スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋聖戦&警告

2017-07-01 19:41:12 | 将棋
 沼津倶楽部で指された第88期棋聖戦五番勝負第三局。
 斎藤慎太郎七段の先手で羽生善治棋聖の四間飛車藤井システム。ただ,先手は穴熊に組むことができました。先手から仕掛けて角交換。後手も飛車を捌いて攻め合いに。
                                       
 5筋を突き捨てた先手が飛車を成り込んだ局面。この局面は先手の方がいいのではないかと僕は思っていました。
 後手は☖2六飛とぶつけました。交換は損なので☗4一龍。角取りですから☖5九角成と自然な応酬。先手は☗1五角と間接的に飛車と馬の両取り。受けるのには☖2九飛成の一手。角交換は先手が損ですから☗3三角成と桂馬を取り返しつつ馬を作りました。この局面は後手もやれそうだと僕には思えました。
 ☖5五桂と馬筋を遮断しつつ金取りに打って☗7七金寄。後手はさらに☖6八銀と打ち☗3四馬という攻めと受けの両睨みの一手に☖7七銀成☗同金☖7九金と攻めを続けました。この局面は5五に打った桂馬の働きが鈍っているように思えたので,後手がまた大変になったように僕には思えました。
 先手は☗7九同銀と取ったので☖7七馬☗8八銀打までは必然。ここで後手は☖6七桂不成と桂馬を使いましたが☗7三金というただ捨ての妙手があり,ここからは先手の勝ち筋に入ったようです。
                                       
 この後,後手の王手龍取りの狙いに桂馬を合駒する好手も出て,先手が勝っています。
 斎藤七段が勝って1勝2敗。第四局は11日です。

 スピノザが第二部定理四三備考で観念ideaが画板の上に描かれた無言の絵mutum instar picturae in tabulaではないと主張しているとき,『スピノザの方法』では,この備考Scholiumの意味はふたつあると指摘されています。すなわち観念は絵ではないということ,僕のいい方では観念は対象を撮影した写真ではないということであり,もうひとつは観念は無言ではないということ,つまりある観念は必然的に別の観念から発生するのであり,同様に別の観念を発生させるという自動性を含んでいるということです。このことは,観念が思惟の様態cogitandi modiであるということ,思惟の様態として自立的なものであって,観念されたものideatumがなくても,あることも考えることもできるものであるということの二面性を意味します。
 スピノザが備考でこのような主張をするとき,僕たちはそれをスピノザからの警告であるというように解するべきと僕は考えます。スピノザ自身は同時代の哲学者たちの多くが,観念は観念されたものがあることによって存在することも概念するconcipereこともできるものであると認識していると判断し,このような警告,すなわちその認識は誤りであるという警告を与えたのかもしれません。ですが別にスピノザと同時代の哲学者に限らず,これは現代の僕たちにも同じように与えられた警告であると認識しておくのが,スピノザの哲学への正確な理解に繋がるだろうと僕は思います。たぶん桂寿一は,対象が先行するというのが同時代の認識であると判断したがゆえに,観念の対象に対する先行性と同時性を並列的にあげて,『スピノザの哲学』でそれを否定したのです。してみればこの警告は,少なくとも桂にとっては重要であり,同時に意味ある警告であったといえるでしょう。
 内的特徴と外的特徴という訳語を用いるなら,そこからこのような警告を看取することは困難であるといえます。内的であるか外的であるかには,特徴について価値的な差異があるようにはみえないからです。しかし,前者を本来的特徴denominatio intrinseca,後者を外来的特徴denominatio extrinsecaというなら,そこには特徴に関する価値的な差異をみてとることができます。したがって本来的特徴および外来的特徴という訳語は,この警告にとっても有益だと僕は思うのです。
コメント
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