⑥-1の第2図から,先手は6分の考慮で▲7八金と上がりました。
先手は自戦記で△6二銀を「意表の二手目」といっていますが,同時に,この手は20年くらい遡るのではないかともいっています。ということは,そういう手があるということ自体は知っていたわけです。この▲7八金は,最善と考えて指した手でしょうが,すぐに飛車先交換の権利を行使しない方がよいということを知っていた可能性はあるかもしれません。
後手の自戦記ではこの手について「序盤の巧みさを感じさせる一手」といわれています。おそらく事前の研究ではすぐに▲2四歩としてくるものだと考えていたのではないでしょうか。だとすれば,早くも研究から外れたことになります。
先手の狙いは,後手が△3四歩とか△6四歩などと指せば,そこで権利を行使して,同時に横歩も取ること。後手は6分の考慮で△1四歩ですが,この手は「明らかに甘かった」と悔いています。以下,▲3八銀に△8四歩。そこで▲2四歩△同歩▲同飛と,先手は権利を行使しました。
この後,両者が自信を持てないような展開になっていきます。
スピノザの訴訟過程でさらに重要なのは次の点です。
第一部定理一六の援用の補足として第一部定理二一に訴えるとき,スピノザは神の本性が絶対的に働くように決定された場合に成立するという主旨のことをいいます。一方,第一部定理二七の方を補足として訴える場合には,神の本性が一定の仕方で働くように決定された場合に成立するという主旨のことを述べています。
このことから次のことが分かります。
スピノザはこれに関してこれ以外には補足を与えていません。したがって,このふたつだけで第一部定理一六の補足として十分であると考えていたことになります。いい換えれば,これら以外の様式で神が働くということはスピノザの念頭にはなかったということになります。したがって,神の本性の働きには,絶対的に働く場合と,一定の仕方で働く場合だけがあることになります。また,これは神の働きについての形容ですから,神が絶対的にかつ一定の仕方で働くということは考えられません。こうしたことは知性が概念することが不可能だからです。また,そうした訴え方をしなくても,スピノザが各々の事柄を,『エチカ』のどの部分に訴えているのかという観点からもこれは明らかでしょう。
したがって,知性が神の働きについて概念するならば,それは絶対的な働きであるか,あるいは一定の仕方での働きであるかの,必ずどちらかひとつになります。よってこの場合の絶対的と一定は,対義語的関係を構成していると理解されなければなりません。
つまり,第一部定理二九の論証の過程において,スピノザは明らかに絶対的と一定を対義語的関係を構成する語句として用いているのです。よって,『エチカ』のほかの場面において,神の働きではないほかの事柄をスピノザがこれらいずれかの語句で形容する場合,それはもうひとつの語句と対義語的関係にあるということを念頭に用いていると判断するのが妥当であると僕は考えます。
よって,神の本性が絶対的な仕方で変状するというのと,神の本性が一定の仕方で変状するというのは対義語的関係を構成します。また,様態が神の属性を一定の仕方で表現するというのと,絶対的な仕方で表現するというのも同様だと考えます。
先手は自戦記で△6二銀を「意表の二手目」といっていますが,同時に,この手は20年くらい遡るのではないかともいっています。ということは,そういう手があるということ自体は知っていたわけです。この▲7八金は,最善と考えて指した手でしょうが,すぐに飛車先交換の権利を行使しない方がよいということを知っていた可能性はあるかもしれません。
後手の自戦記ではこの手について「序盤の巧みさを感じさせる一手」といわれています。おそらく事前の研究ではすぐに▲2四歩としてくるものだと考えていたのではないでしょうか。だとすれば,早くも研究から外れたことになります。
先手の狙いは,後手が△3四歩とか△6四歩などと指せば,そこで権利を行使して,同時に横歩も取ること。後手は6分の考慮で△1四歩ですが,この手は「明らかに甘かった」と悔いています。以下,▲3八銀に△8四歩。そこで▲2四歩△同歩▲同飛と,先手は権利を行使しました。
この後,両者が自信を持てないような展開になっていきます。
スピノザの訴訟過程でさらに重要なのは次の点です。
第一部定理一六の援用の補足として第一部定理二一に訴えるとき,スピノザは神の本性が絶対的に働くように決定された場合に成立するという主旨のことをいいます。一方,第一部定理二七の方を補足として訴える場合には,神の本性が一定の仕方で働くように決定された場合に成立するという主旨のことを述べています。
このことから次のことが分かります。
スピノザはこれに関してこれ以外には補足を与えていません。したがって,このふたつだけで第一部定理一六の補足として十分であると考えていたことになります。いい換えれば,これら以外の様式で神が働くということはスピノザの念頭にはなかったということになります。したがって,神の本性の働きには,絶対的に働く場合と,一定の仕方で働く場合だけがあることになります。また,これは神の働きについての形容ですから,神が絶対的にかつ一定の仕方で働くということは考えられません。こうしたことは知性が概念することが不可能だからです。また,そうした訴え方をしなくても,スピノザが各々の事柄を,『エチカ』のどの部分に訴えているのかという観点からもこれは明らかでしょう。
したがって,知性が神の働きについて概念するならば,それは絶対的な働きであるか,あるいは一定の仕方での働きであるかの,必ずどちらかひとつになります。よってこの場合の絶対的と一定は,対義語的関係を構成していると理解されなければなりません。
つまり,第一部定理二九の論証の過程において,スピノザは明らかに絶対的と一定を対義語的関係を構成する語句として用いているのです。よって,『エチカ』のほかの場面において,神の働きではないほかの事柄をスピノザがこれらいずれかの語句で形容する場合,それはもうひとつの語句と対義語的関係にあるということを念頭に用いていると判断するのが妥当であると僕は考えます。
よって,神の本性が絶対的な仕方で変状するというのと,神の本性が一定の仕方で変状するというのは対義語的関係を構成します。また,様態が神の属性を一定の仕方で表現するというのと,絶対的な仕方で表現するというのも同様だと考えます。