たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

自分史2 -憧れの友人-

2018-04-15 07:24:53 | 自分史
(今日の主人公のSSくんは仮名です。今度会った時にでも話して、許可が出たら本名に変えようかと思います(忘れそうだけど笑)。ちなみにイニシャルじゃありませんよー笑)

 はじめて彼と一緒にバスに乗って、座席に座ったとき、俺は少しだけ緊張していた。
 時は2003年、高2になりたての4月の初旬、たくさんの教科書を貰い、学校は午前中で終わった。クラスメイトになったばかりのSSくんと、高校から駅までの30分間、バスのなかで他愛もない話をすれば良いだけだ。ただそれだけなのに、俺は、同じ高校の同級生と勉強の話をしなくちゃいけないのが、どこか怖かった(前回の自分史1を参照ね)。

 教科書をめくりながら、SSくんは一つひとつ偉そうにコメントを入れていく。
 「まぁとりあえず、数学は余裕だな。ベクトルなんて、最初は上に矢印つければいいだけだし」(注;そんなこたーありません笑)
 自信満々に教科書の内容を評価していく様子に、俺は無難なちゃちゃを入れながら、バスは木々でいっぱいの住宅地やだだっ広い風景を進む。

 「問題は英語なんじゃないか。これ、とか構造取りにくいし。あと、この倫理ってのもよくわからないな。こりゃ、定期試験、やばいぞ!」
 俺は、意味が分からなかった。まだ授業が始まってもないのに、どうしてそんなにも真剣に学校で習う内容を理解しようとしているのか。そして、勇気をもって、その気持ちを言ってみることにした。
 『ハハハ、いや、まだ授業が始まってもいねーんだぜ?大丈夫だろ』
 俺がそう言うと、SSくんは一瞬の真顔のあとに、すぐ笑顔を作り、
 「確かに、それもそうだな笑」
 と返してきた。

 何気ないこの会話が、価値観のクラスチェンジだったのだと思う。これだけ真面目な態度の人間が、"ノリ"に流されるのを目の当たりにした初めての瞬間。
 俺にとって、SSくんは、生まれて初めてできた「優等生なのにノリの良い」友達だ。そして、俺にとって、今も昔もずっと、最高の「憧れの友人」である。

 彼は知れば知るほど良いヤツで、あらゆる分野で能力が高かった。

 めちゃくちゃ背が高いわけでもないのに、高跳びでは3クラスで最後の2人にまで残るレベルで高く飛ぶ。みんなに、
 「SSは実力で飛んでるからな」
 と茶化されても、笑って流しながら、ジャンプする。

 昼休みにはサッカーやバスケをやっていて、決まって自分の成果を自慢してくる。いつも自信満々で、でも、クラスの中で(俺みたいに)浮きそうなヤツがいれば率先して話しかけて、あだ名もつけていた。
 俺がつけられたあだ名は、「番長」。目つきが悪いからだそうだ。今でも、SSくんからは「ばんちょー」と呼ばれる。

 あんなにスポーツが好きなのに部活はやっておらず、日々バイトをして、特待生で入ってる予備校に通う。
 「反省もできないほど忙しいからこそ、見えてくるものがある」
 そんなことを言ってたこともあったっけ。。色んなことに手を付けているのに、どうしてそこまで自信があるのか理解できなかった。しかし、まぁ実際に、能力も高い。俺が、いま、根拠もなく自信満々な態度をとるのは、このSSくんの影響をかなり受けている。

 彼からスポーツの楽しさも学んだ。体育でテニスをやれば一緒にペアを組ませてもらったし、球技大会でサッカーをやることになれば、放課後、彼の仲間たちと一緒に練習をしたりした。
 そうそう、あの頃、まだまだ集団が怖くて怖くて、俺自身がスポーツ音痴すぎるので、みんなでてきとーにやってた練習試合で失敗しまくっちゃって、休憩中に誰にも言わずに黙って帰っちゃったんだよね。そうしたら、その夜、SSくんからメールが来て、「ばんちょー、なんで、いつ帰っちゃったの?なんか用事?」と。罪悪感というか、安心感というか、その時の気持ちは一生忘れないと思う。

 そんなわけで、それなりに練習して挑んだ前後半10分のクラス対抗のサッカーは、俺の人生を変える試合となる。
 俺とある程度、仲良くなると、必ずされる「あの」話です。

 それまで、うちのクラスは他のすべての球技(バレー男子と女子、バスケ男子と女子、ドッジボール女子)で1回戦を突破していた。サッカー男子の1回戦は順番的に一番最後だった。
 だが、俺が参加してたサッカーでは、前半終了時、うちのクラスは3-0で負けていた。完全なる負け試合だったのに、SSくんを含め、俺以外の他のクラスのメンバーは誰もあきらめていなかった。SSくんはフォワードもできるタイプだが、「キーパー、俺にやらせろ」と言ってファインセーブの連続。地道に1点2点と点を重ねるサッカー部のフォワード。少しでも諦めていたら、絶対不可能なプレーを俺の目の前で連発していた。
 そして、試合終了時4-4。PK戦では、SSくんがファインセーブをし、うちのクラスは勝つのだった。歓声に包まれる中、俺は、自分にはもう永遠に訪れないであろうその瞬間を深くかみしめた。

 俺は今でもスポーツの楽しさをよく知っているタイプではない。でも、もしかしたら、スポーツの一番気持ちの良いところを経験してしまったのかもしれない、と思う。この経験がなければ、きっと今も、すべてのスポーツを馬鹿にしていたと思う。
 たとえ、可能性が低くても、全力でぶつかっていくことに価値がある。次の2回戦ではあっけなく負けてしまったが、「とにかく勝つ」なんてことよりも、得られてしまった充足感は、実際に俺の人生を変えた。「最後まで絶対にあきらめない」という、ありふれた名言を、常に信じてしまうほどに。

 試合直後、SSくんは言った。
 「決勝だったら、絶対に泣いてたよ」
 と涙ぐみながら。

 最近になって、俺がこの話をしたときに、SSくんは
 「ばんちょーが、いまだにそんなに覚えてくれていて嬉しいよ。あぁいう体育会系のノリってさ、そうじゃない人には受け入れがたいものだし、あの時、俺らは、そうじゃない側の人に、申し訳ない気持ちもあったからね」
 と言いながら、「あれさ、ほんとはさ、、」とPK戦の心理戦の裏側を嬉しそうに語っていた。

 夏休みには、学校でやってた物理の夏期講習に一緒に参加した。少人数だから、お互いはじめて習う範囲なのに自分よりもSSくんのほうが理解が早いことを、直面する。もちろん、今では俺のほうが物理ができるけど、、それでも、SSくんに物理や数学について何かオフェンスされたら、ビビってしまうかもしれない。
 そこで今も連絡を取っている、高2のときの物理の恩師、A先生が、俺とSSくんに、昼飯にコンビニでパンを奢ってくれた。SSくんは「うまいな。ありがたいな…」と噛みしめるように食べていた。

 長い夏休み、SSくんと一緒にテニスをやろう、ってことになって、俺は中学時代の友人のケースケを誘い(自分史1参照)、SSくんとテニスコートを借りてテニスをすることになった。当時ケースケはテニス部で、ケースケは他に2人ほど連れてきていた。
 正直、この時のことは断片的にしか覚えていない。俺が当時好きだった2大友達がお互いに会う。そんで、テニスする。途中まで、かなり仲良く、SSくんのおかげでいい試合をしていたと思う。当時、それ以上に楽しいことなんて想像もできないはずなのに、あんまり覚えていない。ただ、間違いなく分岐点で、この日を境に、ケースケと会わなくなって、放課後にケースケと会わなくなったぶん、よく勉強するようになった。何かキッカケがあったはずだし、何かの言い争いをした記憶もあるんだけど、具体的にどうだったかあんまり覚えていない。
 その帰り、SSくんから、何かのバイトを紹介された。その時に、『いや、俺はバイトする気はないんだけど』と言うと、SSくんはいつもよりも強い口調で、
 「だったら、ばんちょー、部活もやってないんだから、学年で1位とるくらい勉強しろよ」
 と言われた。それは非常に正論で、ちょうど良いキッカケだった。確か、それからだったと思う。定期試験があるわけでもないのに、勉強する時間がやたら増えて、受験にむけての勉強を自分なりにし始めた。

 それから、あっという間に冬が来て、それで、あの2003年のクリスマス。その日に、あらゆるすべての糸が繋がり、どうしてSSくんが常に自信満々なのか、日々勉強し、出来る限りスポーツを楽しみ、バイトまでしているのか、、そして、何より、弱者に非常に優しいのかを、理解した。いや、今でもきちんと理解できているかはわからないけど、、一応の解釈を与えることができるようになった。
 あんな大変な状態のときでも、俺なんかに気を遣ってメールをくれるSSくんは、数少ない尊い人類の一人だと思っている。

 大学受験を迎えた時も、浪人中も、ずっと応援してくれた。俺からSSくんにできることは少ないのに。浪人中の受験期間(って、実は一番怖いんです笑)、もうダメかもしれないってときに、助けてくれたのはSSくんからのメールだ。
 D2の終わり、学振DC2に落ちた俺に、忙しいなか会ってくれて、「もう一度、学位を取れるまで、できることをやってみたら?」と諭してくれたのは、SSくんだ。彼はアカデミックに明るいわけじゃないけど、研究室やアカデミックにいるあらゆる連中なんかよりも、よっぽど、日本の研究を本当の意味で支えていると思う。

 アメリカに行くって伝えた時に、面と向かって、すぐに「おめでとう」って言ってくれなかったよね。いつもの自信満々の表情がちょっとだけ消えて、帰ってからLINEで「気を付けて、頑張って来いよ」と言ってくれた時、俺自身がアメリカの研究室に行くことに何の価値も感じていないことをすっかり見抜かれていたことを察したよ。
 お互い大学受かったときだってそうで、、いつだって、短絡的には「おめでとう」と言わない、そんな考究されつくした配慮が、どんなに俺を助けてきたか、わからない。

 こないだは、ごめんね。4月1日のエイプリルフール、『日本に帰って結婚します』って、たなかくんとなおちゃんと仕組んだ、Facebookの投稿。一番最初に引っかかったのはSSくんだった。「寝耳に水だけど、結婚おめでとう」って、やっぱりちょっと含みのある言い方でさ、一番騙しちゃいけない友達が一番最初に引っかかっちゃって、俺の罪悪感はマックスで…(だったらするなよ、って話ですが笑)。だって、これまでで、結婚式で心から感動したのは、SSくんの結婚式だけだから。
 すぐにLINEすると、「日本に帰るのは嘘じゃなくて良かった」って。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけだけど、泣いちゃったよ。

 っていうか、そもそも、引っかかるほうが悪いんだぜ?
 12年前の4月1日エイプリルフールにも、俺がこのブログをやめる、って言ったら、「ブログはやめないんだよな?」と言ってきてたじゃん。毎年やってるんだからさ。

 お前と一緒に作った、ABCグループ理論、今の中高生にウケてるみたいでさ、俺のYouTubeチャンネルの一番の再生数だよ。5000回以上も再生されてるなんて、いまだに信じられないわ。
 また、何か、価値あるものづくりを、一緒にさせてもらえたらな、って思っていたりするけど、、きっと忙しいもんね。俺は、お前が、本当の意味で暇になるまで、ずっとずっと待ってる。そして、そのためにできることがあるなら、なんでもしたいと思っている。

 …というわけで、高3の時の話をごっそり抜いたんですが、それはまた次回。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自分史1 -アベさんとショウさん-

2018-04-09 04:10:11 | 自分史
 「高橋くん、何位だったんだよ?」
 あんまり喋ったことのない、クラスの中で3番目くらいにノリのいい男子が話しかけてくる。
 「おい、見せろよー。お前、頭いいんだろー」
 『いや、やめろって。全然、ダメだったって』
 と、俺は振り切った。すると、クラスで5番目くらいにノリのいいヤツが、
 「俺なんて、クラス9位って、しょぼい順位だからよぉ」
 クラス40人のなかで俺の順位は確か25位。他人には絶対に見せられない順位だ、と当時は思っていた。

 2002年、高校1年の当時の俺は、はっきり言ってクラスで浮いていた。クラスの誰ともまともに話すこともできなかったし、自分自身が大きく壁を作っていた。クラス対抗の球技大会では、図書室に籠っているほどの、根暗っぷり。
 「どうしてか?」と言われると、今でもあんまりうまく言葉にできないけど、単純には、クラスのみんなが怖かった、というのがある。
 じゃあ、「何が怖かったのか?」となるだろうけど、また単純化して言語化してしまえば、「髪を染めているにも拘らず、自分よりも賢い彼らが怖かった」というのが、落としどころとしては正しいんじゃないかと思う。

 中学は中高一貫の私立。高校では公立に行ったが、高校のほうが偏差値が高かった。
 中学では、俺はかなり勉強ができるほうで通っており、学年順位も一桁台が当たり前。体育さえなければ、常に1位をとれるんじゃないか、というくらいには成績は良かった。
 だからといって、普段、勉強はほとんどしておらず、試験前に集中して覚えるだけ。中2病真っ盛りの当時、「パレートの法則」を愚直に信じ、20%の重要なところを丸暗記してしまえば80点がとれる、というのを実践し続けた。数学だけはそうはいかないから、授業中に授業を訊かずにひたすら問題演習を繰り返していたが(それは高2まで続く)、それ以外の教科はノートは真面目にとるけど、それ以外のことはまったく何もしていなかった。

 高校に入ってからも、自分と同程度の学力の人たちが集まっているにも拘らず、俺は試験前にパレートの法則を信じ続けた。直前で覚えるだけで、それ以外は一切勉強せず。そういえば、これをヘモグロビンに喩えたこともあったっけ。ヘモグロビンは酸素を引き付けやすく、切り離しやすい。だから輸送に優れている。俺は、知識を引き付けやすく、切り離しやすい。だから、効率よく点数が取れる。
 あぁ、なんて、バカなんでしょう。今もバカですが、当時はもっともっと本当にバカで、すいません。

 まともな努力をせずに、最低限の直前対策だけで成功できると信じる。これは失敗パターンですよね。だったらバカになればいいわけですが、身体に染み付いてしまった、集団のなかでの賢いキャラを捨てきれていない高1の俺は、そのねじれ現象に苦しんでいた。
 加えて、公立高校は校則も緩く、髪を染めたり、制服をまともに着ていなかったりする。そんな奴らが自分よりも良い成績をとっていることを認めたくなかった、、いや、やっぱり、そんなにカッコイイ言葉なんかじゃなくって、ただ単純に、怖かった。自分のちっぽけな能力が、誰かの部分集合になってしまうことが、とても怖かった。ノリが良くて、部活も一生懸命やっていて、それでいて成績が自分よりも良いなんて、すごい、って思うよりも前に、怖い、って思うほうが自然じゃないかと、今でもそう思う。

 そんな俺が当時、放課後に居場所にしていたのは、地元の川崎の駅ビルにあった、ゲーム置き場。中学の頃から友達とここに入り浸っていた俺は、高校が終わったらすぐにケースケに携帯で「16時半には行けそう」と連絡し、毎日ここで遊んでいた。ケースケは、中学の同級生で、一緒によく遊んでくれた友達だ。ゲーム置き場で集まるからといって、沢山ゲームをするわけでもない。単純に駄弁るだけ。それくらいに時間を持て余していたのだ。
 当時、約束をしなくとも、放課後にそこに行けば、ケースケや他の中学時代の同級生と会えた。その友達のなかには、最終的に高校に行かなくなってしまった者もいるし、部活もやっていない、特別勉強ができるわけでもない、そんな連中と一緒にいると、俺は自分の気持ちを整えることができた。ほんと、よくよく思い出してみるとサイテーだなぁと思います。

 そのゲーム置き場には管理しているバイトの人がいて、俺らと顔見知りになっていたのは、2人。アベさんとショウさん。アベさんは当時22才の小柄な女性で、そのゲーム置き場の責任者。ショウさんは当時21才の眼鏡をかけた背の高い男性で、漫画ばかり読んでいた。2人とも、2000年代前半の、どこにでもよくいるフリーターだった。
 中3の時から知っていたが、その後、浪人して大学が決まるまで、俺はここにちょくちょく通い、色んな話を聞いてもらった。彼らは、学校にも行かず、正規社員になろうともせず、アルバイトを繰り返し、なるべく社会から孤立することを望んでいた。特にアベさんは深刻で、口癖のように「あー、どっかに、もっと他人と関わらないバイトないかなぁ」と繰り返していた。そこもかなり他人と関わらないバイトなのだけどなぁ。。でも、そんな彼らが、一時期の俺を支え、育ててくれ、価値観の一部を作ってくれたことは、まぎれもない事実。なのに、10年以上も連絡を取っていないし、連絡先もわからない。
 アベさん、ショウさん、元気ですか?社会が嫌で厭で仕方なくって、なるべく他人と関わりたくないってよく言ってたこと、、アメリカから帰ってきて無職の状態の今の俺には、よくわかる気がしますよ。

 総合成績をクラスメイトに開示しないことで冷やかされた俺を、アベさんやショウさんは温かく迎えてくれる。
 「高校なんてさ、やめちゃえよ」
 とショウさんが言うと、
 「そんなこと高校生に言うもんじゃないでしょ」
 とアベさんが言う。
 「なんだよ、アベ子。良い子ぶって」
 「だって、あたしはショウくんと違って、ちゃんと高校卒業してるし」
 そういうアベさんも、修学旅行サボるくらいには高校で浮いていたらしい。
 「よーするにさ、友達か、家族か、先生が、ちゃんとしてないと、ゲームとかに走っちゃうヤバいヤツになるってわけよ」
 「ショウくん、どれもダメじゃん笑」
 「だから、君ら(俺とケースケ)は、恵まれてるよ。ぜんぶ、ちゃんとしてるじゃん。どれもないヤツは、警察にちゃんと捕まるまで更生しないからね」
 「ショウくんは、警察にちゃんと捕まっても更生してないけどね笑」

 朝から夕方まで機械のように高校に行き、放課後にケースケと会う。そして、2人でアベさんやショウさんと、そんな話を繰り返す。
 高1の1年間、俺は、放課後だけ「生きていた」。

 高2になって、ショウさんは正社員として就職していった。
 「俺、来週から働くわ。若い会社で、上司とかも30代しかいないみたいだし、なんとかやっていけるかなって。っま、再来週すぐ、ここに戻ってくるかもしれねーけどさ笑」
 ショウさんとは、それっきりだった。中卒のショウさんから、何度か本を借りたこともあった。明日は社員が来るからって、一緒に漫画を片づけたこともあった。一緒に川崎の街を歩いて、ショウさんがタバコを吸い、私服警官に職務質問されたこともあったっけ。
 「俺ってまだ高校生に見えるってこと?」
 『いや、俺が制服着てるからっすよ』
 高1のとき、クラスメイトとの思い出は特にないが、ショウさんとの思い出はある。だが、所属を介在させていない関係は突然終わりを告げる。あっけなく。

 その後もアベさんとは、そのゲーム置き場がなくなる2006年の春まで、ちょくちょく会って話していた。

 アベさんが彼氏と別れたときには愚痴を聞いた。
 「意味わかんないよね。別れる、ってなってんのに、呼び出すんだよ?」
 俺が浪人したときには励ましてくれた。
 「別に大したことじゃないよ?お兄ちゃんも浪人して、横浜国大入ったし」

 高2の夏にケースケと喧嘩して、浪人中に仲直りするまでずっと彼とは会わなかったが、その間もアベさんとは会い、ケースケとの仲を取り次いでくれようとしたこともあった。

 だけど、もともと俺が高校で浮いていたからこそ成り立っていた関係性。高校で友達ができればできるほど、成績が上がれば上がるほど、ケースケや中学時代の友達とも距離が離れる。そして、アベさんとも。

 2005年秋ごろ、確か2回目のセンターの出願を終えた直後だったと思う。アベさんと、何かのキッカケで、すごい言い合いになってしまったことがあった。
 『え、中学や高校で習うことって、そこまでそんなに意味がないとは言えないと思うけど。。』
 「だって、数学とか化学とか、使わないじゃん」
 『そりゃ、使わない人は使わないですけど。でも、歴史とか社会とかは、役に立つでしょ』
 「歴史なんて、過去を振り返るなんてさー、意味ないでしょー。あたし、過去をいつまでも引きずって生きてる人、きらーい」
 『じゃー、中学で、何習ったら良いと思ってるんですか?』
 「え?敬語とか?」

 『そんなの、勝手に身につくじゃん』と言葉が思いついたが、心の中でとどめた。その後、気まずくなって、あまりアベさんとも会わなくなり、そのゲーム置き場が無くなるってことも、一切知らなかった。
 理科大に受かったときに『受かった』とアベさんのところに報告しに行くと、アベさんは少し寂しそうに「そう、、よかったね。おめでとう」と言ってくれた。それっきり、アベさんとは一度も会っていないし、連絡も取っていないし、今どこでどうしているのかもわからない。

 大学に入学してから、ふと「大学行った連中なんてさ、別に遊んでしかいねーじゃん」と、ケースケとアベさんとショウさんと俺の4人で盛り上がっていた頃が懐かしくなったりした。そんな「大学生」に、自分はなってしまったんだなぁと。その言葉に反発するように、物理学科で4年間、勉強しまくった俺は、結局、何が得られたのだろう??
 やっぱり、勉強して賢くなっても、まともに努力しても、一周まわって、あんまり意味が無いんじゃないかと思うけど、、でも、勉強したおかげで、、お兄さんは国立に行って、自分だけ大学に行っていないアベさんが、大学合格した俺に「おめでとう」と言うことが、どれだけ辛かったか、どれだけ優しかったか、それくらいの想像はできるようになった。高校を卒業していないショウさんが、俺が高校で上手くやっていけるようにって、こうやって話題ふってみれば?、と言ってくれたことが、どれだけ有り難いことだったか、勉強したおかげでわかるようになった。それには、それだけには、それなりに価値があるんじゃないかと思います。

 …というわけで、俺がどうして直前対策以外に習慣的に勉強するようになったのか、どうしてケースケと喧嘩したか、は、次回に書きたいと思います。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする