たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

不調なときこそチャンスかも

2010-07-31 01:59:34 | Weblog
 うー、マジ、風邪。。
 周り誰も風邪ひいてないのに、俺だけ、風邪。ったく、俺って、なんでもかんでも、流行の最先端を行ってしまうんだなぁ(笑)。って、冗談を言うのが限界です。

 何よりも、声を封印されてるのが、辛い。別に歌うわけじゃなくても、自分の思い通りに声が出ないと、なんか、イライラするんですな。
 でも、こういう時こそ、歌いたくなる!この最悪の中で、どれくらい歌えるのか、試してみたくなる。んで、そんなことは、とっくの昔に、結構試しているので、むしろ、歌った方が、思い通り、声が出たり。

 どんなプロのアーティストでも、最悪のコンディションの時は、ある。
 最悪の時に、どれほど、ちゃんと、音程通りにこなせるか?、ってのは、練習しとかなきゃなんだよね、たぶん。

 合宿の時って、みんな、声、最悪のコンディションな気がする。一日中歌ってるし、夜は飲むし、で、声ガラガラだったよね。
 そういうことを試していたのか?うちらは。
 っま、そういうのって、色んな事に言えて、具合が悪い時で、練習みたいな時は、本番もこういうのがあるかも、って思いながら、自分の限界を把握しておくのって大事なんだよね。わざわざ、風邪の時に、歌練習しまくって、風邪を悪化させるほど、やらなくてもイイけど。

 芸術に限らず、どんなに実質的に最悪でも、その時の思い入れが強ければ、それは、きちんと作品やパフォーマンスに現れる。逆に、自分にどんなに実力があって、どんなに支配的であったとしても、片手間にしちゃえば、誰かには、見透かされるし、楽しくない。
 そんなもんだ。

 中島美嘉が昔、ライブ後のインタビューで同じようなことを言ってた。
 「ツアー中、今日は、上手くいったな、上手く歌えたな、っていう日があるんです。でも、それとは別に、上手く行かなかったけど、確実に、伝わったな、って思える日があるんです。上手く歌えるのと、伝わるのは、別なんですよね。」

 別に、キレイなモノを見たいわけじゃない。システマティックなモノを手にしたいわけじゃない。
 みんな、もっと、見えないモノに対しての、泣けちゃうくらいの、純粋さを、期待しているんだと思う。
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一番いけない気持ち

2010-07-30 01:03:19 | Weblog
 『え?マジ、いつも、そんな感じだよ??』
 「うわー、マジか。なんつーか、僕もう、そこまで行っちゃうと、憎悪じゃなくて嫌悪だわ。」
 『俺は、そこまで行くと、逆に尊敬するけど(笑)。』

 言葉だけ、先生、と呼ばれるようになってから、3年くらいが経った。こんなちょっとだけど、教育実習も含め、いろんな子と出会う事ができた。
 その、いろんな、の中には、常に自分に不利益をもたらしてきたようなタイプの生徒だって、いた。そういう子に遭遇するとき、その子が何もしてなくても、不安になるし、一瞬、どう接すればイイのか戸惑うことになる。そんな揺らいでる状態の時に、昔々に抱いた、憎悪の気持ちに傾かないように、どうにか優しいほうへ倒れこんでいけるように、頑張る自分がいる。

 彼も言うように、憎悪と嫌悪は違う。
 嫌悪は仕方がないどころか、両者にとっての利益に繋がる。嫌悪感を抱いたら、イエローカードを提示して、変えて欲しい部分を相手に変えてもらうか、どうしても変えられないモノは自分が受け入れればイイ。嫌悪感を抱かれたら、イエローカードを提示してもらって、俺が変えられるところは変えるし、変えられないモノは受け入れてもらうよう懇願すれば良い。

 だけど、憎悪からは、何も生まれない。
 それも、個人に対するレッドカードなら、まだ良い。それも、まったくダメ、っというほど、俺は真面目ではないので。
 ホントにダメなのは、その、憎悪感を抱いた個人が所属している集団、スタイル、性格、特性などについて、レッドカードを提示してしまうときだ。こうなってしまうと、周囲に不快感を持つ人が増えてしまうし、何よりも、自らが、狭い世界に押し込まれ、楽しくなくなっていってしまう。

 俺自身が、誰かに、俺個人への憎悪ではなく、マクロな意味での憎悪によって、排除されようとする瞬間、もっと本当の俺を見てくれ!、なんて、自分勝手なことは思わない。
 もっともっと、おこがましく、上から目線に、この人の憎悪を、どうやったら、とってやれっかな?、ってことを考えるのに忙しくなる。
 もちろん、勝率は、良くない。いいとこで、この人は例外だ、って思わせられるくらいだ。

 でも、一応、ミクロな世界を記述する、量子力学をマスターしたことになってるんだし、教員免許もある。
 だから、ちゃんと、ミクロにモノを見れて(量力)、その重要性を他人に伝えられなきゃ(教職)だよね。

 そういえば、大学卒業直前、
 『んー、ここ1ヶ月くらいかな、、ずーっと、目がピクピクするんだよね、痙攣みたいに。』
 「えー、何も無いのに?そんなに長く、ずっと??」
 『うん。。目薬つけてるんだけど…。』
 「その目薬、ちゃんと、効能みたいなのは、合致してるの?」
 『さぁ、知らない。』
 「じゃぁ、K君…っ、なんで、とりあえず、目に、液体、ふりかけちゃったの?笑」
 って言ってたけど、いつのまにか、治ったな。

 俺だって、メンタルは弱い。怖い、という感情は、人一倍強く持っている。
 ただ、俺は、マクロな憎悪に対して、純粋に挑み続け、俺よりも善戦している人達を、偶然、他人よりも沢山知っているというだけだ。

 今日だって、「今できること」を追い続けたことが、結果につながってくることが、よくわかった。
 誰かの感情をいつも糧にしているけど、、自分を正しく評価してくれるのは、他人でもなければ、自分でもなく、事実のみ、ということが、糧になることだってあるのかもしれない。
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1000

2010-07-29 01:04:17 | Weblog
 今日で、ちょうど、1000記事目になります。消した記事もあるし、公開していないモノもあるので、総数としては、とっくに超えていますが、一応、ここで抱えている記事数が、1000、になりました!
 読者の皆さん、いつも、見てくださって、ありがとうございます。

 考えてみれば、はじめてから、3回、ガチで、やめようとしました。そんなんを乗り越え、5年目。いやー、こんなに長くやるとは思いませんでした。今度、10月を迎えると、6年目ですか。月日が流れるのは、早いですね。

 当初、Bookmarksにある、いとうけんじさんのような文章を書きたいと思ってました。今も、あんなスタイルで書けたら楽しいなって思いますが、最近、すげーなって思うのは、Kenn Katoさんみたいなのです。あらためて、ブログも作詞も、構成や深さがスゴいな、っと思います。白状します、よく使う『会話』は、この方のブログからパクリました。っま、俺は本当に行われた会話を使ってるけどね。
 うんん、しっかし、やっぱ、プロは、違いますね。

 これからも、僕なりに、ここで自由に日記を書いていきたいと思います。皆さん、お忘れかもしれませんが、僕は、割と、いつも、「日記」しか書いてませんよ?
 でも、この999記事を読み返してみると、常に、2年くらい前の思考を使って書いている気がしました。その裏は、今、だけどね。

 そうそ、それから、節目でいつも言ってますが、、あんまり、ここで書いていることを、俺自身だって、思って欲しくない部分もありますし、かといって、その記事内での、隠された、一番言いたいことを見抜いて欲しいなって気持ちもあったりします。
 あれ?別に矛盾してないか。

 っじゃ、ってなわけで、こっから、10000記事くらいまで、お付き合いくださいな!笑
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見慣れてない姿

2010-07-28 01:06:40 | Weblog
 人は、一緒にいるメンツに依って、少しずつ変わる。
 感情と思考の割合、演技率、どういう立ち位置なのか、ちょこっとずつ、変わってくる。そんなのがわかる瞬間、よーわ、他の誰かが、普段、観察できていない、違う集団内で、違う顔をみせているのを見つけた時、ちょっと切なくなる。

 『んー、ほら、つい、ちょっと前まで、先輩達についていっちゃう、励起してるキャラだったじゃん!?』
 《レイキって、どういう意味ですか??》
 『そっか。うーんと、、調子のってる、かな?、、あー、違くって、やっぱ、励起(笑)。』
 《ふーん、調子のってる、ねぇ。》
 『だから、違うって!』

 言葉に群がりながらも、時間に依ってメンツが変われば、そりゃ、変わっていく。
 俺がエネルギーを与え続けないと何も無いであろうメンツ、そんなんを他の誰かがやってくれるメンツ、稀中の稀だけど、誰も何もしなくても勝手にエネルギーが供給され続けるメンツだってある。

 どの集団にいたとしても、持っているモノはカワラナイ。
 だけど、表現ってのが、結構重要でさ。最近は、もう、このページを読み解くための最低限の知識になってるけど、確かにグレーゾーンは存在するが、頭で考えること(=:思考)と心で思うこと(=:感情)は明らかに違う。んで、例えばさ、頭でのトークをしたいって思ってる集団で感情だけを使ってばっかだとそれは面倒だし、逆はもっとダメ。っま、マジ大勢いる集団においては、半々くらいがいて成り立つときもあるけど、基本的には、分けなきゃだよね。

 っとか言いながら、理詰めで話してる時でも、感情を沢山見せたかったり。俺も、結構、メンドクサイ性格だな。。
 だって、確認のためでもあるし、、それに、究極的に練られた思考≒その系におけるたったひとつの強い感情、だからね。これについては、まだまだ、こんなとこで詳しくは書けないけど、絶対にそうだ、って言える系がいくつかある。

 時間を止められたほうが、真実が垣間見えてしまうことがあるのかもしれない。
 その、普段のメンツと違って、真ん中にいない違和感の中で、表情だけが、真実を語っているように思えた。

 …でも、あんまり怒らないであげて。
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そのプロトコルで大丈夫??

2010-07-27 01:48:47 | Weblog
 何かを通して、かまして、間接的に判断する手法は世の中に山ほどある。
 一般に、プロトコルの中に、それが多ければ多いほど、誤差が増大していくし、精度が低くなる。どんなことにでも理由があるわけだけど、何を持ってして、それが誤差である、とか、本質に依るモノである、とか言えるかを解析するのは、難しい。

 しかも、ノイズにも色々な種類があるわけで、単に確率論的な誤差なのか、それともそうじゃない手法を使っていることによる相互作用による誤差なのか、きちんと考えなきゃいけない。

 直接的に、モノを見ていないなら、何もアテになんて、ならない。

 だけど、最高の思考力を、ぶつけてやろう、っと思っているモノ同士のそれは、かなり、正解に近づく気もする。そういうことは、決して、アドバンテージにはならないけど、実質的にアドバンテージになっているのかもしれない。
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One Side "breath"

2010-07-26 03:16:19 | Weblog
 理系の人間は、つらいことを楽しくしたり、ちょっと大変でも耐えてこなす能力があると思うけど、一部の凄まじく優秀な方々を除いて、実は、一個についてだけ、ってのが多い。
 よーわ、僕は物理だから「モル計算とか、化学式とか、ほとんど出来ません」、とか、自分は化学だから「数式とか知りません」みたいな感じで、ふんぞり返りだす瞬間を、俺は何度も遭遇している。別に、俺だって、物理も生物も含めて、ほとんどの分野、できないけどさぁ、、まぁ、本当にできなかったり知らなかったりするのは構わないけど、ふんぞり返るなよ、って思うんだよねー。
 もっと重傷なのだと、自分の狭っ苦しい研究分野しかできませんけど、なにか問題でも?みたいな顔してくるヤツもいる。そんなんを持ってして、「勉強と研究は違うからねー」みたいなことを言い出す。まったく、もー、そんなんじゃ、楽しさは掴めねーんじゃねーの?!

 《我々を物理以上に分けてくれるな、っということを、僕は何度も言ってきた。つまり、原子核だとか物性だとかっていうのは、非常に狭い範囲なわけね。物理なんて世間からしたら、もうすでに、狭い範囲なのに、それしかできません、みたいなのは、違うでしょ、ってこと。》

 っま、新しい世代の俺らは、自然科学以上に分けてくれるな、って胸を張って言うべきなのかもね。
 っと、敵を増やしてみたところで(笑)、だんだん、本日の本題に入りましょうか(そうそ、俺にとって、↑こんなことは、まぁ、ギリ、どうでもいいこと、に入るからね)。

 こういう風に、理科系の人間でも、なってしまうのは、どうしてだろう??もっと、言葉の隔たりなく、いろんな人とインタラクトしてれば、そういう風にはならないと思うんだよね。
 人との関わりを抜かした状態での、自分が好きなモノ、嫌いなモノっていうのは、わりかし、はっきりしている。だけど、他の人とインタラクションをもっていると、曖昧になる。それが足りないんじゃないかなー。
 その、2人以上で形成される集団が、自分にとって大事であれば大事であるほど、自分にとっての好き嫌いが支配されていく。

 すると、数式だってチャレンジしてみたくなるし、生化学にだって手を出してみたくなる。その人が、その集団が、好きなモノは、どんどん受け入れてみたくなるから、聞く音楽の趣味が変わったり、服装も変わったり、言葉遣いも自然と変わっていく。っと、プラスの方向なら構わないんだけど、マイナスに作用することもあるから困る。
 どんなに、誰かに、マイナスに作用されそうになっても、法律のラインだけは、絶対に破っちゃならない。それをも超えられるのはホンモノの関係だ!、なんて定義は間違っている。っていうか、それは最低限だけど、それも破れるようになってしまったら、もう、確実に、自分というものは消え去ってしまっているのかもしれない。

 そして、そういった支配による好き嫌いは、集団の崩壊が起きたとき、一変する。

 限りある胸に抱く想いの容量が、砕け散る夢に傷む想いの容量が、溢れていく。醜い心を掃除するように、洗い流す。
 ゆっくり季節が流れ、嘯いてきたあの日々。なんで、あんなに?って、突然悲しくなったり、寂しくなったり。ここまで来て初めて、すべてにおいて、時間がかかるな、っと思い知ることになる。

 そう、それでも残ったモノが、自分自身になっていくのだ。
 俺だって環境依存性がありすぎるけど、認知しているという点や簡単に言葉だけを取りにいく人間関係を作ろうとしないという点で、他人よりもマシであると、自負している。
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楽しくないなら意味が無い

2010-07-25 03:13:43 | Weblog
 まずは、電気のお話。
 プラスの電気とマイナスの電気は引かれあう。プラスの電気とプラスの電気、マイナスの電気とマイナスの電気だと、反発しあう。そんなんを、中学で習ったはずだ。
 高校で物理を選択すると、プラスの電気やマイナスの電気は定量化され、それらは、本当に、数学でいうところの、プラスマイナスで表されるようになる。

 当たり前のことだけど、ちょっと立ち止まってみて欲しい。何故、ゼロを境に、いきなり引かれあったり、反発しあったりするのだろうか…?連続的なことを考えだせば、やっぱり当たり前なんだけど、ゼロでいきなり大きく物理現象が変わることは、面白い。だって、強度じゃなくって、方向そのものが変わっちゃうのは、ちょっと不思議じゃない??
 俺が、1年半前、こんな風に思ったキッカケは、有機化学で電気陰性度がでてきたときだ。電気陰性度は、プラスマイナスじゃなくって、どれほど電子を引き付けるか?で定義される。それを持ってして、どちらに分極しているのか?を決めていたのを見た時に、あれ?そういえば、っという風に思った。

 自然科学を定量化するとき、本当にそれであっているのかどうかっていうのは、いったん、教科書を信じるしかない。マクスウェルがまとめた、この考えで、ちゃんと、プラスの電気とマイナスの電気が、数学で言うところのプラスとマイナスにちゃんとなっているのかどうか、っていうのは、実際に実験してみたって、これだけ実験装置が豊かな現代では、なかなか実感の湧かないことであると思う。

 けれども、そんな怖さを恐れずに、違うモノを同じようなモデルで考えてみよう。

 ≪じゃぁ、なんで、あの時に、あーいう風にしたの??だって、普通、そういう風な考えを持っているんだったら、ちゃんと練習した方がいいじゃん?!≫
 『確かに、あのとき、ちゃんと練習した方が良かったかもしれない。でも、そういう利益になるようなことよりも、つまんなくなってるんだったら、あーすることで、手っとり早い楽しさを掴めるんだったら、俺は、そっちを取っちゃった方がイイと思っちゃうんだよ!』

 複雑な人間の感情を、無理矢理、一次元の軸に押し込めてみよう。プラスの方向に「楽しさ」をとり、マイナスの方向に「イヤだなー」って想いをとる。原点(ゼロ)も、もちろん、数学によって、厳密に定義されている。

 少ない楽しさでも、「イヤだなー」って想いじゃなければ、そこで頑張れる。精一杯、誠心誠意、努力できる。
 でも、最初は楽しかったのに、いつのまにか、ゼロを超えて、マイナスになっちゃって、「イヤだなー」って気持ちが少しでも湧いてきてしまったら、なにも、意味が無い。それが時間依存だってわかっていたとしても、そうなっちゃったら、頑張る意味も無いし、耐える必要も感じない。

 それだったら、手法を大きく変える。どんなに邪道だって言われても、どんなに汚いって言われても、どんなにそれは間違っているって思われても、世間体や自分のプライドなんて気にしている場合じゃない。だって、たとえ、見抜かれたとしても、やめちゃうことが、何も動かないことが、一番ダメじゃない?!

 だから、そうやって、ゼロを超えて、「イヤだなー」になっちゃったら、邪道なことだって、平気でする。
 90分の授業で超簡単な問題を3問しか解かせられなくたって、テニスを3対3でやってみたって、一番音取れないヤツにリードボーカルやってもらってみたって、、qクーロンの点電荷からはq/ε0本だけの電気力線が出ているなんて基本的なコトがわからないまま先に進んだって、それで、ゼロをもう一回超えて、楽しい方向に変わるんだったら、最高じゃん!

 楽しくないなら、意味が無い!!

 「じゃぁさ、だって、そんな状況で、どうやって、向上しようと思えるわけ?イヤだなって思ってたら、抜けようと思って、向上するけど。。そっちが普通じゃん?」
 『うーんと、よーわ、俺が、どうして、向上心があるか、わからないってこと??』
 「そう。」
 『それは、褒められるからだよ。褒められて勘違いしまくって、それ自体もどんどん楽しくなっていくから、その楽しさを求めて、上へあがっていける。だから、俺も、なるべく、そういう風に。。』

 なぜ、ゼロのポイントで、そこまで物理現象が一変するのか、誰にもわからない。
 だけど、現象論的に、そうだと、言い切れるんだ。

 全員で、楽しいことが、一番大事。そこに、スタンダードさを介在させなくてもイイのだ。
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最悪の真実を超えなきゃ

2010-07-24 01:00:53 | Weblog
 『だからさ、なんで、わざわざ、そういうことするのかなーって。。』
 「うーんとね、っていうかね、K君が思っているのとまったくの逆で、見えているモノそのものが、割と真実で、ヤバいと思う。」
 『えー。…そうかぁ、うーん、、そうかもなぁ。』

 人の心、裏の裏はー、ただの表だったりしてー♪

 論理のなかで、非常に大事なことのひとつとして、因果関係の、原因と結果は、どっちが先でどっちが後か?その因果関係が時間依存によって逆になってしまう時、やっぱり、行動と心に、相互作用を感じるし、Modulateしていると言えるのだと思う。そうそ、して、一方向に変調していればBCS、両方向に変調していたら、、FFLO!?

 どんなに心があっても、超えられない壁を感じるとき、どうしても、力が欲しくなる。時間によって自然と得られる力なら、時間がすぐにでも過ぎ去って欲しいと思うし、冷酷に徹することによって得られる力なら、冷酷に振り切りたくなる。
 ただ、この一瞬一瞬も、やっぱり心を失いたくないし、俺がそういう部分を無くしちゃったら、マジでなーんも無くなっちゃうってことも、よくわかっている。だから、しない。

 何度も繰り返し見続けてきた、あの、表情と声色。まったく同じモノなのに、その瞬間だけ、こんなにも、意味深いモノだと感じたとき、絶対に超えてやる!、っと心から思った。

 人生で最も大切なモノは、たった2つ。肉体的にも精神的にも健康であることと、、……。

 機会さえ与えてくれるなら、いつでも、本気中の本気で、抵抗してやるし、最大の思考力と行動力を発揮してやる!たとえ、実質的に役に立たなくても。。
 そして、どんなことでも、必ず一度はチャンスが巡ってくるもんであることを、忘れないで。

 さぁ、戦うぜ??
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ひさびさのホームで

2010-07-22 23:38:20 | Weblog
 今日は、ひさびさに、神楽坂に行ってきました。
 こないだ行った時から、そんなに時間が経ってないのに、いろいろなところが変わっているな、っていう印象です。まず、生協の位置がわからなかった(笑)。

 こないだ行った時は、まず最初に、ホームに戻ってきたな、って思いましたが、今日は、最初はお客さん的な感情を持ちました。それだけ新生活にも慣れたということでしょうか。
 だけど、教室の席に座った瞬間、見慣れた顔ぶれを眺めて、やっぱりホームに戻ってきたな、って思ったりもして。そりゃ、あの3年間で、研究室にいる期間よりも、教室とかにいる期間のが、長いからね。

 そんな、ちょっと懐かしい中で、感じたことは、「どんな努力も、絶対に無駄にはならない」ということです。
 何に対して、どうして、そう思ったのか、は、非常に複雑なので、いつも通り顕わには書きませんが、また、今日、改めて、確実にそうだなって、思いました。

 それは、正しくない、どんなにやり方を間違った方法の努力でも、信念を持ってやっている限りは、絶対に無駄にはならないということです。
 たとえ、実質的に役に立たなくても、作った積み木をバラバラに崩されてしまったとしても、その時、力を出し切れなかったとしても、そこで頑張っただけの見返りは、必ず、存在します。

 心さえあれば、想いさえ強ければ、必ずその見返りはあるし、実質的なモノも、あとからくっついてくるんだと思えた、そんな一日でした。
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心とリアルの不一致

2010-07-22 04:15:26 | Weblog
 形式だった過程さえ踏めば、無難にこなせてベスト、って考えている人は多い。
 それはある意味では非常に正しい。礼に始まり礼に終わる、っとか、別に本当はここでは大丈夫だけど一応手袋しておく、っとか、作法として、学ぶ上でも仕事をする上でも、そういうことをきちんとできることは大事だ。

 でも、毎日いつも、平均的な人間の平均的な振る舞いをしていれば良いということではない。何か特別な、critical pointに達したら、それこそ、きちんと自分なりの行動をとる必要がある。
 だって、どんなに創って笑ったとしても、どんなに精密な演技をしたとしても、自分自身は誤魔化せない。確かに、演技を繰り返すことによって演技を本当にしてしまうことは少しは可能だけど、でも、最初の気持ちをまったく忘れることは、そこの感情からの不一致が効いてきてしまって、事実上不可能だと思う。

 真相は、いつだって、どちらかの心の中にある。表面上に形成される、勝ち負けとは関係なしに、例えば、実質的に勝っているように映っても、本人には、こっちは確実に負けていたって、心の中では痛いほどわかっている瞬間だって沢山ある。
 だから、俺は、間違いなく、本質的には勝っている時は、それ以上、実質的に突っ込まない(本質的にはどうか、ってのは、随所に沢山ヒントが転がっている)。相手は痛いほど分かっているはずだから。っま、それを超えて、コテンパンにやっつけちゃうときもあるけど(笑)、今まで、多くは、実質的には勝って、本質的には負けてきたから、、基本的にはこれでイイんだと思う。

 そぉっ、不自然な部分にこそ、本質やホンモノが潜んでいることを、思い出して。
 自然体である限り、まだまだ、仲良くは無いのです。

 …ってなわけで、特に用件が無くても、長話してイイってことで(笑)。
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気持ちが外に向いているということ

2010-07-21 01:29:04 | Weblog
 生物の試験勉強をしているなかで、やっぱり、こっちを選んで良かった、っと思えている。
 物理学科の中では、だいぶ生物や化学が好きな方だったと思うけど、やっぱり、この世界の中で、本物になるのは難しいね。別に、俺は、自然科学が好きなわけで、どっちがどうとかって言うことじゃぁないんだけど、より楽しいのは、生物だなって思う。

 物理学の考え方は非常に役に立つ。どんな場面でも、いったん、物理学でよく用いる理論的な思考をすると、有用である可能性が高い。でも、物理学で、よく扱っているような物理現象自体が、あんまり面白くないと思うんだよね。素粒子でも物性でも、モノの根本は、たぶん、そういうところには、ない。
 俺は、生命現象のなかにこそ、物事の根本がある気がするし、その意味では、俺は、物理学を専攻する大学院生よりも、根本が何か?という問いの解答に飢えていると、自分で思う。

 『つい、こないだまで、物性理論の研究室にいて、それで、こっちに来ました。』
 《そうなんだ。わりと、日本の物理学出身者って、生命現象への興味が疎いよね。》

 っま、僕はまだ、本物じゃないですけどね。
 最前線を走っている人から、こういう言葉をもらうと、うれしい。

 ただ、明らかに、言葉にだまされたり、何が大事かを取り違えたり、そういうことは、どこのどういう場所に行ったとしても遭遇するし、俺もだまされる。
 価値観の違い、とか、それぞれ、っとか、そういう風に言っちゃったらダメ、この部分だけは。こういうことは、音楽と同じで、価値観を押し付けようとしてイイんだと思う。

 たった80年くらいしかない人生。その間に、自然科学が、片っ端からすべて解明されることはないだろうし、解明されたとしても、それは本質じゃない。
 何が大切なのか。それは、絶対に、人の心とそれ同士の相関にあるはずで、それ以外のこと、ヒトや粒子などは、根本的にはどうでもイイ。大切なモノを捨てるくらいなら、真実を解明する必要はないんだと思う。

 そういえば、自然科学の純粋な崇拝者は、どこか、大事なモノを忘れてきてしまった顔をしている気がする。この力を利用して、このなかの人たちをどうにかしようとか、一般にもっと広めようとかって、気持ちが外に向いているんじゃないと、自然科学なんて面倒な代物、専攻する意味はないのかもしれない。だからこそ、マイケルファラデーやアルバートアインシュタインは尊敬に値する人物なのだ。
 逆に言えば、それさえできていれば、どんなに非力でも、どんなに実験できてなくても、どんなに薄っぺらい思考力でも、そして、本物じゃなくても、、ホンモノなんだと思う。

 これらの点でも、それをも扱おうとする、生物学こそが根本な気がしてならない。。
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しなきゃなこと

2010-07-20 01:04:17 | Weblog
 しなきゃいけないこと。
 高校生までは、ある程度、決まっているけど、大学生以上は、自分でそれを見つけに行くのも仕事のうち。簡単に言えば、これを覚えればイイ、っていうモノを、自分で考えて選ばなきゃいけないのだ。

 この凄まじい量のフリータイムのなかで、何をすべきか?それを考えなきゃいけないし、みんなが言ってるからって、変に、「大学は遊ばなきゃいけないところ。」って決めないほうがイイかも。
 永続的な目的が無い限り、単に、飲み会に行ったり、ゲーセンに行ったり、してても、あんまり面白くないもんね。

 そうそ、何を遊びと決めるか、何が自分のためになると決めるか、それも自分で決めなきゃなのだ。
 追求していかないと。

 「追求されれば、、すべてのことに、理由はあるもんだよ。」
 そうだね。でも、言葉ゲッターになっている自分に気をつけなきゃだな。

 ただ、そのおかげもあって、こんなに色々な人が周りにいるから、サンプルが沢山あってさ、、いくら機械的な言葉でも、そんなにわかりやすい、振動数で、リズムで、声色で、言い放ったら、見透かされちゃうよ?
 重要なのは、事実や言葉の持っている意味では無いことを、忘れないでね。

 じゃぁ、それを、さらに見極めるために、しなきゃなことは??

 っま、でも、もう、隠しあうようなことしなくても、すべてを包み隠さず曝け出すサイドに立ってみても、面白いかも。
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未来で出会うとき

2010-07-19 03:22:14 | Weblog
 音楽には、別の世界に飛ばしてくれるような力がある。
 それは、過去だったり、異世界だったり、非常に稀だけど、未来の場合だってある。今のところ、音楽だけが時空を超える力を持っており、いやな現実から突き放してくれたり、活力を与えてくれるモノらしい。誤魔化すだけじゃなくって、実質的に助けてくれる。

 音楽が過去に連れて行ってくれる時、その過去ではまだ出会っていなかった人も、その曲によって過去に旅立てるとしたら、時間を超えて、そこで、出会えるような気がする。

 音楽すげー。

 だけど、十分に力を貰ったなら、そこから自分で動きださなきゃだよね。昔話始めたら、楽しいことはわかってるけど、これはきっと、ホンモノじゃない。

 でも、まだまだ、現在の真実を聴く準備はできていない。
 どんなことを言われても、言っても、もう、ほとんど怖くは無くなっちゃったけど、どんなことにでも例外はあるもんだ。その一瞬、コントロールに細心の注意を払っている自分が、情けない。
 それは、きちんと、今を生きられていない、ということを、示すのかもしれない。

 っさ、Let Our Journey Start from Here!
 これすら、思い出にさせないで。
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ネオンサイン

2010-07-17 01:27:43 | Weblog
 すごいちっちゃい頃、ネオンサインを見るのが好きだった。
 周期的に流れる光り輝くキレイな絵を、バスの窓から食い入るように見つめていた。これは、夜にだけだっただろうか?、昼間もあったっけ?。子どもの頃は、ワイパーが雨の日オンリーであることすら、雨の日になってみて、どっちだっけ?って、わからなかったりするもんだ。
 今でも、ああいった、周期的なモノを見るのは好きだし、ひとつひとつのライトは意味を成さないけど、集団になると意味を持ち始める、ネオンサインを見るのも大好き。

 周期的なモノは、どこにでも、存在する。
 毎年、一緒にいるメンツが変わりゆくなかで、不安定な平衡状態みたいな、入れ替え作業を見ていく周期性も嫌いじゃない。新生になる瞬間、そりゃ怖いけど、また、来年には、同じような感じになっているはず。それでも、毎年、ちょこっとずつ、変わっていく。そんな細かい変化も、楽しいんだと思う。
 この周期性による変動が、当たり前のモノになってき始めたとき、きちんと注意しなきゃいけない点がある。

 ≪うーん、だから、最近の学生はね、、まぁ、最近の学生のイイところもあるんですけど、、≫
 『先生、ちょっと、それもイイですか?!僕は、まだ、こんな若いですけど、それでも、僕でも、下の世代に対して、どうしようもねーな、っとか、下がってきちゃってるかも、っとか思っちゃう事、あるっちゃあるんですよ。でもね、そこで、最近の学生はー、って言って、思考を停止させないであげて欲しいんです。その言葉で止まらないで欲しいんですよ。』
 ≪別に、思考を停止させてるわけじゃないんですけどね。≫
 『させてますよ、だって、先生、昔話が多いじゃないですかっ。それにね、教育者、いえ、先生と呼ばれる全ての人は、ダメだなって思っちゃう生徒に対して、その大部分は自分の力不足に依るものだ、って心から思えるようじゃないとダメですよ。』

 とにかく、思考を、試行を、停止させない!それが、すべて。

 言葉による決めつけは、本当になってしまう。
 真面目だね、っと言い続ければ、真面目になっていくし、だから、どーせ、こういうことも知らないつまらない人なんでしょ?っというような言動をとられれば、そういう部分が事実的に強まるようになる。逆に、チャラいね、と言われれば、どーせチャラいですから、って感じの行動になっていく。

 だから、定式的な言葉でまとめてはいけない。それで思考を停止させては、絶対にいけないのだ。自然科学を扱うのに限らず、すべての事に対して。
 ねぇ、だからさぁ、決めつけないで。

 いつの時代だって、カワラナイ。根本的なところは、大人も同世代も中高生も子どもも、全然、カワラナイという風に、俺は思う。その表現の仕方は、それぞれの世代でカラーがあるけど、もともと持っているモノは、ほとんどカワラナイ。

 今の子ども達は、ネオンサインなんかじゃ、もの足りず、3D映像で、そういうモノを、食い入るように見つめているのかもしれないし、ネオンサインなんて無い時代の子ども達は、夜空の星を、食い入るように見つめてきたのかもしれない。
 表現の仕方は違えど、根本的に持っている部分で大事なところは、各世代で、ほとんど、みんな、同じなんだと思う。

 そんな部分を、大事にするか、大事にしないか、それは、人に依るのかもしれませんけどね。
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片手間にしないでっ

2010-07-16 00:29:12 | Weblog
 力をつければ力をつけるほど、色んな事が一気にできるようになる。効率も良くなるもんだ。
 今やっている実験も、1回目はとても時間がかかったけど、4回目はその半分の時間で済んだりした。ここで時間使うから、先にこっちの作業しちゃって、んで、これ、どーせ溶けるの待たなきゃだから、先にこっちやっちゃってー、ってね。

 どんどんどんどん手際が良くなっていって、機械的になってくると、色んな事が、片手間にできるようになる。
 片手間にやりながら、様々な事象について、適確なアドバイスができるようにもなるだろうし、片手間に、生徒を合格させることも、片手間に、論文を書かせるようになる事も…?

 『なんていうのかな、こっちは、これだけ一生懸命考えて、それでひとつひとつ、行動しているのに、なんで?って思わん?』
 「んー、こんなこと言うたら、ショック受けるだろうけど、たぶん、そんなの、むこうは、片手間にやってると思う。」
 『そりゃ、そうだろうけどさ。っていうか、俺は、あんまり、それが、片手間に、出来るようになりたくも無いしね。』

 それに、結局、それで、ホンモノを掴めてなかったんじゃん?!それじゃぁ、意味なくね?
 でも、現実問題として、この時の純粋な想いとはウラハラに、俺も、すでに、片手間になりつつあったり??まさかね。

 本当の実力が無かったとしても、言葉にしたり、言葉をもらったり、言葉を持っていたりすると、教科書通りの答えだと思わすような答えを、提出できるようになる。
 そんな教科書通りの解答を知っているが故に行動が阻まれる、みたいな不安を抱えていたりするし、それで損している人を沢山見ている。
 頭イイのに、それで損するって、もったいないよね。

 《だから、辛いっていうか、そういう目で見ないで欲しいなーって。》
 『うーん、初めにそういう目で、みられちゃうのは、ある意味、仕方ないんじゃないのかなー。だって、そりゃ、彼らと違う路線でやってきちゃったんだから、単純にムカつかれるだろうし、色眼鏡でみられちゃうよ。』
 《えー、じゃぁ、どうすれば?》
 『この人だけは例外だ、って、そういう風に思われるように、色々な部分で、頑張り続けるしかないでしょ!あと、俺は、ちょっと本当のことも言っちゃう。』
 《どんなふうに?》
 『っていうか、ぶっちゃけ、そういう目でみてるでしょー、って。』
 《そんなの絶対言えませんよー。笑》

 教科書通りの答えは、一歩領域を超えれば、ただの偏見に過ぎないのだ。たとえ、自然科学ほどの、理論武装されまくった領域内において、でもね。

 だとしたら、それをも超える思考力を加味しながら、一対一対応で、いちいち、思考と感情を対等に使って結論づけていく他、無いんじゃないかな。
 それが、諦めない、っという事だと思う。

 片手間に出来ているつもりが、時代遅れだったり、単純に持っている教科書に載ってなかった、そして、(方程式などに)乗ってなかった、解析不足だった、なんてことはよくあることだ。
 だから、片手間にできている気分になっちゃっても、せめて、その時間だけは、思考と感情と行動をフルに使って、本気で取り組まないと、ホンモノは掴めねーんだぜ?!

 っま、よーわ、やってみなきゃ、わからないじゃーん、っていうこと、かな。。
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