スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

プロレス的才能&翻訳

2014-03-08 19:09:48 | NOAH
 大巨人が試合中にロープに両腕を絡ませ,身動きが取れない状況に陥るのはギミックであったと僕はみなしています。ただ。別の面からいえばこれはアンドレのプロレス的才能の発現であったともいえます。トップレスラーは多かれ少なかれこうした才能を有しているものであり,逆にいえばこの才能がなければプロレスの世界でトップに立つことは難しいのではないでしょうか。たとえば長州力の試合からはこうした要素がほとんど窺えなかったのですが,長州にはむしろそれを排除した試合をするという意図のようなものがあったのであり,それはそれで彼の才能の発現であったと思うのです。
 大巨人の場合,体格が規格外ですから,相手が普通に攻撃してきたとしても,リアリティーを欠いてしまうおそれがあります。そこであえてアンドレは自分が無防備な状況を作り出し,リアリティーを保持できるような試合を成立させていたのでしょう。いわばひとりでハンディキャップマッチの状況を作り出していました。腕を絡ませるのは意図的な行動であったと思いますが,それほど不自然に見えることがなかったのは,アンドレの技術力の確かさであったのではないでしょうか。
 1995年10月9日,東京ドームで武藤敬司と高田延彦の試合があり,武藤が足4の字固めで勝ちました。UWFインターとの対抗戦で,フィニッシュにプロレスの古典ともいえる技を選択したのは,武藤のプロレス的才能の過剰なまでの露出であったと思います。
 2002年5月2日,やはり東京ドームで蝶野正洋と三沢光晴の試合がありました。この試合は時間切れで引き分けましたが,試合中,三沢が突如として蝶野に卍固めを仕掛けました。それまでおそらく使ったことがなかったであろう技をこのシチュエーションで出していったのも,三沢の才能の確かさの証明だと思います。三沢でいえば夢のカードのフィニッシュに,馬場の必殺技のアレンジ技を選択したのも,やはり彼の才能の故であったと思います。
 武藤と三沢を例示したのは理由があります。日本人レスラーの中でこの両者が,プロレス的才能に突出していたと僕は思っているのです。

 スピノザのデカルトからの離反の内容を検討することが今の目的です。このために,異なった概念notioで考えていくと,紛らわしくなるおそれがあります。それを避けるため,デカルトの主張を,スピノザの哲学,とりわけ『エチカ』の用語に翻訳しておきます。
 第一部定義四は,属性が実体の本性を構成することを示しています。したがって,デカルトが延長的実体,あるいは物体的実体が存在することを認めるというとき,これを延長の属性が存在するということを認めるという意味に解します。また,デカルトはその実体が神の本性を構成することはないと主張しています。これは,延長の属性は神の本性を構成しない,つまり神の属性に延長は含まれないと主張していると解しておきます。
 第一部定義六は,神が絶対に無限な実体であるということを示しています。上述の事柄からして,デカルトはこのことを否定していると解します。もしも神が絶対に無限であるのなら,神の本性は,少なくとも概念conceptus可能なあらゆる属性によって構成されなければなりません。しかしデカルトの主張では,延長の属性が神の本性を構成することはないということになっています。それはつまり,神は絶対に無限な実体ではないと主張していることだと僕は解します。
 第二部定義六は,実在性と完全性の一致を示しています。デカルトがこれを認めるかどうかは微妙です。これは,延長の実在性をどのように把握するのかということと関係するからです。デカルトは延長は分割可能であるから不完全であるといいます。分割可能であるものが不完全であるということは,スピノザも同調すると僕は理解します。しかし分割が可能であるからそこには一切の実在性が含まれないとはいえません。そしてもしもその場合にも実在性が含まれると理解する限り,それが神の本性を構成しない以上,神の本性の外部に実在性があるということになります。デカルトの神の定義は,最高に完全であるということなので,この理解では完全性と実在性を異なるものとデカルトは考えていたと結論しておくのが妥当でしょう。
コメント
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