「第一章 雪桃(雪の桃の節句)」
(一)
登世が17歳になった頃、母親の幾が登世の見合いを次々に仕組んでいた。
この頃、水戸家の御家中は、藩主斉昭公の考えに沿って尊皇攘夷論の急先鋒で、彦根藩主の井伊掃部頭を激しく非難していて、井伊大老によって斉昭に蟄居を命じて幕政から遠ざけられたなどの「戊午(ボゴ)=安政の大獄」がなされた。
そんな、ある年の秋、池田屋に水戸の御家中が集まった酒の席で、己の論に固執する面々の中で一人泰然と盃を口に運ぶ美男の武士を見た途端に、登世は息が止まりそうになった。その方と目が合ったような気がした。思い違いかもしれないが我知らず身が熱くなり、逃げるようにその場を辞した。
後で女中から、そのお侍は、池田屋と長年の懇意の黒沢様との甥御で林忠左衛門以徳という方だった。一泊だったが、出立の折り、誰にともなく世話になったと会釈して帰った。
そのときから、登世は、気が付けば林様のことを考えるようになり、林様のどこか思い詰めたような目を思い出すたびに切なくなって、胸が苦しくなっていた。
母がそれを感じたのだろう。やたらと見合いの話を持ち込んだのは、その頃からだった。
ある日、見合いから帰って重い帯を解いていて、愛犬の獅子丸にも、なおざりの声をかけただけでいたら、獅子丸がいつの間にか居なくなり、外まで爺やと探し回ったが、その日は帰ってこなかった。
登世は、母から教えられた武家の奥向きでの昔からの言い伝えを受けて、「失せ物、待ち人に出会えるように」と、和歌の上の句の「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の」を何枚も短冊に書いて、庭の梅の数十本の木にぶら下げる願掛けをした。
翌日は、爺やだけが探しに出た。水戸屋敷の火除地の処で、大きい犬に吠えられていた獅子丸を助けたのだと、大事に抱いて歩いていた林様と朋輩に会って、池田屋へ一緒に帰ってきた。
林様は梅の木の短冊を見て、「割れても末に、逢はむとぞ思ふ」待ち人来たりですねと言って、登世に獅子丸を渡す時、一瞬、林様の指先に触れたような気がした。そう気づいたとたんに登世の顔が朱に染まった。林様は背後の朋輩に「何とも風情だな。梅に花が咲いたようで、偕楽園が恋しゅうなるのう。」と言い、先を急ぐのでご免と背を向けた。
(二)
母親の幾の話によると、爺やの父親は水戸の百姓だったが、あまりの貧困から田畑を捨てて江戸に出て来た。その父親が江戸は極楽浄土に思えたと言っていたそうです。だから、あなたの結婚相手は水戸のお武家様でなければどなたでも結構と思っていると言われ、登世は、いきなり胸の中に手を突っ込まれたような気がした。
水戸藩は御三家の格を保つために、藩の石高を実質より高く表高を35万石にしていた。そのため、他の藩と違って年貢を四公でなく六公四民の仕組みにし、500石以上の上士ならともかく中士以下はそれでも甚だ困窮の様子で、中士は内職もまかりならんと幾は聞いていて、登世は、家事は何もできないので、中士の家内の切り盛りはできず先方様にご迷惑をかけると、林様への私の思いを消そうとするが、私の胸の裡の流れは遮られるほど強く激しくなっていて男雛女雛を見るのも辛くなっていた。
そんな年の3月3日の朝、庭が雪化粧し、桃の花が咲いている庭を眺めていると、女中が、桜田門の前で水戸浪士により井伊大老が襲われたと走って知せてきた。
登世は、我を忘れて背戸に向かった。恐ろしい予感で背筋が震える。足を滑らせて尻餅をつきながら気持だけが急いで胸が早鐘のようになる。爺やが追っかけて来た。爺やと一緒に桜田門の前で死人を探した。薄汚い泥と血が混じり合い、斬り飛ばされた手や耳がそこかしこに散っていてのに何度も震え上がりながら、私は取り憑かれたように辺りを彷徨った。
そして、林様が見当たらなかったので、安堵で膝から崩れ落ちた。
(三) →花圃が歌子の手記と確認する。
花圃は血なまぐさい匂いを嗅いだような気がして、手にしていた手記を膝の脇に置いた。
これはやはり師の君が自身の若い頃のことを記したものと確信した。花圃は何かしら胸が乱され、残りの紙束の手記に眼をやり、この後を読んでいいものかと迷った。
困惑しながら振り向くと、澄は花圃が読み終わって畳の上に置いた紙束を膝の上に乗せ一枚ずつを両の手に取っては目を走らせていた。
「第二章 道芝(道案内)」
(一)
登世が三味線の稽古で外へ出たところへ、爺やが寄ってきて、林様が無事である処で待っていらっしゃると、駕籠を拾って神田明神下の爺やの妹夫婦の家に案内した。
今朝、林様が商人風にして池田屋の泊り客を訪ね、一刻して帰られる時に、登世殿はお元気かと言われたので、お願いして、ここへお連れしてお嬢様を待ってもらったのだと説明した。
爺やに背を押され、登世は、震えが止まらぬ膝を一段一段、持ち上げるようにして二階に段梯子を上り、よろしゅうございますかと、ようやっと許しを乞う。中から返事が返り、登世は、障子をあけ目が合った途端、黙って頭を下げて、とうとう声を上げて泣き出してしまい、敷居の前から動けなかった。ようやく部屋に入って、御無事でと、一言を口にしただけで目の前が滲んで、後の言葉が続けられなかった。
以徳から、大老を討つ謀事に加わっており申したが、同志を助けるために水戸に行っていて、桜田門外の襲撃に参加できなかったと自分の行動を話しした後に、捨てる覚悟であった命を捨て損ねたと気付いたとき、某が目の中に浮かんだのは、ある面貌であった。あの秋、短冊を吊るした梅樹の下の娘の姿が消しても消しても浮かび、心が安らぎ晴れた。そして気が付けば、犬を受け取った時の娘の目を、声を、思い出すようになり、やがて今一度相見えたいと心が募ったと、自分の思いを告げた。
登世は、林様が私に再会したいと願っていて下さったと思うだけで胸が一杯になり、涙が出て両手で顔を覆ってしゃくり上げた。以徳が懐から汚れているがと、手拭いを差し出した。登世は、それを手にしただけで火がついたように顔に朱が散るのが分かり、手拭いに、いつまでも頬を埋めていたいような気がした。
以徳が帰り支度を始めた気配を知り、登世が、ぜひお供させて下さいませと言うと、以徳が、某はもはや藩を脱けた者で、苦労は目に見えてていると言う。しかし、登世は、苦労は厭いません。この思いが遂げられるなら、譬え、この命を捨てても悔いはありませぬと言う。岩にせかれて離れ離れになった流れがまた巡りあい、水飛沫を上げる音を聞いたような気がした。
(二)
登世は、何が何でも以徳に添いたいと母親に告げて、膳の物にも箸をつけず自室に閉じこもった。但し、爺やのお握りは隠れて口にしていた。
その10日ほど後のこと、以徳が、正式に登世の母親に縁談の申し込みに来た。登世は呼ばれずに、後刻、女中にから二人の話を聞いたところによると、母親がお武家に嫁がせる気は毛頭ござりませぬと言うと、母親は以徳から意図しなかった言葉を聞いた。必ず幸せにすね、淋しい思いはさせぬとか、そんな約束は何一つできぬが、登世殿と共に生きていきたい、としか申し上げられぬが、ぜひにと頭を下げたとのことであった。そして、母親は最後に、かくなる上は、どうか生き抜いて下さりませ。このご時世にあってそれは命を擲(なげう)つよりはるかに多難なことかもしれませぬが、妻を娶る限りはどうかお覚悟をと言い、至らぬ娘ですがと頭を深々と下げて、登世に持参金を二つ持たせます。一つは林家に、もう一つは尊皇攘夷を遂げるための軍資金として如何様にでもお役立てくださいと言った。
その後、時が過ぎて、登世が嫁入道中に出立する朝、以徳は迎えに来てくれたものの、火急の用ができたので同道できぬこととなったので、同輩の市毛が代わりに水戸へ先導すると言う。
母親がせめて盃だけでもといったが急ぐからと刀を腰に戻し、登世に、「水戸で待っておれ」と言って坂道を降りて行った。
以徳は、このときは脱藩の罪を許されれ、中士の士分に戻っていた。
爺やも、自分のわがままを許してくれと、形は池田屋を辞去しての帰郷だが、登世の従者として水戸に向かった。
次章に続く