25日と26日に福岡で指された第58期王位戦七番勝負第二局。
菅井竜也七段の先手で,変則的な手順で角交換三間飛車からの向飛車に。早々に自陣角を打ちました。この将棋は総じていえばこの先手の作戦に後手の羽生善治王位がうまく対応できず,戦いに入ると先手が優位に立ち,そのまま押し切ったということになるのではないかと思います。目を引いたのは先手の見切りの早さ,踏み込みのよさでした。
後手が歩を打った局面。先手はこれに対応せず☗5四歩と突き出しました。☖1七歩成としても後続がないということで☖3一角。先手が☗4三歩と垂らしたところで☖1七歩成として☗同桂と応じました。後手は☖1六桂☗3九玉を利かしてから☖2一王と引き☗3四桂と打たれたところで☖6五香と打ちました。
ここで先手はあっさり☗3三角成と切ってしまい☖同金。ここは☗4二歩成もありそうですがさして時間を使わずに☗2五桂と跳ねました。これを跳ねると☖1七角と打たれる余地が生じるのですが,すでに勝ちと読み切っていたのだと思われます。後手は☖4三金と歩を払ってから☗4四歩☖3四金と取ったものの☗同銀☖同銀に☗2四桂が決まりました。
第3図以下,4手で後手の投了となっています。
菅井七段が連勝。第三局は来月8日と9日です。
悲しみtristitiaが積極的なものであるなら,いわばそれは人間の完全性perfectioの一部であるなら,悲しんでいる自分を発見することは自分にとって積極的な状態を発見することであり,また自身の完全性の発見であることになります。そしてそうであるなら,その発見自体は自分にとって喜びlaetitiaであり得ることは明らかでしょう。僕はスピノザによる第三部定理五三証明は成功していると思いますし,納得することもできます。しかしそこには漠然としたものが含まれているとも感じていて,その漠然性は,上述のことを取り入れることによって,いくらかは解消することができるのではないかと思っています。つまり単に自分の身体corpusが外部の物体corpusによって刺激される様式を通して自分の身体および精神mensを表象するimaginariことが喜びであるというように証明するより,それを自分の完全性と関連させて論証する方が優れているのではないかと思うのです。
とはいえそうした論証が可能であるかどうかはまた別です。ただ,一応は試みておきましょう。
第二部定理一六は,人間の身体の変状corporis affectiones,affectiones corporisすなわち人間の身体の刺激状態の観念ideaが人間の身体の本性naturaを含むことを示します。したがって第二部定義二の意味によりこの観念は人間の身体の存在existentiaを定立します。もちろんこの場合の存在は現実的存在のことです。
第三部定理六は,現実的に存在する人間が自分の現実的存在を肯定する傾向を有するconaturことを示し得ます。したがって身体の変状によって自分の身体の存在を定立することはこの傾向に合致します。たとえそれが表象像imagoという混乱した観念idea inadaequataでもこの傾向と合致することは第三部定理九から明らかです。
これらのことから理解できるのは,現実的に存在する人間が身体の変状によって自分の身体の現実的存在を認識するなら,それはその人間の現実的本性actualis essentiaとしての働く力agendi potentiaを増大させるということです。ところで第二部定義六により完全性は実在性realitasであり,実在性とは力potentiaという観点から把握される本性です。つまり働く力の増大は大なる完全性への移行transitioです。よって第三部要請一により,身体の変状は悲しみであり得ますが,自分自身を知覚するpercipere限りでは第三部諸感情の定義二により喜びなのです。
菅井竜也七段の先手で,変則的な手順で角交換三間飛車からの向飛車に。早々に自陣角を打ちました。この将棋は総じていえばこの先手の作戦に後手の羽生善治王位がうまく対応できず,戦いに入ると先手が優位に立ち,そのまま押し切ったということになるのではないかと思います。目を引いたのは先手の見切りの早さ,踏み込みのよさでした。
後手が歩を打った局面。先手はこれに対応せず☗5四歩と突き出しました。☖1七歩成としても後続がないということで☖3一角。先手が☗4三歩と垂らしたところで☖1七歩成として☗同桂と応じました。後手は☖1六桂☗3九玉を利かしてから☖2一王と引き☗3四桂と打たれたところで☖6五香と打ちました。
ここで先手はあっさり☗3三角成と切ってしまい☖同金。ここは☗4二歩成もありそうですがさして時間を使わずに☗2五桂と跳ねました。これを跳ねると☖1七角と打たれる余地が生じるのですが,すでに勝ちと読み切っていたのだと思われます。後手は☖4三金と歩を払ってから☗4四歩☖3四金と取ったものの☗同銀☖同銀に☗2四桂が決まりました。
第3図以下,4手で後手の投了となっています。
菅井七段が連勝。第三局は来月8日と9日です。
悲しみtristitiaが積極的なものであるなら,いわばそれは人間の完全性perfectioの一部であるなら,悲しんでいる自分を発見することは自分にとって積極的な状態を発見することであり,また自身の完全性の発見であることになります。そしてそうであるなら,その発見自体は自分にとって喜びlaetitiaであり得ることは明らかでしょう。僕はスピノザによる第三部定理五三証明は成功していると思いますし,納得することもできます。しかしそこには漠然としたものが含まれているとも感じていて,その漠然性は,上述のことを取り入れることによって,いくらかは解消することができるのではないかと思っています。つまり単に自分の身体corpusが外部の物体corpusによって刺激される様式を通して自分の身体および精神mensを表象するimaginariことが喜びであるというように証明するより,それを自分の完全性と関連させて論証する方が優れているのではないかと思うのです。
とはいえそうした論証が可能であるかどうかはまた別です。ただ,一応は試みておきましょう。
第二部定理一六は,人間の身体の変状corporis affectiones,affectiones corporisすなわち人間の身体の刺激状態の観念ideaが人間の身体の本性naturaを含むことを示します。したがって第二部定義二の意味によりこの観念は人間の身体の存在existentiaを定立します。もちろんこの場合の存在は現実的存在のことです。
第三部定理六は,現実的に存在する人間が自分の現実的存在を肯定する傾向を有するconaturことを示し得ます。したがって身体の変状によって自分の身体の存在を定立することはこの傾向に合致します。たとえそれが表象像imagoという混乱した観念idea inadaequataでもこの傾向と合致することは第三部定理九から明らかです。
これらのことから理解できるのは,現実的に存在する人間が身体の変状によって自分の身体の現実的存在を認識するなら,それはその人間の現実的本性actualis essentiaとしての働く力agendi potentiaを増大させるということです。ところで第二部定義六により完全性は実在性realitasであり,実在性とは力potentiaという観点から把握される本性です。つまり働く力の増大は大なる完全性への移行transitioです。よって第三部要請一により,身体の変状は悲しみであり得ますが,自分自身を知覚するpercipere限りでは第三部諸感情の定義二により喜びなのです。