スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

別府八湯ゆけむりカップ&第一部定理二七

2013-05-14 18:31:54 | 競輪
 12日に決勝が争われた別府記念。並びは新田-成田の福島,浅井に鈴木,稲毛-岩津で西日本,菅原ー大塚ー大竹の大分。
 外枠でしたが浅井が出ていって前受け。3番手に新田,5番手に菅原,8番手に稲毛で周回。残り2周を迎えるところで稲毛が上昇。これに菅原が続くと,新田が早めに引きました。バックで稲毛が浅井を叩くと菅原が外から発進。一時的に先行争いのような形になりましたが,ホームでは菅原が前に。先に引いていた新田がうまく4番手を確保し,下げさせられた稲毛が6番手,立ち遅れた浅井が8番手に。バックから新田が成田を連れて発進。大塚も牽制しましたが,勢いが違い過ぎ,捲りきった両者の優勝争い。成田は半車身差までしか詰められず,新田が快勝。成田が2着で福島のワンツー。稲毛を捨てて自力のようなレースになった岩津に乗る形となった浅井が大外から差し,3車身差で3着。
 優勝した福島の新田祐大選手は2月の四日市記念以来の記念競輪2勝目。この開催は出来の良さが非常に目立っていましたので,浅井よりもいい位置を確保できればチャンス十分だろうと思っていました。成田にほとんど詰めさせなかったのは,その出来の良さの賜物だったと思います。ときに強引と思えるようなレースをして着を悪くすることがあるなど,安定感に欠くきらいがあるのですが,力だけでいえばまたビッグを獲得してもおかしくない選手だと思います。

 第一部定理二六の後半部分をこのように読解することは,『エチカ』の定理のスピノザによる配置の意図の観点からも妥当であるといえます。というのも後続の第一部定理二七では,次のようにいわれているからです。
 「神からある作用をするように決定された物は自己自身を決定されないようにすることができない」。
 これは要するに,ものは神からある作用をなすように決定されたならば,その決定から免れることはできないということです。つまり,このことのうちにもある積極的な要素が含まれているのでなければならず,いい換えれば,決定されるものに関する否定ないしは限定であってはならないと僕が解する言明です。スピノザはこちらの定理では積極性については何も触れてはいませんが,第一部定理二六からの一連の流れとしてこの定理が出てきているのであり,僕の解釈は誤ったものではないだろうと思います。これが第一部定理二六とは別に記述されているのは,単に訴訟過程が異なるからではないでしょうか。この定理に関してはスピノザは第一部公理三から帰結するとだけ述べていて,確かにそれだけでこちらの定理は証明されていると思います。
 しかし,一般的に理解するならば,あるものに関して,何らかの決定を受けなければ一切の作用をすることはできないとか,そうした決定を受けてしまえばそこから逃れることはできないということは,そのものに対する全面的な否定であるか,そうでなくとも部分的な限定であるとしか考えられないのではないでしょうか。そしてもしもその通りであるのだとしたら,スピノザは明らかに矛盾したことを主張しているということになります。それは逆に考えれば,スピノザがそのように主張したとしても,実際には何の矛盾もないのであると考えていたことの証明であるといえます。したがって,スピノザは,決定されなければものが作用をなすことが不可能であることも,決定されればその決定された作用をなさざるを得ないことも,ものにとっての否定でも限定でもないと考えるために,何らかの根拠を有していたと理解しなければなりません。その根拠は何であったのでしょうか。
コメント
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