窮乏の中でも、気高さを失わず、武家の矜持を貫き通した家臣たち
度重なる水害や飢饉に喘ぐ越後新発田の外様藩、幕末まで一度の国替えもなかった小藩。若き溝口半兵衛長裕は財政難に立ち向かう一方で、二百年に及ぶ家臣の記録を書き始める。後に世臣譜と題される列伝(外題⇒露の玉垣)は細緻を極めて個人の人間像にまで及ぶ。そこにあるのは身分を越えた貧苦との戦いであり、武家の葛藤であり、女たちの悲哀であり、希望である。すべて実在した人物を通して武家社会の実像を描く全八編の連作歴史小説集。(裏表紙解説文より)
特に心を打たれたものだけのあらすじを以下に記述する。
乙路
貴戚の臣として代々実務に就くことのなかった家に生まれ、31歳の時に家老に任じられた溝口半兵衛長裕。
藩の財政難は悪化するばかり、水害と凶作が追いうちをかけていた。そのうえ度重なる火災と洪水の手当てで出費が嵩み、財源は底を突いていて借財なくして一年を乗り切ることは不可能であった。
家老となると物入りだが、父までの六代の間に増え続けた縁戚の本家として少しでも頼りになればとすれば、禄高実質二百石では質素に暮らしても大変なことである。
父は人一倍弟妹を大切に思う気持があったらしく、留という叔母が金や米を借りにくることを知っていた。
その叔母は6番目の子で29歳のときに結婚した。夫の沢田佐市左衛門は十石四人扶持という微禄は想像を超える貧しさであった。もともと、沢田家は旧臣で先代まで二百石の家柄であったが、先代が町奉行のときに役目上の不調法から禄も屋敷も失った。
それゆえ、佐市左衛門の精進によっては再興もありえたが、彼は這い上がろうとする気力が不足していて、運命を切り開く執念がなく、歳月とともに諦めが増してゆき、まだ嫡男が元服してない状態で致仕を申し出た。また、三の丸の屋敷で育った留には女中の真似は勤まらない。そのうえ悪いことには嫡男が不行跡を働き逐電し次男が後を継いだ。
家老役の誓紙を差し出し、半兵衛が城の櫓から城外を眺めていたとき、彼は今の家中に家並みほどの結束がないことに気付いた。戦いがなくなり、立ち向かう敵が見えなくなったせいもあるのだろうが、貧苦との敵を打ち負かすには家中の結束とそれを支える誇りがいるのだと思った。
それからは、彼は会う人ごとに「家中であれ、町人であれ、下を向いている連中の顔を上に向かせろ」と言った。また、家中の士気を高めるため、老職らと図って家中の部屋住みの中から武芸や学問に出精する11人を中小姓に召し出した。
洪水の後の状況の見回りに出たついでに、半兵衛は留の叔母の家に寄ってみた。孫の長太郎一人がいた。質実の逞しい姿で剣術は末流平法で小太刀が得意だといい、自分を取り巻く現実を不幸とも不運とも考えていないのだ。生まれてきた時代や境遇を当然のこととして受け入れている姿に強さを感じた。
藩の前途が多難であればあるほど、家中にも彼のようなあの気高さと輝きが欲しい。そう考えたときに、半兵衛の中で家臣列伝と言う言葉が瑞々しい命を宿した瞬間でもあった。
馬頭観音に家臣譜の編纂を祈願し、譜代の世臣はもちろん、零落して喘ぎながら生き継いでいる家々、不運にも絶えてしまった家々の隠れた功労を自分なりに顕彰したいと思うことにした。
新しい命
常に来年は凶作のつもりで米塩を用意しておけと、父から教えられていたし、開田から始めた祖父の苦労を覚えていたので、岡四郎右衛門は蔵米取の今も質素に暮らすことで有事に備えていた。人に吝嗇と見られることがあっても気にしなかった。
友人の中山七之助も、昔と違って米の代わりに金を蓄える家が多いが、米で持っていられる四郎右衛門が羨ましいと言ってくれた。
四郎右衛門は七之助夫婦を花見に誘う。弁当を使う前に端切屋で妻の久美に半襟を買ってやる。四郎右衛門は妻と町中で食事をしたり芝居を見たりしたことがないことに気がついた。散財の楽しみと物を大切にすることは別だが、今日のような日が多くなれば妻も喜ぶだろうと穏やかな気持で暮れゆく庭を眺めていた。
半月過ぎた日、四郎右衛門は帰宅すると大事を終えた疲れから気が抜けていた。
妻から明日の朝炊く米がないと言われ、下僕に蔵の中で米搗きを頼んだ。下僕は自分のものと他人の者が判らないので、いつもの事なんだが、下僕が蔵の中に入ったら、用事があって下僕が声をかけるまで蔵の鍵をかけておくことにしていた。
気がついたら蔵から煙が出ていた。あろうことか、下僕が蔵の中で煙草を吸った後、完全に消さなかったのだ。
火炎は勢いを増すばかりで、藁葺きの屋根から屋根へ炎が走るのを見て四郎右衛門は三の丸にある掛蔵に修復したばかりの藩主の駕籠があるので、何としても守らねばと走った。
焼け残った玄関で四郎右衛門は切腹の用意をして待っていた。七之助が来て、おぬしが腹を切っても城は戻らぬ、一粒の米を惜しむなら命こそ惜しめと言ってくれた。
結果的にはお暇と決まった。四郎右衛門夫婦は一つの歴史を終えた家に辞儀し、祖先が夫々運命を切り開いたように、これから本当の身過ぎが始まるのだと新発田を立った。
きのう玉陰
遠藤吉右衛門は開拓地の代官として窮屈な足軽長屋から引越ししてきた。得意な畑の世話もできるようになった。
吉右衛門は地侍の子孫の家の四男に生まれ、13歳で武家奉公に出されて下僕となり、20歳のときは帯刀を許されて若党になる。主人の久保田家には蔵書が多く、時間が許す限りその蔵書で畑作を学んだ。
吉右衛門が16歳のとき、久保田家の嫡男が妻・橘を娶った。橘は心身ともに繊細な人で、慣れない家の雰囲気に戸惑いながらも早く自分を合わせようとしている人だったが、嫁の務めをこなすことに汲々として、体が安らいを欲する身体に負けてしまうと不意に消沈するのだった。
橘から吉、吉と大事にしてくれた吉右衛門は、ご自分で茄子でも育ててみませんか、気晴らしになるかもしれないと誘う。そんな橘が三年目になっても体調に変化がないこともあって婚家を去っていった。
歳月がたって、代官屋敷に病気が回復した庄屋が来宅した。病になると人は弱いもので、あれこれ考えることは自分と家族の事ばかりで他に案じてくれている人がいることを忘れてしまうものです。そんなときに遠くから見舞いに来てもらったら、立場が逆だったらそうするだろうかと感激したという話を聞いた。
吉右衛門は身分の隔たりもあり、一人の女の身の上を案ずる気持に男の感情がないとも言い切れなかったが、庄屋の話に勇気が湧き、遠慮していた橘の見舞いに野菜を背負って出かけた。
決して人前には出ない橘が珍しく出てきた。声の出なくなってしまった彼女だけど、まだ私を覚えていてくださる人がいたのですね、そう言っているかのようで、義妹が義姉は愉しかったようです、又来てもらい畑をしてもらったら嬉しいと思っているようですと口添えしてくれた。
静かな川
松田佐次右衛門の父・与兵衛は、隠居前は勘定方で忠実に役目に励み、人に尽くすばかりで栄利とは無縁の人であった。
佐次右衛門は貧しさを憎んでいて、父から能を習う代わりに師について故実や外科を学んだ。しかし、その道は開けず、結局、勘定方として父と同じ道を歩んでいる。
ある日、父が、昔、勘定奉行と大阪に旅したときの旅費を借金していると言われ、もし、借金となっているものであれば何とかして支払いたいと思っていた。
その勘定奉行から私邸に呼び出され、郡奉行の窪田加右衛門に書状を渡し返事を貰ってきてくれと言われた。郡奉行から水損での築堤の金がないとの相談を受けていたのだ。
勘定奉行宅に少し早めに出かけて、父の借金の話をしたら、貸した覚えはないといわれた。佐次右衛門の目の前で、勘定奉行が、この新刀は与兵衛に頼んで求めたものなので銘は知らないが使ってくれと郡奉行に渡した。郡奉行が錦の鞘袋から出して中身を見たら関孫六だった。
加右衛門は佐次右衛門に、このことは、しかと覚えていようぞと言う。
宿敵
窪田助左衛門の妻・年は、新藩主国入りの宿割り役を仰せつかった実弟の高田新左衛門が相役の服部家に養子に入った夫の弟の清右衛門に斬殺されたと聞き、衝撃のあまり涙も出なかった。
帰宅した夫は弟の妻子のところへ息子を遣る冷静さがありながら、自分の妻の哀しみには思い至らなかった。そのとき年の心を埋めていたのは実弟の死の悼みであった。
年が弟の通夜に行くというと、助左衛門は眉を寄せて黙っていた。間をおいて、先に斬りつけたのは新左衛門だから、清右衛門の代わりに詫びてはならんぞと言われ、その言葉にためらいを覚え、それでは心からの弔問にならんと思いながらも、過去のことや立場を変えた場合、生きている清右衛門が哀れにも思えてきた。
実弟は、性格が明るく単なる親譲りだけでなく、他人の元で生きてきた習い性であり、強さでもあるように思えた。それに反し、清右衛門は素直で誠実な上に気がきくので、年にとっては頼りになる義弟だったし、いじらしいほど部屋住みの立場を自覚していた。
その清右衛門が養子になった服部家は、跡式は窪田家と同じだが、蓄えはなく、義父の借金があったので、先の見えない倹約の日々が続いた。
夏物だけを持って老いた借り馬で江戸に出た清右衛門は、藩主一族の弔事でお国入りが秋まで延長したのに、秋物も用意しなかった。そのため役目にも影響し身体にも無理が重なった。そのうえ、気性の違う新左衛門を理解できず心にずれが生じていった。
そのような状態の中、本陣に予定していた津川が大火になり、真面目な清右衛門は精神的に追いつめられ乱心のすえに、息苦しい夢の中で新左衛門を斬殺してしまった。
年が清右衛門の妻を訪ねた際に、妻から夫を憎んでいますか、私は生きている夫のほうが哀れですと言い放たれた。年はその言葉が胸にこたえたが、たぶん新左衛門も許しているでしょう、そのことを清右衛門に伝えたいものですといって辞去した。
遣ってみて判る良し悪し
Twitterをやってもよいがどんなものだろうと、インターネットなどで調べてみたが、自分のつぶやき(愚痴るほどでもないブツブツ?正論な意見もあるだろう?)だけをメモってどうなるのだろうと、途惑っていたところ、友人からの後押しで、一応デビューした。
幼稚園の段階までは進んだようだが、これも奥が深い。
とにかく、熱い熱いと言いながら、いつの間にやら1日が過ぎてしまう。これもメリットかな。そのうち少しづつ自分に必要なものかどうか判ってくるだろう。
写真はTwitterのプロヒィール用に自分の顔代わりに使ったものです。
*アドレス--- http://twitter.com/N_Tadahiko