今日は76度目の記念日。
2006年にブログを始めてから、
毎年、8月15日は終戦を記念してブログをアップしてきた。
父は昭和20年7月8日、朝鮮南方海面方面の戦闘で戦死した。
ある資料に基づいて詳しく記述すると、
「昭和20年7月8日、第85号第1号級駆潜特務艇(対潜水艦哨戒船)に乗船して、
朝鮮済州~麗水間において米潜を探索中、潜水艦の攻撃を受け沈没し、
乗船員は全員戦死した」とのことで、
昭和20年11月9日付の公報で、12月上旬、遺族のもとに届いた。
今までのブログには、収入がなくなり、
すぐに飲まず食わずの生活をしなければなくなり、
母は行商で、14歳の私はすぐの弟と山に入り薪を集める仕事で苦労したと、
毎年同じ事を書いてきた。
今年は、母が病院で書いた回想文の一部を以下に記述し、
それと、私が在東京中に母が靖国神社へ父に会いに来たことを記述し、
その時の写真を添えて、父母の供養にしたい。
「昭和20年10月から明年4月頃までの多忙な毎日、帯を取ることさえ、忘れて暮らす日、朝暗い時期から夜暗い時期まで一生懸命に品物を負ぶって歩いた日。
明日、10円、10銭のない日、何日続いた事か、終戦から恩給が入る8年間、
思えば泣いたり笑ったり悲しんだりとの日の連続だった。………
…………
私は、長い63年の間の倖は今日です。
私は今は重病ながら幸せです。
4人の嫁は人様が感心するほど立派です。4人の娘です。
共に共に手をしっかりつなぎ合ってお願いしますよ。」
母が、胃癌の身ながら、父に会うため、
ぜひ靖国神社にお参りに行きたいといわれ、
岡山の宇野まで迎えに行き、時々の痛みを堪えての母を案内し、
孫たちもつれて参拝した。
帰りは時間が取れず、東京駅まで見送り、
寝台列車に乗せて事情を車掌に話しお願いしたが、
いまでも、少し悔やまれる。
明治の人の夫婦愛の見本のようだ。