たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

2016年のエンディング

2016-12-31 19:08:35 | Weblog
 というわけで、2016年も終わりです。皆さんは、いかがだったでしょうか?

 今年はこのブログでは、、というか、ネット関連で、かなり変換点な一年になったと思います。
 今年俺が新しく始めたネットでの取り組みについて、ちょっと、まとめてみましょうか。


 ・ネット小説「研究コントローラー」

 フィクションを書くことってそれなりに大事だとは思っていて、今年から始めました。まぁこういうものでしか伝えられないことってあるはずなんですよね。
 普段のブログや論文と圧倒的に違うのは、情景描写を書かなくちゃいけないところで、ここがかなりキツいところであります。全体の構造や流れを調節できているか?のチェックとして、公開前に数名に読んでもらっていますが、自分だけだとかなり厳しい感じはしますね、ホントなんやかんや。

 まぁ中途半端になっちゃってますが、、最後まで終わらせるつもりなので、気長に待ってくださいね(前から言ってますが、構成は最初から決まっているので)。で、気長にアクセス数待ってますから笑。

 ・YouTubeにアップ

 これもふわーっと始めたことではあるんですが、簡単なところと大変なところが意外と違うって感じです。これやるようになって、YouTubeで観る動画の見方がめちゃくちゃ変わりました。

 あと初めてだから何喋るとウケるのかが全然わからなくて、、なんとなく思ったのが、研究関連よりも中高生向けのほうが再生数がいいところからして、YouTubeって若者文化なのかなぁと思います。まぁまた、予備校とかで中高生に向けて話してた時間が今まで長かったから、俺がそっちのが得意ってのがあるかもしれないけどね。

 ・他の人との対談

 これはですね。最大の難しさは、かぶらないように喋る、ってこと。

 まぁ、曖昧なことを言わないようにして、知識の最高レベルを頭の中で下げておくってのも大事なんですけど、どちらかというとリズムと音程。喋る内容をどうこうするってよりも、相手のリズムを感じながら、適確に自分の色を混ぜていく、ってことを意識しているほうが、後で聞いたときに自分が納得しやすいです。

 今後も色んな人とやっていきたいですが、一回一回がかなり疲れるので、まぁちょっと体力をつけないとあかんかもしれないですね。

 ・相談メール

 ぶっちゃけ、今年始めたものの中でこれが一番やって良かった、と実感して思っています。
 どういう人から相談が来るのか、どういう分野に問題が多いのか、また普遍的な問題とは何か?が、明確にわかるようになってきたし、(最初のほーに相談された方には申し訳ない部分もありますが)相談を受ければ受けるほど、どう返すべきか?がわかってきました。

 ほぼすべてのメールに1日以内に返信できたと思いますが、それは多い月で週2だったからできたという部分も多い気がしますし、今後少しだけルールを変えようかとも思っていますので、現行ルールで相談されたい方は、お早めに。
 あと、うちのブログって、意外と女性読者が多いことがよくわかったなぁと思います(まぁ、なんとなくわかってはいたことですが)。F層に少しだけアジャストしながら文章を書くことも大事な気がしました。

 ・ツイッター

 ここだけの話、これやってると、、ほんとバカって多いなぁと思っちゃうのよね・・・。。特に目につくのは、自分ってよく考えてるでしょ?系のバカ。結構エラそうな先生とかでも、140文字ってマジックで、本当にバカが透けて見える。「わかりやすい」ってことを追及しちゃうと本当にバカになるんだなぁってのがよくわかるSNSですよね。
 それからヒトがいかに他人を「自分が知ってる」モデルに落とし込むことで理解しようとするかがよくわかります。

 まぁでも楽しいSNSですよ、マジで。1000ツイートくらい観ると、1つくらいは、おお!面白い!!って思うのありますから。
 まだまだ使い慣れていませんが、これも続けるつもりです。


 というわけで、かなり沢山新しいことを始めた訳ですが、それ以外でも個人的に色々楽しく学ぶことが多かった一年となりました。有り難う御座いました。来年も是非是非このページを宜しくお願いします。
 では、良いお年をー。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

でも、私のことが好きなくせに

2016-12-31 03:03:19 | Weblog
 どんな人でも何かに束縛されているのだが、その度合いはそれぞれ異なる。
 誰かから観たときの誰かはとても自由に観えることもあって、それが正しい場合もあるし、あまりに世界が違いすぎるがゆえの勘違いの場合もあるのだが、、とにかもかくにも、時間による効果というのは、その人自身の性質に絶大に効いてくる。

 一般に、それなりに年齢を重ねると、これまでの人生について自由度が高ければ高いほど戦略的になり、束縛されていればいるほど戦術的になる。ここに切ないくらいの違いが生じてしまうのだ。
 不自由が強いられ、ここに境遇の悪さまで手伝ってしまうと、その場を凌がざるを得ない。一方、自由度が高くて、さらに運まで良ければ、どうせチャンスはすぐ来るのだからと、その場は負けても最終的に勝てるような方向を模索しがちになる。ここに、頭の回転数の差が出てしまうのだ。

 広く長く見通せる人は、とにかくその場を凌ごうとする人に対して、もっと深くゆっくり考えてみたら?と言いたくなるだろう。
 戦術型の人は、戦略ばかりをのほほんと語る人に対して、何を悠長に甘いことを言ってるんだ?と言いたくなるだろう。

 言いたくなって、仕方なくなって、言い合って喧嘩みたいになっているうちは、まだまだ可愛げがある。だって、そんなに違う二人が、何かを言い合いたい場合、そこにはホンモノの関係性があるとみて、まず間違いないからだ。
 問題は、この二人がクズじゃなく、さらに関係性が進捗していって、気持ちが自然と読めるようになってしまった場合だ。自分への対応の僅かな変化から小さな主張や小さな抵抗を見出せてしまったり、他の誰かに意見を主張していている様子を偶然見てしまったり、その人のSNSやその人が書いてるブログを観たりして、その戯れ言を感情の底から把握してしまいそうな瞬間、圧倒的な物理現象としての履歴や初期条件の自分との違いを認識してしまうと、こう思う。

 でも、私のことが好きなくせに

 この部分を2人でどうにかクリアできたとしたら、エネルギーも安定性も使い勝手も、すべてが得られるというのに、人生なかなか上手くはいかないようにできているようだ。

 感情が形成する場のなかで、どちらが自然と折れていかなくちゃいけないかといったら、自由度が高いほーであることは自明の理。だって先を見通せるだけの余裕があるのだから、、そらそうよ。
 この視点をきちんと真っ先に自分自身に向けながら、そうだお前のことが好きなんだ、と繰り返せるだけの度量と技量が無ければ、現在寝かせている根本的なその悩みを解くことはできないだろうと思う。だって、そのために、いるんだから。

 一応、この一年に俺が構築してきたロジックをあらゆる箇所で使えているから、ポジティブに捉えて、進捗できているとしよう。一般募集から考えてみても、明らかになかなかの無理ゲーだが、高い壁であるからこそ、ホンモノであることを試したくなる。もし一過性であったとしても、、乗りかかった船だ、最後まで解決に導いてやるよ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

社会人教と今後の世界

2016-12-29 02:19:55 | Weblog
 (今日はいつも以上に論理の段差がめちゃくちゃ激しいです。この文章は一般大衆や誰かに伝える気はありません。俺自身のメモのようなものですし、考え中のところも沢山あるので、今回に限っては、公に質問されても応えないかもしれません。個人的に連絡をくれれば別ですが。っていつも別にコメント来ないから大丈夫よね笑)

 日本国内において、社会人として認められたいのであれば、各々が経済的に自由競争さえし続ければ社会全体が安定になることを信仰し、その競争はたいていの場合は団体戦であるのだから、個人としては自らが所属している集団の最大多数の最大幸福を目指すように、常に行為することを受け入れることである。これを社会人教と名付けよう。

 社会人教の人たちは、上司の顔には決して泥を塗ってはいけないし、労働基準法などの明確なルールを知っているような面倒な人間になるよりも、とにかく従ってくれる従順な使いやすい人間を評価基準の最低ラインとして用いるようになるのだが、、果たしてこれは昔から適応されてきた事柄なのだろうか?とかく、今の20代30代などの若い世代の社会人教徒たちは、"カネを貰うのだから、とにかく従順になって、上司の顔を立てるのは当たり前。だってカネを貰うのだから"という前提が強いが、果たしてこれは、貨幣が登場して以後、どんな時代、どんな状況でも当たり前に成り立つようなロジックなのだろうか?
 そもそも、カネが支払われるのだから(使いやすい人材であり続けるために)奴隷のようにすべての指示に従うのは当然、という奴隷根性を前提としたシステムが成り立つためには、奴隷になることで、奴隷にならなかった場合よりも、個人の(金銭的または時間的)自由が大きくなることが必要である。歯車としての需要が多かった高度経済成長期に成り立っていた奴隷のシステムは、奴隷であることで自身の自由の最大化とその状態の安定化を狙えるという点でメリットがある。だから、企業や集団からの要請(マクロからの要請)に対して応えながらも、同世代なら(誰でもありふれている、という意味で)平等という年功序列システムが採用されるわけである。

 しかし現在、この序列システム、延いては、社会人教に対して、果たして本当に価値があるのだろうか?という視点が流行ってから久しい。奨学金が返済できずに自己破産するケースが1万件を超えているらしく、年金問題は解消される兆しは一向に見えないし、2030年までに国立大学の年間授業料は93万円まで高まることが決定している。いまや、暗記を繰り返すことで偏差値というスコアを得て、そのスコアを基にして奴隷ヒエラルキーを決定するというシステムの価値が(金銭的にも時間的にも)無いのは明らかである。今の大学のシステムもそろそろ終わりであり、あの気味の悪い就活もそろそろ観れなくなってしまうだろう。
 歯車としてしか生きて来れなかった団塊の世代から団塊ジュニアまでの世代は、回転がやたらに早いだけで慣性モーメントが極端に小さく、戦術面においては質の悪さを量でカバーせよ、とにかく若いうちはハードワークが必須なのだ!(よーするに回転数を高めよ)、と時代錯誤な命令を繰り返すばかりである。戦略面に至っては、若いうちは考えてはいけない、というような風潮が強い。だから、美徳性や理想を語り、労働基準法などのルールをしっかり学ぼうとすると、"子供"扱いされるのである。
 もはや、日本全体として、自由競争に完敗しているにも拘らず、歯車でありつづけた旧世代の彼らには、広い視点(メゾスコピック)が圧倒的に欠けており、そのことにすら気づけていないのである。なぜなら、今までそれで、(自分たちは)何事もなく上手くいってしまったから。

 実は事態はもっともっと深刻で、いま世界では"各々が自由競争さえしていれば社会は安定化する"という社会人教の前提そのものが崩れようとしている。ただし、この前提はそんなに悪くない定説で、"事業全体が拡大していく限りにおいて"と条件をつければ、かなり正しい。だが、現実、平衡状態を迎えようとしている。
 (ミクロスコピックに各々が)自由競争していた社会に、経済の限界性(マクロスコピック)が歯止めをかける。自由競争社会を十分に寝かせた状態である平衡状態こそが、すなわち、全体主義なのである(via 権威主義)。情報革命が継続中であることも手伝って、一挙に、世界において、全体の空気こそが最も信ずべきもの、になりつつある。だから、キャラクターとしてわかりやすい人物の方が、リーダーになりやすいのである。

 この平衡状態を目覚めさせてきた人物で有名なのはナポレオンやヒトラーなどだが、21世紀にはどのような先導者が現れるのだろうか?
 ドナルド・トランプか?もしくはラリー・ペイジやイーロン・マスクなどのグローバルベンチャー企業の人間か?いやいや、それとも、、AIである可能性が、、あるか?
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マラカスと専門性

2016-12-28 02:43:59 | Weblog
 専門性の高さというのはインプットとアウトプットの時間差の長さで決定できる。もちろんこれだけではないが、それなりに悪くない指標だと思う。

 10代の頃、何度か"あらゆる楽器の中で、最もできるとエラい楽器はなんだろう?"と議論したことがあったが、考えつくのはだいたい習得時間について。マラカスはカラオケですぐに誰でもできるからそんなにエラくはなくて、ピアノは習得に時間がかかるからエラい。この愚直な発想は、そこまで的を外してはいないと思う。

 だがその後、ある本で、マラカスはあらゆる楽器の中でも最も習得するのが難しい、という記述を発見する。「え?そんな、ただシャカシャカすりゃいいだけじゃん」って思ったのだが、実はそうではない。マラカスの基本としては、中に入ってる玉すべてを一様に動かすこと、上下に動かして、上の部分に触れて音を出してはいけないらしく、この基本をマスターするだけでもかなり厳しいらしいのである(カラオケに行くと、俺は密かにこれを練習しているのだが、確かに難しい)。

 このような"繊細さ"の視点も考慮に入れねば、専門性というのをただインプットとアウトプットの時間差で定義しちゃうのは危険で、それを使って平均化してしまうのも、ものすごく危険です。
 上の議論をそのまま自然科学の分野にすることはすぐに出来てしまいますが、ばさっと分野をまるごと平均化して評価してしまっては、あまりにちゃんとしている人が可哀想です。よーするに、プロのマラカス奏者とプロのピアニスト、どっちを彼氏にしたいですか?って話ですが、この場合は(ある種の)等重率の原理(みたいなもん)は成り立ちませんから、絶対に専門性が(短絡的に)高いほうである(つまりインプットとアウトプットの時間差がより長そうな)ピアニストだ!とは言えないわけです。

 ただし、絶対に言えることとしては、プロのマラカス奏者を彼氏に選ぶ場合は、プロのピアニストを彼氏に選ぶ場合に比べて、あらゆる他人への説明責任が生じる確率が増すでしょう。男側としては、この辺りが、女を選ぶ指標になってくるわけですが(この説明責任から逃げがち、もしくはめんどくさがる女はモテない(ということに実は女は気がついていないことが多い))、、恋愛の場合はホンモノを求める信仰が少数派ながらも確実に一定数あるので別に問題にならないんですが、予算をかけるとかかけないとかって話になってくると、結構深刻なのよね。

 現代、特に自然科学の研究社会では、この「理解するのに手っ取り早い」の価値が、かなりねじれている。他者への説明責任が少ない分野に予算をかけがちな一方、実は内情、その分野の専門性がかなり低いことはあまりよく知られておらず、言葉での誤魔化しに成功しているからだ。つまり、最悪ってこと。実際、理系だったら、医学部に入るのが一番難しいからなぁ。
 ここの部分を多くの国民が理解しない限り、なかなかサイエンスの未来はキツいだろうなぁ。

 え?もっとわかりやすく説明しろって?(→ほらね?)論理の段差がちょっと大きいくらいで、へこたれてんじゃねーよ、、とは言いにくいので、そうですねぇ。。
 よーするに、物理と化学と生物、どれを専門とすると、親戚に紹介しやすくなるのか?ってことですよ、、つまり笑。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今年読んで印象的だった本2016

2016-12-23 04:56:13 | Weblog
 さて、今年もそろそろ終わりですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?例年通り、今年読んで印象的だった本を紹介します。
 今年は本を沢山読んでるはず!と思いきや、例年通りくらいかなぁと思います(40ちょいくらい?)。というわけで、今年のこのブログのネタバレと行きましょうか笑

 マルク・エルスべルグ著『ゼロ』

 "実際に存在する近代技術を駆使したSF"みたいな感じで、とっても面白かったです。
 俺が書いてる(→書きっぱなしになってる)ネット小説『研究コントローラー』のアイテムであるスマートグラスは、この小説からパクりました笑。「フリーミー」という企業は現実社会で言うと何なのか?本当にあんなアプリがあったら(全然ありうるんですが)、世界中の人々はどうなってしまうのか?

 この話あまりにハイテクすぎて、その後に、湊かなえさんの「高校入試」を読んだんですが、ローテクすぎて微妙ーってなってしまったのよね。
 っていうかですね、もっと言うと、この小説読んだせいで、他の現代小説読むのつまらないなぁと思ってしまった、ってのが本音です。時代はどんどん進歩しているのに、なぜスマホとか使いまくった小説が少ないのかなぁと思うようになっちゃったんだよね。

 というわけで、かなりオススメです。まぁでも、小説沢山読みたいなら、、うーん笑

 小保方晴子著『あの日』

 理系でSTAP騒動を小保方晴子さん一人のせいにしてて、これ読んでないヤツは、とりあえず俺は信用できません。
 っていうか、あなたが理系なんだったら、与えられたfactを見ようともしないで、あれこれ評価できると思ってんのが、そもそもおこがましいだろう?と。

 まー、この本、色々ツッコミたいところは多いんですが、かなりドラマティックな内容となっております。
 いやーすごいよね、アメリカから先生が来て、その先生を囲んで飲み会行って、「私アメリカ行きたいでーす」って酔った勢いで言っただけで、数ヶ月で行けちゃうんだから。本当かよと。
 ラットを手で包めるって、お前どんだけ手デカいんだよ、どんだけおとなしいラットだったんだよ、っとか笑。「頑張ってくれてありがとう」と書いてるけど、そのあと、殺してますからね、絶対。その辺を書かないところが流石です。
 あと、「今は我慢のときだ!」ページめくると、「また我慢ですか。まだ足りませんか」みたいな。すごくドラマティック。「書ける」科学の実力として天下一品なのは、マジで間違いない。

 ただ、ここは本当だろうな、ってところももちろん沢山あるし、読んで損はありません。
 わざわざSTAP細胞のホームページまで作っている彼女。"妄想女がやらかした"と単純に決めつけるのは思考力が無さ過ぎると俺は思います。もっとどでかい、他の闇は確実に存在している。それをもっともっと見抜けないといけないんでしょうが、、とりあえず、小保方さん、うちのブログで相談メールやってますんで、是非ご利用くださいね。

 神野正史著『最強の成功哲学書 世界史』

 今年は世界史勉強しよーっと思ってて、いろいろ動画見たり、音声聞いたり、本読んだりしましたが、そのなかでも、これはめちゃくちゃ面白い本です。
 「歴史を学べ」ではなく「歴史に学べ」。あらゆる歴史上の人物の生きざまを参考にした自己啓発本みたいなノリで、普通の自己啓発本よりも遥かに役に立ちます。

 特に、この本に書いてある、戦術と戦略の違いの話は、この1年で、めちゃくちゃ使うようになりました。
 俺はどちらかというと戦略的なタイプなので、戦術家とペアを組むと、とても上手く行く。こういう発想はとても大事だと思います。

 他にも神野先生、(特に今年は?)沢山本出してまして、どれもめちゃくちゃ面白いです。明言まではしていませんが、トランプさんになることもあててると言って良いでしょう。YouTubeに世界史劇場106本もあげてまして、めちゃくちゃ面白くて、何周かしちゃってます。

 岡田斗司夫著『オタクの息子に悩んでます 朝日新聞「悩みのるつぼ」より』

 今年からこのブログで相談メールの受付を本格化しましたが、それに先立って、相談を受ける際の何か教科書的な本は無いか?と探していて、出会った本がコレです。
 この文章は、タイトルからは想像もつきませんが、相談の受け方のマニュアル本です。

 相手と同じ温度の風呂に入る、感情のサーモグラフィ、悩みの定義、仕分け、問題の種類、論理の使い方、本来の不幸に戻す、、これらはすべて、俺の相談メールに実践されています。相談メールを開始するにあたって、かなり役に立ちました。別に相談を受けるつもりが無い人も読んでおいて損は無い本です。
 ただ、やべーめっちゃ面白い!という瞬間はあまりありません。読んでてめちゃくちゃ役に立つし、タメになるけど、こりゃ完全に精緻な教科書です。

 ちなみに言っておくけど、この本読んだりして、どんなもんだろ?って、俺の実力を試してやろうと、悩んでもないのに相談メール送ってくるのだけは、マジでやめてね笑。
 岡田斗司夫さんもYouTubeに大量に動画があります。めちゃくちゃおもろいけど、幅広すぎて、何が専門の人なのかよくわからない笑。

 南清貴著『行ってはいけない外食: 飲食店の「裏側」を見抜く! 』

 これは「読んではいけない」本の1つ笑。マジでメシ食えなくなります。まぁ、それでいい、という風に、この本には書いてあるのですが。

 これ読んで色々調べてる時期に、後輩の女の子が生協でお弁当買おうとして、「あー、それぜったい、こうやって処理してるよー」「それ、なんで、まだシャリシャリしてそうだと思う?」とか俺が色々言いまくって、結局お昼買わなかった、なんてことがありました(ごめんなさい、この場を借りて、謝罪します笑)。「たかはしさんが色々言うから、何食べても危なそうで、何も買えなくなっちゃって、マジお腹すいてるんですけどー」いや、ごめんて、ホント。
 もう、まっつんも、この時期はマジで俺に呆れてて、吹き出して笑われることも何度か。

 まぁ、とりあえずは、ショートニング、トランス脂肪酸、次亜塩素酸ナトリウム、くらいは知っといて損しないんじゃないですかね?お金に多少の余裕がある人(つまりこのブログを読んでるような暇人)は、きちんと読んで、食育を考えたら良いと思います。美味いもん(安全な食べ物)が美味い!ってわかる舌を持つことが、子供が唯一学ばなくちゃいけないことですから、習い事にお金をかける余裕があるなら、ちゃんとしたものをきちんと食べた方が何倍も良いと俺は思います。そういうことを教えてくれます。

 これ読んじゃうと、本当にコンビニで買うものがなくなるんだよなぁ。まぁ、読みたい人は読んでみて。


 っと、まぁ、とりあえず、5冊かな。まだまだ紹介したいのあるけど、まぁとりあえず、今年はこんなもんで許して。どこかで別の機会に本のまとめをしてもいいし。
 あと、オススメされて読んでない本が多いのは否めなくて、ほんと申し訳ない。「罪と罰」「ソフィーの世界」など、途中で止めちゃってるのも今年は多いです。すいません、ホント。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

堅守速攻ってクズじゃね?

2016-12-20 03:10:59 | Weblog
 各人を内向的か外向的かと仕分けることができるそもそもの秩序パラメータは、外環境からのあらゆる刺激に対する感度(susceptibility)の絶対量である。
 ある転移感度を超えると内向的になり、それ以下なら外向的になるっていうメカニズムが、そもそもの性質の違いを創発しているのである。

 はっきり言ってしまうと、感度は高ければ高いほど能力が高くなりやすい。それだけ1つの経験から吸収することができるからだ。そう、人前で自分の意見を言えないビビリ体質の内向的な人間のほうが、鈍感に人前でペラペラ喋れる人間よりも、実は能力が高いのである。能力が高いからこそ、慎重に動かざるをえなくなり、発現が遅れる。前に出ようとしても、あらゆる刺激がどうしても気になってしまい、なかなか行動に移すことができないのである。
 当然、最終的にどこかでは外向性を身につけなくてはいけないが、それは最初っから外向的な人間よりは遥かにマシである。内向的な人間は後天的な努力によって外向性を会得することがいくらでもできるが(俺はコレ)、初めから外向的な人間が後天的に感度を手にして内向的になることは極めて難しいのである。

 努力という幻想的な行為の実態(っぽいもの)は、内的に内的に自分をセルフチェックしていくこと、コレに尽きる。内向的にならない限り、実力の向上はできないと言っても過言ではないだろう。外向的な人達が試験前に深夜ファミレスに集まって勉強しているフリをしているのをバカにしながら、家で一人でコツコツ実力を高めることができる俺ら内向的な人間は、内向きになることを自然だと思えるからこそ、持ち前の感度の良さを武器に、ガチの実力を手にすることができるのである。

 しかしながら、そのお勉強の世界の最高峰であるはずの研究の世界は、いったいどうしたことだろう?
 負け試合を小手先のテクニックで勝ち抜く手法に溢れているのではないか?ここに絶望している人は、実はかなり多いのである。

 論文を書くとき、
 ①なるべく多くの引用をつけ、図もなるべく沢山用意して、エディタやレビュアの気を逸らさせ、いかにも重要な研究なんだ、と油断させる。
 ②"自分の分野"のなかで既存の典型手法のみに終始し、そのルールだけは絶対に破らないようにして、"自分の分野"として徹底的に精緻にしておく。
 ③様々な耳心地のよい言葉を駆使して、応用的な側面を書いたり、根源的なことを述べるが、それは本当に一文・一言だけにとどめる。
 ④時間をかけないために、レビュア・エディタの言うことにはなるべく逆らわない。

 ①"相手の油断を引き出す"ことを徹底した上で、②"戦力を集中して堅守"しながら③"速攻"することで④"時間をかけない"という、負け試合を勝ち抜くための、小手先のテクニックである。これは重要な試合(国際試合の決勝や命がかかっている時など)で超格上の相手には行使すべき鉄則であるが、いわば"ただのズル"もしくは"ただの誤魔化し"だ。論文中に何の自己主張も持たせないようにして、ただ外環境に都合の良いようにアジャストさせて、自分の実力を向上させないでどうにか誰かに認められようとしている卑しさを自己肯定しているだけだ。こんな手法を本気で有難がっているヤツは、俺は人間性を疑う。
 これは感度の悪い外向的な人間のいつもの手法である。我々のガチの実力をこういうズルを使うヤツが搾取しているのである。っていうか、あなたも、いつのまにか、ズル側ですか?笑

 これって、論文作成に限らないでしょ?この"誤魔化し"はアカデミックの世界のあらゆる分野の様々なシーンに応用されている、普遍的な"ズル"である。

 君ら、感度の良い、圧倒的な有能さを得ることができるポテンシャルを持った人間は、もっと、他にすべきことがあるんじゃないか?
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

劣勢で勝つパターン

2016-12-19 02:00:23 | Weblog
 "明らかに力の差がある相手だったのだが、なんとか勝った"というケースは、ほぼパターンが決まっている。
 それは戦力集中、堅守速攻で時間をかけないこと。コレに尽きる。Cグループの人がAグループの人に対してアプローチする場合もそうだし、さっきのクラブワールドカップのような世界大会でもそうだし、、考えてみれば、日露戦争や高度成長など歴史的事実の多くもこの定説からずれない。

 ただ、これだけでは全然ダメで、この前に"相手が油断している時に限って"という条件文がつく。ここを忘れてはいけないのだ。
 で、あるならば、どうやって相手の油断を引き出すか?という話になる。これは簡単で、勝たせておく、という微妙さをもってして、相手を油断させるのが最も手っ取り早いのである。

 劣勢もしくは敗勢の場合、"勝って兜の緒を締めよ"という哲学を相手が持っていたら、どこかの時点で油断していたとしても、どこかの時点でむこうが優勢だと信じ込ませられたとしても、絶対に勝てないのである。
 時間帯も最後の最後、かつ相手に勝負はほとんど終わった、と思わせ切って、はじめて、勝てるだけの現実的な可能性が劣勢側にでてくる。ここを作る為には、確実に防御できる最終ラインを直観と論理の両方から見抜き、そこにだけ注力し、わざと負けておくこと、ポイントをとらせておき、こちらは一切ポイントをとらないこと、そして最後に突然とっておきの牙を使うこと、、そう、まさに、賢さで一カ所に戦力を集中させ、ずっと堅守の姿勢で、最後の最後に速攻して逆転するしか勝機は無い。これにさらに、時間をかけてもいけないのである。

 書いていて思うが(読んでても思う?)、実際かなり厳しいのである。2-0で負けていても(それもかなり圧されて)、これを初志貫徹できるだけのメンタリティを備えている人間なんて殆どいない。本気を出させないで、いかにメンタル勝負に持ち込むか?ということを感情の最終ベースラインで常に意識して、おくびにも表情に出してはいけない。負け試合に勝つ時は殆どが逆転だが、心理戦に逆転は無いのだから。

 いかに点数をとってしまって安心したい自分を抑えて、相手に本気を出させないか?
 相手を油断させるべき時間帯にはそこに注力し、終了直前の最後のチャンスを見抜いて速攻できるか?

 では、わかってはいても時間が経ってしまった場合は、どうすればいいのだろう。それは、とても簡単だ。
 時間が経っていないように相手に思わせること。だから、あの延長後半から、つまり4-2から本当の本気で勝つルートは、わざと劣勢側が時間を使う素振りをすることに徹して、"あれ?せめて4-2で終わったら、ちゃんと良い試合した感があるとでも思ってるのかよ?"と思わせて、最後の5分で逆転に持っていこうとするってのしか無い。
 すでに、劣勢なのは紛れも無い事実なのだから、相手を油断させてから、その油断をついて攻撃するしか術は無いのである。ここを思い込み切れるか?が重要で、個人の人生の局面でも使えるテクニックだと思う。

 まぁ、次に活きる、って意味では、ボロ負けしたほうがいいのだけどね笑。クラブワールドカップはそれでも勝つに値する試合だからってだけであって、こういう瞬間は実は個人の人生には少ないはずである。
 だって、劣勢の戦いを人生のあらゆる局面で常に強いられるのって、人生半分以上損してるからね。他の種類の試合をしたほうがマシ。

 逆に言うと、"勝って兜の緒を締めよ"だけをあらゆる瞬間に思っていれば、たいていの普通の勝負には負けないということなのかもしれない。だって、どんなに長い時間をかけても大丈夫だから。何時間かけても、どころか何十年かけても、最終的に勝てるだけの可能性を残せれば良いのだから、ラクなもんでしょ?
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

"もう遅いよ"のやっつけ方

2016-12-14 02:19:25 | Weblog
 "どっちにしても、もう間に合わないのかもしれない"という未来予測を立てる賢明さは、聡明さの欠如ゆえに生じた現実逃避から創発される。

 "もう遅いよ"と考えられる自分は、現実がきちんと見れていて、たいていの人間よりは少しばかりは頭が良いとでも思っているのだろうか?寝言は寝てから言って欲しいものである。
 俺が君にはっきりと現実を突きつけてあげよう。今がそれなりに成り立っているからこそ、この先がなかったとしても、その最悪な現状を打破する必要性があるのだ。この先がどうなってしまうのか?と考えられていた頃をきちんと思い出し、結局のところ、どう転んでもどうにでもなるのだ、という基本原理を見出して欲しい。それは君だけの問題ではなく、まだ俺らの目にも見えていない後世へと引き継がれうる問題なのである。

 であるならば次に、君ほどの優しい人間が、この視点を欠如するに至るだけの不条理な環境を、どのように強いられているか?ということを話さねばならないだろう。
 それは、端的に言えば、価値観の一本化によるものだ。その1つの軸にしか価値がないと思い込んでいることが問題なのだ。そりゃ君だって、口先では、もしくは君の感情の表面上では、あらゆることに価値があって多様的な価値観の存在こそが素晴らしい、という発想はあるのだろう。しかし、それが一個人である君自身に享受されていないのだ。
 学歴や偏差値を高めること、論文を書いてアカデミックポストを得ること、何かのスポーツで成功すること、とにかく目立つこと、営業成績を上げること、安定した生活を得ること、何かのリーダーに任命されることetc...。これら自己実現的な価値観はそれぞれ違う音色ではあるのだが、確実にそれぞれが意義深い価値観なのである。これらのうち何か1つにしか価値がないと思った時点で、"もう遅いよ"がいつでも襲ってくるだろう。

 でもでも!!やっぱりこれがいいんだもん!!!
 そういうこともあるだろう。それはその通りである。だがしかし、それ以外の価値観を自分にとってのゼロにしてしまってはいけない。たとえば、"偏差値が高いことが何よりも一番大事でそれ以外はクソ!"というようにゼロイチで唯一絶対の価値観として認識するのではなく、"偏差値が高いことは自分にとっては一番大事なことで、目立つこともスポーツで成功することも自分にとってはそれなりに大切なことだよね"というような連続性を持たせることが大切なのだ。
 これが結局のところ、君が本当に欲しい音色の価値観の称号を手にすることになる可能性を高める上で、重要になってくるのだ。

 でね、さらに、、なんだけど、、
 これらあるゆる価値基準のなかのたった一つの軸について"数値が高いかどうか?"という視点でしか君は愛されてこなかったのだ、という逃げ場のない悲しみを、これまでのように無視し続けてはいけないのだ。急いで書き加えなければならないが、正確に言うと、こう勘違いしてしまっている自分自身の切なさから逃げてはいけないのだ。

 このポイントさえ正確に見つめることができれば、素直になれる。素直な自分を、あらゆる周囲の人に曝すことができるだろう。
 そうすれば、もうどこからも、"もう遅いよ"は襲ってこない。

 きちんと泣くこと。きちんと悲しみと向き合うこと。結局のところ、それしか今をより良く変えられない。

 意外とさ、みんなも君と同じで、あらゆることが不安なんだよ。あらゆる普通のみんなも、"普通であること"を考究しまくっているんだ。
 君だけがマイノリティではない。それを忘れないで。そして、、別に、手遅れでも良いじゃないか。最後の最後まで、俺がフォローしてやるよ。その生き方を圧倒的な論理性で肯定し続けてやるよ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

告知 -明日12/13(火)20時半からツイキャス-

2016-12-12 23:39:48 | Weblog
 明日12/13(火)の20時半から、信州読書会 宮澤さんのチャンネルで、対談ツイキャスします。

 テーマは「アメリカ社会の光と闇」。って、たかが一週間行っただけで、そんなこと語れるのか?と思うと思いますが、、まぁ、俺の観察眼をチェックしてみてください。そして、俺の今後の動向が気になっちゃう人は、明日はぽろっと言ってしまう可能性がかなり高いので(ここは、もしあれば、宮澤さんに切ってもらうので、生放送だけになるはず)、よーちぇけら。

 というわけで、お時間ある方は是非。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

"もう遅いよ"が襲ってくる

2016-12-12 02:11:09 | Weblog
 ダメな状況を打破しようとしている自分が壊れるとき、踏み入れてはいけない領域の匂いを瞬時に感じた。
 今からだと、たとえ打破できたとしても、今の状況よりも最悪になってしまうのではないかという恐怖に負けると、それまで保っていた自分の唯一の良さを売り渡してしまうことになる。

 何かの成果を出せれば、確かに誰かに評価されるかもしれない。そこで認められれば、また新しく何かを始められるかもしれないし、いわゆる普通の路線に戻れるかもしれない。そこにどんな価値があるのかないのか、今はまだ分からないけれど、客観的に見たときに明らかにダメなこの現状を変えることができる可能性はあるのかもしれない。

 ここまで考えてみたときに、次の思考が襲ってくる。"もう遅いよ"

 今さら変化しても、今の状況よりも悪くならざるを得ないことが論理的に示されてしまっている時って、どう行動したら良いの?そんな答えを持ち合わせている人がいるとも思えない。

 ひと時は、このままでいたらどうなっちゃうんだろう?と悩んでいた。でも、その壁を時が経つことで自然と乗り越えられてしまった今、意外と成り立つんだなぁって気がついている。初めはそう長くは続かないと思ったけど、こんなに長く続いている。そして、この状況が心地良くなってしまった。むしろ、どうにか打破してしまったほうが、その先がまったく想像できなくて、何も見えなくて、何も感じられなくて、それゆえに努力することを拒否する自分に直面する。

 きっと時間がもう少し経てば、いつか何かがやってくるかもしれない?白馬の王子様待ちの思考回路を現実的な側面から否定しているわりには、そんな考え方を有難がっている?

 それとも、この流れのまま、流れに身を任せていれば、意外と成り立ってしまって、そのままなのかもしれない。
 そう。どーせ、こんなもんなのだ。自分の人生なんて。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大量消費社会としてのアメリカ

2016-12-09 01:50:56 | Weblog
 さて、まるまる一週間アメリカに行って、大学と研究室を巡って帰ってきました。アメリカのどこに行ってたかは、、まぁ、そんなに気になるなら、自分で調べてくださいね笑。
 今回は観光地じゃないだけに"普通のアメリカ"がかなり見れた気がしてとても面白かったです。信州読書会の宮澤さんと来週の火曜日(12/13)の夜あたりに"アメリカ社会について"でツイキャスしましょうかと話しているので、みんなぁ、時間あけといてくれよな。そんなわけで今日は、その前に(あくまで曖昧に)その感想を書いてみようかと思います。

 まず、ポケモンGOから行きましょうか笑。ケンタロス捕まえたろと思ってポケGOやってて思いましたが、アメリカではやたらめったらポケモンが出てくる。ポケストップに桜吹雪でも無いわりに、え?なんでこんなに出てくるの?というくらい。たぶん、アメリカ人にはこれくらいポケモン出してやらないと、飽きられちゃうんでしょうね。モノが存分にあってそれらを好きなようにできるということに異常なまでの安心感を覚える彼らだから、ポケモンも大量です。

 こういうと言い過ぎに聴こえるかもしれませんが、これはそんなに悪くない考察だと思っています。ついつい俺も資本主義社会に染まってしまって、アメリカではかなりメジャーなスーパーマーケットであるWalmart(西友の親会社)でかなりの回数買い物をしてしまいましたが、ここでも大量消費社会が顔を存分に出してきます。ミネラルウォーター150mlが1ダースで2ドル程度で売ってやがる。いや、そんなに飲まんし。トイレットペーパー(最低が1ダース)や冷凍食品(ラザニア1kgとか)も大容量でしか売ってなくて、いや、そんなに使わないんだけどなぁ、そんなに食わないんだけどなぁ、けどまぁ安いからいいか、って感じで、余ってる分には困らんだろ?勝手に捨てりゃいいじゃん??っと言われてるような気分になります。
 Walmartの店員には有色人種が多く、みな親切で、みな何故か充血しており、どこか哀しい表情をした優しさをにおわせています。昼はマネージャーみたいな白人がきびきびと有色人種に命令していて、それに従い続けてる感じ。そういえば、俺に対して"sir"と使ってきたのは、見事に黒人だけでした。この奴隷感+人種差別感ヤバすぎるなぁというのが率直な感想。

 さて、大学やアカデミックな部分では?恐ろしいことに、同じような原理を感じました。
 まず、それなりに習得が必要なお高い実験装置には、その実験装置の名前がついた○○センターみたいなのがあって、そこにPh.D.をもった人達が専属で何人かいて、管理している感じ。8台ものNMRを一度にみたのは初めてだし、そのマシンスペックもスゴくて、キャンパス内にこれと同じNMRセンターの施設があと2つもあると聞いたときにはマジでビックリしました。今回関わらせてもらったのは、他に、顕微鏡のセンターとフローサイトメーターのセンター。
 最初は、うわーNikon(アメリカではナイコンと呼ばれてるらしい)の顕微鏡に、Olympusの顕微鏡に、ZEISSのもあるー、と、日本製品が多いことに誇らしさすら感じていて、東大ですらこんなスゴい設備じゃ無いんだからそらアメリカには勝てないわなぁ、とか無難なことを思っていたのですが、、よくよく考えてみると、日本の奴隷さとアメリカの大量消費社会感を感じちゃいますよね。これらの製品、、ニコンにしてもオリンパスにしても日本企業なわけで、それらはあの意味の分からない就活を通ったヤツラが作っていて、そこで意見の1つも言いにくいなかで頑張って作ったものである。んで、同じ類いの実験装置が大量に準備されているにも拘らず、たいして使われていない。。こいつらのわがままな思想を完遂するために、どれだけ日本の理系や文系の優秀な若者が心を殺しながら、実際に死にながら、働いてると思ってるんだろう、と思うと、ちょっと冗談じゃなくなってきます。

 ポケモン(とその飴)、食べ物、生活必需品、実験装置、人(外国人や有色人種)に至るまで、とにかく大量消費しまくって、自分達がなりやがってやるぜ!みたいな。
 これって、弱者を率先してどんどん搾取しましょう、ってことで、もう完全に全体的にクズなんじゃね?っと。そんな、ちょこっと寄付なんかしても、なんにも意味が無いよ。

 これからの日本や自分の将来を考えるのあたって、このアメリカ人の大量消費という価値観の側面を無視できない気がします。モッタイナイという発想がこいつらに根付かないと、理系の研究社会という狭いフィールドですら、善くはならないだろうなぁと。もちろん、アメリカのいいところも沢山あるんだけど、おおざっぱに言うとこんな感じかなぁと。

 まだ"印象"というか、ただの直観と感想みたいなのが俺の頭の中にうわっと湧いてる時点なので、あまりちゃんとロジック化できていないですが、とりあえず今はこんな風な国だろうなぁという感じです。もうちょっと思いついたらここで話しますし、まぁ、来週火曜に宮澤さんと話す時までには、もっと色々まとまってると思いますが(+まだまだ話のネタは沢山あります)、今日はとりあえずこの辺で。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

無能なヤツはクズか?

2016-12-03 12:28:14 | Weblog
 自分の能力以上の言葉が得られてしまうと、その言葉を維持するために、その言葉よりも上の言葉を得ようとして、何かを誤魔化すことに躊躇しなくなってしまう。
 単純に沢山のことを繰り返すことを努力と名付けて自分を慰めたり、逆に文章の羅列を追うことやそこに一過性の価値観を見出すことで自分がまだ必要な存在であることを確認しようとしてしまう。

 基礎の基礎がしっかりしていない頑張りは、どれも無駄なのだ。俺(ら)から見てしまうと、高校理科や高校数学に不安があるにも拘らず最新の論文を何百本も読みこむことをしていっても、はっきり言って無駄。アカペラをやるにしても、最低限の音楽的素養なしで(楽器の能力or譜面がきちんと読める)、沢山とにかく歌ってみたとしていても意味が無い。どちらも、能力が上がったり、素晴らしくなったりするのではなく、単純に慣れただけ。
 基礎を積み重ねること。この基礎をきちんと構築するためには、自分には基礎がまだまだ足りていないという(本当の意味での)謙虚さが常に必要なのである。常にどのタイミングでも、自分には不釣り合いだと自分では思いたいあらゆるレベルのあらゆる教科書に戻る必要がある。結婚生活がなかなか上手くいかないのは、恋愛や人間関係における自分の信じている教科書が根本的に間違っているのかもしれない。どんなに慣れていたとしても、ベースがしっかりしていなかったら、いつ、どこから、崩れていくのかわからないのである。

 基礎をおざなりにして、誰かのコネや誰かに媚び諂うことで新しい言葉を得ることに慣れてしまうと、そちら側が努力の本質だと思ってしまう。

 いま、時刻tにおいて、個人iの"能力の高さAi(t)"というのは確実に絶対的なものとして存在していると仮定してみよう。ここで、initial stateとして、能力の指標となりうるある言葉を持っている人達がその言葉を持っていない人達(外部)から要請される能力の高さの平均値E(Ai)と標準偏差σ(Ai)について、あるiについてのAi(t)値がE(Ai)-2σ(Ai)よりも十分小さい状況かつiがE(Ai)であると任意の個人に認識されたい状況に着目した場合、
 Prob[ lim(t→∞) Ai(t) ≪ E(Ai) - 2σ(Ai)] = 1
 のような状態のときに、iがE(Ai)であると任意の個人に認識されたい状況を、tを進めてAi(t)の絶対値を高める以外の方法で、継続させようとした時点で(もしくはE(Ai)以上の言葉を取りにいこうとした時点で)、iがクズであること(:=弱者を踏みにじってでも自分が現在の状況を維持・より上昇させようとするヤツ)は自明なのではないだろうか?もちろん、tをどれだけ緩やかに、もしくは急に考えて良いかは状況には依るんだろうけど、、(あくまで)俺的にはinitial stateで"Ai(t) ≪ E(Ai)-2σ"なのだから、E(Ai)の言葉を諦めるか、任意の時刻tでAi(t)が単調増加関数じゃないのであれば、他人を傷つけるしかないだろうと思う(これはかなり厳しいと思うけど)。
 (ブログってもう少し添字を書きやすくして欲しいなぁ笑)

 そして、当人が傷つけていないつもりでも(よーするに控えめで意見を言わず、コツコツとハードワークに励んでいたとしても)、どこかで誰かを不条理に傷つけているのだ。
 この辺りが、俺が今行き着いている、能力と優しさと得られている"言葉"における相互作用問題というか、"無能なヤツはクズか?"の帰結である。もう少し更新できるかもしれないが、だいたいこんなもんで良いかなぁと。

 まぁだから、よーするに、自分の能力を高めるわけでもなく、ただ単純な"慣れ"をベースとして媚び諂うことで、ある言葉や喝采にしがみつくのであれば、それはクズなんじゃないかなぁと思う、ってことかな。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする