『坊っちゃん』が勧善懲悪のストーリーであるけれども,それは表面上のことであるというのは,おおよそ次のような面を同時に持っているからです。
この小説が勧善懲悪とみえるのは,最終的に坊っちゃんと山嵐が,赤シャツや野だいこに制裁を加えるからでした。この制裁は赤シャツや野だいこの行動に関連したものであって,坊っちゃんと山嵐の義憤から発したものであると解釈ができます。他面からいえば,坊っちゃんや山嵐が感じたような義憤を,読者も共有することができるのです。したがってこの小説が勧善懲悪の小説にみえるのは,読者が小説の中の世界に入り込む限りにおいてなのです。
坊っちゃんと山嵐が下した制裁というのは,鉄拳制裁であって,これはあくまでも私的な制裁であり,公的なものではありません。たとえ私的な制裁であっても,それが義憤によるものであったというのは,小説の中の世界に入っているから共有できることなのであって,この制裁を単に私的な制裁であるというレベルでみるなら,実際には義憤は単なる私憤であったとみることもできるでしょう。実際に坊っちゃんが記述した諸事情を除いてみれば,この鉄拳制裁は私憤による制裁であると判断されることになると思います。
単なる私的な制裁である以上,赤シャツはその後も教頭を続けるでしょうし,野だいこも教師の職にあり続けるでしょう。ですが制裁を行った坊っちゃんと山嵐の方は,教職を続けることはできません。教頭を殴った人間がその教頭の下で仕事を続けるなどということはあり得ないからです。当時の教頭とか中学校教師というのが,世間的にどれほどの地位とみなされていたかは別としても,その職にある人間と,その職を失い収入も失う人間と比べれば,当然ながら前者の方が社会的には評価される筈です。つまり社会的な成功者という観点からすれば,悪として懲らしめられた側が成功者であり,善を勧めた側が失敗者であることになるのです。
勧善懲悪といいますが,善であれば成功し,悪であれば報いを受けるということを,『坊っちゃん』は必ずしも一面的に意味しているわけではないのです。
7分の1という答えを直観的に出すために要求されている知識は,さほど難しいものではありません。しかし,だからだれでも第三種の認識cognitio tertii generisでその答えを出すことができるわけではありません。それは問題文のあり方から,問題の意味を正しく把握することができないという場合が生じ得るからです。未来のある月をひとつ任意に抽出し,その月の13日が金曜日になる確率はどれくらいかという設問に対して,たとえば13日という点に強く着目してしまうと,第三種の認識は鈍化しがちで,すぐに7分の1という答えを出すことはそれだけ難しくなります。同様に,それが金曜日ということに強く注目すると,13日に着目する場合ほどではないにしても,やはり第三種の認識は鈍ってしまい,すぐに答えを出すことができないという場合が生じ得るのです。なぜなら,この設問において13日という日付,ほかの日ではなく13日であるということや,それが金曜日であるということ,ほかの曜日ではなく金曜日であるということは,とくに意味があるというわけではないからです。
第三種の認識は,第五部定理二八により,何らかの第二種の認識cognitio secundi generisから発生します。他面からいえば,僕たちが第三種の認識でものを認識するcognoscereためには,事前に何らかの第二種の認識が要請されています。したがって,もしも僕たちが第三種の認識である設問の答えを出すことができるのなら,その同じ答えを,前もって要請されている第二種の認識によっても出すことができます。そしてこの方法で答えを導くことによって,設問の主旨がどこにあるのかということを理解することができるのです。なのでこの設問もその方法で解答してみましょう。
要請されている認識は3種類ありました。このうち第一の認識からは,設問の仕方によって抽出された13日が,必ず何曜日かであることが分かります。ただしこれはさして重要ではありません。次に第二の認識から,金曜日という曜日が確かにあって,金曜日以外には6つの曜日があることが分かります。よって,設問の仕方で抽出された13日が,金曜日である確率が0であることはあり得ないと分かり,同時に100%でもないと分かります。
この小説が勧善懲悪とみえるのは,最終的に坊っちゃんと山嵐が,赤シャツや野だいこに制裁を加えるからでした。この制裁は赤シャツや野だいこの行動に関連したものであって,坊っちゃんと山嵐の義憤から発したものであると解釈ができます。他面からいえば,坊っちゃんや山嵐が感じたような義憤を,読者も共有することができるのです。したがってこの小説が勧善懲悪の小説にみえるのは,読者が小説の中の世界に入り込む限りにおいてなのです。
坊っちゃんと山嵐が下した制裁というのは,鉄拳制裁であって,これはあくまでも私的な制裁であり,公的なものではありません。たとえ私的な制裁であっても,それが義憤によるものであったというのは,小説の中の世界に入っているから共有できることなのであって,この制裁を単に私的な制裁であるというレベルでみるなら,実際には義憤は単なる私憤であったとみることもできるでしょう。実際に坊っちゃんが記述した諸事情を除いてみれば,この鉄拳制裁は私憤による制裁であると判断されることになると思います。
単なる私的な制裁である以上,赤シャツはその後も教頭を続けるでしょうし,野だいこも教師の職にあり続けるでしょう。ですが制裁を行った坊っちゃんと山嵐の方は,教職を続けることはできません。教頭を殴った人間がその教頭の下で仕事を続けるなどということはあり得ないからです。当時の教頭とか中学校教師というのが,世間的にどれほどの地位とみなされていたかは別としても,その職にある人間と,その職を失い収入も失う人間と比べれば,当然ながら前者の方が社会的には評価される筈です。つまり社会的な成功者という観点からすれば,悪として懲らしめられた側が成功者であり,善を勧めた側が失敗者であることになるのです。
勧善懲悪といいますが,善であれば成功し,悪であれば報いを受けるということを,『坊っちゃん』は必ずしも一面的に意味しているわけではないのです。
7分の1という答えを直観的に出すために要求されている知識は,さほど難しいものではありません。しかし,だからだれでも第三種の認識cognitio tertii generisでその答えを出すことができるわけではありません。それは問題文のあり方から,問題の意味を正しく把握することができないという場合が生じ得るからです。未来のある月をひとつ任意に抽出し,その月の13日が金曜日になる確率はどれくらいかという設問に対して,たとえば13日という点に強く着目してしまうと,第三種の認識は鈍化しがちで,すぐに7分の1という答えを出すことはそれだけ難しくなります。同様に,それが金曜日ということに強く注目すると,13日に着目する場合ほどではないにしても,やはり第三種の認識は鈍ってしまい,すぐに答えを出すことができないという場合が生じ得るのです。なぜなら,この設問において13日という日付,ほかの日ではなく13日であるということや,それが金曜日であるということ,ほかの曜日ではなく金曜日であるということは,とくに意味があるというわけではないからです。
第三種の認識は,第五部定理二八により,何らかの第二種の認識cognitio secundi generisから発生します。他面からいえば,僕たちが第三種の認識でものを認識するcognoscereためには,事前に何らかの第二種の認識が要請されています。したがって,もしも僕たちが第三種の認識である設問の答えを出すことができるのなら,その同じ答えを,前もって要請されている第二種の認識によっても出すことができます。そしてこの方法で答えを導くことによって,設問の主旨がどこにあるのかということを理解することができるのです。なのでこの設問もその方法で解答してみましょう。
要請されている認識は3種類ありました。このうち第一の認識からは,設問の仕方によって抽出された13日が,必ず何曜日かであることが分かります。ただしこれはさして重要ではありません。次に第二の認識から,金曜日という曜日が確かにあって,金曜日以外には6つの曜日があることが分かります。よって,設問の仕方で抽出された13日が,金曜日である確率が0であることはあり得ないと分かり,同時に100%でもないと分かります。