幸せの先には、きっと新しい絶望があるのだと思う。
ずっと、そのように思っているからこそ、何かの目標に最適化する人生をくだらないものだと確信してきた。受験にしても、就職にしても、結婚にしても、その言葉だけを追い求めていても、一過性である。それらが重要だと思うのであれば、目標などというものをセットアップする前に、圧倒的な物理現象としての絶望を心の底から味わうべきである。
どんなに輝かしい言葉や点数を手にしても、どんな素晴らしい組織に所属しても、どんなに誰かと愛し合っていても、人はいずれは死んでしまう。この問題を乗り越えようとしない限りは、突然生まれさせられて突然死ぬという理不尽を打破しようとしない限りは、何かの希望を将来に託すことはできない。
だから、現在しか存在していないし、過去なんて想起する幻想でしかない。死ぬということに比べれば、日常の些細な不満や後悔など取るに足らないこと。この絶望をクリアすることが可能かどうかはわからないけど、一矢報いるために、この「再現性を神とした宗教」を根底とした仕事をし続ける価値があるのだと思う。
想起する過去の記録である昔の写真や文章を見て回れば、いかに自分が幼かったか、いかに自分が愚かであったか、いかに自分が無謀であったかがわかる。
俺から手放された瞬間に、それらは未来に向けたものではなく、過去のある時点を固定する記録へと変換され、記憶から乖離していく。あの頃に不服だと感じたことや、許せないと思ったこと、悩みも、いつの間にか忘れ去っている。記録は、記憶と違って、不連続だ。自分ではない誰かが、考えて悩んで、時に泣いてしまった事柄を、今の自分が無機質に見つめているように感じる。
そんな過去の自分である誰かに、「大丈夫だ」と声をかけながらも、いまだ解決に至っていない能力不足を恥じている。圧倒的な絶望は、圧倒的な能力不足ゆえである。もし、「原理的にどうにもできない」というところまで、きちんと能力を高めていれば。。
周囲を見渡せば、数少ない仲間がいつも「考えすぎだよ」と笑っている。その正鵠を射る笑いに、気まぐれで真剣に抗議したり、気まぐれで同調したり。そのような気まぐれを行使できることに僅かながらの幸せを抱きながら、先の見えない未来をきちんと守るために、手段を選ばない覚悟を自分に問うてゆく。
そうすればきっと、古い絶望のその前には、新たな幸せを想起することができるはずだよね。
記憶の連続性と記録の不連続性を利用して、その想起を繰り返しているからこそ、俺は、常に現在進行形で幸せを感じることができているのかもしれない。これはきっと、とても有難いことなのだと思う。だとしたら、その幸運を、きちんと能力をつけて、恩返ししていかなくちゃいけない。
当たり前の疑問を、当たり前の方法で、当たり前に行なっていけば、きっと圧倒的な絶望だって掌握できるはずだ。
無理だと嘯いていたはずのホンモノに辿り着いたように。
ずっと、そのように思っているからこそ、何かの目標に最適化する人生をくだらないものだと確信してきた。受験にしても、就職にしても、結婚にしても、その言葉だけを追い求めていても、一過性である。それらが重要だと思うのであれば、目標などというものをセットアップする前に、圧倒的な物理現象としての絶望を心の底から味わうべきである。
どんなに輝かしい言葉や点数を手にしても、どんな素晴らしい組織に所属しても、どんなに誰かと愛し合っていても、人はいずれは死んでしまう。この問題を乗り越えようとしない限りは、突然生まれさせられて突然死ぬという理不尽を打破しようとしない限りは、何かの希望を将来に託すことはできない。
だから、現在しか存在していないし、過去なんて想起する幻想でしかない。死ぬということに比べれば、日常の些細な不満や後悔など取るに足らないこと。この絶望をクリアすることが可能かどうかはわからないけど、一矢報いるために、この「再現性を神とした宗教」を根底とした仕事をし続ける価値があるのだと思う。
想起する過去の記録である昔の写真や文章を見て回れば、いかに自分が幼かったか、いかに自分が愚かであったか、いかに自分が無謀であったかがわかる。
俺から手放された瞬間に、それらは未来に向けたものではなく、過去のある時点を固定する記録へと変換され、記憶から乖離していく。あの頃に不服だと感じたことや、許せないと思ったこと、悩みも、いつの間にか忘れ去っている。記録は、記憶と違って、不連続だ。自分ではない誰かが、考えて悩んで、時に泣いてしまった事柄を、今の自分が無機質に見つめているように感じる。
そんな過去の自分である誰かに、「大丈夫だ」と声をかけながらも、いまだ解決に至っていない能力不足を恥じている。圧倒的な絶望は、圧倒的な能力不足ゆえである。もし、「原理的にどうにもできない」というところまで、きちんと能力を高めていれば。。
周囲を見渡せば、数少ない仲間がいつも「考えすぎだよ」と笑っている。その正鵠を射る笑いに、気まぐれで真剣に抗議したり、気まぐれで同調したり。そのような気まぐれを行使できることに僅かながらの幸せを抱きながら、先の見えない未来をきちんと守るために、手段を選ばない覚悟を自分に問うてゆく。
そうすればきっと、古い絶望のその前には、新たな幸せを想起することができるはずだよね。
記憶の連続性と記録の不連続性を利用して、その想起を繰り返しているからこそ、俺は、常に現在進行形で幸せを感じることができているのかもしれない。これはきっと、とても有難いことなのだと思う。だとしたら、その幸運を、きちんと能力をつけて、恩返ししていかなくちゃいけない。
当たり前の疑問を、当たり前の方法で、当たり前に行なっていけば、きっと圧倒的な絶望だって掌握できるはずだ。
無理だと嘯いていたはずのホンモノに辿り着いたように。