僕は何を認識しまた何を認識しないのかということに関わる認識の裁量が,人間にはあるということを認めません。他面からいえば,何を認識しまた何を認識しないのかということが,それを認識するcognoscere人間の意志voluntasによって決定されることはないと考えます。こうしたことはこれまでに何度もいったことがありますが,ここで改めて詳しく説明し置きましょう。

まずスピノザの哲学において,意志というのは絶対的な思惟Cogitatioを意味するのではなく,思惟の様態を意味します。いい換えれば,思惟の属性の能産的自然Natura Naturansなのではなく,所産的自然Natura Naturataに属します。したがって,何らかの意志がなければ思惟作用が存在し得ないというわけではなく,むしろ何らかの絶対的思惟,思惟の属性Cogitationis attributumがあるがゆえに,あることも存在することもできる思惟の様態cogitandi modiです。したがってこうした様態は,個別の意志作用volitioとして各々の知性intellectusのうちに存在するのであって,意志というのはそうした意志作用の総体のことを意味します。
次に,各々の意志作用というのは,観念ideaが観念である限りにおいて含んでいる肯定affirmatioないしは否定negatioのことを意味します。よって,もしある観念が実在するならば,その観念は必ず何らかの意志作用を含んでいます。つまり観念があるところには必ず意志作用があります。逆に,意志作用を含まないような観念というのは存在しませんので,意志作用があるところには必ず観念があるというのもまた同様に真verumです。
そしてこうした意志作用は,第二部定理四八の様式で発生します。第一部公理三によって,一定の原因causaが与えられると結果effectusは必然的にnecessario発生するのですから,もしある意志作用が結果として生じるための原因が必然的に与えられれば,その意志作用は知性のうちに発生することになります。そしてその原因もまた同様の様式で発生するのですから,そもそも何を意志しまた何を意志しないのかということの裁量が,人間には与えられていないのです。
ここから分かるように,認識の裁量が人間にはないということは,何を認識し何を認識しないのかということを決定するdeterminare意志の裁量が人間にはないといっているのと同じことなのです。人間にとっての自由libertas,すなわち人間的自由とは何かを考える際には,この点が基礎とならなければなりません。
第五部定理二八の意味は,第二種の認識cognitio secundi generisで事物を認識するcognoscereことが,第三種の認識cognitio tertii generisでものを認識することの呼び水となるということでした。これは逆にいえば,ある事柄を第三種の認識で認識するためには,それを認識する知性intellectusのうちに,前もって何らかの第二種の認識が蓄積されていなければならないということです。何であれ人間の精神mens humanaが直観scientia intuitivaを駆使するためには,何らかの知識のストックが要請されているということなのです。
任意に抽出された未来のある月の13日が金曜日であることの確率を問う設問に対して,第三種の認識で7分の1という答えを僕たちが導き出すときにも,実はこうした知識のストックが要求されています。この場合は,前もって存在していなければならない知識ないしは情報は,3種類です。
第一に,どんな日を抽出したとしても,その日は必ず何曜日かではあるということです。他面からいえば,何曜日でもないような日は1日たりとも存在しないということです。
第二に,曜日というのは,月曜日,火曜日,水曜日,木曜日,金曜日,土曜日,日曜日の7種類があり,この7種類以外にはないということです。
第三に,これら7つの曜日は,そこに示した順に回ってきて,日曜日になると翌日は月曜日に戻り,その順序で無際限に周期的に続いていくということです。他面からいえば,ある曜日がほかの曜日より多くなることはありませんし,またある曜日がほかの曜日より少なくなるということはありません。そのことが7つの曜日のすべてに妥当します。
僕は3種類の知識ないしは情報のストックが要求されているといいましたが,こうした知識ないしは情報は,ほとんどの人にストックされているといえるでしょう。もっといえば,この程度のことはそれ自体を知識とか情報というように意識されるということすらない形で,僕たちは当然のこととして知っているといってよいかもしれません。
このゆえに,7分の1という答えを,僕たちはとくに考えるconcipereまでもなく出すことができるのです。ただしそれは無条件ではありません。設問の主旨というのを理解した場合に,僕たちは7分の1という答えを直観的に出せるのです。

まずスピノザの哲学において,意志というのは絶対的な思惟Cogitatioを意味するのではなく,思惟の様態を意味します。いい換えれば,思惟の属性の能産的自然Natura Naturansなのではなく,所産的自然Natura Naturataに属します。したがって,何らかの意志がなければ思惟作用が存在し得ないというわけではなく,むしろ何らかの絶対的思惟,思惟の属性Cogitationis attributumがあるがゆえに,あることも存在することもできる思惟の様態cogitandi modiです。したがってこうした様態は,個別の意志作用volitioとして各々の知性intellectusのうちに存在するのであって,意志というのはそうした意志作用の総体のことを意味します。
次に,各々の意志作用というのは,観念ideaが観念である限りにおいて含んでいる肯定affirmatioないしは否定negatioのことを意味します。よって,もしある観念が実在するならば,その観念は必ず何らかの意志作用を含んでいます。つまり観念があるところには必ず意志作用があります。逆に,意志作用を含まないような観念というのは存在しませんので,意志作用があるところには必ず観念があるというのもまた同様に真verumです。
そしてこうした意志作用は,第二部定理四八の様式で発生します。第一部公理三によって,一定の原因causaが与えられると結果effectusは必然的にnecessario発生するのですから,もしある意志作用が結果として生じるための原因が必然的に与えられれば,その意志作用は知性のうちに発生することになります。そしてその原因もまた同様の様式で発生するのですから,そもそも何を意志しまた何を意志しないのかということの裁量が,人間には与えられていないのです。
ここから分かるように,認識の裁量が人間にはないということは,何を認識し何を認識しないのかということを決定するdeterminare意志の裁量が人間にはないといっているのと同じことなのです。人間にとっての自由libertas,すなわち人間的自由とは何かを考える際には,この点が基礎とならなければなりません。
第五部定理二八の意味は,第二種の認識cognitio secundi generisで事物を認識するcognoscereことが,第三種の認識cognitio tertii generisでものを認識することの呼び水となるということでした。これは逆にいえば,ある事柄を第三種の認識で認識するためには,それを認識する知性intellectusのうちに,前もって何らかの第二種の認識が蓄積されていなければならないということです。何であれ人間の精神mens humanaが直観scientia intuitivaを駆使するためには,何らかの知識のストックが要請されているということなのです。
任意に抽出された未来のある月の13日が金曜日であることの確率を問う設問に対して,第三種の認識で7分の1という答えを僕たちが導き出すときにも,実はこうした知識のストックが要求されています。この場合は,前もって存在していなければならない知識ないしは情報は,3種類です。
第一に,どんな日を抽出したとしても,その日は必ず何曜日かではあるということです。他面からいえば,何曜日でもないような日は1日たりとも存在しないということです。
第二に,曜日というのは,月曜日,火曜日,水曜日,木曜日,金曜日,土曜日,日曜日の7種類があり,この7種類以外にはないということです。
第三に,これら7つの曜日は,そこに示した順に回ってきて,日曜日になると翌日は月曜日に戻り,その順序で無際限に周期的に続いていくということです。他面からいえば,ある曜日がほかの曜日より多くなることはありませんし,またある曜日がほかの曜日より少なくなるということはありません。そのことが7つの曜日のすべてに妥当します。
僕は3種類の知識ないしは情報のストックが要求されているといいましたが,こうした知識ないしは情報は,ほとんどの人にストックされているといえるでしょう。もっといえば,この程度のことはそれ自体を知識とか情報というように意識されるということすらない形で,僕たちは当然のこととして知っているといってよいかもしれません。
このゆえに,7分の1という答えを,僕たちはとくに考えるconcipereまでもなく出すことができるのです。ただしそれは無条件ではありません。設問の主旨というのを理解した場合に,僕たちは7分の1という答えを直観的に出せるのです。