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スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

子どもの二面性&ふたつの課題

2013-06-08 19:08:25 | 歌・小説
 僕が神の似姿のひとつではないかと考えている子どもは,性的無垢を象徴するようなある肯定的な側面と,それとは逆に否定的な一面とのダブルスタンダードになっているように思います。『白痴』のムイシュキン公爵からはその両面が読み取れるのですが,そのことは,作者であるドストエフスキーも意図していたように思えます。
                         
 『白痴』でムイシュキンの子どもっぽさの悪い面を非難する役回りを与えられているのは,エヴゲーニイ・パーヴロヴィチ・ラドムスキーという人物だと思います。とくに物語の終幕直前といえる第四編の9で,エヴゲーニイはムイシュキンに向って,ムイシュキンとナスターシャの関係は虚偽で始まったのだから虚偽で終るのが必然だという主旨のことを述べ,それがいかなる意味で虚偽であるといえるのかをこんこんと説明します。エヴゲーニイは弁舌の才に溢れているとされる人物なので,この場面でも長々と喋るのですが,ここではムイシュキンに対してわりと的確なことを言っているように感じられます。また,その他の場面でイッポリートやロゴージンに警告めいたことばを発したり,議論をしたりするときにも,同様の場合があるように思えます。『白痴』というのは例に漏れず大量の登場人物がありますが,情念的に見境なく行動するタイプが多く,エヴゲーニイにもそうした一面はありますが,比較すればその中では理知的なタイプであるといえ,それがエヴゲーニイをそうした人物に仕立て上げているのではないでしょうか。
 うがった見方をすれば,ドストエフスキーは『白痴』でポジティブに美しい人間としてムイシュキンを描こうとしましたが,実際にはこうした非難を浴びなければならないような人間になってしまったわけで,エヴゲーニイの刃というのは,作家としてのドストエフスキー自身に向けられているのだとも理解できます。僕はこれを書くにあたり,改めて部分的にではありますが『白痴』を読み直してみたのですが,それ以前に思っていたよりも,このエヴゲーニイというのは重要性を帯びた登場人物であるというように考えるようになりました。

 直接無限様態の場合には,それがres particularisではあり得ないというのが僕の結論です。しかしこのことを正当化するためには,ふたつの事柄を明らかにしておく必要があるといえます。
 ひとつめは,スピノザがある事柄に関して絶対的という場合と,一定の仕方という場合とが,確かに対義語であるといえるのかどうかです。このふたつが対義語的関係にあるのでなければ,僕の主張は成立しません。
 もうひとつは,スピノザが,神の本性が変状する,あるいは神のある属性が変状するということを,絶対的あるいは一定の仕方でと形容する場合と,神のある属性が変状した様態について,その様態が様態化している神の属性を表現するというときに,絶対的あるいは一定の仕方と形容する場合との間に,きちんとした対応関係があるといえるのかという点です。もっと具体的にいい換えるなら,神のある属性が絶対的な仕方で変状した様態は,その神の属性を絶対的な仕方で表現し,逆に神のある属性が一定の仕方で変状した様態はその属性を一定の仕方で表現するということが,確かに妥当だといえるのかどうかということです。この対応関係が成立していないという場合にも,僕の主張は誤謬であるということになるでしょう。
 まず,ひとつめの方から考えていきます。ただし,ここでは,僕が絶対的な仕方と一定の仕方という各々の言い回しが対義語的関係にあるというとき,それがどういう意味をもっているのかということを先に説明しておく必要があろうかと思います。いい換えれば,僕が一般的な意味において対義語的関係というのを,どのような関係として理解するのかということを説明する必要があるということです。
 『エチカ』でいえば,たとえば不安metusと希望は対義語であるといえます。これはちょうど,第三部諸感情の定義二と三で,喜びと悲しみがそれぞれ定義されているときに,このふたつの感情が反対感情であるということに端を発します。このふたつの感情が反対感情であるがゆえに,喜びと悲しみというのはことばの上でも対義語に該当します。そして不安metusと希望というのは,ほかの条件が同一の悲しみと喜びに該当しますから,ことばの上でも対義語であるということになるのです。
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