たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

期待が重荷に感じたら

2013-05-30 00:12:12 | Weblog
 最初は期待されるだけで満足。
 平均的な描像のなかから自分だけが期待される特別な存在であると確認できうる時間の区切りでは、その競争のなかでは自分が非凡であるという具現化だからだ。

 その期待に応えようと日々頑張る自分を客観視したときに、また、もう一歩先の満足ができる。
 今できることがきちんとできている自分を感じながら頑張ることは、楽しいし、期待のされ方も一段上がる。

 ここからは、即物的な結果が出せれば現状維持で、出せなければ期待が重荷へとtransferしていく。
 遅かれ早かれ、結果はいつかは打ち止めになる期間が来るので、数でも質でも量でも期待されればされるほど、その期待に応えなきゃ、ってやっきになっている自分に疑問が生じてくる。
 自分は何のために、こんなに一生懸命、頭を使い、身体を使い、感情を使ってるのか?、ってね。行動を捧げ、時間を捧げ、お金を捧げ、身体を捧げている、自分自身と、それを要求してきている(と勘違いしている)相手に対して、懐疑的になる。

 この状態が長く続くと、途中で気がつく。単に、期待されなくなることが怖いだけ、ってね。
 そう、最初から、自分だけが期待されているわけじゃなく、大勢に対して等しく期待してくれている博愛主義的な人に期待されていただけなのだ、っと思ってしまう。
 でも、なかなか、離れられない。これまで使ってしまった、膨大な奉仕を、無駄にはしたくないから。

 こんなプロセスを、仕事でもプライベートでも続けていれば疲れてきそうだけど、実は、このプロセスをきちんと踏むことで、やっと、ホンモノか否かを評価することができる。
 最後の段階まで行った時に、あなたから離れず、相手から離れていってくれたら、イヤなやつだからほっとけばイイ。最後の段階、つまり、結果がで続けないような苦しい時間帯や、生活の中での難しく退屈な側面を共有しても、一緒にいてくれるなら、それでもなお期待してくれるなら、その関係は逃しちゃダメだ。
 そういう人と繋がらさせてもらっていたなら、必ず結果は出るし、残酷な物理現象に勝っていける。

 いつまでも続く信頼関係は、即物的な言葉や結果に依存しない。
 心と心が繋がりながら、お互いがお互いを期待し合い、その関係性まで期待できるようになっていったなら、楽しく強くなれるのだと思う。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

未来に繋ぐ慧眼さ

2013-05-28 02:04:08 | Weblog
 不必要な感情を排除し、他人から見た時に(世間体的に)重要なたった一つの感情を中心に、思考力を限界まで突き詰めて、論理性を発揮していっても、たいてい、良いことは何もない。
 理詰めのみで考えれば考えるほど、時間がかかるし、100%ではじめて成り立つ、輝かしい期待すら排除させてしまうような結論にでることがほとんど。そんなんじゃ思考力を持っている意味が無いし、動物の方が幸せ、なんて帰結は棄却しなきゃね。

 例えば、非常に小さいことで言えば、空いてい過ぎな日のディズニーランドに行くと、意外とつまらなかったりして、拍子抜けする、みたいな。

 空いてるディズニーランドに行こうと思った時、祝日じゃない平日をなんとか狙って行くことが多いと思うけど、月曜や金曜は多少混んでいる。っで、火~木は、だいたい、まぁまぁ空いているのだ。そうねぇ、俺の大好きなスプラッシュマウンテンが30~45分待ちってところかな。
 っで、この火~木のなかでも、さらに特別空いてる期間がある。真冬とか閉園時間が早い日とか連休直後とかね。こういうときに行くと、スプラッシュマウンテンは5~15分待ち。
 確かに、入園制限のかかったディズニーランド、つまり、スプラッシュマウンテンが150分待ち(2時間半待ち)、ピーターパンとかシンデレラなどの比較的小さいアトラクションでも60分以上待ち、なんて日に、ディズニーランドに行きたくはない。だから、空いているディズニーは最高ではあるんだけど、空き過ぎてると、なんだか、物足りない。意外と、待ってる時間とか、人がいる雰囲気も、楽しんでいるのかも?

 っと考えた時に、「空いてる日じゃなきゃイヤー!!!」って思いでいっぱいになって、それに対して思考しまくって、超空いている日を探し当てたとしても、結局、他の気持ちを抱いて、満足しなくなってしまうのだ。
 思考するときには、いくつかの感情を思考にきちんと取り入れられているかを常にチェックし、なるべく感情に多様性を持たせながら思考していかないと、思考力なんて、頭がイイなんて、単なる冷酷じゃん、って結論になってしまう。

 ってことで、ディズニーランドは、普通の期間の、火曜くらいに行くのがベスト?
 これが、単なる利口さや賢さとは異なる、慧眼さや聡明さです。笑

 これくらいの聡明さを持っていれば、観なくても良い不幸せなモノも観えてきてしまうことがあるし、不条理を確認してしまいがちになる。
 ただ、そうなってしまって落ち込みそうなとき、思考力の中から得られる、誰か信頼している人の感情のベクトルを考えて、正しいことを少しだけ捻じ曲げてみたなら、解決策が観えてくるのだと思う。それこそが未来に繋がるわけだし、もっと先の結果を考慮したときに、結局、(精神的、だけでなく、実務的にも)一番正しくなるのだ。

 論理性を都合イイように使って、自分を負かせて、相手を勝たせることが、明示的にできるなら、そこにチャレンジしてみたら良いと思う。バレたって大丈夫。そのくらい、あなた(と)の未来に期待している、ってことを、曖昧に伝えることにもなるわけだから。

 慧眼さを高めれば高めるほど、知らなくてもイイ不幸な事実を知ってしまう率も、高まる。
 でも、それ以上に、普通じゃ知ることはできない、気持ちの純粋さに、気がつくことができる。それは、リスクに対して、とっても価値のあることだと思う。

 そっちのスタイルのが、信頼し合っている人も傍にいてくれるわけだし、楽しく夢をみながら、正しさを追求できるんじゃないかな。
 隠れミッキーを探すことに躍起になりすぎたりして、一番の目的である、みんなで楽しむ、から外れて行ってしまったら、仕方ないもんね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

超高温でとても秩序がある状態

2013-05-27 01:13:28 | Weblog
 一般に、ひとつひとつが活発なやりとりをしている多体系では、無秩序になりがちだ。
 系を構成する要素が粒子であれば、熱・統計力学から温度が高くなるほどランダムになるのは明らかだし、要素が人であれば、ノリの良いAグループの集団はノリの悪いCグループよりも散逸的になってしまいがちであるよね。

 だけど、系全体のマクロからの要請で、出力が「こうあってほしい」と定まっていることに関する情報共有がきちんと成されている系では、これが部分的に逆になる。
 温度が高ければ高いほど1ビットから得られる熱量は大きくなるから秩序だっていくし、Aグループの人達がきちんとした信頼関係の上で情報共有をしたら、Cグループの人たちがどんなに情報屋になっても、所詮見掛け上の秩序であるCグループの信頼関係なんて脆く、Aグループの結束力(≒秩序)には勝てない。

 一人ひとりがガツガツしながらも、一人ひとりが全体として「こうあってほしい」とより良い気持ちの状態を意識しながら信頼関係を結び、きちんとした情報のインタラクション(相互情報量)をとれれば、一番徳が高き状態なのだ。
 っま、こうなるのは、遥かかなた「高級すぎる理想」なんだけどさ。

 現実問題としては、情報の活用をここまで上手くは、なかなかできない。
 大抵の場合、温度が高ければ、Aグループであれば、活発的であるがそれぞれランダムだ。逆に、温度が低ければ、Cグループであれば、秩序は保たれているが活発的ではない。

 さぁ、もし、あなたがこの「高級すぎる理想」を目指すとするなら、どちらの方向から攻める?
 温度の高い粒子達であるAグループを情報理論の考え方によって秩序だてていくか、秩序性の高い粒子達であるCグループを熱統計力学の考え方によって慎重に温度の高い状態にしていくか??

 俺は、欲張りだから、両方で、試すけど。笑

 どちらも、なぜ?、っと問いかければ、方程式の根は見えてくる。
 Cグループが、見掛け上の信頼関係しか築けないのは、その多くが、Aグループなどが生成するノリの良さからの疎結合による自己集合化であるからだ。大抵の場合のAグループが秩序だてないのも、自分のことしか考えておらず、みんな集団のなかの隙間産業ばかりを考えて、自分が生き残ることしか考えられないからだ。

 まるで(雰囲気だけ)囚人のジレンマみたいだけど、論理的に考えていって、お互いがお互いのことを想いやるメリットがでてくるのは、嬉しいこと。
 相手のことを、互いに、より良きでありたいと願っていれば、行動していけば、それこそが、「高級すぎる理想」である、温度が高くて秩序立っている特殊な状態を築くことに寄与する。

 「高級すぎる理想」という書き方をしたが、この理想は、実は、これが達成されない限り、人は、自らにすでに与えられている選択肢からしか選びだせないようになっているほど、達成せねばならない理想であるのだ。選択肢を自らの手で創発させ、その選択肢を手にしていくようなメソッドは、自分はもちろん、周囲をも楽しくさせる力を持っている。
 逆に、大事なことにまで手を打って、自分を納得させようと言葉を鵜呑みにすることは、不幸に繋がってしまうんだぜ?

 ここまでの議論で、重要な物理量が抜けている。それは「時間」だ。
 どれほどの時間スケールで、どれほどの効果があり、どれくらい「高級すぎる理想」に近づけるかはわからない。

 でも、そこは、確かに意志を持っている生命現象としての俺らの頑張り次第だし、俺は、俺らなら、すぐにでも達成しうる内容だと想うぜ?

 薄っぺらい関係性でイイなら、いつでも、手にすることができる。そんなくだらない満足、本当に欲しい??
 別に、(ここを観てくれている皆さんは全員)まだまだタイムリミットは遠いんだし、もう少しだけ、きちんと理想を追ってみたら良いと想うのだ。

 活発に、みんなで楽しく、信頼関係を築きながら、本当の能力も備えているような状態。
 超高温でとても秩序がある、より良い状態を願いながら。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

論理性の無駄遣い

2013-05-23 00:36:42 | Weblog
 力をつければつけるほど、本当の能力が手に入れば入るほど、良い人も悪い人も近寄ってくるから、自分が本当に信頼できる相手が見抜きにくくなる。
 力を保持&獲得していきながらも、自分のダメな部分を明確に持っていたなら、相手が勝手に判断してくれるから、少なくとも、差別や決めつけの激しいイヤな相手とは付き合う必要が無いから、そっちのがコスパーがイイのかも。

 正しく物事を見つめようと努力しながら、その場、その瞬間で、誰が信頼すべき相手で、誰のどの気持ちを守るべきなのか、を、自分の気持ちに、ほんの少しだけ論理性を付加しながら、明確化していく。

 俺がこういう風にはっきり発言すれば、こういう空気感になるだろう。この空気感なら、あの人が、こんなことを言うようになる。だとすると、こっちに攻撃が向くのは必至。その間に、あの人は、感情と思考を整理する時間が作れるし、今のあたふたでダメな状態から、少し抜け出て、ちょっとはラクになるし、しかも、それによって、集団全体も、より正しき理解になる可能性が高い。
 先を読んで、より良くするために、計算して、考えろ!考えろ!って自分に言い聞かせて。そんな思考力は、誰にも評価されないし、っていうより、もしかしたら、評価して欲しくもないかも。

 俺が突然いなくなったら、どれくらいのみんなが、自分が主体的に今の系をより良くしなきゃいけないと、腰を上げるんだろう。
 もし、そっちのが早いんだったら、コスパーがイイなら、ある瞬間、躊躇わないかもしれない。それくらい、好きになれている、って、良いことなのかな?

 もっともっと、ドラスティックな、より良い状態への変化が必要だし、みんながみんなそういうことを考えなきゃいけないのに、バカみたいに自分の領域を守ることしか考えてないし、isolateしてばっか。
 そんなスタイル、論理性が高いぶん、時間の無駄だろ。
 
 ただ、論理くらいしか確実に信用できるものはない、みたいな状態が続いていて、傍にいてくれる人はおろか、自分すら信用してイイのか怖くなることが多い時間帯が増えてしまった。そんな自分が嫌い。

 みんながみんな、もっと、他人の心を組み取れるくらいの心の器をもっていて、共有していけたらイイのにね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プライドが高いのに自信が無い

2013-05-22 01:19:37 | Weblog
 自分に自信が無ければ、本当の能力も思考力も行動力も、信頼関係も楽しさも、得ることはできない。
 かといって、プライドばかり高くなってしまえば、誰かと対等に正しく関係性を詰めていくことが困難になってしまう。

 自信とプライドは、明確に違うものだと想う。

 自信は、現在の自分から未来の自分へと時間発展させるための思考力を用いて、現在の自分よりも未来の自分がより良い状態であることを期待しているか否かを示す。
 プライドは、過去から現在までの自分の履歴を他者から評価されたことを材料に、現在の自分に課題を課すべきだと感じる気持ちの度合いを示す。

 その証拠に、自信は「自信がある」と言うけど「自信が高い」「自信が大きい」とはあんまり言わないでしょ?「プライドが高い」とは言うし、「プライドがある」とも言う。
 自信は秩序パラメータみたいな使い方をしていて、プライドは測定量みたいな使い方をしてるよね。

 本当は、どちらも対等くらいに存在していたら、イイものだと想う。

 プライドが高くなっているのに、自信が無いのであれば、それは、スタイルをガラっと変えないと、楽しくはなれない。心から笑うことはできず、いつも、どこか悲しい表情になってしまう。
 人と人との関係性に対しても、上手く行かない。だって、自分に自信が無いんだから、自分なんかと一緒にいてくれる相手が、どこか信じられなくなるし、好きであればあるほど、相手には、自分(たち)なんかじゃなくて、もっと楽しい環境が存在しているはずだ、っと惨めな気持ちになっていってしまう。っで、プライドは高いから、負けられないし、わかりやすい自らの勝ちを具現化するしかない。

 負けられない、って、本当に難しい問題だし、自分の事なのに、どうすればいいかわからないことが多い。
 自信をつけるためには、どうすればいいんだろう?

 簡単そうなのは、、プライドを無かったことにして、できるだけ、めいいっぱい褒めてくれる人のもとで、作り笑顔を繰り返していればイイ。…ね?笑
 そうそ、行動は感情にそのまま寄与するはずだから。

 余分なプライドは捨てて、絶対的な論理性で未来の自分を期待して、楽しまなきゃなー。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尊い信頼関係

2013-05-20 01:41:17 | Weblog
 どんな関係だって一過性。永遠なんてありえないのだ。

 現在、この世で、もっとも時間スケールの長い自然現象でユークリッド幾何空間内に確実に存在し人類が観測できるものは、宇宙マイクロ波背景放射(CMB)であり(もっと長いモノがあったら教えてね)、それすら永遠ではないだろう。
 どこにでもある普通のラジオで、最も長い自然現象であるCMBを僅かに観測することができる。言葉だけの「永遠」に寄り添っていないで、ラジオで超ロバストネスなCMBでも感じて、本当の意味での関係性の尊さを考えてみた方がイイと思う。

 こういう(本当の)ことを言うと、十中八九嫌われる。そういえば、中学の頃、人間関係(恋愛関係だったかな?)に悩んでるAグループの女の子がいて、俺がなんかの拍子に『まぁ、しょうがないよ。どんな人間関係だって、いつかは、必ず、別れがくるんだから。』って言ったら、「サイテー」って言われたことがあったっけ。笑

 この現実はきちんと受け止めていた方がイイと、今でも想う。
 人間関係は、一過性だからこそ、価値があり、大切にしなきゃいけないのだ。

 この現実を考慮せずに、相手と自分の違うところを数えて切なくなってみたり、まったく別の誰かに惹かれてる姿を観て無理矢理な薄い論理で引き止めてみたり、疏水結合のように何かを脅えていく関係性に身を委ねたり、言葉によってお互いの関係性を縛ってみたりしても、生産性は全く無いし、誰の何の心も満足しない。

 思考(頭で考えること)と感情(心で思うこと)、感情と行動は、それぞれ異質なものであるけど、感情を無視して思考によって直接的に行動を制御すれば、その行動は感情に対して直接寄与する。だから、思考で直接現実を認知していきながらも、多様性のある(普通の状態の)感情に落とし込みながら、適切な行動をとらなければ、行動そのものが(たったひとつに集約された)一種類の感情に制圧されてしまい、それは感情にとって最も良くない結論である「孤独」を生む。

 俺は、本当に能力がある人間の言うことを意図も簡単にきく。俺は意外と、本当に能力のある、っと俺が判断した人に対しては、従順だったりする。
 だが、それは、信頼関係を超えてはいない。当たり前のことだが、優先順位は、絶対的な論理性や即物的な能力の高さよりも、信頼関係のほうが上なのだ。すべての人は、能力があろうがなかろうが、お互いの信頼と想いのベクトルで成り立つ関係性にこそ価値があると想っている、と思う。

 何かを高めていこうと想っている信頼関係のほうが楽しいじゃん。
 単純に従順な人が望みなら、五万といる。でも、俺が望む関係は、そうじゃない。手ごたえがある人間関係を望むんなら、努力し合わないと。気まぐれで、気分屋で、楽しく感情がきちんと向いてるほうに転んでいくような、能力の得方をするスタイルで、お互いがお互いを独占し合う価値は、大いにあるはずだから。

 確かに、ユークリッド幾何空間内では、永遠のモノなんて存在しないのかもしれない。
 でも、感情やその集合が存在する空間では、永遠は確実に存在している。それは、実空間から、きちんと現実を拾いながらも、感情が存在している空間内が満足の二文字で満たされるように繋がる、情報量の大きい情報を上手く引き出していき、誤差ゼロに近い感情間での実験を繰り返せば、達成されうることだと思う。

 もしかしたら、最近は、絶対的な論理性の飢餓状態にあっていただけなのかもしれない。だから、なんとなく、希望が信じられなかったのだ。
 普段の生活の中で、こんなにも笑顔で満ちあふれる瞬間があるし、すごく俺のことを考えてくれるし、さらに、同じ目標を持つ信頼関係が存在している。俺にはすでに、絶対的な論理性なんかバカバカしく感じるほどの信頼関係がある。それはユークリッド幾何空間的に一過性であるけれど、それで満足しているし、かけがえのない財産であるし、満足していながら、希望を追いかけることや系をより良くすることは十分できる。

 圧倒的なくだらなさのもと曖昧な中にモノゴトを埋め込まず、絶対的な論理性でくだらない無意味で自分勝手な慣習を打破し、さらに、感情を大切にすることで、信頼関係とホンモノを掴むための行動をし続けることは、現実的に可能であるということが、よく理解できた。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪を求める者には悪が訪れる 2

2013-05-17 00:45:45 | Weblog
 俺は、自分の思考力を持ってすれば、どんな問題だって解決できるというくらい、思考力を高めていきたい。
 でも、思考力の絶対量は、おそらくもう上昇できないだろう(事実、学部4年くらいから変わっていないと思う)。だから、その使い方を上手くしていくしかないのだ。そうすることで、自分の限界まで、思考力を高めることができる。

 「我々が理論物理を研究するのは、正しいことを正しいと自信を持って言えるようになるためなんだよ、高橋君。」

 っと、俺が最も尊敬する研究者の一人は仰っていた。
 あの頃よりは少しだけ研究についてわかるようになってきたつもりだけど、今なら、本当にその通りだな、って想える。そっ、何かを知りたいためでも、名をはせたいわけでもなく、ただ、問題点の指摘および解決を多方面に行うためだけに、自然科学の研究を行い、論理性を高めることが必要なのだと思う。現代には特にね。

 2年前、顔も知らない先輩に対して、もっとこうしておいてくれよ、っとか、長い歴史のなかでみんながみんなターニングポイントを逃し続けた結果だな、ってよく思ったものだけど、今は自分が初期の頃の大先輩であり、顔もわからない遥か先の後輩からダメだしを喰らっているような気がする。
 もっともっと思考力を高めて、ちゃんと全員で、問題を解決していかなきゃいけないのに、それができない不甲斐なさと、助けるべき人を選んでいる自分にイライラしてくる。

 「よくあること」だし、「普通の物理現象」だな、って感じることでも、自分がからめば違う、ってどこかで思いたいところがあって、それが達成できないと、自分がわざわざその場所に存在している価値が無いような気がしてきてしまう。
 即物的な利益が、俺の手元にだけ残っただけ。そんなんじゃ、ダメダメ。

 どこが悪かったのか、しっかり反省して、やり直さなきゃいけないし、そうじゃなきゃ、自分が本当に大事にしたい系や階層が少しだけ上の集団に対して、より良くするなんてこと、できない。
 ただ、やめなければ可能性は常に残る。だって、

 "If you search for good, you will find favor; but if you search for evil, it will find you."

 不貞腐れそうな半分の自分が、もう半分の純粋な自分を浸食する前に、何か手を打たなきゃね。
 っま、常にそんなもんなんだけどね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都合のいい女

2013-05-16 00:43:32 | Weblog
 人は集団化してしまえば、個人の能力をつけようとはせずに、その集団としての優位性に甘んじてしまうところがある。
 どこどこに所属しているから大丈夫、なんて、淡い幻想であるにも拘らず、日本は、その淡い幻想を認めてしまうようなシステムに溢れている。だから衰退していってるわけだけど(笑)

 心のどこかで本当の能力をつけようとしていないことに不満足さを感じてはいるのだけど、本当の能力をつけようとはせずに、井の中の蛙になっているほーが、手っ取り早い即物的な幸せはつかみやすい。
 本当に好きなモノや、大事なモノを諦めて、妥協して、その行為に対する口八丁ばかり巧くなって、幻想の波にのまれているほーが、もしかしたらラクなのかも?

 自分にとって都合のいい解釈をしようとする人の方が多いのだから、そこで集団化しておけば、攻撃もされないし、自分が特に努力しなくても選択できる範囲の中で、他人が最大限評価してくれる選択肢を選択していれば、それで満足だったりして。
 貫くほどの純粋な想いが、なかなか達成されないんだと悟ると、行き場を無くした即物的な感情を、自分の能力的な部分だけで満足してくれる人に委ねに行く。満たされなかった感情の一部を切り取って、他の誰かで満足するなんて最低なのだけど、それによって得られる満たされ具合を寄せ集めてしまえば、もしかしたら、もと以上だったりもして、本当の能力を持とうとすることや、ホンモノを掴もうとすることの無意味さを感じてきてしまったり。

 じゃぁ、本当の意味で頑張ろうとなんてしないで、今ある選択肢の中から、社会的に認められるモノを常に計算していき、それだけを選んで、そこに要求されるめんどくさい事務的な行為のみを即物的に頑張っていけばイイ?
 恋愛対象から、仕事から、趣味から、研究対象から、遊びに行くメンツまで、自分の想いに従って無理に頑張るなんてバカバカしい発想であり、自分の身の程に諦めを抱きながら、自分が選択できる範囲のなかで、それらが要求する事務作業をこなしていけば、それなりの幸せを掴める、って結論に行きついてしまう。

 さきに答えを言っておけば、そんなわけはない。自分の心にきちんと素直になって、残酷な物理現象をどうにかしようと解決策を探りながら、自らで相手やみんなを引っ張っていき、成果を出していって業績を上げ、認められるメリットは、もっともっと本質的な部分にある。
 (1)その世界が要求してくることだけに忠実に従い、成果を出し、認められることと、(2)自らの心を満たすために必要なことを、自らのやり方で達成し、成果を出していき、認められることは、まったく同じ物理現象であったとしても、まったく異なる生命現象なのだ。

 (1)と(2)では、たとえば、最後に観える景色が、圧倒的に違う。前者は薄暗闇であり、後者は光のなかの絶景なのだ。

 なぜなら、(1)のように、ずっと即物的に、その世界の要求に対してのみロボット的に振る舞っていたら、後世を教育することはもちろん、誰かをきちんと助けることが一生できない。
 だって、本当の能力は無いんだから。不条理なことがあっても、都合のいい解釈の仕方や、飲み込み方を支持することはできても、それは助けていることにはならないし、本当の意味での優しさの発現にはなれない。

 でも、成果が遅れてしまっていても、拙くても、自分のスタイルとやり方で、自分の心に正直になって頑張った結果があれば、後世だけに限らず、誰かをきちんと助けることができる。
 だって、自分がきちんと肌で感じながら経験しているから、相手の気持ちが手を取るようにわかるからだ。誤魔化してきてしまった人が誤魔化し方しか教授できないのに対して、きちんと対応できる方法論を、相手の立場に立って、自らで構築できる。

 助けることができる、っというのは、とってもとっても大きな収穫だと思う。

 っそ、助けることは、助けられることなのだから、自分のやり方で、周囲を取り込み、世間に認められるってことは、本当の意味で、助かる、ってことなのだ。

 だから、都合のいい人にならないで。
 要らない考慮までするようなことが習慣化してしまっているのだとしても、もっともっと、自分の心に素直になっていかなきゃいけないんだと思う。本当の意味で、助かるためにね。

 まぁ、そんなこと以上に、純粋さや純真さを失わずに、ホンモノをリアルタイムで感じながら過ごそうと努力することは、たとえ今が辛くても、それを諦めてただ生きるよりは、ものすごく楽しいことなんだと思う。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

未来の成功を予想するための思考力

2013-05-14 01:46:47 | Weblog
 ほんの少しの効果によって、系は劇的に変わるものだ。
 それは、集団生活や信頼関係の中であれば、少しの感情の変化や(時間的or確率的)ゆらぎやマクロな要請から、変わっていってしまう。

 みんなでより良く変わっていくためには、自らの感情をよく把握し、全員の感情の良い部分だけを抽出できるだけの思考力が大事になる。これらができさえすれば、本当の意味で、幸せに近づくのであると思っている。
 何かの言葉を得ることや、何かの保証を得ることに依らず、本当に未来に楽しいことが起こり続けるという確証は、すべて、時間発展させた時に未来の成功を予想できるだけの思考力によって得られるのだ。

 だから俺は、自分のやり方やアイディアを、よく、ばらす。
 ばらしたくらいで、後参入に取られてしまうようなアイディアや発想なら、それは、その程度のくだらない内容であったということなのだから。

 きちっと、未来の成功を論理的に予想できた時、誰にも依存せず、自分(たち)だけしか達成できないことになるはずであり、それこそがホンモノだと思う。

 そして、その風向きがこちらに向いている今は、もっともっと思考力をより良い感情にだけ使って、いっきに楽しさを抽出できるチャンスだし、この機会を逃す手は無い。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

研究室ゼミの理想 - 研究室を準拠集団にするために -

2013-05-13 01:14:36 | 自然科学の研究
 昨年のクリスマスイヴに書いた「研究室の選び方 - 『このラボだっ!』と決めるその前に -」が、かなりアクセス数を伸ばしてくれていて、皆さま、ありがとうございます。
 googleで「研究室 選び方」で検索すると一番はじめにでてくるので、マジでちょっと怖いですが(笑)、何か参考になるところがもしあれば幸いです。

 っというわけで、今回も、このページの総アクセス数を増やすために(笑)、この記事を書きます。

 どこの研究室でも、たいてい週に一度、論文紹介をしたり、進捗状況を話したりします。それを「研究室ゼミ(ラボミーティング、研究室セミナー)」と言います。
 俺は昔から研究室ゼミに不満を感じることは多くて(笑)、もっとこうしたらいいんじゃね?、ってことを周囲の皆さんに言わせてもらっていると、「じゃー、どういうのが理想なんだよ!」と言われることが多いので、書いておこうと思います。

 心の底で、研究室のゼミは非常に無駄だ、っと思っていたり、くだらない、っと思っている方は、実はかなり多いんじゃないかと思います。
 この記事では、主にその方たちに向けて、これから何ができるか、を語りたいと思います。

 まぁ、僕はただの学生なので、まったくなにもわかってない学生が…ぅんたらかんたら、、って感じで、読んでみて下さい。


 研究室で生活するために、かなり重要な割合を占めてくる「研究室ゼミ」。
 研究室を準拠集団(各々のメンバーが心から所属していたいと思っている集団)にするためには、「研究室ゼミ」がその命運を握っている、と言っても過言ではないと思う。
 なので、より良いゼミを効率的に実施するために、何が大切で、何が必要で、何が不要で、何がカギなのかを、ポイント別に話したいと思います。

 [1]全員が喋る

 研究室のゼミで一番大事なことは、全員が喋ることです。
 全員ってのは、本当に、全員です。学部生も、入ったばかりの院生も、テクニシャンも、例外ではありません。全員が喋る、ってことが、めちゃくちゃ大事です。

 研究室のメンツって、多くても20人です。しかも、90分以上の時間を要することが多いです。全員が喋れるくらいの時間は余裕であるんですが、それでも、たいていのラボでは、喋る人が決まってしまっています。
 ディフェンス(発表者)側が喋るのは当然ですが、オフェンス(リスナー)側もきちんと喋らないと、良いゼミにはならないし、(ゼミを通して)信頼関係を築こうとするなら当然ですよね?

 実は、学部生やM1ってのは、質問しやすいはずなのです。だって、研究内容について、よく知らなくて当然ですから。
 にも拘らず、入ってきたばかりの学生の多くが質問しないなら、それは、スタッフと上級生が悪いです。質問しやすい雰囲気を創る、ってことが意識できていないのです。
 どんな集団でもそうですが、何でも発言しやすい雰囲気は、創ろうと想わなければ発生しません。前にも書きましたが「異常」になりやすい研究室内の空気ですから、研究室ゼミで、ディフェンスとPI(Principal Investigator)だけしか喋らなかった回が一回でもあるラボは、その根幹を疑うべきです。根深い問題が出てくるはずだろうと思います。

 では、全員が喋る為には、どうしたらいいか?
 簡単な解決策は、オフェンス側でよく発言する人が、(オフェンス側のとき、ディフェンス側のときに関わらず)それとなく喋らない人に対して意見を求めれば、みんなが強制的に参加せざるをえません。これは即物的な解決策ですが、まず、すぐできることとしては、どんなラボでもできることだし、簡単です。

 研究室で一回もオフェンスしたことが無い人、オフェンスできない人が、すぐにできるオフェンスのやり方があります。
 「○枚目のスライドの、その部分、よくわからなかったんで、もう一度説明してもらってもイイですか?」
 俺も、昔(っと言っても学部3年生以下のときね、ふっふっふ(笑))、よくこの質問ばかりをしていました。っというか、この質問は、学会でも、セミナーでも、出無さすぎです。こういう質問は、もっとあってしかるべきで、日本の研究者やその卵たちが、いかに不勉強で、わかったフリばかりをするのかを物語っています。

 拙くても、幼くても、くだらなくても、全員が喋ることが達成されるなら、まずは、それでかまわないのです。
 まずは、全員が喋る、っということで、スタートラインに立てます。全員が喋るゼミをすることは、ゼミとしての最低ラインです。
 これができていない研究室は、英語でゼミを行う、などの、わけのわからない自己満足をする前に(メンバーに外国人がいるならある程度は仕方ありませんが、英語を支持しまくる理由は、自然科学、自然現象とは解離していることをもっと思いだして下さい)、まずは全員が喋ることを目標にすべきです。(ちなみに、[1]と[2]ができている研究室のみ、英語でゼミを行う価値が本当にあります。)

 [2]アウトラインを質問しその答えを全員で考える。

 はっきり言いますが、(少なくとも日本の)ラボには、知識自慢をするオフェンスや細かすぎるディテール(詳細)を質問するバカが多すぎます。
 知識自慢や細かすぎるディテールの質問は何も生産しないどころか、入ってきたばかりの人に質問しにくい空気を形成させることにものすごく寄与しますし、自分勝手で迷惑で、何より時間の無駄です。

 ディテールを質問すれば真面目で有能だと思われる、っという幻想は、ラボに入ってから、なるべく早い段階で捨てましょう。
 細かいディテールの質問や知識自慢をしてイイのは、入ってきたばかりの人だけです。喋ることがないから、仕方なく頑張ってる感をアピールするために質問する、ってのが許されるのは、一番年下の特権です。
 M2やドクターの学生はもちろん、PIやスタッフがするなんて、以ての外。本当にディテールを質問したいのなら、発表終了後に、個人的に訊くべきです。なるべく、全員で共有する価値のある質問をすることができるように、努力しましょう。

 ディフェンスには、アウトライン(大きな流れ)があります。論文紹介でも進捗でも、研究背景から問題点を述べてフロンティアラインを示し、本研究の目的を述べ、それに至るためのメソッド(マテメソ)を主張し、結果を示し考察し、結論を述べます(+今後の展望)。
 その流れの中で、論理的な解釈をしようとしたときに、純粋にわからなかったところを明確に示せば、それが本質的な質問になりますし、周囲は勝手に優秀な人だっと思ってくれます。そのほーが手っ取り早いし、全体の理解を活性化するじゃないですか。

 それから、科学的主張や根拠となるデータに懐疑的な意見を述べたい場合もあるでしょうが、その場合にも、なるべくアウトラインに即し、質問者がその解決策まで考究すべきです。
 問題点の指摘は中高生でもできます。必ずしも解決策を見出す必要はありませんが、重要なのは解決策を見つけようとすることであり、そういう風なことを考えないで、ディフェンス側にすべてをまかせるようなオフェンス、つまり、投げっぱなしの質問は、なるべく避けた方がイイでしょう。

 一つの問題に対してみんなで解決策を探る、っというスタンスこそが、信頼関係を生むからです。

 [3]他のメンバーの発言を意味のあった行為に仕立てる。

 正直、[1]と[2]だけで、俺はかなり満足しますが、その上のランクを目指す時、一番に必要になるのが、これです(なので、ここからは、かなりアドバンスな内容になります(笑))。

 [1][2]ができている研究室ゼミでは、多角的にいろんな発言が出るでしょうから、その場合よく起こることなんですが、せっかく誰かがやっとの思いで発言したことなのに、無視されがちになってしまったり、アイツはやっぱダメだなーってなっちゃうことがあります。
 こういう時、率先して、さっきの発言を持ち出して、「先ほど○○君が言ってたことに似てるんですけど、これこれはー…」っと、あまり関係無いことでも、ちょっと偽でも、発言できたなら、それをされた人は、「さっきの発言は意味のあることだったんだー」ってなって、次に発言するときに臆病にならなくなります。

 簡単に言えば、「軽く褒める」のです。
 ディフェンスでもオフェンスでも、ちょっとでも誰かに認められる、っということが、どれほど救いになるか、それは、自分自身の胸に手を当てれば良く分かることだと思います。自分がされて嬉しいことは、他人に率先してやってあげてね。

 「嘘はいかん!」っと仰る思考力の乏しい方もいらっしゃると思いますので(笑)、述べておきますが、どんなに本研究のアウトラインを喋っていても、未来を創るために行う行為である研究ですから、それ自体に価値はありません。
 「未来」を見つめるのが大事であって、そのために、研究室内のほんのちょっとの偽で、やる気をだしてくれるなら、そのほーがいいじゃないですか。「あの時は、あー言ったけど、本当はさー、」っと言えるくらいの信頼関係をすぐに築くためにも、相手の意見を無理矢理受け止める、ってとっても大事なことです。

 これは、多数決で決まっている意見の反対の意見を粗末にしない、っということにも繋がります。「全員一致の決議は無効である」という社会科学の考え方もあります。
 先生を中心とする空気に飲まれすぎてはいけませんよ。

 [4]発表人数と時間について

 さきに結論を述べます。週一のゼミで、
 ・理論研(シミュレーションのみも含む)の場合、最大2人まで3時間以内。
 ・実験研の場合、1人のみ2時間以内。
 が理想です。

 [1]と[2]を前提にして考えた場合、これ以上やることに意味はありません。まず集中力が持たないし、みんなが発言して、本質的な質問ばかり出ていたら、時間はすぐに経ってしまうでしょう。 

 理論研は、ディスカッションが命です。なので少し長めにしてみましたが、やっぱりダラダラ喋って得られる智慧は少ないはずです。
 実験研は、ディスカッションも大事ですが、実験操作を共同でやることも大事です。なので、理論研よりも短くしました。

 こうすると、ディフェンスが回ってこなさすぎてダメだ、っとなりそうですが、それは、関連する人同士のミーティングや自主ゼミなどで補えばイイですし、そもそも、各々の院生やスタッフの発表の場が、研究室内のゼミだけしかないようなら、それこそが問題なのです。
 強くなるためには、どんどん、よそで発表しないといけません。これを見て下さっているPIの方で賛同してくださる方は、ぜひ、色々な発表の場を与えることを、検討なさってみてください。

 [5]みんなが楽しいと感じるゼミにする。

 本当は、実は、これが一番大事なんですよね。でも、みんなで楽しむためには、[1]~[4]が必須だと思います。

 いくつかメソッドがあります。

 まずは、日常用語を織り交ぜながら、発表したり質問したりしましょう。専門用語はカッコイイですが、入ってきたばかりの人にとっての耳慣れない言葉は恐怖でしかありません。ですから、専門用語と日常用語は、半々くらいに使い分けられたらイイと思います。
 逆に、日常生活で、ちょこっと専門用語を使ってウケを取ることも大事なことですね。

 あとは、発表内容に冗談を一つは入れるようにするとイイと思います。
 なかなか難しいですが、楽しませようという心は伝わります。それが滑っても、無反応でも、やったことに意味はありますから、チャレンジしてみたら面白いと思います。 

 内容が選べる場合は、なるべく引用数が多い論文や一般関心があるテーマを選ぶことが大事です。論文紹介なら、NatureやScience、PRLやJACSやCELLから、選ぶと良いでしょう。
 それだけ、その発表の価値を認めてくれるはずだからです。


 もし、[1]~[5]までをきちんとできるラボなら、間違いなくそのラボはみんなにとっての準拠集団です。
 そうならない限り、本当の意味で、楽しいモノづくり、価値のある研究は、できません。信頼関係こそが、良い研究を行う酵素なのですから。

 たかがゼミで、これだけのことができてしまうなら、とってもコスパーがイイし、楽しい。
 ね、もっと真剣に、研究室ゼミのことを考えてみましょうよぉ?

研究室ゼミの理想
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

空の青

2013-05-12 02:31:26 | Weblog
 「頭」で考える事と「心」で思う事は違う。
 本当はこのふたつをくっきり分けた上で、誰かの「心」側をきちんと見つめなきゃいけないんだけど、人の感情は、なかなかそういう風には働かない。

 正しいことを正しいと言ったり、事実をはっきり主張したり、絶対的な論理性の中から意見を言ったりすることの、本当の意味でのリスクは、相手の未来の気持ちを守るための優しい行為のつもりであったとしても、相手にそういうことを考慮するだけの思考力が働かなければ、そのまったくの逆であるかのような振る舞いに捉えられてしまう点にある。
 善意無しの薄っぺらい偽善行動よりも、善意に基づく考えに考え抜いた論理的解決策の提示の方が、悪く捉えられてしまうような評価は、お互いの感情を傷つける。

 空気に流されたり、習慣に身を任せたり、動いたりしないほうが、そりゃラクだし俺もそうしていたいけど、誤魔化したくないから、それはできない。自分自身も恐れている、正しさを貫く能力は、時として思わぬものを破壊し、壊すためのポテンシャルになってしまうことも多い。
 正しさを追究すればするほど、自分が見かけに弱くなっていくのがわかる。もはや、強がる必要もなくなってしまって、生意気を言えていた頃の関係を懐かしむ自分を映しながら、新しい喜怒哀楽を拠り所にしている現在進行形の自分を、現在完了形の自分が憐れんでいる。

 背伸びをしなくても、すでに、時間によって自然に得られるモノがくだらないことが、経験の中からわかってしまい、だとしたら、あの頃、あの時、ほんの少しの強引さを持ってしたら、未来である現在は変わっていたのかもしれない、ってまた無駄な思考を繰り返したりする。
 一番大事なことは、常に、今何ができるか??

 お互いに「心」を「頭」で評価していきながら、一つのモノづくりや問題解決を達成する中で、楽しく、信頼関係を得ていけたらとても良いけど、、ホンモノであればあるほど、試練的に残酷な物理現象はやってきて、俺らを試す。
 その勝負に負けない強さを少しでも得ようと躍起になっているうちに、絶対的な論理性で余裕ぶっている自分を、どうでもイイ系にアプライすることで、時間を潰してきたのかもしれない。

 今は小さく見えてしまう、かつての大きさを、空の青の下、どう受け止めていくかを考えることが、今、さしあたり、とりあえず、できることなんだよな。

 「正しさ」を恐れないでね。だって、すべての事実の行き先は、物理現象と「心」に行きつくんだからさ。

 花*花 「空の青(Piano Mix)」
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

精神的な向上心の保ち方

2013-05-10 00:39:04 | Weblog
 「精神的に向上心のないものはばかだ。」
 っと、俺と同じ名前の架空のキャラクターは言ってる。

 他人に対して、向上心があるように見せることばかり上手くなっていっても、そんなスタイルじゃ、手痛いしっぺ返しがやってくる。
 生半可な能力で自分勝手に知識ばかりつけても、それをひけらかしても、本当の能力なしに自分の心に嘘をつきながら何かの言葉を得ていっても、あとで困るのは、そういうことを繰り返してきてしまった、その人自身なのだ。しっぺ返しはいつか必ずやってくる。こういうしっぺ返しは早ければ早いほど良くて、例えば40過ぎてしっぺ返しがきても、取り返しがつかなくなっていってしまう。

 「現状維持では後退するばかりである。」
 っと、俺が一番好きなアニメの生みの親であるウォルトディズニーは言っている。

 何故なら、ズルをして、自分を誤魔化している最中にも、時間は過ぎ去ってしまうからだ。年齢や学年は、残酷にも、刻々と刻んでしまう。
 その能力に達していないのに、輝かしい言葉を得ても、上の立場に立っても、決して捨てることができない紙切れ同然の肩書きや業績を重荷にしながら、本当の意味で恥をかきたくないのなら、きちんとした正統派の努力を泥臭くしていくしか、術は無い。それを、時間の連続性のなかに委ねたり、権威に縋りついたりしていても、自分自身を傷つけ、誰かを傷つけるようになってしまう。

 今これを読んでいる人の中で、本当の能力をつけてこなかった人がいたとしても、このページに来うるすべての人は、まだ間に合う。今から、きちんと正当な努力を積めば、必ず自己実現に行きつくはずだ。そっちのが楽しいでしょ?
 そのためには、個人技を超えて、チームプレイの良い部分を大いに使っていったら、コスパーがイイ。でも、そういうスタイルは、この世の中ではまだまだ一般的ではなく、ごく一部でしか存在できないみたい。誰かが我慢すればイイって考えたり、不条理をどういう風に飲みこんだらイイかを教えることが優しいことだと勘違いしたりするような世間ばかり。

 「世間なんかに負けるな!(Don't let the world win!)」
 っと、俺が一番好きなドラマのセリフがあったりする。

 そんなにまでして自分のスタイルを貫くメリットの存在について、「私は真に驚くべき証明を見つけたが、この余白はそれを書くには狭すぎる。」
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

How do we make it a self-changeable system ?

2013-05-09 00:43:48 | Weblog
 論理的に考えてどうしようもなくダメな系が絶対に変えられないとわかったとしても、その系に対して、どう「今できること」を見つけて行動すればイイか?のメソッドは決まりきっている。
 それは、その系と関わりの少しでもある系に対して、今できることをし尽すことだ。

 自分が変えることのできる系について、より良くすることを、一切合財諦めない。隅から隅まで、今できることをしまくってみたときに、解決のメソッドが見えてくるのと同時に、一番変えたい、変えなくちゃいけない系についても、きちんと変化が観られたなら、「今できること」ができている。
 そういう風なことを繰り返したり、周りに促したりする時に、俺の、すべての論理性、Aグループ~Cグループまでのすべての力、経験と対応技術などを使って、とにかく動く。

 でも、変化の兆しは、その系内でしか観られなくって。。
 結局、そんなことしかできない俺を、どうか許して欲しいと想っている。

 自分が動くことで、より良くできる系に、より良い未来を見せていけばいくほど、切なくなってしまうのは、大切なところに関して、こういう行為がほとんどできなかったことを悔いているからだと思う。
 あの時、あの瞬間に、って今思っていても仕方ないわけだから、今すぐにできることをちょこっとでも探すしか術が無いのだ。

 力には責任が伴う。それらは比例関係にあると思う。
 だから、もっともっと、きちんとしたプランニングを絶対的な論理性の中から見出していき、問題解決していかなきゃね。

 そして、いつか。。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

望むこと

2013-05-07 01:47:11 | Weblog
 ふとした瞬間に、すべてがくだらなく思えてきて、やけにバカげた気分になったりすることがある。
 だいたいは『あ、本気じゃないのね』ってわかった瞬間にそう想うことが多くなっていて、大義名分を話されると、それを使いながら相手をどう論破しようかって思考してばかりで、そんな自分にもイライラしてきて、実行して相手がどう態度を変えてきても、くだらないな、って思う、の繰り返し。

 批判されることも多くなってきた。それは頭で考えれば、それだけ注目度があって、相手にとって何かのintensityの高い行為ができているってことだから、嬉しいことだし喜ばしいことだけど、今は感情が大事になってきているから、単純にムカつく、って思うことのほうが増えている。
 把握したがりになられることも、それだけ好かれていたり、大事にされていることの裏返しだけど、そういう思考を通す前に、『俺の何がわかってんだよ、決めつけんな!』って感情が強くなって、ほっといってって感じ。

 今、くだらないことでつっかかってこられたり、あまりにも見当違いな考察を、権威のなかで押し通してくるバカがいたら、すべてを捨てて論破して、サヨナラするだけの危険性がある。
 俺に本音で喋らないのは、逆にめんどくさい行為なことを、もう少し気がついて欲しいかなって思う自分に気がつくと、また、我儘な自分を感じて、イヤになって。ホント、めんどくさい。

 ただ、少なくとも今は、もっともっと自分本位になって、他人のことなんて一切考えないスタイルになったほうが、結局周囲のためな気もしている。
 そういう気にさせているのは、確実に俺じゃない。周囲なわけで、そういう俺の方が、フィットするんでしょ?

 精神的な部分で何も望んでいない。それは、もう、周囲の優しい人たちだけで、十分だ。
 ただ、実質的な解決のみを俺に提示してくれることを望んでいる。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

理想の追いかけ方

2013-05-05 04:53:43 | Weblog
 好きなことをし続け、好きなモノや好きな人、好きな分野を選び続けていると、いたるところで、これは理想じゃないんじゃないか、とか、これで自分を満足させようとしているのか、と想い迷う。
 それらが自分を疲れさせてきたりして、うんざりしたりすると、こうなることを強いてくるなんて、もしかしてやっぱり、これはホンモノじゃないのかも、って。

 最終的に行きつくのが、『今まで俺はずっとこれを選んできたのだから。』って理由にしようとしてるとき、俺は一気に捨ててしまう。結局行きつく思考の拠り所が履歴現象なら、さっさとポイしたほうが時間が増えるわけで、コスパーがイイ。そういうときに、なるべく人に迷惑をかけないような切り捨て方をしなきゃいけないよね。
 それは選ぶ対象が人であるときに限らず、分野や集団であるときでも同様で、ある人間が辞めるっという行為そのものが集団全体の堕落に寄与してしまうことは往々にして存在する。まぁ、逆に言えば、そのリスクを理解しながら辞めるってことは、その集団そのものの否定であり、一人ひとりへの優しさを冷酷に使って、『全員解散せよ』っとメッセージを残した気になっている。

 ただ、好きだからこそ疲れているのかもしれない一過性の現実を考究して、ホンモノを感じぜずにはいられない孤独も確かに存在している。『ずっと選んできたこれまでの自分自身こそが本当の自分の意志であり、今の疲れている自分は幻想なのだから、ずっと選んできた、っという理由もあながち的外れではないのだ。』っと。
 この思考で貫くと、どっちつかずになって、けじめが薄くなることが多い。それはそれで迷惑な話だ。

 高みを望み過ぎれば何も得られない孤独を歩むはめになるかもしれないし、理想を捨ててしまえば現実の中で最も大切な誰かを傷つけてしまうかもしれない。この2つのカケヒキは、どんなに聡明に振る舞っても、ついて回る厄介な問題なのだ。

 だから、何もしない、っという行為こそが最良であり、向こうからやってくる運命に身をまかせたい。
 物理的に考えれば、そのようなスタイルがもっともコスパーが良い、っと行きつく自分に気がつき、感情に通したときに、それではダメだ、と思い、また考え直す。

 こういうことに齷齪しているから、俺は目標設定の時に工学的な思考を嫌うんだと思う。役に立たないことこそ美しい、と数学科でも無いのにハーディ主義になって、その中で追究していくことによって達成される信頼関係を一番の主軸におけば、とりあえず(さしあたりは)、今できることはできているからだ。なんと役に立たない目的は素晴らしいのだろう。純粋な楽しさを貫き、希望を持ちながら、信頼関係を保つことができる。
 なのに、目的を、(任意に)役に立つこと、においてしまっては最後、その目的と仲間や楽しさとのカケヒキ計算になり、すべてを捨ててその目標に向かうなら、それがそのようにならなかったときに逃げ場がないではないか。『ずっとこれを選んできたから』に逃げることすらできない。

 一縷の希望の光は、これら理想を追う上での問題を同様に抱え追究してきた人とより多く出会い、信頼関係を築いて、誰かと、もしくはみんなで、解決していくことだ。
 現代がロマンチックな世界じゃないにしても、ロマンチックが絶滅しているわけじゃないんだから。

 解決策として思いつくことはそれで、それこそが「理想(の人、分野、モノ)」そのものであり、そこを希望にして楽しむしか術は無い。
 っと思いつくと、気がつけば周囲に、そのような仲間が多いことに気がつくだろう。

 手を打って無理に自分を納得させないで、楽しさがずっと続く保証を、楽しくみんなで得られていけたらイイよね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする