スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&スピノザと言語

2013-04-25 19:10:03 | 将棋
 兵庫県姫路市で開幕した第24期女流王位戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流王位が10勝,甲斐智美女流四段が2勝。
 振駒で先手を得た里見王位は居飛車を選択。甲斐智美四段のごきげん中飛車③Bから先手が早めに自陣角を打つ将棋に。
                         
 歩を取られるのは後手としては仕方がないところ。△5二金左▲3四角△2一飛と進めました。そこで▲1六歩から端を狙ったのがよい着想だったよう。△8四歩▲1五歩△8三銀と進めたのは後手としてはどうだったかと思います。すぐに▲1四歩と仕掛け,△同歩▲1ニ歩△同香▲2四歩。
                         
 こうなっては先手の作戦がはっきりと成功したといえ,早々に一本取ったといえそうです。実際にここで差がついていたようで,この後は後手の反撃をいなす形で先手の快勝となりました。
 里見王位が先勝。第二局は来月9日です。

 スピノザがどんな言語を用いて自らの哲学を考えていたのかということについては,確定的な解答を与えることはできません。ただ,『エチカ』との関係で,僕が最も重要ではないかと思っているのは,以下のような事柄です。
 スピノザの生い立ちについて言及した書物というのはいくつかあります。それらを読み比べてみますと,部分的には異なった記述がされている箇所があります。スピノザが生きていたのは1600年代ですから,細かい点に関してこうしたことが生じるのは止むを得ないといえるでしょう。ただ,これから説明することに関しては,一致していますから,正確性について心配する必要はないと思います。ここでは工藤喜作の『スピノザ』を参照します。
                         
 スピノザの父は,ポルトガルにおけるユダヤ教への迫害から逃れてオランダにやってきた人でした。このため,スピノザは日常生活ではポルトガル語を用いていました。一方,1637年に生命樹学院という学校に入学していますが,ここではスペイン語が使われていたそうです。これらのふたつがスピノザが幼少期に使っていた言語です。住んでいたのはオランダでしたが,オランダ語はあまり達者ではなかった,少なくともポルトガル語やスペイン語ほどは上手ではなかったようです。一般的に考えて,人が物事を考える場合には,幼少期から親しんだ言語を用いるのが普通ですから,僕はスピノザはポルトガル語かスペイン語で考えていたのではないかと思っています。ただし,今はこのことは重要ではありません。
 『エチカ』というのはラテン語で記述されています。ラテン語はスピノザが18歳以降に習得した言語です。とくにファン=デン=エンデンという教師の存在が大きかったようです。ただ,いずれにしてもこれはある種の必要性に駆られて習得した言語です。スピノザはヘブライ語の文法に関する著作を残しているくらい文法というものに関心がありました。なので自分の哲学が文法によって掠め取られてしまう危険性も理解していたと僕は想定しています。しかしポルトガル語やスペイン語と比べるなら,後に習得したラテン語の文法の規制に嵌る可能性は,高くなっていると考えておくべきだと思います。
コメント
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