[第二部 ハーフタイム]
4 ―――
(買収に向けてのカザマ商事社長と滝川常務の対談)
「デューデリの結果はどうだった」
カザマ商事社長の風間有也は、ぬる燗の入ったお猪口を口に運ぶまで、滝川の顔色を窺うように見ていた。
デューデリ、つまりデューデリジェンスとは、売り手企業に対する" 身体検査 "のようなものだ。の買い手であるトキワ自動車が、弁護士や会計士、税理士といった専門家チームをカザマ商事に派遣し、それぞれの専門分野から、企業の中味を洗い出すもの。
企業売買にかかる複雑で面倒な一連の手続きの中でも重要なプロセスであり、ここで思わぬ問題が見つかれば、買収価格の変動や売買不成立もある。
「特に大きな問題はなかった。俺が見たところ大筋は変わらないだろう」
乾杯の仕草でお猪口を掲げた滝川は、それを一気にあおった。
カザマ商事の創業は、いまから70年以上前に遡る。
財閥系商社を経た祖父が、陸軍が必要とする物資を供給するために設立した商事会社である。終戦とともに終焉を迎え、父の代にオイル関連の専門商社として再興したものである。
三代目の風間有也は私立明成学園小学生に入って大学までエスカレーター式に上がっていった。滝川と出会ったのは、同じ大学の語学のクラスであった。
「買収時期だが、いつ頃になりそうだ」
「条件が詰まれば、即座に実現したい。ゴルフ場まであったな。島本を説得するのに一苦労している」
「ゴルフ場はまだ完成していないので、当方も評価はタダにしている」
「そちらからの何か希望があるか。例えば、3年間は社長を続投するとか」
「俺はさっさと引退させてもらうよ。会社売却代金は、俺にとって余生を送る軍資金だ」
5 ―――
(カザマ商事のゴルフ場建設反対の代表は元は森下教授だった)
森下教授を訪ねた翌週、横浜工場のゲートに、幟を持った数十人が詰めかけ口々に何ごとかを叫んでいた。
対応していた守衛によると、ゴルフ場建設反対の集多段らしい。
心当たりのない君嶋は、代表者に対応すると、" 横浜マリンカントリーの環境破壊を訴える会 代表 苗場章雄 "という名刺を出して、カザマ商事が建設中のゴルフ場の反対運動だという。
カザマ商事では話にならず、買収予定のトキワ自動車へ抗議に来ていたのだ。
苗場が言うには、ゴルフ場の周囲には農家もいれば漁師もいて、撒かれる農薬によって我々の仕事にも影響が出るんだとのことだ。
君嶋の冷静な対応により、騒動は収まり、反対派の一団は引き上げていったのだが、その当日、横浜マリンの件で騒ぎあったと聞きましたと言って、ラグビー部の佐々が君嶋を訪ねた。
「実はあのゴルフ場の開発会社、ウチの新規のお客さんでして。カートを100台発注していただけるという話でまとまりかけてるんです」
と言って、佐々は反対運動のことも知っていた。
佐々から意外な話が飛び出した。
「今はまだましなほうで、代表が変わる前はもっと強硬に反対していたようですよ。なんでも、横浜工科大学の先生が旗振りをしていたとのことで」
「なんていう先生か、名前、聞いているか」
「森下と言ったと思います」
君嶋は、佐々に、そのゴルフ場の責任者に詳しい話を聞けないか連絡をとってみてくれと頼み、その翌日、君嶋と佐々は、横浜マリンカントリーの責任者の青野宏を訪ねた。
6 ―――
(青野は、森下教授は代表を辞任、白水商船から因果関係なしとの連絡があったと発言)
青野は、帝京大学のラグビー部出身でそれなりに知られていた選手だったらしい。
君嶋は反対はリーター・苗場の名刺を見せて、「カザマ商事の買収はまだ正式契約前ですが、このまま進めば、今後、私どもが対応を引き継ぐことになります。御社が今までどう対応して来られたか、それを窺っておく必要があると思いまして」、と挨拶した。
青野は、「あの人たちは開発を取りやめろとの一点張りで、落としどころが無いんです。経済的な補償について算出の仕様がないですから。どれも平行線のまま終わりましたが」、と挨拶を返した。
君嶋はそれとなく切り出した。
「反対派の以前のリーダー・森下さんは、いまも反対派にいらっしゃるんですか」
「昨年一杯でそういう活動からは手を引かれたと聞いています。もしかすると反対運動が面倒になったのかもしれません」
君嶋は質問を一歩前に進めた。
「御社と森下教授の間には、意外なところで接点があるのをご存知でしたか。2年前、白水商船のタンカーがエンジントラブルを起こして、イギリス沖で座礁しました。白水商船では、そのエンジントラブルの原因として御社のバンカーオイルに問題があった可能性を疑っていたようです。そこである大学の研究所に因果関係について検証してくれるよう依頼した。それが、森下教授の研究室だったんです。そのことご存知ですか」
「いえ、ただ、白水商船が弊社のバンカーオイルについて、事故との因果関係を疑っていたことは知っています。ただ、その後、白水商船側から、因果関係はなかったという報告は貰ったと聞いています」
それが、青野が把握している事実の全てのようであった。
7 ―――
(もう一度、苗場と面談する)
青野を訪れた翌週、君嶋は、反対派のリーダー・苗場と面談した。
苗場は開発規模の縮小を求めて熱弁を振るう。
「なにも27ホールも作る必要はないでしょう。18ホールで十分でしょう。ぜひ検討願いたい」
ひととおりの話を聞いたあと、君嶋は、「お考えはわかりました。弊社が当事者になった場合、と当該セクションにしっんり伝えます」、と伝えた。
「いつもそういうんだよな」
苗場は懐疑的である。「開発を中止する可能性もあるよな」
「可能性ということであれば無くはないです」
「この前、一旦はうまくいきかけたんだけどなあ」
誰にともなく言った苗場のひと言を、君嶋は聞き逃さなかった。
君嶋は苗場に問い詰めたところ、タンカーの座礁事故を知っており、
「カザマ商事の製品が原因だとはっきりすれば、ゴルフ開発どころじゃなくなったはずなのに」、という。
「なんでそんな話をご存知ですか」、驚いて聞いたのは君嶋だ。
「いやその—――内緒にしてくれと言われてたんだけどさ、横浜工科大学の森下先生がその検証を担当しててね。こっそり教えてくれたんだよな」
「その話、横浜マリンカントリーの青野さんにされましたか」
君嶋の口調の鋭さに、苗場は気後れした顔になる。
「先生には内緒だって言われてたんだけどさ、のらりくらりと言い訳する連中を少し焦らせてやろうと思って、つい……」
君嶋は、「彼はおそらく真相を知っている」、と判断し、もう一度青野に会いに行った。
8 ―――
(青野は隠ぺいを知っていた)
翌日、君嶋は横浜マリンカントリーの事務所に青野を再訪した。
君嶋は、苗場が話したことを青野に問い詰めた。
「苗場さんは森下教授からカザマ商事のバンカーオイルの件を聞かされていて、うっかりそれをあなたに話したと言っていますが、嘘でしょうか」
「何のことか私には……」
「あなたの言っていることは真実ですか」
改まって君嶋は青野に対峙した。「森下教授はうちの研究所にバンカーオイルの分析を依頼していました。分析結果は「黒」なのに、森下教授が白水商船に出した報告書は判定をひっくり返って「白」になっていた。どうしてでしょうね。その後、森下教授は、反対派の活動からも身を引かれました。偶然にしてはおかしなことばかりです」
「そんなこと私に言われても」
否定的な言葉とは裏腹に、青野の目は泳いでいた。
君嶋が並べたものはどれも状況証拠ばかりだ。
「正直に申し上げて、私は、カザマ商事が森下教授に何らかのコンタクトをとったのではないかと疑っています。そして、白水商船から依頼された検証に関与した。違いますか」
青野は答えない。
「あなた方は、それによって損害賠償の責めを逃れ、同時に弊社による企業精査を乗り切ったわけです。でも、それで本当に終わるでしょうか。白水商船は、いまのところカザマ商事と事故は無関係だったと判断しています。ですが、巨額の損害賠償を抱えた白水商船は、今後も事故原因について追及し続けるでしょう。近い将来、真実が明かされるのは目に見えています。何なら、私からこうした状況証拠を話してもいい。彼らは、どう思うでしょうね」
青野から表情が消え、硬直していく様を君嶋は見ていた。
「近い将来、カザマ商事に対して巨額の損害賠償請求が行われるのはほぼ確実です」
君嶋はあえて断言した。「弊社とのM&A成立後にその事実が発覚したらどうなりますか。トキワ自動車は、カザマ商事の親会社として決して無関係ではいられない。御社を買収するために投じた巨額の資金が無に帰すどころか、とてつもない損失を被る可能性がある」
青野は、床に一点を見据えたまま、黙って聞いている。
「あなたは真相を明かすべきです。青野さんはラグビー選手だったんでしょう。ラグビーの精神はフェアなことでしょう。ラグビーが教えているのは人生のルールでもあるはずだ」
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
やがてそんな言葉が青野から漏れてきた。
「話していただけますか」
顔を歪めた青野から、訥々とした言葉がこぼれてきた。
「第二部 ハーフタイム」 9ーーー に続く