「第六章 八雲(?)」
(一) →花圃は感動した手記を傍らに一休みして、澄から、江戸に戻った頃の登世を知る。
牢獄を出るところまでの手記を読んで、暫く時を置いても動悸が収まらなかった。
師の君の手記を偶然に見つけたのは三日前のことだ。花圃は、この手記のことで、それから、頭が一杯で他のことは何も手につかない。澄の目がなければ、持ち帰って一気に読んでしまいたかった。
申し合わせたわけでないのに、澄も、毎朝、昨日も今日も病院を訪れてから、手記を読むために二人で俥を連ねて小石川に通ってきている。
花圃は濡れ縁に出て腰を下ろして、師の君は、てつ殿と藩の御沙汰に背いて水戸を脱出したわけだから、命がけの逃避行だったろうと思うと独り言のように言うと、暫し時を置いて、澄が、「敗者は逃げるしかなかったのでしょう」と言う。花圃は、それにしても敗者などと、澄は物言いが辛辣だと思った。それ以上なぜ敗者かとは問わずに話題を変えた。
花圃が、ここ小石川に辿り着いてから12年もの間、師の君は、どうやって暮らしを立てておられたのかしらと言うと、澄が、女中として仕えていた頃、母親の幾様から聞いたと言って話してくれた。
御隠居様の力添えが大きかったことでしょう。先生とてつ様は川越藩に向かわれたが、以徳様と行き違いになることを恐れて、加藤家の主の利右衛門にお願いして、池田屋の隣町の空き家で名前を「中島登世」と「中島とく」と名乗って身を落ち着け、すぐ、加藤千浪先生の門下で和歌の修業を始められました。暫くして御隠居様も江戸に出てこられて三人でお暮しになったようです。
花圃が、師の君は以徳様の死を何時お知りになったのかしらと問うと、澄は、それは存じませんと言い、手記の先を拝読しましょうと先に読めと残りの紙束を花圃に差し出した。
(二)
明治25年、以徳様が亡くなっていたことを知っていたので、登世は本名を「う多」として歌の世界では「中島歌子」と名乗っていた。
その歌子のことが、読売新聞の「明治閨秀美譚」に、水戸志士の未亡人が宮中にも出入りし、門人千人の歌人となっているとして取り上げられ、それを見られたのでしょう水戸烈公の夫人貞芳院様から、歌子にお召があり、俥が回された。
歌子が母親の幾への土産に梅干を買った日に、ひょんなことから、水戸の那珂川の川縁で川釣りをされていた貞芳院様に釣りを教わったことがあったが、その方が御存命であることに驚かされた。むろん貞芳院様はその事を覚えておられる筈もないが、卒寿も間もない御高齢と思った。
歌子は、お召のお礼を述べ、問われるままに、水戸家中の御馬廻役の中士の妻で、天狗党の妻子として赤沼のお長屋に投獄されていて、大儀であったことを申し上げた。また、武田耕雲斎様の御一家と一緒だったことなど投獄されていたときの悲惨なこともお答えした。
その後、貞芳院様は話題を変えて、薩長と水戸は何が違うたと問われた。歌子は二つあると存じます。一つは薩長には幕府を倒す意志があり、もう一つは水戸は薩長のような老獪さを持ちませんでした。それは大志のためには小異に拘わらぬことができませんでしたと答えた。
すると、貞芳院様は、確かに水戸は幕府を潰すことなどは夢にも思っていなかったし、二つ目のことは、諸生党と天狗党の争いを言うておるのだなと言われ、私ならもう一つの答えがあり、それは貧しさだと言われた。そして、その話を続けられた。水戸者は生来が生真面目や、貧しいので質素倹約を旨とし過ぎて頑なになって、その鬱憤を内政に向けてしもたのや。あまりの貧しさと抑圧が怖いのは、人の気を狭うすることや。気が狭うなれば己より弱い者を痛めつける、それで復讐を恐れて、手加減できんようになると言われた。
確かに、天狗党の乱で、水戸藩は諸生党の独裁体制に入った。歌子たちも牢屋に入れられ、諸生党の首魁の市川三左衛門の命で、主だった武家の妻子たちも斬首になり、歌子たちはやっと生き延びることができた。しかし、鳥羽伏見の戦いから遁走した慶喜公が江戸に戻ると早々に水戸藩主慶篤公を江戸城内に留置して、慶喜公が諸生党の重臣らを罷免したので、諸国に潜伏していた天狗党の生き残りが水戸に凱旋し、今度は諸生党に対して報復を開始したので、今度は反対に諸生党が、水戸を追われることになり幕軍に参加したものが多かったようである。
諸生党の重臣らが罷免されてから、天狗党藩士の家の再興も許された。
そのためもあって、歌子はてつ殿を水戸に返して、水戸藩士を婿養子にして林家を再興させた。
その後、水戸のてつ殿から、諸生党の重臣の妻子が処刑されたことを知らせる文や、諸生党の首魁の市川の一家は末娘の一人が行方不明になり、残りは全員処刑されたとの文も届いたものだ。
貞芳院様は更に話題を変えて、市川には何人かの娘がいたが、末の娘の「登世」を伴い、那珂川に釣りに行き、あの子は顔の眉頭の処に一寸ほどの怪我したが、今はどうやっているだろうと言われ、そもじも、元の名を登世というそうなと言われた。
侍女から、御前は時折、ものの覚えを混濁されることがあると告げられ、歌子はお召の真の理由に行き当たったような気がして言葉を失った。
(三)
私(歌子)は歌人として名を挙げてから様々な相手と醜聞を立てられ、妻子ある歌人と何年も関係を続けたことがあるのは事実だ。そう、私は欲望のままに生きてきた。けれどもどんな男と浮名を流そうとも、以徳様への恋情は尽きることがない。未練だと己を諌めようとも、以徳様への思いが募り続けることに私は愕然する。以徳様が自ら腹を切って果てなかったのは、死ぬる寸前まで私の許に戻って来てくれるつもりであったゆえだ。私はそう信じている。でもあなたは帰ってきてくれなかった。
恋することを教えたのは貴方なのだから、どうかお願いです、忘れることを教えて下さい。
『君こそ恋しきふしはならひつれ さらば忘るることもをしへよ』
次の章に続く