T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

「マンチュリアン・リポート」を読み終えてー1 !!

2010-11-24 14:57:24 | 読書

小説の構成

 この作品は浅田次郎の中国歴史小説「蒼穹の昴」シリーズの最新作で、物語は「序章」・「終章」とその間を「満洲報告書」(書簡形式)と「鋼鉄の独白」(擬人法形式)で構成されており、「満洲報告書」は一年前の張作霖爆殺事件についての主人公・志津中尉による真相調査を中心に、「鋼鉄の独白」は張作霖を乗せて爆破された機関車が感じた張作霖その人と彼の考え方を軸に現在形で記述している。

                                  

当時の支那と日本の関連事変

 1904 → 日露戦争勃発(1905終結)

 1910 → 反日義兵闘争を弾圧して朝鮮併合

 1912 → 清朝滅亡

 1919 → 華南に中国国民党成立、華北は軍閥割拠

 1926 → 中国国民党による北伐開始

 1927 → 張作霖が北京政府の実権を握る

 1927 → 蒋介石による南京国民政府樹立、北伐続行

 1927 → 北伐からの居留民保護名目で日本軍出兵、

          済南を占領(済南事件)

 1928(昭和3年) → 張作霖爆殺事件

 1931 → 奉天での柳条湖事件(満州事変勃発)

 1932 → 日本が満州国を樹立

                                     

各章のポイントになると思われる部分の概要

序章

 昭和4年、国体変革を目的として行動した人間に死刑を適用するという治安維持法の改正に反対し、その意見書を流布したとして、若い志津陸軍中尉が日本の陸軍刑務所に収監されていた。

 ある夜、志津中尉は突然に監房から出され、一時、禁固を解かれて、信じられない勅命を受ける。志津中尉は、昭和3年6月の張作霖爆殺事件の事実調査を内閣書記官長宛の私信として、その都度報告せよと命じられたのだ。

満洲報告書第一信(昭和4年7月10日)

 7月10日、北京で出迎えられたのは、張作霖の軍事顧問として爆破された列車に同乗していて片足を無くした現在公使舘駐在武官の吉永陸軍中佐だった。

 早くも事件の生き証人が現れたのだが、中佐の表情には一目で精神の異常を思わせる暗い陰りがあり、歓迎していない様子が窺い知れた。

 また、中佐は、張作霖は無学であったが無知ではなく、豪胆で繊細の人だった、といった程度の会話の間に中佐の表情はいっそう暗澹となり、いかにも万感迫るという風に見受けられた。張作霖の側近にあって声咳にふれた人なのだと思い、その場での深い質問は躊躇った。

 張作霖は祖父の代に奉天地方に流れてきた漢族貧民の子で、その後に馬賊の頭目になり、大正の初めに万里の長城以北を実質支配する軍閥となった。

 張作霖は満洲に覇権を唱える過程において、日本の経済投資は大いに歓迎したが、政治軍事への直接介入は毅然として退けていた。

 清朝滅亡後、袁世凱も病没し、軍閥割拠の中、日本の助力を得て、満洲の地にあって東北王と呼ばれていた張作霖は、長城を越えて中原の覇者となり、中華の軍権を掌中にして大元帥と名乗っていた。長城を越えたことは、彼が漢民族であったことも、その理由に挙げられると思う。

 日本の大陸進出主義者は、満洲を支那と分離し、朝鮮と地続きの勢力圏に組み込んで、いずれ併合するという構想でいた。それが実現可能な最大限のものであった。

 そのため、日本政府・日本軍は張作霖に度重なる撤兵勧告をしたが、それに耳を貸さずに4年間北京に君臨し続けた。

 しかし、百万とも言われる蒋介石が率いる国民党軍の北伐に対抗せずに、昭和3年6月3日午前1時過ぎ、特別列車で北京駅から奉天に向かうことになった。

鋼鉄の独白1

 李鴻章が1903年(明治36年)西太后の御料車としてプレゼントし龍鳳号と命名された私・鋼鉄の公爵は、その年に一度使われただけで25年の深い眠りに入っていた。

 そこから起こされ、袁世凱も使わなかった私を張作霖は奉天行きに使うよう指名した。

満洲報告書第二信(昭和4年7年11日昼)

 11日朝、7月2日付夕刊の記事に満洲某重大事件の責任者処分発表として、前関東軍高級参謀の河本大佐が停職を仰せ付けられ、その理由として「右は我が満洲独立守備隊が警備すべき京奉線と満鉄線との交叉点に支那兵の配置を独断専行で許可したるの故による」と掲載されていた。

 河本大佐が爆破事件の真犯人であることは陸軍内部に知らぬ者はないのに、処分発表は無関係としていた。

 朝食を取り終えたところで、吉永中佐から協力依頼があったと「大元帥府書記 岡圭」との名刺を出された。本名は圭之介といって、英仏語ができる特派員として北京に30年いて、かって張作霖に雇われていたとのことだった。

 内緒だが、吉永中佐は重症の神経衰弱に陥っていて仏人の精神科医の治療を受けていてホテルまでは一緒に来ていたのだという。

 岡氏は大元帥府を見ながら話し出した。

 蒋介石の国民党軍が北伐を開始していた昭和3年年初の時点で、張作霖が選ぶ道は三つあった。

 国民軍と雌雄を決する、話し合って統一国家を建設する、南京と北京を首都とする二つの国家を併存させるだが、最初の案は日本を始めとする諸外国の軍事介入を受ける、次の案は両者の独裁者の性格から有り得ない、第3案が現実的であった。しかし、日本は山海関外への撤兵を要求してきたのだ。

 元馬賊の大立者の張景恵実業部総長と軍事顧問の町野大佐が撤退に反対した。

 満洲に残してきた張作霖の子飼いの将軍の張作相、湯玉麟、馬占山、李春雷らも撤退反対を打電してきた。彼らは勘働きのようなものから撤退行は危ないと予感したのかもしれない。

 しかし、張作霖が好戦的な部下を満洲に残してきたのは、国民党軍との決戦を望んでいなかったのだろうと思われたし、事実、自分だけで早くから胎を決め、撤退行の1ヵ月前に列車の準備を私に命じていた。

 張作霖の特別列車に同乗した主な側近は、潘復国務総理、張景恵実業部総長、莫徳恵農商部総長、常蔭槐交通部代理総長、軍事顧問の町野大佐、吉永中佐、儀我少佐だった。

鋼鉄の独白2

 国王が故地へと逃げ帰るのである。西太后のように私の鼻先に旗を立てて威を誇るどころか、深夜の逃避行なのだ。

 25年前の栄光の旅に比べ、何と情けない任務であろう。私には逃避行など似合わない。

満洲報告書第三信(昭和4年7年11日夜)

 張作霖はおおよその大臣幕僚を北京に残して国民党側との交渉に当たるように指示したが、不戦を厳命していたと岡氏は言った。岡氏も北京での政務に必要な人として北京に残された。

 日本の軍事顧問は一緒に奉天に連れて行った。関東軍の為の人質に使うためだったのではないかと岡氏は推測していた。

 北京駅頭の張作霖は礼装軍服を着て大元帥の威厳を失っておらず、見送る人々の顔にもお追従のいろは無くて、彼が再び巻き返して北京に戻ることを心から熱望しているように見えたと岡氏は話した。

 勝ち目がないから撤兵せよという日本政府の勧告には根拠がなく、日本が欲しかったのはあくまで満洲における利権だから、これを機に撤兵させて東北の内治に専念させようとしたのが本音だろうと思う。勧告より恫喝です。

 奉天行きの列車は6月2日の午後10時ころから続々と出発していた。そのころ別のホームに関東軍調査班の竹下少佐がいることを不安顔の吉永少佐から知らされ、岡氏は竹下少佐が車輌の数等を調査していると直感したという。

 たしかに、大阪朝日の記者から、奉天の関東軍作戦本部への無電を傍受したとメモを渡され、そのメモには、張作霖が3日0115、19輌編成の列車で北京を出発、8輌目の展望車に乗っている、本夕刻・現着予定と書かれていたと話してくれた。

 関東軍も既に軍司令部を大連から奉天に進ませていたのです。

 この事件は巷間噂される関東軍一部将校の爆発であろうはずがなく、関東軍かそれ以上の組織が加担していることが、岡氏の証言から結論づけられることは確かだと思う。

鋼鉄の独白3

 張作霖が北京駅に着いた。構内を埋め尽くした群衆の間から「好」と掛け声がかかった。北京市民にとって権威ある施政者でなく国民の英雄なのだ。だから儀礼を忘れて「好」と讃える。

 張作霖は私に近付き、お前が西太后を乗せた機関車か、たいした貫禄だ。「祝健康弟兄、壮揚兵馬」と満洲馬賊の最敬礼を以って私を迎えてくれた。

 彼は功なり名を遂げても魂は貧賤のままなのだ。大元帥になっても馬賊の頭目たる誇りを失っていない。やはり、この男に王座は似合わないと私は思った。

                                        

    (以降、満洲報告書第4信からは次回に続く)  

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