たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

Intrinsic and Extrinsic Effects

2010-09-30 01:21:20 | Weblog
 言葉に踊らされず、ちゃんとホンモノを取りに行こうとしたのに、満足できないことはたくさんある。

 例えば、、非常にくだらない例を1つ挙げるとすると、、

 あなたが朝、満員電車に乗っていて、とても疲れていたので、座りたいと思ってたとする。あなたが電車に乗って、次の駅に到着したところで、席が空いた。人の流れや立ち位置的に、偶然、座れたっ。やったー。いつもは座れないのに、座れた。ラッキー。
 これで、30分、座って学校まで行ける。今日の1限は少人数制の英語で、疲れる授業。寝ておこう。
 目を閉じて、意識的には5分後、、っぱっと、目を覚ますと、40分も経っていて、遅刻。先生には怒られるわ、減点されるわで、最悪。。もし、偶然、座れるようなことがなければ、寝過ごすこともなかったのにー。

 当たり前のことだけど、これくらいのことなら、小さすぎて、問題にはならない。もっとタイムスケールも長く、生活にとって重大な系での話をしたいのだけど、モデルとしては十分優秀だ。

 さぁ、問題です。偶然座れたっという事実を、幸せだったとするか、それとも不幸せだったとするか??

 正確に答えれば、時間が経つことによって、幸せから不幸せに変わったのだけど、、これは非常に難しい問題だ。

 この系の一般的反応を反応式で書いてみると、「立っていた→座ることができた→寝ることにした→目的の駅までに起きることができた」…(*)となる。この、理想的で、だいたいの場合で見られる、反応に、なんらかのノイズが生じて、そうではなくなってしまって、寝過ごしたのだ、と考えられる。

 この反応式(*)を、平均的な描像として捉えた時に、この反応における本質的なノイズによって生じてしまう効果を、Intrinsic Effect(内因性効果)と定義しよう。ここで言う、本質的なノイズというのは、個人レベルによって引き起こされる、いわば、人間はみんな違うんだから、何らかの分布(正規分布かな?)に従うだろう、というノイズだ。つまり、(*)の式をインプットし、その分布もインプットしたとして、コンピュータシミュレーションすると、Intrinsic Effectも、きちんと表れる。
 それ以外の効果については、Extrinsic Effect(外因性効果)と定義することにする。つまり、もっと現実的な作用や、他とのインタラクション、もしくは時間的相関など、そういうもんは、すべてExtrinsic Effectだ。これは、in silicoでは出てこない。

 今回の場合、効果は、ほとんど、その疲れの原因を、意味することになる。
 そして、この2つのeffectを導入したなら、より、正確に答えることができる。

 Intrinsic EffectがMajorityなら幸せ、Extrinsic EffectがMajorityなら不幸せだ。
 だって、夜遅くまで、自分が好きなyoutube見てたり、ポケモンやってたりして、それで疲れているなら、座れて、眠って学校行けたら、遅刻しちゃってもラッキーじゃん。だけど、無理難題な仕事をしまくって疲れてたり、同じポケモンやるんでも、人間関係的に仕方なく、それも全然信頼してない誰かに、やらされていると感じての、疲れだったら、アンラッキーじゃん。

 っと、かみくだいちゃうと、ひっじょーに、当たり前のことを言ってますが、大事なことなので2回言いますけど、電車で乗り過ごすなんてこったー、どうだっていいんですよ。もっともっと、総時間が3年とかの話で考えてみてくださいね。
 時間変化によって、あるハッピーなことが、最悪になってしまうことは、沢山あるはずだし。

 したら、Extrinsic Effectを、いかにして、Majorityにしないか、という話になってくるんですけど、それは、とっても簡単で、興味の無いことですら、とりあえず行動して、手を出してみる!ただし、誰かに迷惑をかけない範囲で。
 自分が接触する環境を多くすればするほど、Intrinsic Noiseが支配的になっていく。これは、細胞の振る舞いとは、逆だね。

 そういうことをし続けていけば、なにか外のモノに支配されている感覚が、しだいに、消えていき、中学生になった時みたいに、超楽しくなっていくんだと思う。

 (この記事とは全然関係ないんですけど、どうしても言いたいことがあって。。
 ニンテンドー3DSが来年の2月に発売になるらしいんですけど、これ、僕、1年以上前に、このページで、このネーミングで、妄想ネタを書いていたのです。ってことは、もしかしたら、任天堂に、アイディア取られてたりして?(笑)
 過去記事;未来に「活きる」こと)
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2種類の本音

2010-09-29 02:35:03 | Weblog
 現実問題、凄まじく平均的で当たり障りのない教科書を持っていて、完璧に使えたとしても、満足できない。どうして、こんな無難な解答を、いつもいつも、提出することになっちゃうんだろう、って思い悩むはずだ。

 この曲をこういう風にマネージメントして、こういう風に歌えば、必ず売れる、っという教科書を持っていたとして、情熱を持っている者が、果たして、本当にそれを実行するのか?といえば、そうではないだろう。この教科書を学ぼうとしないでそういうことに想いを持つのは良くないけど、もっと、純粋に、こうしたら良いんじゃないかなー、っという想いで、音楽はつくられるべきだと思う。

 っと、ここまでは、そこまで、複雑じゃない。もっと複雑になります。

 それは、たとえ、全ての言葉を、心のカラムに通して、本音を言っていたとしても、本音を言うことに関する教科書を持っていると、その行為自体が、気持ち依存じゃなくなっていくことがあるだろう、ということ。そんなつもり、なくっても。

 つまり、言葉そのものに騙されず、そこを超えることができたとしても、本音を言っているという行動を評価して欲しい、というのと、本音を言えば満足してくれるんでしょ?、っていうのとは、全然違う、っということだ。
 ここの2つを見分けることができる慧眼さを、あなたは持っているだろうか??

 なら、何かとてつもない特異なシーンであれば、気持ちが露呈されるか?というと、そういうわけでもない。だって、何らかの状態変化がとても激しいときも、ある転移点を超えてしまえば、人は非常に冷静だから。

 言葉、行動、スタイル、それらすべてが、形式的なモノになることは無いけど、その率が極端に高いと、感情が無いなって感じていく。
 しかし、そういう人は、感情の強さだけは、誰よりも強い。心に多様性が無く、一つの想いによって束縛状態になっているのだ。凄まじく冷酷≒とても強い一つの想い。それが良い事かどうかは、別にして。

 だから、きっと、常に、ヒントが少なくなっちゃって、ワサワサする。めんどくさい。。

 そして、俺自身も、それを切り抜けてくるような慧眼さを、いつだって、期待している。能力の問題じゃない、心の問題だ。
 まったく、、こんなにも、複雑にしたのは、だーれ??

 「うーん、K君はさー、割と、なんていうか、自分の中の、非常にキワいセンサーを通過した者のみと、人づきあいをする、みたいなんがあるよなー。」

 犯人は、、お前だーっ!笑
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自分の「好き」で貫け!

2010-09-28 02:17:49 | Weblog
 【…も、イイと思うんですけどー。】
 『え?だって、第一志望の学校より、明らかに、偏差値低くね?』
 【んー、そうですけど。。】
 『あのさ、なるべく、上の学校のが良いんだぜ?』
 【わかってますよー。】
 『じゃぁさ、なぜ、なるべく、学歴を上げなきゃいけないか、わかる?!』
 【設備が良いとか?】
 『俺がそんなキレイゴト言うと思う?笑、学歴を上げなきゃいけない理由、、それは、自分よりも能力の低い人間に上からあーだこーだ言われないためだよ!』
 【笑笑笑。】
 『俺はあなたより能力が無いのに、その俺から、こうやって、あーだこーだ言われると、ムカつくでしょ?でも、俺は大学行ってるし、先生という言葉を持っているから、あーだこーだ言ってる。これを、一生、永久に繰り返すか、言葉を持つか、それしか、選択肢は無いんだな。』

 っと、ある小説のセリフをそのまま言うと、そこまでの本音を言っちゃうの?といった表情をしたが、実は、そういう風には、あまり考えていない。

 言葉はどうやっても支配的になる。どんなに賢くなっても、そこだけは別格と考えているアホも多くて、言葉を得ていなければ、意見を言う資格すら無いシーンだってある。そうであってはいけないし、ましてや理系は絶対にそれじゃダメだ。
 本当は、誰の意見でも公平に、そして、頭使って考えた時に、その意見が正しいか正しくないかで、議論をしないといけない。あの人の意見だから、どーせ不正確だろ、とか、~~の言うことは絶対っ!、みたいなことは、真理を探究したいなら、ルール上、絶対にしてはいけないのに、現状、必ずしも、そうはなっていないのが、とても残念だ。

 しかし、だからといって、これからの優秀な人材に対して、言葉を得ておけ、って言うのも可笑しな話でしょ?
 別に、言葉無しでも、そういう場で、きちんとやっていける方法だって沢山ある。これから先、上の世代のくだらないシガラミを、この子達こそが、どんどん破っていかなきゃいけないのに、そこで頑張んなきゃいけないのに、上の世代の価値観に合わせることに頑張れ!、なんて、俺が言っちゃダメじゃない??
 だから、多少、どうでもイイっちゃ良いんだけど、それで後悔して欲しくは無いし、そこは俺が決めるとこじゃないから、そういう悲しい事実だけを、毎年、確認していたり。

 【んー、でも、それでも、いいです。ここも面白そうだもん。】
 『おっ、そうか!!それでも、あなたの気持ちが揺らがないんだとしたら、それはホンモノだから、ちゃんと、貫いてみなよ。』

 やっぱり、自分の周りの生徒は、みんな、優秀だなぁ、っと、こういう時に、心から思うのです。それが、たとえ、即物的な感情であったとしても、そっちがキレイな心なんだって、ちゃんと知ってるから。

 どーせ、場所が変わったり、何かを選んだりするのは、その時の「縁」に、大きく依存することが多い。この「縁」を自分(達)の中で、どう「運命」に変えられるかどうか、そこからが、本当の勝負なのであるから、言葉を得たり、得なかったり、は、本来、どうでもイイのだ。
 だからこそ、自分の、好きなコト、自分の、好きな言葉で、貫けしっ!

 ここで十分に注意しなきゃいけないのは、「縁がある」と「運命」の違いだ。同じような意味だけど、明確に違う。
 「縁がある」は、相手が作っているモノ、もしくは相手がワザと作っている可能性が比較的高そうなモノだ。これをこちらが判断して、縁があった、っとやるのである。
 「運命」は、そうじゃなくって、もっと、なんていうか、スケールの大きいもんだと思う。そして、自分の頑張りの寄与が「縁がある」よりも大きい。

 だから、例えば、ただ「縁があった」だけなのに、「運命」まで言葉を勝手に延長させて、それでそこに想いをかけてしまえば、極端に、薄っぺらくなってしまう。
 これは、即物的なことじゃなくて、本質的なことだから、いろんなことに、当てはまるんだと思うけどなー。

 『っま、ここまでやって、無理だったら、それは、縁が無かった、って諦めるんだな。』
 ≪えー、そんなー。≫
 『仕方ないよ、こんなに頑張って、これだけ、できることやってて、それでも無理なんだとしたら、相手の評価基準がオカシイんだって。そんなとこ、入っても、どーせ、つまらないだろうし。どっちにしろ、良いじゃん。』
 ≪…。まぁ、そこまで、頑張れてないかも。≫
 『っじゃ、もっと頑張って。笑』

 そこまで努力する必要があるんだ!、もっと必死に頑張れよ!、なんて力説しても、今の子は賢いからダメ。もっと上手くやらなきゃ。
 言葉にして具現化するなら、こうやって、相手を上のほうに設定しておいて、使わなきゃね。彼ら自身で「運命」にさせないとっ。

 …って、、ただ、嫌味っぽいだけか(笑)。
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言葉の足し算引き算

2010-09-27 02:20:27 | Weblog
 自分が持っているモノを全部伝えたい瞬間がある。
 何かレポートを書くときでも、ここで文章を書いてるときでも、プレゼンするときでも、誰かと話してるときでも。だからといって、時間は際限なくあるわけじゃないし、ネタも本当に全部を伝えちゃったら、それだけの人間、みたいな感じがしちゃうから、削ることの重要性を学んで、省ける部分は、なるべく、省こうとしたりする。
 
 でも、例えば、こうやって、文章を書いて、自分が書いたモノを読み返してみるとき、作業として圧倒的に多いのは、文を付け加えるときだ。だから、あんまり伝える気は無いのか、、っと思われるかもしれないけど、実はそうでもなくって、ひとつひとつの文章、だいたいは、この人(たち)に伝えたいと、誰かのことを想いながら、書いている率は高い。
 そう、実は、大きく公開して、試そうとしているわけでも、ここまで考えてるんだぜ?って自負する気もさらさらなくって、その誰かが、もしも読んでも、誤解されないように書いていると、必然的に長くなるのだ。
 んで、こういうのは、やっぱり、あんまり伝わらないのかもしれない、っと、思って、自分の中に刻みながら、書かないといけないってこともわかってる。って、この部分は、一般大衆に対する、『ここまで考えてるんだぜ?』ですけど(笑)。

 さて、、自分の持っているモノは、言葉で表すことが圧倒的に多い。っぱっと、最初に生み出したものから、削ったり、付け足したりすると、それなりのリスクが生じる。
 縮小化したときには矮小化されないように、付加したときには煩雑化されないように、この部分は、表現力としての能力が問われている。

 当然、いつも書いているように、言葉の表面部分だけをスプーンですくって、それに対して重大さを感じるようであってはいけない。
 例えば、人の話を聞いてて、よく思うんだけど、「・・・って、言ってんの聴いちゃって。んで、しかも、こう言ってたらしくてさぁ。。だから、もう、ダメかなって。」とかって話されると、もうちょっと考えようよ、って思う。言葉は掘り下げるからこそ意味があるし、そんなんで、ダメかダメじゃないか、なんて、わからないよ。
 多いか、少ないか、付加したか、削ったか。たった、そんなもんで、真実やホンモノは、カワラナイ。言葉に騙されるなしっ。

 しかし、(それこそあまりこの言葉は使いたくないけど)メンドクサイことに、あなたの受け手が、常にそれを意識しているようなコンピュータであるはずもないのだ。
 だから、言葉に託そうとするし、ある意味、言葉に騙されて良いシーンだって存在している。

 言葉は、人と人とを引き合わせ、結合させ、安定させる能力を持っている。誰もが不安定だったら、無秩序層が増えてきて、それはそれで、大変なことになる。だから、言葉があるから、っという理由だけで選んでも、正しいこともあるのだ。
 特に(というか俺はこれだけだけど)、マクロスコピックな系に作用する可能性があるものは、考えない人たちに対して、一括できる言葉を持っているのは大事だ、、メンドクサイから(笑)。
 『だって、俺、理系なんだよ?』とか『免許あるしー』みたいなね。そして、それは、精度が悪くても、大きくはズレない効果がある。

 だったら、やっぱり、ファッションみたいに、言葉も、足し算したり、引き算したりするのは、とても重要なのかなー、って思ったりするのです。
 それが良いことだとは、到底、思えないけど。
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もらった分以上を還そうとしてっ

2010-09-26 02:51:19 | Weblog
 PCやインターネットの登場によって、人間の能力はますます要らないモノになりつつある。

 コンピュータは、人間が到底できないような計算もわずか数秒でできるようにしてしまうし、プログラミングで、いくつかの方程式へ系をSelf-Consistentに解くことによって、人間が想像できないような、方程式の内在されるパワーを感じることだってできる。
 一番わかりやすいのはインターネットだ。それまでは、記憶力が高いことは、1つの大事な能力だったのに、今や、ググれば何だってでてくる。記憶力でさえも、受験などの特異なシーン以外では、重要じゃない。

 もちろん、まだまだ、コンピュータは、人間の複雑で繊細な能力には勝てない。人間の能力で一番優秀なのは、曖昧さだ。完璧を求めなくても、完璧にインプットしなくても、なんとなく、っというのを、とてつもなくイイ精度で算出することができる。
 しかし、いずれは、こういうこともPCで、できるようになるのだろうし、第一、能力なんて、いつの時代も、大したもんじゃない。コンピュータが無い時代だって、人間は、能力ではなく、違う部分で有意義かそうじゃないかが、下っていたんだと思う。今は、明るみに出やすいだけかもっ。

 だとしたら、あんまり自分の能力を自分で査定しないほうがイイ。ましてや、他人のなんて、どんなに頭が切れると言われている人間だって、絶対に、ダメ。
 成り行きや、未来や、まだ起こっていない出来事は、想定される範囲内で必ず起こるもんだ、という自信を貫き続けると、何も行動ができない。だとしたら、感情から、一度、思考(頭)のカラムに通してから、行動するのがスタイルだとしても、その解析を、ほとんど疑う瞬間も、必要かもしれない。
 よーわ、いーから、考えてないで、とりあえず、実験しちゃえ!、ってことです。考え、なんて、ある程度、くだらないもんなんだから。

 歳を重ねれば、長い時間同じ場所にいれば、知識は得られ、あまりにも無謀なことはしなくなるし、技術も習得できる。でも、気持ちだけで押し通してくるような若い力に、だんだん、、いや、どんどん、抵抗できなくなってくる。
 それをくだらない言葉で誤魔化して、気持ちの強さが大切であるということを、完全に無視してしまったら、本当に、歳を取ってしまう。

 長い時間、同じような場所や領域にいることは、ラクをするためじゃない。ただそこにいるだけで得られる知識を得るため、でもない。
 心に余裕ができやすい、同じような環境にずっと居続けている人間の存在意義は、自らが受けた優しさや褒められた想い分以上のそれらを、新しくこの場所にやってきた人達に還し続けることだ。プラマイゼロじゃダメ。
 (これは、それこそ、物理だとか、生物だとか、研究室だとか、そんな小さいレベルの話では無くて、もっと大きい「場所」や「領域」の話だ。例えば、学校なら、各学校の意ではなく、学校というモノ、そのもの、ということ。)

 そりゃ、どんな場所だって、イヤな目に合うだろうし、不条理なこともあるだろう。しかし、それを、優しくしてもらった数とカケヒキ計算をしちゃダメだ。イヤなことされた数は無視して、そういうことをしてきた人のその部分を、きちんと軽蔑して、きちんと「かわいそう」だと思って、自分が優しくされた絶対数以上の、優しさを、自分よりも新しい人間達に提供しないとっ。

 自らで、より沢山作りだして、何か無形なモノを、できるだけ多く、提供しようとする、サービス精神と、そこに誇りを持つことこそ、コンピュータじゃ絶対にできない、素晴らしい可能性の1つなのだと思う。
 これは、やっぱり、能力じゃなくて、気持ちの問題。

 極端な話、それさえ大事にしていれば、本当の意味で、コンピュータなどの誰かに負けることもないし、提供することが自分にフィードバックしてきて、自分も超楽しくなっていく気がする。
 …っという、頭の解析。。あれ、なんか、ムジュン?笑、、実体験に基づくんだから、いっか!
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秋風の匂い

2010-09-25 00:17:27 | Weblog
 今日、外に出たら、涼しい、って感じたっ!空気の匂いが違うんだよねー、夏とは。

 なんとなく、多くの事が大きく変わっていく、ここから約1ヶ月な予感がします。もうすでに、考え方の一部が変わったり、思いだしたり。。でも、根幹は、きっと、ずっとずっとカワラナイ。

 何故、こちら側の世界に入ったのか。どうして、あのままじゃいけないと思って、いきなり、180度変わった生活をしだしたのか。
 誰かに評価されることも、何かの言葉を得ることも、本当の意味で、全然気にしていなかった、、毎日がラクで、でも、つまんなくて、そんな感じの想いから相転移した頃の自分から、学習することが、きっと、沢山ある。

 初心に戻る気は、さらさら無いけど、今、初心じゃないからこそ、初心から学ぶことが多いのだ。

 さて、そんなわけで、明日は、マックで、リバティチケットを手に入れよっと。
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マイiPod再生回数ランク

2010-09-24 03:33:21 | Weblog
 iPodTouchの整理整頓をしてたんだけど、再生回数ランキングを見ると、結構、面白い。潜在的に、自分が、どの曲が好きかがわかる。
 えーっと、2010年9/24現在で、

 1位 「Baby, Don't You Break My Heart Slow」Vonda Shepard
 2位 「例えば...ボクが。」清木場俊介
 3位 「チョコレイト・ディスコ」Perfume

 そんなに聞いてない気がするんだけど、「チョコレイト・ディスコ」、、「ワンルーム・ディスコ」なら、超聞いてる意識あるんだけど(笑)。
 ただ、ひたすら、チョコレイトディスコって言ってるだけなのに、何故か魔力がある曲です。「対決の日が来た!」のとことかが好き。

 4位以下にEXILEが沢山入っているのに、トップ3に清木場。しかも、EXILEにいた頃の、甘い歌声の清木場、、というより、Shunだな。EXILEも1章の頃のが好きという現れなのでしょうか。。
 あんまりメジャーな曲じゃないけど、確かに、清木場の中では、1番、、でもないか、「愛のかたち」のが好きかな。

 そして、1番聞いてるのが、Vonda Shepardの「Baby, Don't You Break My Heart Slow」か。凄まじい名曲だけど、1番、聞いてるとは。俺、やっぱり、あのドラマ、めちゃくちゃ好きなんだな…。
 Vondaの曲だったら、この曲よりも、もうちょい古臭い、「The end of the world」のカバーの方が好きなんだけど、こっちは、もっともっと悲しい曲なので、潜在的に聞かないのかもしれません。

 うーん、なんとなく、不本意な結果です。
 ちなみに、この上位3曲、再生回数が2000回を超えてる。…ちょっと待てっ!毎日、1日2回聞いたとしても、3年弱かかるぞ!!なんかカウント方法がオカシイ気がしますけど、まぁ、iTouchに、裕に1000曲以上は入ってるし、定性的にはあってるのでしょうけど。

 今日は、珍しく、以上でーす。もし、なんか気になったり、思いだしたのあったら、youtubeへGO!
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ヤマアラシのジレンマ

2010-09-23 03:15:24 | Weblog
 頭だけを使って動いているシーンは大事だ。
 何かをシステマティックに考えてる時や一人で実験してる時や、ヒドイと、ゲームしてる時にも使う。どれも気持ちとしては、ASAPの心がとても強くなってるかも。理路整然としながらも、確実に、そして、他人に認められやすいように、って思うと、心をギュッと凍らせて、頭だけで動く自分が、いつの間にか、いる。

 これはこれで楽しいんだけど、やっぱり、心は多様性があってこそだよね。1つの想いにとらわれて、それに対して、何が何でも、ってやるのが、冷酷だと思うから、自分の中で心を1つの言葉に押し固めないように注意しなきゃいけない。

 だけど、人が複数になって、お互いに協調性を保ちながら頑張らなきゃいけない時は、そうも言ってられなくなる。
 人間がコンピュータ化され、その人の能力だけを利用して、チームワークを組むことだって、沢山ある。能力由来のみでチームワークを発揮することはできるんだろうか。

 おそらく、答えは、ノーだ。
 2人以上になった時こそ、いま一度、心に多様性を持たせて、頭と心の使用率を半々くらいにしないといけない。

 誰かのことを、能力由来のみで、信用なんてできない。信頼関係って、そういう風にできるもんじゃないし、もっと違う部分で判断しなきゃなんだと思う。どんな超優秀な人間でも、ちゃんと血の通っている人間なんだ、って思ってから、信頼するじゃん??

 仲良くなるキッカケは、能力でも良いかもしれない。
 でも、ゆっくり時間が経って、相手のことを近しいと思えば思うほど、発言でも、第三者に対する行動でも、欠点や自分との相違点ばかりが見えてきて不安になる。
 なら、いっそ、遠ざかってみた方がイイ??

 きっと、ホンモノの発現は、Work以外の、その人の自分に対する行動に依るところが大きいんだと思う。そこに感情が表れやすい。
 本気でムカつくこともあるけど、いつも自分と話をしてくれているとか、ダメ出しばっかり、否定されてばっかりだけど、自分のために頑張って走りまわってくれることがある、とか。

 だから、言葉に振り回されないで、言葉を言わないことにも振り回されないでいたいし、俺の周りの人も、そうであって欲しい。ちゃんとした判断基準を持ちたいし、持っていて欲しい。
 したら、遠ざかる必要はなくなる。

 逆に言えば、言葉に想いを託し過ぎてもいけないということだ。
 ただし、「ありがとう」は除く。理由は無いけど。

 『~~してくれて、ありがとう。』

 ちゃんと確認して、言葉に出しておきたくなる。

 そういうことを、お互いに、、みんなで、繰り返して行けば、このジレンマは解かれていき、針の痛みがなんでもなくなるのだと思う。

 Reference;「何とかなるさ! 」山崎直子著
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みんなでステップアップ

2010-09-22 01:58:09 | Weblog
 言葉に騙されないで、自分の夢を、やりたいことを、直向きに目指し、「今できること」をきちんとしている、子達を見ると、本当に元気がもらえる。
 これからの社会は、きっと、そっちで正解だと思うし、いくら言葉を持っている大人たちから、バカだなー、っと、誰もがよく言うキレイゴトを言われても、それは心にもない言葉で、俺も含め、彼らは感受性が強いから、伝わらない。

 しかし、この板挟みである俺は、言葉を持っていない辛さを、きちんと伝える必要はあると思う。それでも、言葉がいらず、自分のやりたいことを貫く、っというなら、ホンモノだと思うし、それで言葉に揺らいじゃうなら、それはそれで良い。
 だって、夢を追うことばかりが、人生でやることじゃないわけだし(俺はそれじゃつまらないと思うけど)、別のことで楽しければイイんじゃん?!

 そもそも、言葉を得ないと、こういった経験ができず、ステップアップにならない、なんて言うっと、ちょっと薄っぺらいよね。
 海外に行けば分かる!、とか、こういう研究機関に行けば大きくなれる、とか、何か突発的にみえることをしたら、すさまじい経験が得られて、プラスになる、っと考えるのは、間違いなんじゃないだろうか(ある種、俺が言うのも、なんだけど)。

 『流行ってるらしいじゃん?どう??』
 「うーん、、そもそも、それくらいの経験で、人生観が変わった、なんて言うヤツは、もともとの人生観が、薄っぺら過ぎるんじゃね?」
 『確かに。笑』

 経験は、表の顔と裏の顔がある。
 その経験をしたというだけで、アドバンテージになるんだよー、って微笑んでくる表の顔と、それを良い事に、思考停止になってしまうダークサイドな裏の顔。
 その1つの経験から、どれだけ学びとれるかが勝負なのに、経験したという事実のみで終わっちゃったら、経験する意味もない。

 誰かをなくすという経験をしなければ、信頼関係の大切さを学べない可哀相な人もいれば、誰かが表情をちょっと暗くしたのを偶然見つけたという経験だけで、同じ事を学びとれる優秀な人もいる。
 他人の不幸を目の当たりにしたときに、自分じゃなくて良かったと思考を停止させてしまう人もいれば、自分のことのように受け止め、その当人よりも学び取ってしまうスゴイ人もいる。

 あまりに、経験したかしないか、に依存しているんだったら、ちょっと立ち止まってみた方が良いかもしれない。特に、自然科学を専攻している人間は、そうであってはいけない。
 自然科学を味方にしている人間のアドバンテージは、自分が経験したこともない、見たこともないことを、予測し、まるで実体験したかのように語れてしまう能力なのだから。

 だとしたら、経験した、というような言葉を取りに行くために、漠然と成功するために、頑張らないほうがイイかも。
 本当に何がしたいのか。何をし続けたいのか。言葉がまったく得られないとしても、それをやる価値があるのか?、それがやりたいことなのか?、楽しいのか?、っと、ちゃんと悩まないといけないかな。

 例えば、教員免許なんか持ってなくても、俺よりも、もっとずっと、先生らしいことをして、救える限り、人を救い続けている高校生は、沢山いる。
 そういうほーが、自分よりも単に言葉を持っている人たちよりも、素直に、尊敬してしまう…、、困ったことに(笑)。

 そういうのを、総括して、ステップアップと定義するなら、俺は是非とも、ステップアップしたい。
 言葉に踊らされるんじゃなくて、みんなで、ステップアップしたい。そっちのが、例えば、自分の論文が単にネイチャーとかサイエンスとかに載り、言葉が得られるだけよりも、楽しそうだし、ホンモノである気がしてならない。

 もちろん、両方とれればサイコーだけど、優先順位を間違えないで。
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『本当にそう思ってます??』

2010-09-21 03:51:01 | Weblog
 ある問題を解くときに、その時、その時で、場合に分けて答えなきゃいけないことがある。これを業界用語で「場合分け」と呼ぶ。例えば、tが1よりも大きかったらxは4ですが、tが1以下だったらxは3です、みたいなね。
 答え方だけじゃなくって、考え方の面で分けなきゃいけないこともある。場合分けをするときは、必ず、その理由を探さなきゃいけない。表面だから、とか、そこだけ不連続に変化しそうだから(表面だから、と同じか(笑))、とか、相手がどう言ってくるか、まだ実験してないからわからないけど、先に予測しておきたいから、とかね。

 誰かの城に乗り込む時には、必ず、いくつかの方程式を立式して、場合分けによって得られた言葉を用意しておけ。そして、おそらく、ヤツはこれを選び、自分はこの言葉を言うことになるだろうな、って、確実な道に対しては、さらに、場合分けをする。このループが4つくらいこなせるようになっなら、思考力だけで、誰にも負けない。

 この手法に慣れてくると、場合分けしても、この言葉で総括できてしまうな、って言葉に気づくことができるようになる。たとえ、相手が、これを言ってきたとしても、相手が、こう受け取ったとしても、どちらでも、俺がこう言うことで、俺の利益になる、っという言葉が、必ずあるもんだ。
 そういえば、学問上の問題でも、場合分けして、結果が同じ、ってことは、よくあることだった。

 「いや、そこの、将来の彼のためを思って。。」
 『本当?本当にそう思って、やったの??』
 「本当…。」
 『本当ね??本当にそうだって、、そう思ってるのね?』
 「うん。」

 どちらでも良い。
 本当だろうが、ウソだろうが、俺が真実を知ることが目的じゃないから。
 真実は、相手の心の中にある。いくら現実上に、本当だ、っと言い切ったとしても、それが嘘なら相手の心の中には、強烈な攻撃になっているのだし、本当に本当だとしても、そういう風に疑われちゃうんだよ、っと伝えることができる。
 場合分けしても、利益は一緒。相手の心の中に真実があるんだから、別に構わない。

 ただし、場合分けして、答えが一緒だということは、無駄な考え方をしているということだ。
 計算して、分母と分子が沢山消えるようだったら、それは無駄な考え方をしているということだし、複雑な計算の割に、答えが単純っぽくなっても、そう。
 無駄な手法を使っているから、こうなる。もっと、目からウロコが落ちるような、素晴らしい、素朴な発想が存在するはずだ。

 素直な心を、氷から溶かしていく方法は、たったひとつ。こちらが素直になること。
 もっともっと、単純で、簡単で、素朴な発想は、こちらが素直になることなのだ。

 真実は、相手の心の中にあるわけじゃなくて、その時に形成している共通の心の中にある。
 発言したその一瞬で、真実なんて、掴めてしまうもんだし、それを掴んでることも、相手にバレバレなんだから、もっと、素直になれたら、、ならなきゃね。。
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後悔しない準備

2010-09-20 00:52:56 | Weblog
 今日は自分の高校の文化祭に行ってきました。なーんにも、変わって無かった。
 1年前の自分も、もちろんそうだし、自分が高校生の時、7年前くらいの自分も、確認したいことが多かった。そして、見事にそれは満たされた。やっぱり、色んな意味で、こっちを選んで正解だったな。

 物質的に、決して、閉じた系ではないけれど、そこにあるモノは、何年か前、確実に俺も使っていたものだ。自習室の机とか、ロッカー、階段、汚いC棟、そして、先生たち。
 周りにいる人間の種類も、8年間のなかで、一切変わっていないんだと思う。同じところで困っている人、同じ所で悩んでいる人、同じところにプライドを持ち、同じ部分にコンプレックスを持ち、その持ち方や考え方も、そっくり。

 そんな2つの連続性を感じた時に、高校名、言葉そのものに、感謝したい。

 『そっか。忙しそうだけど、決まって良かったんじゃん?』
 「まあね。」
 『俺もなんとかなったし、お互い、なんか、これからが見えてきそうで、良かった良かった。』
 「これで、どうにか、役に立つことができる、一歩を、踏み出すことが出来た、ってところかもね、あの時みたいに。」
 『っま、俺は、お前の5年くらい後ろを歩いてる気がするけど。笑』
 「無駄な謙遜はいらないよー。」

 『いやー、でも、今、また、あの時と同じ場所で、高校生見てて、思うけど、それでも、結構、特異だったと思うよ?』
 「俺みたいなんは、埋もれるから。見えてないってこともあるんじゃない?」
 『まぁ、そうかも。細かい人間関係の様子を見てるとさ、すごく懐かしいっていうか。。こっちの子が喋って、それで違う子が自分の所属している集団の誰かに気を使って、喋って。』
 「俺ら、その関係図とか、書き出そうとしたりしたもんね(笑)」
 『この辺の人は、こっちの集団で、、このグループは和み系、って名前にしよう!、とか、やってたねー(笑)。朝、黒板に書き出したら、どんなんなるかなー、とか言ってさー。』

 そんな感じのことを喋ったのも、もう、一年も前か。

 どんな場所に行っても普通の場所なんか無いし、かといって、どんな場所に行っても特異なルールは少ない。一般大衆に準ずる集団なんか存在しないし、かといって、この世界ではこうだから!、みたいな事も、ほとんど存在していないのだ。
 だとしたら、その場所で出会う、自分にとっての、特異な人を大事にし続けることが俺の一番の強みだから、言葉の表面じゃなくて、行動や感情で、信頼関係を確認したいよね。

 あの頃の自分たちと同じような状況であろう行動や言葉の端端(≒感情)が垣間見えた時、ただただ、俺らのように、いや、俺ら以上に、上手くいってくれと、願うばかりだ。
 そして、同時に、優秀な下の世代は、なんなく突破できると、期待している。

 さて、、今いる集団に対しても、何年後かに、そう思えるのか??
 きっと、思えるよね。だって、だいたいの集団は、同じような振る舞いをするんだから。だから、悔いのないように!
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夢物語の必要性

2010-09-19 03:54:06 | Weblog
 やべー。ポケモンの新作(ポケットモンスター ブラック&ホワイト)が面白すぎるっ。
 何時間でもやれてしまうであろうこのゲームを一回止めるだけでも、ものすごい大変だ。。いったい、こんな魅力はどこに潜んでいるんだろう??

 野生で捕まえてきたポケモン達をトレーナーと戦わせる。それぞれの町にはジムリーダーが存在していて、そいつらからバッジをもらうことがだいたいの目的。このバッジを8個集めるとポケモンリーグに挑戦することが出来る。
 これは、実際にある遊びでいうと、虫取りとかベーゴマとかに似てるんじゃないだろうか。

 今、こういう遊びは、あんまり見られないし、俺らが小学生の頃だって、ほとんど残って無かった。
 そして、ポケモンは、虫取りやベーゴマよりも、面白いと思う。

 「んー、でも、出てくるポケモン、俺らが知らないのばっかでしょ?」
 [あー、そっか。じゃぁ、やんねー。]
 『まぁ、そうですけど。笑』

 ≪亀仙人の声、昔と違うから、ドラゴンボール改は、絶対、見ない。≫
 『えー、それだけで、ですかー??』

 時代遅れな60歳以上はたくさんいるけど、20代でも、その片鱗が、いたるところに見られる。おいおい、そんなちっちゃい事で、本当は結構好きなのに、やめちゃうわけ??
 時代は移り変わるモノだし、誰だって、一番最初は、そこで頑張ったはずだ。だって、より楽しくなるから変わってるわけだし、昔のが良かった、なんてこと、ちゃんと解析すれば、とっても少ないはずだよ?

 日ごろから、自分よりも若い人と接していたり、子どもがいたりすれば、そういうことも改め出して、新しいモノにもちょっとずつ手を出したくなるもんだ。

 そう、本当は、夢物語やサンタクロースは、大人のためにあるのだ。
 現実社会を、よりきちんと見えてしまう大人が、見えないモノを信じるような心を思い出して大切にしようとしたり、楽しい事が一番大切だって確認するために、夢物語は、オトナこそ、読むべきなのである。
 決して、過去に戻るためじゃなくてね。

 新しい夢物語や、よくある昔話を読み聞かせられている子どもは、いつだって、大人に付き合ってくれている。
 いつも、いつでも、上手く行くなんて、保証はどこにもないけど、、いつも、いつでも、本気で生きてる、コイツ達がいる。

 そんなことが、ポケモンの魅力のひとつだと思います。
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おなかペコペコ事件

2010-09-18 01:29:17 | Weblog
 誰も、これ以上、精神的に、強くなる必要なんて無い。
 俺以外、今より、もっと、強くならなきゃいけない人間なんて、いない。

 逆に、誰かに、もっと精神的に強くなることが必要だ、なんて言う人間は、それだけで、自分の弱さを露呈してしまったようなもんだ。権威的な言葉を持っている人間なら、なおさらね。
 いつまでも精神的に弱いままでイイし、夢を追いかけたり、真実を追い求めたりするだけが、人生の目的じゃないし、むしろそれは付属的なことなのだから、楽しいことが、なにより、一番、大事。

 こんなにnaturalな感覚が間違ってるわけないのに。。
 自分は実は弱いっと、素直になることが、そんなにも権威を傷つけることなのだろうか…?
 そういう瞬間、その権威者に対してまで、憐れみを感じてしまう。薄っぺらい信頼関係をホンモノだと勘違いしているところを見ると、こんな歳になってまで、まだ、本当の信頼や愛や優しさに触れたことがないんじゃないかって。そして、この先も、ずっと。
 この、いらない優しさを捨てれば、もっと冷酷に徹せれるのだけど。。

 自分が仕切らないといけないときに、いかに優しい気持ちを保っていられるかは、頭に依るところが大きいかもしれない。
 一日一日、この集団のすぺての人に話しかけよう。一日に、必ず3回は、褒めるようにしよう。良いところだけを見つけてあげる、悪いところは今日はまだ見ない。
 頭で考えて、それで実行に移す。気持ち由来だけど、思考に通してから、実行に移す。こういうことをしなきゃだから、優しさを表現するのは難しい。好きじゃない人にも優しくする平均場的な優しさは、とっても、忍耐力が必要なのです。

 だけど、上手く表現できなかったとしても、気持ちがあれば良い、ってなることもあると思う。
 頑張って、良かれと思って、教育しようと思って、相手にしたことでも、残酷な物理現象によって、逆手になっちゃうこともあるし、相手をイヤーな気持ちにさせたり、楽しくなくなったり。だから、ずっと言ってるじゃないか、敵は残忍な物理現象そのものだって。
 (そういう部分で、俺は、タフになり、強くなり、もっと慧眼になり、さらに演技力を高める、必要がある。精神的にも、実質的にも。)

 こういう見地に立つと、能力なんて、本当にどうでもイイことのように感じる。そして、それは、すべからく、正しくするべきだ。
 プログラミングが出来ることも、英語の論文が読めることも、上からサーブが打てることでも、何か楽器が弾けることでも、音が人よりも取れることでも、暗記力が優れていることでも、フランス料理が形式通りに食べられることだって、そういったことは、どうでもイイ。
 そんな、くだらない、たかが、能力に想いをかけて、自分を誇らしげに思っているのなら、勘違いも甚だしいのだ。第一、それは、自分だけの努力じゃないからさ。

 だから、基本的に、能力に惚れるのはナシでしょ。
 俺だったら、能力だけが認められている状況なんて、いかにも、ホンモノじゃなさそうで、怖くって仕方無いけどなー。

 ただし、全般として、誰かを助けたり、本当の意味での信頼関係を築こうとする能力に関してだけは、別、なのかもしれない。その能力が、たとえ実質的に低くても、心由来が大きいし、身をもって当たりに行かないと、絶対に掴めない部分だしね。

 そして、この、きちんとした信頼関係を築こうとする能力がとても大事だ、という部分が無い人間を、弱い、と定義すると思うし、ここが無いと、どんなキレイゴトを言っても、薄っぺらくなってしまう。

 精神的に強くなる必要はないけど、強さが欲しいと思うのは勝手。
 本当の強さを得るには、きっと、この部分をちゃーんと留意する必要がある。

 あとは、今だけでなく、いつまでも、、みんなで、楽しいことこそ、すべてだって、忘れなければ、きっと。
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真実を知る意味

2010-09-17 02:04:52 | Weblog
 「だって、君、僕らが、なぜ、物理をやっているか?、あれ、そんな話、こないだ、授業でしなかったっけ??」
 『いやー、してないと思いますけど。。』
 「うん、それは、正しい事を、間違いなく、正しいと言うために、物理をやっている。別に自然科学でも良いけど。自然現象そのままだったら、物理なんか、つまらない。」

 俺は、すごく驚いた。研究者の中にも、それも、物理学の数々の分野を研究してきた方の中にも、こういう風に考える人間がいることに。

 『って言われた。なんつーか、やっぱ、すげーな。』
 ≪お前そこで、なんで、そういう想いを貫いて、理論の研究者にまでなったのか、を訊かなきゃダメだろ!≫

 んなら、おめーが話にいけよ、ったく。笑

 「正しい事を正しいと言う事は非常に怖い」。しかし、それを言わなきゃいけないシーンもある。
 自分自身の心を凍らせて、自分の立場など一切考えずに、まるでコンピューターのように、その系についてのみを、話す。自分を守るためにも、誰かを守るためにも、必ず、その能力自体は必要だ。
 そして、そのスペックを上げるため、関数(ブラックボックス)の種類を沢山覚えておくため、因果関係が10以上続いても思考し続けられるようになるために、物理学を、いや、他の学問でも、なんでも、勉強しているのだ、っと彼はおっしゃっていた。

 俺が言うのもなんだけど(っと実は思っていないのだけど(笑))、なんでもかんでもぶっちゃければイイってわけじゃない。相手の感情をきちんと考えないといけないし、何より、相手が許してくれるかどうかを判断しないといけない(笑)。

 よーわ、やるなら、上手くやれ!、ってことなのだ。

 ただ、この感じを持っていないから、何か実質的な不利益が生じるような世の中じゃ悲しいよね。
 しかし、実際、おそらくそのせいで、俺が最も尊敬する研究者の1人である、この方は、今、日本にいないのだと思う。

 いっそ、アホになったほうが、気楽なのかもしれない。

 思考回路だけじゃなく、それと同等に、直観力もそのパワーを持っている。こっちのほうが、早く正確に、真実を見抜くのに、残念ながら、他人に伝わらない。
 『だって、、いやー、わかんないけど、絶対に、そうだと思う。なんとなく。』みたいな感じになる。
 この力を、割と、学術志向が高い人は、侮りがちなのだけど、これはこれで、すごいものだと思う。んで、俺自身、考えるよりも、こっちのほうが、全然、得意。

 じゃぁ、アホになるだけじゃ、ダメですね。笑
 っま、気楽なだけが良いことじゃないから、いっか。つらくても、より、楽しいなら。
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第2量子化から得られる楽しさ

2010-09-16 00:50:43 | Weblog
 今までを少しだけ振り返ってみた時に、今、周りにいる人達との当たり前になってしまっている共通点に、心から感謝したくなる。
 前は、理系、ってだけで、だいぶ少なかったはず。もう一個さかのぼれば、やるべきときに、ちゃんとやる、って人種だって、少なかったのだ。つい、ほんの、ちょっと前までは。

 どんどんどんどん、突き詰めて、飽くなき探求!研究したり、小さい事を見に行くのって楽しいし、ラクになってくる。狭い人種で形成される集団に行けば行くほど、自分が言いたい本当の部分まで行くのに、話が早いしねっ。

 マクロなものからミクロなものを見にいきまくって、すべての物質は結局何からできているのか?、を求め続けるのが、物理学をまっすぐ進んだ人達が行きつく場所なんだと思うんだけど、それだけが楽しい事じゃない。確かにそれをすることによって、マクロな系の概観も掴めるけど、もっとちゃんと、ミクロからマクロへの掛橋を求めるのも、また楽しい。

 N個の粒子からなる系を量子力学できちんと見に行きたくなったら、状態を主人公にしていたのをやめて、エネルギー準位を占有する粒子数を主人公にし直せば良い。これが、第2量子化だ。
 ある状態から、生成・消滅演算子を使って、粒子を作ったり、消したり。この発想は、とてもスゴイ。

 この考え方を考慮してみた時に、追求しつづけ、何も考えず、同じような人種を求め続けることが自明の理で善だとしていたのを、一回、ストップしてみて、ふっと、上から系を眺めてみたくなる。
 非常に狭い人種のみと何年も付き合って、狭い価値観を得て、状態を占有し続け、その中で楽しむのか、それとも、再び、広い世界に身を任せて、自分自身をホッピング項の非常に強い粒子としてみて、楽しむのか。

 どちらが、より、長い時間、楽しそうか。。難しいところだ。
 そんなの、誰にもわからないだろうから、どっちも、欲しい!

 (なんか、また、だいぶ、専門知識が無いとわかんない文章を書いちまったな。今日のは、多粒子系の量子力学の知識が、ある程度無いと、読めないかもです。一方で、この辺りの知識がある人に読まれて、間違いを指摘されるのも怖いな。
 まったく、じゃぁ、誰に向かって書いてるのか、、って、日記だから、自分がわかりゃ、それでイイのだった(笑)。)
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