満洲報告書第四信(昭和4年7月12日)
私の北京駅出発に際し、吉永中佐と岡氏が揃って見送りに来られ、中佐から手渡されたメモに「満洲奉天医院内 王嘉平」と書かれていた。医者か患者か聞こうと思ったときには先に去って行った。その後姿を気にしながら、岡氏がメモの端に「大阪朝日 平松」と書き添えてくれた。これで、雲を掴むような奉天での調査の扉が開かれた。
私が乗った列車は天津までの平均時速は45kmだったが、張作霖の列車は27kmとなっていた。このことは張作霖が路線爆破などのテロを警戒したと私は推測した。なぜなら遅れれば遅れるほど先発した囮列車が有効になるからだ。しかも、天津での停車時間が26分と長く、この時点では関東軍の謀略をかわしていたのです。
張作霖の特別列車等が天津に着いたときの客観的事実と思われるものを各資料により纏めると、①特別列車は先行した囮列車に追いつき、囮列車が出発した後に後続列車が入線してきた②特別列車に乗っていた町野大佐が下車した、常蔭槐は囮列車に乗り換えた③北京まで出迎えに着たのに後続列車に乗っていた山東軍閥の張宗相将軍が特別列車に乗り込み張作霖と二人だけで懇談した後 、天津で下車したことだ。
また、山海関駅では奉天からはるばる奉天軍の事実上の副将の呉俊陞将軍が出迎えに来ていて特別列車に同乗した。
鋼鉄の独白4
張作霖は満洲を除く全ての国土と民を国民党政府に禅譲した。これは彼らしくない行動と思い、その謎めいたところに興味を持って展望車にいた張作霖と話をした。
俺はイギリス人は嫌いだが、鋼鉄は好きだ。満洲では鉄は黄金のように貴重だったのだ。
若い時に俺は遼河の鉄橋を渡るお前を必ず手に入れると思った。蒋介石はお前に似合わないし、俺も先が長くないので、お前に乗って奉天に帰りかったのだ。
手打ちが喧嘩の始まりだとやくざ者は知っているのだ、俺の勘の虫はこの帰り道が危ないと告げている、そのために20マイルで走ることを頼んだのだ。
奉天に着いたらお前を若返らせて、俺と一緒にお前の好きなところに旅に出ねえか。
私はこれらの事を聞いて、彼は大胆にして細心、まことに頭の下がる人物だと思った。
鋼鉄の公爵という私の名に相応しい栄光の旅だと信じられ、どこまでも永遠の少年のような英雄を乗せて走りたいと思った。
満洲報告書第五信(昭和4年7月13日夜更)
事件現場の皇姑屯は終点の瀋陽駅からわずか2.8kmで、列車は時速10kmで最徐行するところでもあり、満鉄線が京奉線を跨ぐ形でクロスしているところでした。
爆破事件は京奉線の線路上に爆弾が仕掛けられたのではなく、また、列車に爆弾を仕掛けて時限装置を作動させて破裂したのでもなく、満鉄高架線に爆薬を設置し爆発させ橋脚を落として張作霖の乗る特別列車を押し潰したのである。
このような状態を作るのは歩兵出身の河本大佐では出来ないことで、実行犯は少なくとも1個分隊以上の工兵と爆破専門家の工兵将校等だと思います。
私が瀋陽駅に到着したときに、岡氏から紹介された大阪朝日の平松氏が迎えに着ておられ、宿も手配してもらった。
私は王氏を訪問するに際し、平松氏に証拠の内容が漏れても仕方がないと通訳として同道してもらった。
王氏は患者だったので、面会まで時間がかかり、その間に、平松氏が事件当時、現場に駆けつけたときのことを話してくれた。
満鉄高架線が崩れ落ちて客車3輌が燃えさかっていて、張作霖がやられた、国軍の便衣隊の仕業だと、そこにいた日本軍の少尉が築堤に転がっている二人の支那人の死体を指差して知らせてくれたが、矛盾する点が多々あったと。
王氏が証言した事を要約すると次の通りでした。
満鉄奉天医院に入院してきた吉永中佐から、張作霖の体と一緒に自分の片足も吹き飛ばされたと聞いた。爆破事件の前夜、大陸浪人風の日本人が来て、大金を出して日本軍に協力してくれと言われ、二人の同僚が出かけて行って、後をつけたら、立体交叉のところで刺し殺された。
鋼鉄の独白5
車中で張作霖から2つのことを聞いた。
祖父は河北から貧民として満洲に流れてきた。東北王に成るだけではいけないのだ。祖父の仇討のために百万の軍を率いて長城を越えて中原の覇王にならなければいけなかったのだ。
代々の皇帝に引継がれてきた龍玉を手に入れたが、俺にはそれだけの器量はないので、倅の張学良・漢卿に天下を取らせ、俺は太祖様に祀られるのだ。そのため俺が期待していた郭松齢を倅の教師にした。
倅から龍玉の事を聞いた郭松齢は、俺に対して倅に全権を譲るべきだとクーデターを起こした。しかし、我々に日本軍の支持もあってクーデターが失敗し、郭松齢は俺の子分の楊宇霆に殺された。郭松齢は命がけで俺を諌めてくれたのに、楊宇霆が俺の意思に反して殺してしまった。
俺は運命に負けたのだ。奉天に戻って、いつか漢卿が天下を取る事を待つことにした。蒋介石と雌雄を決せずに兵を引いた理由もそれなんだ。
満洲報告書第六信(昭和4年7月14日夜)
平松氏から貴重な在奉天の軍人名簿を見せてもらった。名簿の中に親友で奉天鉄道守備隊に所属している工兵の古賀中尉の名前を見つけた。
面会して、爆破事件の内幕を尋ねたところ、事実と信じられる事を話してくれた。
爆破事件は関東軍の総意で、河本大佐は職務上罪を被ったのだ。
張作霖は3日夕刻に奉天に着くだろうとの噂であったが、到着しなかったので落ち着かぬままに将校宿舎を出ると、大八車を4、5人の兵が押して通りかかった。その時に被覆電線の束を落としたので拾い上げてやり車の菰を持ち上げると中に黄色火薬の箱が山積みされていた。
黄色火薬を常備しているのは工兵隊だけで、爆発力が強い黄色火薬を夜更けに荷車に積んでいるのは尋常でないので、尋ねると知人の大尉が来て高級参謀からの命令だとそっけない返事だった。
今年に入って二度、何者かによる東支鉄道の鉄橋爆破があったが、あいつらは二度も予行演習し、満を持して張作霖を殺したのだと思った。
現場に行くと黄色火薬の匂いが鼻をつき、満鉄陸橋が跡形もなく崩れ落ち、列車3輌が燃えさかっていた。
鋼鉄の独白6
張作霖は向かいの席で大鼾をかいている奉天の呉俊陞将軍を指して、彼は死ぬときは一緒だと誓った仲さと言い、俺は多くの人を愛し愛されているが、それだけ多くの人の恨みを買っている、一人に心底憎まれれば命を無くす、神や仏は恨まれることはないと言う。
この男は哲人で神と人の違いまで見極めている。知れば知るほど近くにあればあるほど、人はこの男を心から敬し愛しただろうと私は思った。
また、張作霖は、日本人も彼・呉俊陞には一目置いているので、彼は張作霖を殺すなら俺も殺してみろ、どうだ出来るかと乗り込んでいるのさ、自分を買い被っているが、その気持は有り難いことだとも言った。
朝靄の彼方に奉天の城壁が見え出したとき、大地を裂くほどの爆発音が轟き、悪魔の力が私を圧し潰した。私の意識が遠退いていった。
終章
吉永中佐から帰国前に紫禁城を見物したらどうかと言われ一緒した。案内人は岡氏に紹介された清朝の宦官のトップの地位にいた李春雲だった。
西太后が住んでいた御殿も案内され、そこで仙人のような老人から、中佐の苦しみを取るお祓いをしてやるといわれ、それを承諾して中佐は西太后の使用した寝台で休んだ。
暫くして出てきた中佐は初めて張作霖のことを話し始めた。
蒋介石と戦ってはならない、同胞相撃つの愚を冒してはならない、これが軍事顧問はもちろん張作霖政権の総意だった。張作霖もそう決心した。
北京駅での発車間際に関東軍調査班の竹下少佐と目が会ったとたんに彼は逃げるように去った。その様子が私を不安にした。
発車すると張作霖は時速20マイル以下で進むことを命じた。人並み外れの勘のいい張作霖は線路上の工作を怖れていつでも難を避けられる速度を命じたと思う。
夜が明けて天津に近付いた頃、町野大佐が吉永、領事館に急用ができたといって天津で降りろと言われた。私は生きるも死ぬも張作霖と共にありたいと思い断った。
12年間、張作霖から信頼されて務めたあれは何だったのか、と大佐を見損なった。関東軍参謀長と同期で親しかったこともあり、その方面からのパイプを通じて情報の交換をしていたのかもしれないと推測した。
天津に着くと凱旋将軍を迎えるようなお祭り騒ぎだった。そのなかで、到着時間が遅れるので先に行って説明すると言って常蔭槐が囮列車に乗り換えた。そして、町野大佐も消えた。張作霖から、お前は降りないのかと言われた。張作霖は町野の行動に気付いていたのだ。
なぜか出迎えに着たのに後続列車に乗っていた山東軍の張宗昌が、天津で特別列車に乗り換え張作霖と二人で話した後、天津から消えたが、自分自身のために撤退を止めさせようとしたのだと思う。
京奉線の上を満鉄が跨ぐ所が近付いてきたとき、関東軍が工作できるとしたら此処だと思った。なぜ早く思いつかなかったのか、私は、急げ、走れ、此処を抜けろと叫んだ。
張作霖と我らの乗る展望車が鉄橋の真下に入ったとき、橋脚の隙間から獰猛な朝の光が暴れこんできたようなものを感じた。
儀我少佐に頬を叩かれ、ぼんやりした頭の中で、張作霖を狙ったのだ、大和魂も武士道もこれでお終いだ。この先、我等を誰も信じないだろうと思いながら私は気を失った。
◆読後感
史実を元にした小説として興味深く読んだところもあったが、張作霖はどんな人物だったか、どのようにして張作霖は殺されたかだけでなく、私にとって一番核心だと思っていた何故に張作霖は殺されなければならなかったのか、といったところを一作家としてどう観ているのか、あるいは、このような見方もあるだろうでもいいから記述して欲しかった。
文章の中から読み取れたという読者もいるかもしれないが、もう一歩踏み込んだものが欲しかった。