとすれば、業者と何度も連絡を取っていきながら、徐々に使い方をマスターせねばならない。それは、顕微鏡という実験装置がユニバーサルデザインになっていないからだ。
 (ちなみに、本筋から離れ、顕微鏡などの生物・化学系の研究室でよく用いる実験装置に関しては、という話になるが、最近の実験装置は、なんでもやたらに装置の純正ソフトウェアを使わせる傾向がある。そして、やたらめったらボタンや機能が沢山ついていて、よくよくどーなっているのかと訊いてみると、あらゆる業者で、ちゃんと分かっている人がなかなか出てこず、やっと出てきたかと思ったら、かなり微妙なこと(というか、完全な誤魔化し)をやっていることも多い。これは非常に危険な雰囲気だということを研究者は認識せねばならない。諸君らは作業結果を出力するだけの人間ではなく研究者なのだから、ブラックボックスのなかで物理的に何をやっているのかを追及し続ける義務がある。ここの欠如が甚だしい熟練研究者や成果至上主義者達が目に余る。PIや立場のある人間は、政治力学に終始しながら文章作成に一生懸命になっている場合ではなく、学生やPDやテクニシャンから指摘を受ける前に(実際に実験をしている人間が装置そのものの誤魔化しを指摘できるのは理系として当然だが、それ以前の話ね)、こういうところにきちんと踏み入らないといけない。「研究機器をなめているのか?」と業者と喧嘩しなくてはいけない。それとも、プロとしての自覚が無いのかい?もちろん、数少ない有能な先生は、こういう問題点を把握しているし、どうにかしようと務めている人も、それなりにはいるが・・・全然少ねーんだよ笑)

 しかし、それでもまだ、分子生物学の実験というのは、総じて、ユニバーサルデザインに近づきつつある。電気泳動を一回でもしたことが、あれば、まぁ、そのラボでのルールは確かにそれなりにはあるが、だいたいは出来てしまうだろう。(もちろん、新参者に「できない」的なテイを出してくるラボは沢山あるけどね)
 実は、これまであまり公で語っていなかったが、生物学としての(一番の)強みは、実験手法がユニバーサルデザイン化されつつあることだ。あらゆる実験が「キット化」され、非常に悪く言えば「バカでも使える」状態として、各研究室で提供されている。これは非常に素晴らしいストロングポイントである。バカでも使えるようにするためには、それなりに思考力を使わなくてはいけない。これは大変なことだ。少数精鋭の生物系のトップ集団が、これをトップダウン的に押し付けてきている歴史には、(俺ですら)敬意を払う。

 この生物学の最大の強みについて、物理学ではあまり考慮できていない。ユニバーサルデザイン化することにめんどくささを感じてしまっているのが、物理学を専門としている人間の悪い癖だ。
 三次元直交座標の基底ベクトルは、(i, j, k)と書くのか(ex, ey, ez)と書くのかすら、一本化されていない。結晶構造を精緻に記述する為の群論にいたっては、いまだに、シェーンフリース表記とヘルマン・モーガン(国際)表記の2種類の教科書が存在している。そういえば、フーリエ変換すら、周波数なの?角周波数なの?えーっと、この場合だと2πはどこにつけたらいいんだっけ?ってなりがち。っま、本質的には同じだからいいじゃん、って思うけど、初心者を惑わせることにも寄与してしまっています。それは、きちんと定義されていれば、基本的に好きな記号を使っていい、というルールがあるから、というのが強い。
 抽象概念を持ってくれば、その本質さえ誤らなければ使う文字はどうでも良く、じゃぁ多様的なほうがイイじゃん!という発想で、それはそれで良いっちゃイイのですが、それにしても統一化できるところまで統一してないので、長年扱っていても、わけわからなくなることが多いです。

 生物学はユニバーサルデザイン化された武器を用いて、多様的な対象を取り扱います。だから、ラボを極端に変えても、生物系内だったら、まぁやってることはほとんど同じ。ゆえに、狙ったタンパク質が面白いか?にかかっているわけです。
 それとは対照的(対称的?)に、物理学は抽象度が高い多様的な武器を用いて、ユニバーサルデザイン化された対象を扱います。ね、だから、みんな調和振動子が大好きでしょ?わかりそうなことしかわかろうとしない率がものすごく高いわけです。だから、研究室を選ぶ時も、物性理論、物性実験、素粒子理論、素粒子実験、の4つから選べや、ってなるじゃないですか、極論。いや、世界はもっともっと多様だぞ、っと言いたくなるから、一定数、コレ以外の変な事やってる研究室にわざわざ行きたがる人がいるわけで(俺もその一人かな?)。

 ユニバーサルデザイン化、生物系の言葉で言えば「キット化」されていることのデメリットは、多くの人が考えないようになってしまうこと。考えなくても済むようにユニバーサルデザインを導入する訳だから、当然なんだけどね。だから、21世紀にもなって、中卒でもスマホを使いこなしているのにも拘らず、博士号を持ってても、マッチひとつ、まともに自分で作れない。
 生物学はこのやり方で本当に正しいのだろうか?と考える時間が圧倒的に短く、物理学はこの対象を扱うことは本当に正しいのだろうか?と考える時間が短い(ただし、物理の場合は"圧倒的に"短いわけではない)。考える時間が短いというのは、得になるし、すべてが無意味にもなる。このメリットとデメリットを上手に組み合わせて戦略を立てれば、我々が知りたい壮大な問題のいくつか(生命とは何か?、とかね)について、解ける確率がものすごく高まると思う。

 このユニバーサルデザインということのメリットとデメリットを意識してみると、あらゆることが、個人レベルor集団レベル問わず、進捗しやすくなるんじゃないだろうかと思う。
 んなわけで、今日は、そんな話題提供をしてみました。これについてはまだ考え中なところも多いので、また何か書くかも。
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不便と不幸

2016-10-09 04:20:35 | Weblog
 自分に何かが足りない事を不幸に感じる者は多い。
 そのなかでも、「カネがない」ということを不幸の代表格として挙げる者が多く、何かの決定に対しても「だから、よーするにカネがないってことなんでしょ?」と問題を矮小化することに躊躇のない人が多い。

 この世の中では、「存在することそのもの」と「エネルギー」と「情報」は、それぞれ等価である。ゆえに「カネがない」のであれば、その分、心持ちをしっかりするとか、有益な情報を収集するとか、それらの絶対量を恒常できるように友達や周囲に優しくするとかすれば良い。

 そう、みんなかなり勘違いしているが、「実質的に困る」ということと「不幸」であるということは、必ずしもイコールではないのだ。

 確かに、何かが足りないという事は、困る事が多いだろう。たとえば、何年も同じ研究をしていて、論文が一本もなければ、困ることには困るだろう。でも、それは、不幸と直結されるわけではない。圧倒的最大多数である、論文の有る無しで研究の評価ができると思っている研究社会に住んでいるクズたちに、無能だと思われるだけだ。大した事では無い。
 安心して欲しい。少なくとも俺は、そういう手抜きな評価の仕方をしないできちんと中身を観るし、感情的にはそもそも能力で評価するなどという事は一切しない。そして、そう主張しまくっているこのブログは、何も更新しなくても毎日200人以上もの人が観てくれている。もちろんすべてが賛同者だとは言えないが、7割以上は賛同している心も持っている人だろう。確率の問題なだけだと俺は思っているし、きちんと評価してくれる人とだけ付き合っていっても成り立つ。

 めんどくさくて、困る事が多いのは事実。でも、それは、不幸であるとは限らない。心の貧しさと物質的な貧しさは、(少なくとも分かりやすくは)時間的に乖離しているのだ。

 だが、ロジックはここでは終わらない。「不便と不幸は違う」と帰結できるほど、、そこまで単純ではない。
 圧倒的大多数が、あらゆるズルをしているおかげで手にしている便利さを目の当たりにしながら、自分が悪いわけではないのに確率的な要因のみで、自分だけが不便であれば、時間が経過すればするほど、不便が不幸へと変わっていくだろう。どうして、自分だけが論文がでないのだろう?ってね。
 それに、時間のパラメータだけではなく、不便の度合いについてのあるパラメータに関して極限値をとれば、不便と不幸はイコールになる。どうして自分だけが両親がいないのだろう?どうして自分だけがこんなにめんどくさい手続きを繰り返さなくては「普通の暮らし」が確立されないのだろう?ってね。

 何かを誤魔化そうとして、実質的な便利さを手に出来た者と、それを偶然手にしておらず困っている者。確かに俺の目の前にいた両者。前者は弱者が虐げられる姿を見て観ぬフリをし、後者は単にその義務とシチュエーションが存在していないだけ。ならばと俺は、ある瞬間に、後者を選んでいる。でもそれは、決して後者がクズではないことの証明にはなっていない。(前者がクズであったかどうか、今の俺の思考力では、わからない、としか言えない。でも、クズであろうがそうじゃなかろうが、あの時の俺の選択に後悔はない。哀しい気持ちに狂いはないから)

 しかし、クズでないpossibilityを有しているというのは、それなりに尊いことなのかもしれない。
 いずれ、その不幸を不便に戻し、不便を有用さに変えることができた未来がやってくるだろう。それでも、貴女が、あらゆるモノゴトが(今の貴女よりも)不便な人への思慮に深い存在であって欲しいと、俺は小さく願っている。それが、幸福へと繋がっていると想っているから。
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決めつけられること

2016-10-06 02:06:43 | Weblog
 誰かを「何かだ!」を決めつけてしまうことは人の正しい思考を著しく鈍らせる。
 そもそも、論理の要点は「時間、空間(場所や対象)、数」の3つなのに、決めつけてしまうというのは何かの数の時間変化を一切考慮しないということだ。人は成長するし、立場も変わるし、誰か一人が変わらなくても環境が変わってしまえば役割が変わってくる。ここを考慮しない思慮の無さは致命的と言えるだろう。

 中高今までずっと優等生だったから東大に入ってからも無条件で優等生のポジションで居続けようとしたり、昔の生徒が優秀になっている現実に目を向けずにいつまでも先生ぶったりしたり、気持ちが変わってしまった相手にいつまでも執着したりする。そういうのはロジックに時間の要素が圧倒的に足りていない。

 そもそも、人は論理では矛盾しながら生きている生き物だ。
 俺もAだと思っている反面、Bだと思っている要素がありながらも、でも個人の主張としてAとして自分の意見を1つに収束するときに辛い時があるわけで、ただ、ここの考慮をみんなもっとするべきだと思うのだ。

 とかく、このブログを読んでくれている皆さんは、俺の事を反権力で現在の研究における批判をしまくってるキャラだと思ってるかもしれませんが、それは確かにそういう要素があるってだけで、その部分が強く伝わっているだけで、意外と俺って政治的な側面の大切さも感じていると思うんだけどなぁ(ただし、その政治力に伴うだけの実力と気持ちが「きちんと」ある、という条件はつくが)。まぁ、言葉ゲッターになって偉ぶりたいだけの人たちが多い世界の中で、それだって決めつけなわけで、そうじゃない側面を冷酷に見定めていられるようにならないといけないよね。

 よーするに何が言いたいのかと言うと、、もう少し、俺って、信頼されても良くない?笑
 (ちょっと待った!ここで文章を止めるのはやめよう笑)

 決めつけたくなる気持ちを感じ取ると、反射的に「決めつけないで!」とアピールしてみるけど、決めつけがちだってことを決めつけているのはこちらだったりするわけで、もう少し世界に善意があることを信じたいけど、、でも、自分よりも弱い立場の人に対してないがしろにするタイプの人が、全人類の中で過半数を占めていることはほぼ決めつけてもイイ事実だと思うから、このクズたちを考慮するための行動は、今後、よりいっそう控えていこうと、俺は思っている。

 前から言ってるように、俺は人を能力で評価しません。自分が損しても、どれほど優しさを配れるか?ここが大事です。
 特に、そんなこと考慮するわけないぜ!と公言できるほどの、わかりやすいクズ(つまり、クズのなかのクズ)を考慮している時間は、いくら人生が長いとはいえ、あまりありません。

 え?他人をクズだって決めつけているじゃないかって?
 一生治る見込みが無いから、わかりやすいクズだって言ってるんだよ笑。まぁ、わかりやすいクズは、まだ関わらなきゃいいだけだから、良いんだけどなぁ。問題は、一見すると常識人に見えるクズ、なのよね。。
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