T.NのDIARY

写真付きで、日記や趣味をひとり問答で書いたり、小説の粗筋を纏めたブログ

「8月17日ソ連軍上陸す」を読み終えて!

2010-09-28 19:46:13 | 読書

 ポツダム宣言受諾、昭和20年8月15日正午、終戦の詔勅。だが、戦争は終わっていなかった。

 17日深夜、最北の日本領であった千島列島の占守島へ、対岸のカムチャッカ半島から、突如としてソ連軍の大部隊が来襲。日本軍の三日間にわたる死闘が始まった。ソ連の北海道占領は、如何にして阻まれたのか。知られざる戦争の全貌を浮き彫りにした畢生の歴史ノンフィクション。(裏表紙より)

 大野芳が29年かけて纏めた作品で、浅田次郎の同じ題材を描いた「終わらざる夏」を読んだ者としては、大変参考になった作品である。

 無条件降伏した状況下で始まった生死をかけた戦闘において、それぞれの立場の軍人が、その時々において何を考えていたか、何をなしていたか、戦争が済んだ安堵感、生きて家族に会える嬉しさ、戦闘に勝つための必死の無の状態での行動、如何にして何時の時点で停戦をするか、停戦交渉に向う必死の行動、刻々変化する状況が全く分らない焦り・不安、数日だが、そのような過酷な人生を想像する事は私にはできない。それが読後感だ。

 8月14日までは他の戦域と異なり戦闘状態になく敵と対峙していなかった、武装解除の接収に来る相手は米軍と思ってその準備にかかっていた、そのような状態の中で、17日の戦闘から数日後の停戦へと続く両軍の状況・対応はどうだったのだろうか(「終わらざる夏」では記述が少なかった)、そんなところを中心に以下に纏めた。

                                                  

プロローグ

◆元第91師団参謀部作戦情報部の長島大尉は講演で次のような結論を先に述べた。

 「占守島の戦いは、樺太を取ったあと、あわよくば北海道を分断して、奥羽地方も若干攻め落として、自国の圏内にしようという狙いをもって攻撃してきた、ソ連の野望、この事実に関しましては、戦後のソ連の資料によっても確認できますが、日本軍の猛反撃によってそれが容易でないと知らしめた戦いであります。師団の戦死者のお陰をもちまして、日本は国土の分断を防ぎえたと私は確信しております。」

                                                   

油槽船の怪

◆18年11月、占守島の北東部海岸の500m沖にソ連の油槽船が座礁し、ソ連は救助を拒否して、翌年1月に救助船が遣ってきて45名ほどの乗組員や資材を積み替えて撤退した。ソ連が故意に座礁させ、敵前上陸のための測量などをしたものと思える。

◆8月14日、占守島最北端の速射砲小隊長から師団司令部へ「ロパトカ岬の砲台から国端崎付近の水際陣地に向けて短時間砲撃あり、ロパトカ砲台付近にて小艦艇による調査のための移動が頻繁なった。」と連絡があった。

◆8月14日、海軍北東航空隊の野口上飛曹はカムチャッカ海岸上空を哨戒偵察して、日魯漁業の漁船が拿捕されており、ソ連軍の艦艇の動きがかなり激しかったと報告した。

◆ソ連軍は8月9日払暁、満洲、南樺太などにも攻めてきたので、第五方面軍から第91師団にも戦闘準備が発令され、そのことを師団から隷下の大隊長にも下令された

◆重大な放送が8月15日正午にあるから洩れなく聴くようにという命令も師団から隷下の大隊長に下令された。

◆8月15日正午、村上歩兵大隊長は女体山に配置したラジオ受信機の側にいたが、雑音が大きく先入観もあって一億火の玉になってと聞こえたとして一旦解散した。しかし、3時間後のニュースで終戦を確認し、各中隊に夕食前に伝えた。

◆池田戦車連隊長と一緒にいた加瀬谷第1砲兵隊長もラジオ受信機が明確に聞こえなかった。16日未明に師団司令部から終戦詔勅の情報を電話で聞いて、早朝部隊を呼集し伝達して、明朝17日にガス弾の投棄を命じた。

 占守島に展開していた各戦車中隊はラジオ受信機が無く、16日の連隊長からの連絡で初めて知った。

◆海軍占守通信隊では高性能の通信機器を備えていて、大命の趣旨は理解できた。

 師団司令部も終戦の趣旨は理解できて、師団長は北千島は疑いもなく米軍が接収に来るだろう言っていた。

(北千島を守る第91師団には、歩兵旅団、砲兵大隊、戦車連隊、海軍通信隊があったが、無線・有線ともに情報連絡網の不備に私は驚かされた。)

◆8月17日午前10時から団隊長合同会議が開催された。

 堤師団長は、万一ソ連が上陸する可能性がないでもないが、その場合は戦闘を行わず以後の命令指示に従って行動せよ、ただし、自衛のための戦闘は妨げずと指示した。特に村上歩兵大隊には武装解除の相手軍使に対する配慮について配下への徹底を指示した。

◆8月17日午後10時45分国端崎の守備隊長がロパトカ砲台から座礁油槽船へ砲撃を受けるとの第一報を歩兵大隊本部へ報告、村上歩兵大隊長は師団長の命により刺激するな放っておけと指示する。次に午後11時頃エンジン音が聞こえるとの第二報を、午前0時30分頃に国籍不明の敵が上陸しているとの第三報を送る。

◆現存の資料では、この辺りの時間に2時間の差があり、第二報の受信記録は18日午前2時となっているが、敵の上陸時間もマチマチで、戦闘開始も公刊戦史では午前2時30分となっている。

◆18日午前2時45分、村上歩兵大隊長から杉野旅団長に「敵は本朝未明、艦砲射撃の支援のもとに竹田浜一帯に上陸開始、目下激戦中なるも国籍不明。」と打電している。

 その後直ぐ、無線の故障と電話回線の切断で、大隊内においても小・中隊単位の守備拠点別の孤軍奮闘の死守状態となった。

◆師団本部は、ソ連軍は南樺太などへは8月9日に攻撃してきたが、北千島には8月15日まで何もなく埒外としてソ連の上陸は考えていなかったし、武装解除も米軍が来るものと考えていた。

                                                     

「玉砕の島」を経て

◆アリューシャン西部から直接、超大型機で日本本土を空襲するのを未然に防ぐためのアリューシャン作戦として、キスカ島とアッツ島を占領した。昭和18年4月現在の日本の兵力はキスカ島に6000名、アッツ島に2600名がいた。

◆アッツ島に米軍上陸、日本の逆上陸反抗作戦は実施できず玉砕。しかし、キスカ島の精鋭部隊は無事全員撤収して、第91師団配下で幌筵島の守備に就いた。

                                                

北方の最前線

◆北千島を含めて日本領土になったのは、明治8年、榎本武揚が出席しての「樺太千島交換条約」によるもので、昭和15年9月、日本陸軍は1500名で占守島の要塞建設に着手した。

◆昭和19年2月上旬に米軍艦隊が千島北端に爆撃をかけてきたこともあって、北から日本本土を攻めることに対する防御として、急遽、関東軍の戦車部隊を北千島に投入した。3ヵ月かけて5月15日転出完了した。

◆米国の物資をソ連に供給する条約の「レンド・リース協定」が、昭和17年6月頃締結された。米国から武器、燃料、食料などを米国の船舶をソ連籍にしてアラスカからウラジオストクに運ぶといったもので、ソ連と中立条約を締結している日本としては口を挟むわけにいかず、それだけでなく、米軍機が北千島を空爆してカムチャッカ半島に逃げるのをソ連領の上空まで追うわけにいかずどうすることもできなかった。

諸刃の日ソ中立条約

◆昭和20年4月、鈴木貫太郎首相の時期に天皇は早急な終戦工作を求めておられた。その頃、ソ連軍はヨーロッパ戦線から陸続とシベリヤ方面に移動していた。

 ソ連は日本に日ソ中立条約はその意義を失ったので廃棄する意思であると伝えていた。しかし、日本にとってこの条約は必要不可欠の頼みの綱であった。

 終戦工作もスエェーデンとスイスを通じて行う案もあったが、ソ連の仲介一本に絞っていた。しかし、近衛公爵を特使にその交渉をソ連に伝えるも7月中旬に断られた。

◆8月8日、佐藤ソ連駐在大使はモロトフから戦線布告書を受け取ったが、日本政府には鉄のカーテンの珍事でその電報が届かなかった。日本政府はタス通信の傍受で知るありさまで、10日正午前にソ連大使から宣戦布告文書を手渡された。

◆8月9日払暁、ソ連軍は満洲・南樺太に侵入していた。

                                               

決戦占守島

◆8月14日、カムチャツカの現有兵力によって北千島の占領を目的に千島上陸作戦を準備し実施するよう、極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は命令した。

 ソ連政府は当てにしていた北千島をいまだに占領していなかったので、ソ連総司令部は米軍が千島列島の占領に踏み切るのではないかと危惧していた。(ソ連公式資料による)

◆8月17日午前2時、ソ連軍はカムチャッカ半島の港から出航。翌朝午前2時、先遣隊が占守島北東部に上陸した。(ソ連公式資料による)

◆8月18日午前2時45分に杉野旅団長から堤師団長に届いた電文に基づいて、自衛のための戦闘命令が出された。その後、師団長は方面軍司令官に報告し、1時間後に方面軍司令官から受けた上陸軍粉砕の命令を師団長は発した。この1時間は方面軍司令官から知らされた米軍とソ連軍の上層部の調整時間だと考えられている。

◆ポツダム宣言受諾後に敵が戦闘を仕掛けてくるとは思ってなく、各部隊は戦闘体制を整えるのに時間がかかった。

 戦車は砲塔を外しているものもあり、弾薬も洞窟から取り出し、燃料のドラム缶も埋めてあるので掘り出さないといけない、機関銃や無線機も取り付けないといけないで、大部分の戦車が戦闘体制に入れるまでに2時間はかかったようである。

 飛行機もそうだ。ドラム缶掘り、給油、爆装といった事に時間がかかった。

                                                 

軍使は二人いたのか

(資料により矛盾する点が多々あり、作品の中では大部分のところが記述されているが、ほぼ間違いないと思われる事柄だけを取り上げた。)

◆8月18日午前10時頃、旅団司令部にいた長島大尉は師団長から「軍使として午後4時の停戦を纏めよ」との命令を受け、旅団長に一定時間での戦闘行動中止を依頼し、副使、通訳、二個分隊を伴い午後2時出発。

 前線の隊長に停戦交渉に向っていることを通知しながら前進。ソ連軍の攻撃は熾烈を極め、白旗も破れ、2個分隊の20数名との前進は攻撃隊と思われるので、副使・通訳と共に状況連絡に帰し、2名の部下と捕虜のソ連兵を連れて進み夕方過ぎに捕虜となる。

 午後9時、副使は経過を旅団長に報告する。

◆8月19日午前9時に二回目の軍使を出したとする資料があるが、矛盾する点があるので、そのところは此処の記述から削除する。

◆8月19日午前6時30分、長島大尉はソ連軍上陸司令官に停戦文書を手渡す。

◆8月19日午前8時30分、長島大尉はソ連軍軍使を案内して旅団司令部に帰着。ソ連軍軍使から停戦交渉場所・時間等を受ける。

◆8月19日午後3時、停戦交渉場所のとなった北東部の竹田浜で杉野旅団長、参謀長、長島大尉などが出席して、停戦・即武装解除協定書にサインし、午後8時帰着。

 堤師団長は停戦だけで、武装解除は次の段階の話だと協定書を破棄する。

◆8月20日午前0時過ぎ出発して、参謀長が軍使、長島大尉が副使で協定書の破棄の申し出に行く。参謀長、長島大尉は人質となり、通訳だけが帰された。

◆8月20日午前5時、揚陸部隊を乗せたソ連艦隊はオホーツク海側から幌筵海峡に入ってきたが、日本軍の猛烈な爆撃を受けて退去した。午後、陸上でもソ連軍は反撃に出てきた。

 日本も攻撃準備のための北進を命令して、明朝8月21日午前6時の攻撃再開の命令を出した。

◆8月21日午前5時30分、方面軍司令部は、関東軍の総参謀長と極東ソ連軍総司令官の間で停戦・武装解除等の諒解成立の電文を受け、方面軍司令官から師団長宛に武器引渡しも諒解の電文が届く。直ちに師団司令部は全軍に停戦命令を伝えた。

 ソ連軍将校と共に人質となっていた参謀長・長島大尉も帰ってきた。

◆8月22日午後2時、幌筵海峡の港に来たキーロフ艦上で、堤師団長とソ連軍最高司令官グネチコ中将の間で停戦・武装解除協定が調印された。

                                               

エピローグ

◆8月23日、占守島の武装解除は旅団長の閲兵の後、流れ出る悲運の涙のなか実施された。

◆第91師団の兵力25000名のうち約700名の戦死者が記録されている。その遺体収容は再三にわたるソ連軍との交渉の結果、ようやく9月半ばに行われた。

                                                         

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