たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

星のかけらを探しに行こう

2012-02-25 01:53:59 | Weblog
 いくら論理的に選択することを考えても、選択した結果に依存しているのは、気持ちだと思う。

 気持ちの表面上のことを感情と言い、ヒトはその感情によって行動する。気持ち以上の行動をしてしまうことが努力であり、その意味での努力なんて俺はしたくないんだけど、行動の由来は感情だから、その時の感情に値するだけの行動をし続けても、感情が上下する以上、運が良くないといけない。
 感情が気持ちとは逆の方向に傾いてしまう性質を持つときに、それ由来の行動をしてしまう時、話し足りないことがあった、とか、素直になれなかった、とか、願い忘れた、とか想うのかも。

 点と点を結ばせるような伝え方に察知して、その問題とヘルプの内容が完全に掌握できたとしても、あれから、きちんと具現化してくれないなら絶対に助けようとしない、って心に決めていたことを想いだしそうになる感情と定式化を上回るような気持ちが存在していると、自分のなかのルールは一気に壊れる。
 カタチになって現れることよりも、本当のところはどうか?、ってことのが大事じゃん?、って自分に言い聞かせることが自然と発生していて、じゃぁ、向かってみるか、って思わせてくれるなら、偶然じゃないかもね。

 願い忘れたことをきちんと言葉にして、今度はもっともっと素直になれる。

 (福耳の「星のかけらを探しに行こう」。今度のライブのために、リードボーカル、けっこう練習しましたが、、いやー、しっかし、この曲も、まだ、歌うとは思わなかったわ。縁がある曲だなって思います。
 これを男が歌うのってホントに大変なんっす。音域的に、青春歌い上げ系バラードみたいに歌いたくなるんですけど、曲のイメージとしてそうじゃないし、やわらかく歌いながらも、裏声の弱々しさを露呈させちゃいけない。うーん、高音域でさらっと歌うってのは、とっても大変。
 でも、曲そのものの完成度が高くて、ボロが出ても上手く聴こえちゃうのが、この曲の特徴でもあります。メロの方向で考えると明るい曲なんですが、それとは対称に、歌詞はすごく切ない感じなんで、上手く翻訳できてないじゃん!、って思ってたんだけど、意外と、この明るい印象で良いのかな、って思えてきました、歌えば歌うほど。あと、ラストんとこ、16小節もフェイクさせてくれるなんて、ホントにいいの??
 3年前くらいにも、同じように歌っていましたが、今回は、その時よりも、もう少しだけ、言葉を飲み込んで、この歌詞をこのメロで歌えそう、素直になれそうな気がする♪笑)

福耳 / 星のかけらを探しに行こう Again (short ver.)
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選び方

2012-02-23 02:54:55 | Weblog
 ニュートン力学においては、位置と運動量の初期条件がはっきりとわかっていれば、ある環境で、その後の運動がどうなっていくかを、刻一刻と記述できる(積分値が解析的に解けないなどの理由により事実上予測不可能な場合(カオス)を除く)。
 これは、運動方程式が位置xの二階微分方程式であることに起因する。xと、xを時間で一階微分した速度vの最初の情報が分かれば、xを二階微分した加速度aの方程式は解けるからだ。運動量(質量m×速度v)にしてるのは、そっちのが、色々便利なので。

 だけど、扱っている環境のオーダーに比べてド・ブロイ波長が十分長いとき、ニュートン力学は崩れる。そういうときに扱うべき理論は、波動力学と行列力学を包括する量子論(量子力学)であり、その結論の一つであるハイゼンベルグの不確定性原理が出てくるからだ。
 測定技術の問題などではなく、理論上、ガチで、位置と運動量に「ゆらぎ」が出てくる。ここが量力の難しいとこだよね。

 測定技術のせーじゃない、ってとこが大事なんだけど、現実問題、測定には「ゆらぎ」はつきものだ。どんな測定であっても、必ず、「ゆらぎ」が作用してしまう。それが、そもそもにも「ゆらぎ」が存在しているとなってくると、スケールがナノメートルクラスの小さい出来事だと、非常に難しいということなのだ。
 でも、こういうことって、量子論が重要になるような、専門的なシーンだけじゃなくって、日常生活にいくらでも転がっているものだと思う。

 例えば、ある人のある行動を観て、哀しいと思ったんだと思う、と判断することは、非常におおざっぱな測定だ。
 まず、感情の軸は連続的であるので、感情を言葉で正確に記述することは出来ないし、出来たとしても、そもそもに「ゆらぎ」がある。
 さらに、感情ってのは、何次元かわからない。「喜怒哀楽」だけでも4次元で、ホントは無限次元であるはずで、その全ての変数について連続的であり、相手の感情には全ての変数について「ゆらぎ」が存在していて、測定機である自分も、また一つの完全系において、ゆらいでいるわけで、それにもかかわらず、「哀しい」というただひとつの言葉におしこめてしまうことは、非常に、おおざっぱ。繊細な俺としては、許せない測定だ(笑)。

 もっともっと言うと、「ゆらぎ」をもつ感情は、刻一刻と変化する。時間依存性の無いモノこそがホンモノ、って言ってるけど、それは、ある規定された領域に必ず存在するという意味で、カワラナイ、という意味であり、刻一刻で観れば、やはりそれだって変化していくものなのだ。

 そのモノ自身が持っている量子論的な「ゆらぎ」、測定が持つ統計的な「ゆらぎ」、そして、時間変化することを示す「ゆらぎ」、全部、違うモノで、ちゃんと分けて理解しておかないといけないよね、理系は。

 『なんで俺?って感じよ、俺、当時、完全なCグループだから。それが、まさかの選出ですよ。発表された時ビックリしたわ。Aグループの、しかもリーダー格と。』
 ≪っま、だから、見抜いてたんでしょ、成長しうるって。≫
 『そっかなー。まぁ、だから、超練習したけどね。相手のせーで、目立っちゃうことはわかってたから。』

 だから、誰かを採用したり選んだりする時、その人の「ゆらぎ」をきちんと考慮していたいと思うし、そのような選び方をする人や団体を選びたい。
 こいつは、将来、後輩をどのように育てるんだろうか?、ということまで考えて採用することは、なかなか大変だと思うけど、すべての企業はそのようなところまで目を見開いて、採用のやり方を考えるべきであると思う。

 気持ち、能力、持っている言葉、すべてについて、「ゆらぎ」がある。
 そして、「ゆらぎ」にも三種類ある。その人自身が持っている「ゆらぎ」、(間違ってるかも?的な)測定技術における「ゆらぎ」、時間変化していく「ゆらぎ」。

 これらをきちんと加味して、時間を用いる投資ができるかどうか、を考えていきたいと思うし、そういう評価基準を全てに対して期待している。

 俺の場合、その人や集団に心を奪われてしまうと、その考え方や気持ちに合わせようとして、すべての意味での「ゆらぎ」が失われ、変な話、自分が無くなってしまうような部分があって、そこが弱点なのかな、って思うんだけどね。
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天網恢恢疎にして漏らさず

2012-02-21 03:58:15 | Weblog
 今日は全然違うことを書こうと思ってたのですが、光市母子殺害事件について、少し書こうと思います。

 今回の死刑判決について、当たり前の結論が出るのに、これだけの長い時間がかかってしまうことに、改めて、少し違和感を感じます。確かに、命の尊厳を考えるうえで、これほどの長い時間をもって考究することが必須なのかもしれないけれど、遺族の気持ちを考えれば、もっと良い制度があるはずであると考えます。
 年齢がいくつであれ、やってはいけないこと、ってのは、絶対にわかるはずだし、加害者側の弁護団のやり方も、非常に許せない行為が続きました。即物的なことがこれほどまでに当たり前の邪魔をすることが残念だと思います。

 この判決によって、永山基準ということが崩れ、命の大切さが見直されました。今後起こり得るかもしれなかった凶悪な犯罪が、この判決によって、どれだけ少なくなったか、今後、どれだけ命の尊厳が守られるか、かなり重要な判断であることは間違いないですし、さらに、法治国家として、より正しい社会正義が保たれたと思います。

 今回の会見のなかで、「天網恢恢疎にして漏らさず」という言葉が、事件発生した当初から支えであったと、被害者の遺族の方がおっしゃっていましたが、まさに、この言葉通り、きちんとした公平な判断が下され、もう一歩、多くの人々が安心して生活することができるようになったのだと思います。
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ありのままの自分で

2012-02-20 03:56:30 | Weblog
 なんとなく謙虚至上主義って感じになってるのが多くてイライラすることがある。

 もーなんつーのかな、ただ下手に出りゃーイイ、みたいに思ってるよーな人いません??まー、教育が悪いとか社会が悪いとか色々言えそうなんだけど、そういう、謙虚になってりゃ良いんでしょ?、って態度取られると、俺は逆に気に入らないんだよね。
 それだったら、むしろ、自信満々のが、まだイイ。もちろん、それはそれで、は?、って思うこともあるんだけど、どっちが印象として悪くないかって言ったら、自信満々なのがイイんだよね、俺個人としては。

 っで、テメーはどうなんだ?、って言うと、、…どうなんですかね?笑

 うーん、無駄に謙虚な振る舞いをすることはないし、根拠が無い自信みたいなのを出すことも無いと思うんだけどね。遊びとかいたずらをこめて謙虚っぽくふるまったり、めんどくさいから自信の根拠言わないこととかはあるけど。

 っていうか、選択肢は、常に、俺には無いからね。希望はあっても、選ぶのは、いっつも、相手。相手にどう思われるか、を気にしてるからこそ、自分を偽るわけで、それが俺はほとんどないわけだから、自然体が一番。
 自然体に振る舞って、それで、離れていくなら、そこまでだった、で、そっちのがラクじゃない?残ってくれる人と、かまってくれる人と、楽しんでいけばイイわけだし。
 それが一番、心も満足するし、結局のところ、実質的な利益にもなっちゃうところが、不思議なところです。

 そりゃそうか。俺ごときの思考力で誰かを判断するなんて無理なわけで、相手に判断していただかないとっ。
 って、謙虚すぎた?笑
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気持ちに対してマジメ

2012-02-19 02:47:49 | Weblog
 自分が思っていることをそのまま言うことは、とても大切だって、最近よく思う。っま、俺はかなりできてるけど。

 目上の人であっても、間違っているときは、間違っている、ってはっきり言った方が良いし、無駄に媚びへつらうことはない。特に、その間違ってる原因が、目上のくせに、能力が無いことに起因していて、さらに自分勝手で嫌なヤツだったら、俺ははっきり『ホント、頭オカシイんじゃないですか??』などと切り捨てながら言うくらいは普通にする、本人と二人っきりでも、みんなの前でも。
 こっちとしては『ですか?』っと、ですます調を使ってやってるだけでも敬意だと思ってるし、本来なら『ふざけんなバカヤロー、てめーの利益ばっか考えてんじゃねーよ。』と言いたいところを、そこまでに留めているんだから、我ながらエラい。。あ、冗談ですよ。笑

 あくまで、嫌なヤツにするわけで、能力が無い人でも、優しい人には絶対そんなことはしません。冗談で言うことはあっても、言っちゃいけないライン無しで、ばしばしホントのことを言う、なんてことは、嫌なヤツにしかしないのがルールです。
 これをやる上で、とっても大事な最低ラインは、自分の義務を完璧に守り、最終的にはあからさまな結果を出すことだと思う。そうじゃないと、立場が向こうのが上だと特に、押しつぶされちゃう。ぐうの音も出ないほどの上からモノを言い、それによって少しでも落ち込ませて、系全体の状況を変えたいんだったら、自分がやるべきことをきちんと全部やっていることが大事だと思う。

 っと、負の方向にばっかり着目してしまいましたが、逆も同様。尊敬しているなら、尊敬していると、はっきり言ってしまうのが良いと思います。俺は、なかなか、そっち側は難しいときも多いんですが。

 いくら体裁や世間体を考えて、即物的なことに対して真面目でいても、自らの心に対してマジじゃないんだったら、満足できない。
 結局、どうしていきたいのか?どうなりたいのか??今の能力や状況や言葉やお金などの即物的なことは一度、一切無視して、気持ちに対してマジメになることが大切だよね。俺に足りない部分なのかな。完璧にそれができるなら、即物的な結果は、あとから必ずついてくるのに。

 自分が想っていることをそのまま言うこと、は、やっぱり怖いところがある。

 俺がどうでもイイ人達だって、俺のことはどうでもイイわけで、俺のことにそこまで注目がいくはずもないんだから、って考えれば、今出来ることは、かなり増えてくる。
 すると、体当たりできるわけだから、ディフェンス(イイワケ)を考える必要がほとんどなくなる、、はず?
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言葉を得るということ

2012-02-17 02:47:16 | Weblog
 何かの言葉を得てから、実質的な何かがいきなり劇的に変わるわけじゃない。
 もしそうなっちゃうんだとしたら、次の瞬間にはあっけなくその言葉の意味が無くなってしまうし、下手すると剥奪されてしまう。むしろ、これなら、あの言葉を持っていてもおかしくないのに、どうして持って無いの?、って思われるくらいの状態や能力になってから、言葉を取りに行くべきだと思っている。

 単純に言えば、ガチ、が大事ってこと。だから、言葉を引き入れた後に、何かをいきなりやらなきゃいけないわけじゃないし、何かがいきなり始まるわけでもない。
 とりあえず、それだけサチったと思っているからこそ、サチっていると気が付いたからこそなんだから、何も怖がらず、その言葉を取りに行こうとすれば良いと思うんだよね。

 もちろん、言葉をとった後にも、必ず前進はしていく。ゆっくりでも、一歩一歩確実に、また次の言葉を目指したスタートが始まる。しかも今度は、言葉など存在しない無形の何かなのかもしれないし、一体系じゃないからこその難しさがあるかもしれないし、さらにそれは、とっても長い時間かかるものなのかもしれないけど、まぁ、大丈夫。

 だって、時間は十分にある。もし、言葉だけを焦って取ろうとするんなら、そりゃ、タイムリミットを気にしなきゃいけないけど、ガチである限り、時間はたっぷりあると考えても、問題は無い。時間を超えるための能力は俺だけがつければイイものだし。

 それになにより、時間依存性の無いモノこそがホンモノなんだし。
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完全な本気モード

2012-02-15 01:58:21 | Weblog
 多くの人に受け入れられるような振る舞いをすればするほど、ある意味、賢そうに見える。
 というか、単純に大人数に賢いと思われたいんだったら、一般の人に受け入れられるような無難な振る舞いをひたすらしているほうがイイかも。だって、極端な話、大学の先生よりもロンブーの田村淳のが賢そうに見えるでしょ?笑
 まぁ、ロンブー淳の場合、その大学の先生とかも自分の輪のなかに取り入れちゃったりするから、天才的なんだけどさ。

 専門的な知識や技術で勝負する中でも、こういう、一般に受け入れられるように頑張るタイプは存在していて、俺はどちらかというと、そっち側。少なくとも、発表の場なんかだったら、専門的になり過ぎると良くないと思うし、本来の自分みたいなのと解離して自分の専門分野を扱っていると、どこか薄っぺらいんだよね。
 当然だけど、専門的な知識や技術ってのは、絶対に必要なんだよ。一般に受け入れられるタイプだから、っつって、ガチの技術を磨くことを怠ってイイわけじゃない。だけど、専門的なことをひけらかして、誤魔化してんじゃねーよ、ってこと。

 っと、専門をしっかり磨きながら、それを崩して行きましょう、ってのが、いつものスタイルなんだけど、ここ最近は例外的。
 どんな系に対してだって、ビシーっと決めなきゃいけない時はあるし、本気モードにならなきゃな時がある。切羽詰まった完全な本気モード、人とインタラクションする時だと、普段、俺は、まったく見せない。

 自分の気持ちや能力に、一般性を持たせて、崩せば崩すほど、本気だって思われなくなっちゃうんだよね。っで、それを回避するために、確認のために、ものすごくちゃんと説明したり、専門専門しくなってみたり、真剣な表情で態度で、接する必要性はある。
 そういうことの重要性を、ここまでの時間経って、やっと気がつく自分が嫌になってくるけど、まぁ、今できることを考えて、行動し続けないとね。一番大事なのは、どの気持ちか、ってちゃんと確認して、相手のこともきちんと考えて、それを崩さないで伝えることは、めちゃくちゃ大事だよな。

 一番大事な気持ちに嘘は付かないと決めた、遠回りをしたけど、これが本当の願い。

 別にいつもが本気じゃないわけじゃないんだけどね。
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どうにか結果を出すことの重要性

2012-02-12 01:52:53 | Weblog
 色々なところに首を突っ込んでると、そのうちに、色んな場所で、重要な役割を任せてもらえるようになる。

 そうなってくると、各場所で、自分は特別な人間なんだ、って勘違いしやすくなっちゃうんだけど、なるべくそういうような感情に惑わされないようにしたいよね、少なくとも行動は。
 重要な役割を任せてもらえるってことは、責任がある、ってことで、ある程度の結果をきちんと出さないといけないと思う。遊びや趣味でやってるって自分の中で思っているようなことでもね。

 結果を、どうにか引きずりだしてくる、ってのは、とっても大事なことだ。結果を無理矢理出してくるときに、もちろん、チームワークが一番大事なんだけど、最終的な部分で、個人がどうにかする、なんとかして道を切り開く、って意識を持っていないと、チームワークも働かないと思う。

 単純に等分して、2人なら全体の1/2、5人なら全体の1/5、10人なら全体の1/10、も役割を担ってるわけで、自分一人が努力すれば、かなり全体に寄与できる。それが重要な役割を任せてもらえてるなら、ほぼどんな環境でも1/2くらいは占有することになるから、ちゃんと頑張らないとね。

 結果を引きずりだしてくること、を、怠らないように、すべての努力をし続けよう。
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不調の原因

2012-02-11 01:10:33 | Weblog
 単純に気がつかなかった。
 この体調の変化が、言葉が変わることに影響しているって思っていたけど、そうじゃない。しかも、前も同じようなタイミングだったことを忘れてたし。

 この先はがんばった未来。だから、ここからも同じような頑張り方で頑張っていけばイイわけで、そこに何の不安も無い。精神的にも実質的にも、何も問題はないんだ。

 そんなことじゃなくて、頑張れていない、何よりも、自分自身ときちんと向き合えていないことに対して、イライラして、この先もずっとこうなのかと不安だったことに、気がつかされた。
 自分だけがスタイルを変えても、実質的には何も意味は無いのかもしれないけど、少なくとも、いい加減変えよう!、と心に決めてから、目がピクピクしなくなった。

 だから、ちゃんと向き合う。その決心を揺らがせたくないから、もう、考えないで、理由を探さないで。
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能力が無いということ

2012-02-10 01:52:05 | Weblog
 上を見ても下を見てもキリが無いけど、下を見てちゃダメ、ってのは良く言われることだ。確かに、能力を向上させようと思い、上を目指すために、上しか見ない、ってのは、とっても大事。

 っでさ、その、「上」と「下」って、どんな判定基準で決めてるの?
 点数?偏差値?数?ネームバリュー?、そんな思考不足な表面的なことだけで「上」とか「下」とか考えがちになっちゃったら、ちょっと立ち止まって考えた方がイイかも。

 杜撰な評価によって優劣が決められてしまって、世間がそんな風に評価してしまっているのは仕方ないとしても、各々の気持ちの中までも、そんなくだらない価値観が浸透しているんだとしたら、未来は暗そうだよね。
 一つひとつ、長い時間のなかで得られる能力の高さについて、ちゃーんと思考して、それで優劣を決めるんなら良いかもしれないけど、手っ取り早いからって、点数の分かりやすさだけを目指した評価基準に縋り続けても、楽しくはない。

 自分の能力そのものと他人の能力を見抜く能力に、絶対的な自信があったなら、即物的な評価ばかり追いかけずに済むはずだ。
 数や結果、言葉に点数、そういう即物的なものにばっかり魅了されて、本当の能力を得ることを怠っていると、薄っぺらいことしか、教科書に書いてあることしか、言えなくなってしまい、それをそのまま表現してしまえば、幼い子供から疎まれるようになり、社会を楽しくなくす原因を創ってしまう。

 まぁ、こんなことを自信を持って言うためには、即物的な言葉が必要だったりするから、難しいとこだよな。

 スゴイ言葉を持っていたり、点数が高かったり、経験が沢山あることは、能力があることとイコールではない。経験があっても、能力が無い人達は沢山いる。
 でもね、、能力が無いっということは、逆に言えば、(少なくとも)無害であるし、可能性が多分にあるんだってことを、忘れてはいけない。

 俺は、能力があることも、能力が無いことも、評価には含めない。
 即物的な言葉や点数に自らが縋ってしまうんだとしても、自分よりも弱い誰かを即物的な圧力で押し潰すことで、本当の能力に対する羨望を満たすようなことをしないなら、希望はある。それこそが、未来を見据えて投資するということであると思う。

 大切なのは、どこでどう作用するかわからない自分の種々の力を、なるべく人のために使うようにする気持ちだと思う。自分が助けられることも含めての助ける準備が数多くできているなら、本当だろうが表面的だろうが能力なんてどうでもいいことで、それこそが非常に稀少なことであるし、一番スゴイことなんじゃね?

 っで、だからこそ、自分や信頼している人には、もう一歩高いレベルの意味での「能力」をつけようとする気持ちを持っていて欲しいと思っているのだと思う。
 あくまで、かなり先の理想なんだけど、想像できるってことは、ホンモノがそれほど遠くはないのかな、って思います。
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目がピクピク

2012-02-08 01:51:24 | Weblog
 あー、やばいなぁ、また、目(瞼)がピクピクするのが慢性的にやってきちゃった。
 どうしても、所属が変わっていくような変換点に、この症状が出てきて、3ヶ月間くらい悩まされるんですが、まだまだメンタルが弱いんだなー。2年前と5年前と同じなら、この後、口内炎が増えます。なんでいつもこーなんだろ。

 特に今回なんて、別に、全然大丈夫で、不安が無いはずなんだけど、行動できちゃう分、体調に悪影響するんだよね。
 まだまだ、メンタルを鍛えないといけないんかな。スゴイ潜在的な部分で、ストレスを感じてるのかも。

 やっぱり、変わったり、行動力を発揮したり、自ら率先して動く、みたいなのって、もともと俺の身体には合ってないんだと思う。
 その環境下で我慢できちゃえば、どんなにラクか、って超思う。

 っま、そんなこと言ってらんないけどね。だって、、どーせ、俺は我慢できないですよー。
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悪い流れを断ち切るためには

2012-02-07 02:14:21 | Weblog
 俺は、イイ流れや悪い流れを利用しながら重要なことをすることが成功の秘訣だと思っている。
 仕事で上手く行けばプライベートでも上手く行くし、どっちもダメな時はダメ、みたいな、「流れ論」を考えながら行動した方がなんとんとなく面白いし、ガチな時でも確実に失敗せず上手く行く気がする。

 っで、この流れ論を考慮してみると、悪い流れが続いてるとき、ってのは、イイ流れになるのを待ってみるのが得策なんですが、時間が無くってもう待てない状況下になってしまったら、どうすればいいのかなーって、よく考えます。
 イイ流れに乗らなきゃ、怖いもんね。もちろん、すべてを貫くような勇気も時には必要ですが、そんなにリスクを冒しても、ってことだって誰にも訪れると思う。

 そういう時の古典的な処方箋は、努力が結果に直結して実りやすいことに対して即物的な結果を出してしまうことだと思う。さっさと。
 攻撃的に、戦略的に、堅いことに対する努力をきちんとしていけば、結果は見えてくるし、必ずイイ流れがすぐ(1日~3日くらい)にやってきて、自分は何でも出来る感が出てくると思う。

 だから、まず、堅いことにアクティブになること、ホントの意味で主体的になること、諦めないことが大事で、そこから柔らかい重要な系に、アクティブに働きかければ良いんだと思う。

 ただし、どんなことにも例外はある。その例外とは、自らの手によって、悪い流れにしてしまったときだ。こういう時は、その系に対して、まっすぐ立ち向かうしか為す術は無い。
 恐ろしいのは、こういう時に、当の本人は、自らの手によって悪い流れに変えてしまったことに気が付いていないことだと思う。単純なことを切り出していって、すべての、悪い流れの発端がどこにあるのかを解析してみることを、習慣化しておいたほうがイイのかも。キッカケではなくて、悪い流れとなる元凶のターニングポイントがあったはずなのだ。

 『んー、だから、結局は、物理現象だからさー、仕方ないっちゃ仕方ないんだけど、』
 〈仕方ないのは頭ではわかってるけど、物理現象だからこそ、余計に、ダメかも、って思うわけでしょ?〉
 『そうそ、そんなこと、よくわかるね。』
 〈だってK君って、意外にそのあたりは、論理的な思考を一切排除するからね。〉
 『そうね。でも、まぁ、その物理的な事実を正直に俺に言ってしまうことが、悪い流れに変えてるかなって思う。まだわかんないけど。』
 〈まぁね。確かに。K君は、最大限、やってると思うし。〉
 『そこも仕方ないっちゃ仕方ないんだけどね、俺自身が、なんでも言い合える、ってことを一番大切にしてるから。』

 本当の意味での悪い流れから打破するためには、もう少しの勇気や素直さが、どうしても必要なのかもしれない。 
 だって、ホンモノはロバストネスがあるから。
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リベロになりすぎないで

2012-02-05 03:08:10 | Weblog
 ここ最近、発表が多いので、今日は、「何かを発表するときの心得」をまとめてみようと思う。

 どんな種類の発表でも、与えられた時間がある。だから、まずはそれを最大限守ることが大事だと思う。例えば、10分だったら±10秒で収めたいよね、なるべく。30分なら±1分くらいだと思う。もちろん、超過するより超過しないほうが良いので、以内に収めることのが大事なのは言うまでも無いけど。
 時間を守らない発表は、どんなに素晴らしい内容でも、どんなに上手な演奏でも、「長かったなぁ」の感想で終わってしまう。ただでさえ、みんな、いろいろ早く終わって欲しいと思ってるんだから、必ず時間内に抑えられるようにしたいもんだ。

 っで、実際の内容ですが、聴講者を飽きさせないような仕組みが、何分かごとに内在してるのが大事だと思います。
 聴いてる人って色んな人がいるから、どんなにすごいことやっても、必ず内容がつまんないって思う人は出てきちゃうんだよね。だから、要所要所で一呼吸置くように、別の視点からの言葉を付加させると無難。
 さらに、一つひとつの内容について、非常に考究しておくこと。これは、自分のモノにするっていう言い方がイイ気がするんだけど、発表させられている感じになってはいけないのね。自分で使いこなせていることが必要だと思う。

 そのためには、各々のことに対して、幅広い角度と深みを持たないといけないと思う。
 例えば、ひとつの物理現象に対して、いくつかの仮説を立てられるとか、いくつかの解析法を知っているとかってのは大事だし、何か一曲に対してだって、それを完成させるための練習曲をよく練習しておくことが必要だと思う。
 よく自分の研究テーマそれだけを知ってれば良い、扱うジャンルそれだけをよく知ってれば良いって思ってる人がいるけど、全然そんなことはない。こういう努力の仕方をしてしまうと最大でもフロンティアラインにただいるだけで、クリエイティヴになることは決して出来ないので、自ずと、発表そのものもつまらなくなってしまう。

 あとは、発表練習をよくすることが重要。俺は一人での大きな発表だったら、最低でも10回はやります。発表が下手なヤツほど、全然発表練習してない。発表慣れしてる人でも、一つひとつの発表に対して、発表練習は超やるべき。なるべくなら、本当に信頼している人には全部みてもらって意見を貰うと良いと思う(信頼してない人だと無意味)。
 発表練習するにあたって、言う内容や音を、完全に決めてしまわないほうがイイと思います。ポイントだけを掴んでおいて、あとは、「揺らぎ」を持たせておくべき(言語が英語の場合は難しいんだけど、to不定詞と動名詞、but,howeverなど、超簡単でもイイから、やるべき)。何故かと言うと、こうしておくことによって、発表することがロバストになる、っていうか、ハプニングに強くなるから。がっつり全部決めちゃうとちょっとしたことでダメになってしまうことが多いんだけど、そもそもに揺らぎを持たせておくとちょっとした変化でも動じない発表が出来るんだよね。

 これらを総括して、何よりも最も大切なことは、発表していることを楽しみながら、ディフェンスじゃなくてオフェンスする気持ちでやる、ってことだと思う。少なくとも前を向いて発表する。スライドやモニターなどを見すぎないで、聴講者をよく見ること。すべての発表は聴講者に伝えて楽しんでもらうことが目的だからね。
 ディフェンスしなきゃいけないときこそ、オフェンスが重要になってくる。発表だからって、ディフェンスに特化しすぎないほうが、良い発表が出来るんだと思います。

 っさ、重要な発表はあとひとつ。ガンバろ。
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いつかのリプレイ

2012-02-04 08:29:17 | Weblog
 好きなこと、と、人、だったら、あなたはどちらをとりますか??

 もちろん、好きなことを誰かと一緒に出来るんであれば、それをとればいいんだけど、すべてがそういうわけにはいかない。例えば極端な話、めちゃくちゃ疲れていてすごく眠い状況のときに、人づきあいをとったりするかどうかってこと。

 じゃぁ、少し変えて、自分の未来のために必要なこと、と、人、だったら、どーお?

 『わかんない、こうやって話して、変わる兆しが観えてる感じになっても、集団の中に入ってしまえば、なんとなく、もとに戻ってしまう絵がたやすく想像できるから、あんまり信用できないんだよ。』
 ≪あー、それ、他の人にもよく言われる。でも、私にとって絶対に必要なことではあるわけだし。≫
 『必要…。だからさ、そもそも、好きなの?一番無難なモノを選んでるだけじゃない?』
 ≪そりゃ、そうでしょ。だから、本当は、…なのかもしれないけど。≫
 『えー、ホントに?』
 ≪うん。でも、それだけの能力があるわけじゃない、ってよくわかってるし。≫
 『本当に好きなら、なんて言えばイイのかな、薄っぺらくなくっていうかぁ、、ゆっくり言葉を飲み込みながらでも、それが好き、って言えるんなら、能力や即物的なことなんて、あとからいくらでもついてくるもんだと思うけど?』

 じゃあねーじゃぁねー、キライなことやどうでもイイこと、と、人、だったら??

 好きじゃないことのなかで、無意味なことや成果が堅いことについて、いくらその有用性や煩雑性を、曖昧で方向性の弱いプレゼンテーションのなかで伝えられても、高い評価には繋がらない。あくまで、俺の中では、だけど。
 だって、崇高な論理展開や理論的解釈をしたところで、その根本が間違っていては、まったくの無意味であることと同様に、無意味なことに努力していたって意味ないじゃん。

 そう感じながら、即物的には満足出来てしまうような行動をとって、寂しさだけを削っていく。いっそ、ホンモノではないであろう、そちら側に倒れ込んでいってしまいそうになる瞬間がやってくるけど、それが一過性であることをよく知っているから、決してそうならない。

 いつかの真実をヒモ解くと、並進対称性があることに気が付いたから。
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ダメって言いすぎないで

2012-02-03 03:41:56 | Weblog
 俺は、こんなに自然科学の世界でやってきて、確かに自然科学という学問分野が大好きだけど、本質的にはキライな部分もある。それは、批判することやダメな部分を露呈させることによって、より良い論理構成や真実を得ようとする部分があるからだ。

 相手を否定することは、それが即物的であっても、心のどこかで攻撃を受けている。それが好きな人であれば、なおさらで、でも、その行為を、自分のより良い創作のために行ってくれているんだって頭ではわかっているから、大きく矛盾して、突如として悲しくなってくる。お互い、怖くなる。
 っで、自然科学なんて、正しいってことなんて、どうでもいい!、っという感情が、一緒の時間が経つほどに、大きくなっていく。

 まぁ、でも、俺の一番の目標は、好きなことを好きな人達とし続けることだから、もっともっと絶対的な信頼が必要なのかな、って思うんだよね。そのために、即物的な言葉や証が存在するのかもしれない。
 そのことを、もっと心の中に飲み込めたら。。

 厳しさやホントのことを言うことにこそ、優しさやホンモノが隠れているけれど、それを実際にしすぎてしまうと、即物的にはどんどん切なくなってくるわけで、その具現化した切なさを感じると不安になるから、ウソでもいいから褒めて欲しくなったりして。

 こういうところを加味すると、自然科学なんて、全然、思考不足。そして、自然科学なんてどうでもいい、という感情が湧いてくるわけだが、この感情を持っていないと、俺は楽しめないし、ホンモノも手にすることができないと考えている。
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