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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

魔術としての文学&様態の表現

2013-06-15 18:54:31 | 歌・小説
 『こころ』のKには次男の悲劇があったと僕は考えています。ただし,僕は夏目漱石の評論は数多く目を通していますが,この観点に触れたものは知りません。
                         
 しかし,完全に異なった観点からではありますが,Kが次男であるということに着目したものはひとつだけ出会っています。坂口曜子の『魔術としての文学』というものです。
                         
 この本は単に漱石の評論というだけでなく,おおよそ文芸評論というジャンル全体の中でもかなりの異色作です。坂口の理解では,漱石の小説の中のいくつかの語句にはシンボリックな意味合いがあり,それを通して小説を読むと,字義通りの意味とは別の意味が発生してくるということになっています。実際に坂口はその観点から漱石の小説を読解し,彼女がいうところのシンボリックな側面がいかなるものかを示しました。
 僕は小説とか歌というものは,公にされた時点ですでに作者のものではなく読者のものであるという考えです。ですからそれをどう読むかは読み手の裁量に任せられるべきであり,坂口のように読むことも否定しません。ただし,内容に関していえばそれは別です。ことばが何らかの象徴性を有するということはあり得ますが,坂口の読解はあまりに独善的であるように思えます。象徴として捕える限り,それはAでもあり得るしBでもあり得るというような読み方がどこかで発生しなければ不自然だと僕は考えますが,坂口はすべての観点において断定的に読解します。つまり,僕からすれば読解の結論に同意できるかできないかという以前の問題として,読解の姿勢とでもいうべき観点から疑問符をつけざるを得ないうような一冊なのです。
 先述したように,おおよそ文芸評論というジャンルの中でも特異な位置を占めるような本です。ですから,漱石の小説に関して真剣に勉強したいと思うような向きには,たぶん何の役にも立たないのではないかと思います。しかし,ある種の息抜きというような気持ちで読むならば,それなりに面白い内容を含んでいるといえると思います。

 もしかすると,様態が様態化している神の属性について,それを絶対的な仕方で表現するという言い回しが『エチカ』で用いられていないということに関して,これを問題視する視点を有する方がいらっしゃるかもしれません。確かに,この点だけに着目するのであれば,スピノザがこうした言い回しを用いていないということは,そのように絶対的な仕方で自身が様態化している属性を表現するといい得るような様態は存在しないとスピノザが考えているからだと理解することは不可能ではないということは,僕も認めます。しかし,現実的にいえば,そのように理解することはできないだろうと僕は思っています。したがって,このことをとくに問題視する必要はないというのが僕の見解です。
 僕がそのような見解に至る理由についても説明しておきましょう。
 まず,第一部定理二五系は,個物res particularisが,一定の仕方で神の属性を表現する様態であると指摘しています。するとこのことのうちに,少なくとも一定の仕方ではない,それは絶対的な仕方であるとは,このことだけでは必ずしもいえないのですが,一定の仕方とは異なった仕方で神の属性を表現する様態があるということが含まれているということは,否定し難いであろうと僕は思います。というのは,もしもあらゆる様態が様態化している神の属性を表現する場合に,同じ仕方でそれを表現するのであるとしたら,この部分でわざわざそれを一定の仕方と形容する必然性がないと思われるからです。つまりここでいわれているのは,res particularisは一定の仕方で神の属性を表現する様態なのであって,それ以外に,これとは別の仕方で神の属性を表現するres particularisではない様態もあるということだと思うのです,
 ではそれがどのような仕方であるのかといえば,様態による属性の表現という観点にだけ注目した場合には,これははっきりとは分からないという結論になるでしょう。しかしスピノザが一定の仕方という言い回しをほかの観点,すなわち神の本性ないしは神の属性の変状という観点から用いている場合に着目するなら,それはやはり絶対的な仕方ということになると思います。
コメント
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