T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

妹尾河童著「少年H」を読み終えて! -3/3-

2013-07-20 08:00:57 | 読書

下巻

◎教練射撃部

 8月といえば普通なら夏休みの時期だが、Hは毎日のように学校農耕地に農作業に出かけていた。 二年ほど前までは夏休みは遊びで忙しかったのが、防空訓練や鍛錬で遊びの時間は奪われ、急に世の中が変わってきたのがよく分かった。 少年兵の志願年齢が一年引き下げられた。 国民学校高等科を卒業した直後に満14歳からの入隊を可能にするためと新聞に書いてあった。 Hも来年になるとその年齢になるわけだ。 兵隊に志願するのも大変だが、今でも十分シンドイワと友達が言った。 確かに毎日のように土を掘ったり堆肥をモッコで担いで運ぶ作業はつらかった。

 『私も中学一年の夏休みだったと記憶しているが、400mぐらいの山の上に砲台を築くために、モッコに小石や砂やセメントを入れ、前後を二人で担いで山上に運んだことを思い出す。 途中で、少しわざとではないが、山を上るので、揺れて時にはこぼして到着したら半分になっていたこともあった。』

◎焼け跡

 地面には点々と焼夷弾がめり込んだ跡があった。 こんなに落ちたのかと思った。

 Hが家のほうへトボトボと歩いていると、前方の焼け跡の上を白い蝶がヒラヒラと舞っているのが見えた。 白い蝶は、途切れることなく地面から飛び立ち、舞いながら上昇していた。

 それは、Hの家があった場所からで、床下の防空壕に埋めて砂袋を被せていた岩波文庫の端の部分が風に吹かれて舞っていたのである。 その白いヒラヒラは、本の命の化身のように見えた。

◎機銃掃射

 戦闘機の爆音が聞こえた。 山の頂上すれすれに飛んでいる姿が逆光に見えた。 敵機が山側から現れるはずがないので最新鋭の鍾馗かと思った。 そう思ったとたん、戦闘機は急降下してきた。 空気を切り裂くような爆音が迫ってきた。 Hは仰天してその場にひっくり返って伏せた。 超低空で頭上を通り過ぎたのは、敵機のグラマンF6F艦載機(新聞で写真入りの敵の艦載機の見分け方を見たことがあり、記憶していた。)だった。

 また、爆音が聞こえて来た。 グラマンが引き返してきたのだ。 Hは、とっさに敵機の進路に対して直角に走って、幸い、近くにコンクリート製の防火用水槽を見つけて、その裏側に回って身を隠した。 5m近くに機銃掃射を浴びせてきて、また引き返してきた。 敵機は、野原を走る兎を追うゲームのような感じで、撃っていたのかもしれない。

 『私も艦載機の機銃掃射を受けたことがある。 空襲を受けて野っ原になっている市街地で逃げ場がない場所で、山の上のかなたから急に現れて、操縦士の顔が見えるほど低空で、兵隊でない子供ということが判っていても、撃ってくる。 その時は死を覚悟した。』

◎ポツダム宣言

 8月15日の朝、Hは学校に行く途中で、Tから、今日の正午、天皇陛下御自ら、戦局は苦しいが、皆も死を覚悟し最後まで戦ってくれ、という御言葉を賜るはずやと言った。

 学校での話題は当然ラジオ放送の内容の予想だった。 激励のお言葉を賜るという意見が圧倒的多数を占めていた。

 朝礼台の上のスピーカーから、正午の時報が聞こえた。 君が代の演奏、アナウンサーの司会の後、朕、深く世界の大勢と帝国の現状にかんがみと、発せられる声、日ごろ聞いたことのない、あまりも甲高く抑揚のない日本語にHは驚いた。 耳を澄ましても、何が語られているのか、言葉も意味もよく聞き取れなかった。 

 戦争は終わった。 戦争に負けた。という意味を感じ取った者は何も言わずに、Hと同じように唇を噛んでいた。

 『学徒動員で行っていた工場で玉音(当時はこのように言っていた。)を聞いたが、内容が判らず、後から先生から終戦で学徒動員は今日で終了したので、別途連絡があるまで家で待機しておいてくれと言われ、一か月か二三か月、家で家事を手伝っていたことを思い出す。 後日、市街地にあった中学校は焼けていたので、郊外の小学校の講堂を仕切って、机も椅子もなく黒板だけの板の間で、新聞を折り畳んだだけの教科書で勉強したことを思い出す。 勤労奉仕や学徒動員で長く勉強から離れていたので、一年ほどの間は勉強にならなかったように思う。』

 

   

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