スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

三沢と鶴田&発生

2011-09-10 18:47:55 | NOAH
 新装なった東京都体育館でタイガーマスクから素顔に戻った三沢光晴は,このシリーズの最終戦,1990年6月8日の日本武道館大会でジャンボ・鶴田とシングルマッチ。見事にこれに勝利しました。
 先述したようにこの試合も僕は現地で観戦していました。ただこの試合の三沢の勝ち方は返し技によるものでしたから,明らかに実力で鶴田を超越したと感じさせる,あるいは納得させるようなものではなく,むしろ三沢が鶴田のライバルとして戦っていくということを明示するようなものであったと僕は思っています。実際にこの後は三沢が率いる超世代軍と,鶴田を筆頭とした正規軍の全面抗争に突入。僕がいう最良の時代の幕開けとなったわけですが,その戦いの中で,対鶴田という観点だけでいえば,三沢も含めた超世代軍の面々はむしろ苦戦を強いられていたというのが僕の印象です。
 鶴田は1992年の秋に,一線級のまま肝臓の疾患で残念ながらセミリタイア。これ以降はそれまでと同様のプロレスはできなくなりました。ただ,プロレスというのをトータルな戦いとして考えるならば,はっきりと三沢が鶴田の上をいくところまではいかなかったと僕は思っています。鶴田も三沢もすでに故人ですが,鶴田は三沢に超えられたとは思っていなかったでしょうし,三沢も鶴田を超えたとは思っていなかったのではないかと思います。
                          
 それでもひとつの試合という観点でいえば,三沢がはっきり鶴田を上回ったと僕が感じている試合があります。これも僕が現地で観戦した試合のひとつですが,1991年9月4日の日本武道館大会です。この日は三沢は川田と組んで,鶴田と田上のチームと世界タッグの王座を賭けて対戦。三沢がフェースロックで鶴田からギブアップを奪いました。あくまでもタッグマッチですがこれは快挙だったといっていいと思います。確かにこの日だけは,三沢が鶴田を超えていたと考えてもいいのではないでしょうか。

 まず最初に,事物の定義Definitioには定義される事物の発生が含まれていなければならないとスピノザが主張するとき,この発生ということが,スピノザの哲学の全体においてどういった位置を占めるのかということを検討しておきます。
 半円の回転によって球の観念が人間の精神のうちに発生するなら,この関係は第一部公理三における,原因と結果の関係に該当するということは一目瞭然だと思います。つまり半円の回転が原因で,球が結果というわけです。ただし,この場合にはさらに特殊な意味が含まれているように僕には思えます。
 半円の回転というのは,もしもそれ自体で理解されるならば,十全な認識ではなく混乱した認識です。半円の中には本性としても特質としても回転するということが含まれていないのですからこれは当然です。したがってこれは球の観念の原因ではあるとしても,結果である球の観念と一体化することによって初めて十全であると考えることができます。よってこの一体化という観点からみる限り,むしろこれは第一部公理四の方に大きく関係しているといえそうです。すなわち,十全な認識はその原因の認識を含んでいなければならないわけですが,これがちょうど,球の十全な認識が,その原因である半円の回転の認識を含んでいなければならないということと同じ関係にあると考えられるからです。第一部公理四はいろいろな意味合いを含んでいる公理だと僕は考えますが,実は第一に意味しているのは,結果の観念がその原因としての発生の観念を含んでいなければならないということなのでしょう。したがって一般的に定義が定義された事物の発生を含まなければならないのは,この第一部公理四に依拠すると考えられると思えます。
 ただし,球は形相的事物,すなわち物体として考えられようと,その観念として客観的に考えられようと,個物であるということに変わりはありません。よってこの場合はさらに具体的に,第一部定理二八,そしてとくに球の観念として考える場合には第二部定理九の仕方で発生しなければなりません。しかるにこれらの定理はともに,因果関係の連鎖というものは永遠にあるいは無限に続くものであるということを示しています。ここのところに解決しなければならない非常に大きな問題があると僕は考えているのです。
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テレ玉杯オーバルスプリント&問題の本質

2011-09-08 18:54:43 | 地方競馬
 今年から重賞に格上げとなった第22回オーバルスプリント
 激しい先行争いとなりましたが,枠順の差がものをいい,トーホウオルビスの逃げ。トーホウドルチェが2番手でナイキマドリード,キングスゾーン,バロズハート,テイエムカゲムシャまではほぼ一団。ディアーウィッシュがこれを追って,ダイショウジェットはその後ろ。最初の600mは35秒1の超ハイペース。
 トーホウオルビスは3コーナーで苦しくなり,トーホウドルチェが前に出るとナイキマドリードが外から並び掛け,さらに外を控えていたダイショウジェットが追い上げ,3頭が雁行で直線に。こうなれば余力を残しているのはダイショウジェットで,あっさりと抜け出すと5馬身もの差をつけて快勝。トーホウドルチェが2着に残り,3着には馬場の中ほどを伸びたディアーウィッシュ。
 優勝したダイショウジェットはこれが52戦目。オープンでは4勝していましたが,重賞は好走にとどまり,待望の初制覇。ここは展開面の恩恵が大きかったように思えます。自力で勝負できるタイプではありませんし,年齢からもこれ以上の活躍は難しいかもしれません。ただ,このくらいのレベルのレースならば,大きく崩れるということもないだろうと思います。
 騎乗したのは柴山雄一騎手で管理しているのは大根田裕之調教師。今年から重賞になったレースですから当然ながら初制覇です。

 この反論に答えるために,本当の意味で問われているのがどんなことなのかということを整理しておく必要があります。
 ある観念が十全な観念であるためには,その観念が観念の対象ideatumの本性を含んでいなければならないということは,きわめて当然のことだといえます。おそらくこのことにはマシュレも同意するでしょう。また,念のために『エチカ』にも訴えておくならば,第二部定義四第一部公理六からしてそうでなければなりません。
                         
 一方,事物の定義というのも,定義されている事物の本性を十全に表現するようなものでなくてはなりません。というのは,定義命題と定義されている事物は一対一でのみ対応し合わなければなりませんし,定義命題は定義している事物以外の事物と,また定義されている事物はその定義命題以外の命題と対応することは許されません。これはそもそも事物の定義というものはそういうものであるといえると思います。ところでスピノザの哲学においては,第二部定義二から明らかなように,事物とその事物の本性というのは一対一で対応し合うものであり,ある事物がほかの事物の本性と対応しないというのはそれ自体で当然ですが,ある特定の事物の実在性を肯定するような本性は,それ以外の事物については肯定しないという関係になっているからです。
 したがって,事物を十全に認識するということは,この意味において,事物の定義を十全に認識するということにほかならないのです。いい換えれば,事物の定義が認識されるものであると規定したときには,その定義こそが定義されている事物の十全な観念なのです。そしてこの点も,おそらくマシュレは同意するでしょうし,とくにマシュレに限らずとも,反論の余地はないように思われます。
 したがって,ここで実際に問われているのは,スピノザが事物の定義は定義されている事物の発生を含んでいなければならないと主張するときに,その主張自体が,一般的な意味において妥当であるのかどうかということです。そしてこれが妥当であるとするなら,すべての十全な観念は必然的にその観念の対象ideatumの発生を含むことになり,よって十全な観念は必然的に能動的なものとしてのみ現実的に存在するということになるでしょう。
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王座戦&反論

2011-09-07 21:50:09 | 将棋
 単に1タイトルの行方だけにとどまらず,今後の将棋界の勢力図にも大きく影響してくるであろう第59期王座戦五番勝負が開幕しました。対戦成績は羽生善治王座が13勝,渡辺明竜王が15勝で,千日手が1局。
 振駒で渡辺竜王の先手。すらすらと角換り相腰掛銀に。先手が4筋に飛車を回って角を打ち飛車のこびんを狙うと後手は6筋に飛車を回って角を打って後手玉のこびんを狙い,早々に飛車切り。とはいえこのあたりは前例もあり,新手を出したのは後手。先手は最も積極的と思える攻め合いを選択。それなりに進みましたので,夕食休憩明けすぐから観戦することにしました。
                       
 とりあえず▲3四桂は防ぐ必要があり,△3三銀もあるかとは思いましたがそれだと▲3四歩も生じますから△4三銀。そこで▲9三龍と桂馬を取り,△4四角に▲3八飛。後手は平然と△3五角。これには▲同飛でなければおかしいですが,少し時間を使いました。△同歩はこれ以外になく,▲4六角は継続手。今度は△同歩とすると角の王手に合駒が飛車しかありません。なので△4八飛は仕方ないと思います。ただ,無条件に質駒を入手できたのですから,ここは先手の方がよい筈だと思いました。▲4七銀打(第2図)はこの一手のように思います。
                         
 相変わらず△4六歩とはできないので歩しかない後手はどう指すか難しいところ。△6七歩成は検討していた手のひとつでした。ただ▲同金が桂馬にあたるのでどうかと考えていたのですが,先手は▲同銀で取りました。△7八飛成は本線。▲同銀の一手に△4六歩が詰めろ。▲6七角の王手桂取りで受けました。駒を使わず△1三王に▲7六角と桂馬を外し,さしあたってのピンチは解消。△4七歩成は当然ではないかと思います。手順に角も銀も取られましたから,ここではもう先手がいいとはいえない感じです。詰めろの連続で迫るか,△7五角を受けるかという選択だと考えていたら相当の時間を使って▲1五歩。△7五角に▲1四歩△2三王まで決めて,ここで▲8九桂(第3図)と受けに回りました。
                         
 △9三角は最も自然な手。この瞬間は先手玉が安全なので,先手としてはここで決めてしまいたい局面です。考えていませんでしたが▲1五桂と王手を掛けました。第3図の直前の手順を生かした手といえるでしょう。逃げ場所は2か所ですが△3三王だと上から縛って先手が勝てそうだと検討。ということで△1二王の方を考えていたのですが,指されたのは△3三王。これだと▲4五金△4四金▲3四歩△同銀▲同金同金▲4五銀まで一本道。そこで△4三金直は最善の粘りだと思います。▲3四桂は危険かもしれませんが最も自然。△同金に▲5二飛の詰めろ。△4二銀はこう受けるところで,▲2三金と打ち込みました。ここからまた一本道で△同銀▲同桂成△同金。▲5二飛成と切って△同王▲4三銀△5一王も変化の余地はなし。そこで▲6四香と縛りました。ここで受けがなくなった後手の投了。先手がうまく決めきりました。
 この棋戦での羽生王座の連勝を19でストップさせ渡辺竜王が先勝。第二局は20日です。

 以上が,僕がスピノザが『知性改善論』の(七二)に示している球の観念の発生を,人間の精神の能動とみなすことの根拠になります。しかし,こうした論拠によってそれを人間の精神の能動とみなすのであれば,マシュレのような立場からは,以下のような反論が寄せられてくるかもしれません。
 ある十全な観念が人間の精神のうちに生じる場合に,それを能動的なものであるとみなすためには,その十全な観念が観念されたものideatumの発生を含んでいなければならないということは,それでよいかもしれません。しかし,このこと自体のうちには,すべての十全な観念が,その観念の対象ideatumの発生を含んでいなければならないということが含意されているというわけではありません。したがって,十全な観念があるといわれるとき,それがすべて直ちに人間の精神の能動を意味するということにはならないのです。とくに僕が理解する限りでのマシュレの立場というものは,人間の精神の能動にも受動にも属さないようなある思惟作用が存在するというものですから,こうした反論というのは,むしろ大いにあり得るように僕には思えます。というのは,そのような立場からすれば,観念の対象の発生を含むような十全な観念については,それを人間の精神の能動と認めるけれども,もしも対象の発生を含まないような十全な観念があるのだとすれば,そうした観念がある人間の精神のうちに発生するような場合にこそ,それはその人間の精神の能動ではないが,受動でもないようなある思惟作用なのだということが可能になってくるからです。
 つまり,それが観念の対象とはまるで無関係な,純粋な思惟作用であるからそれは人間の精神の能動なのであると,僕が仮定したマシュレのような立場と,それが観念の対象となっているようなものの発生を含んでいるからそれは人間の精神の能動なのだとみなすような僕の立場というのは,スピノザが示した球の観念の発生の場合には,同じようにそれを人間の精神の能動であると結論するでしょうが,実際にはある隔たりがあるのだと考えなければなりません。したがって僕は,僕自身の立場からこの予想可能な反論に答えておかなくてはなりません。
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東日本大震災被災地支援オールスター競輪&半円の回転

2011-09-05 18:36:25 | 競輪
 雨はともかく風の影響を大きく被るのが競輪というスポーツ。岐阜競輪場を舞台に戦われた第54回オールスター競輪は台風の影響で3日の準決勝が順延。決勝も1日繰り下がって今日となりました。並びは佐藤友和-佐藤慎太郎-伏見の北日本,長塚-合志の81期,深谷-山内の愛知,浅井-山口の中部。
 佐藤友和の前受け。浅井が4番手,長塚が6番手,深谷が8番手で周回。残り2周のホームで佐藤友和が誘導を外して先行態勢。バックに入って長塚が内を上昇,伏見をどかすと,外を深谷が発進。このスピードに山内が離れ,3番手で長塚と競り合うと,4コーナーで長塚がインから山内を押し上げ,これが佐藤から深谷へと連動して深谷は大きく浮きました。ホームから浅井が発進すると,一旦は前に出ていた長塚が佐藤慎太郎を押し上げ,このあおりで両者と伏見,山内の4人が落車。浅井に山口は離れ気味でしたがバックで何とか追いつき,3番手に佐藤友和,4番手に合志。深谷は落車は避けましたが圏外。浅井の発進に脚を使った分でしょうか,直線でも山口はあまり差を詰めることができず,浅井の優勝。山口が2着で佐藤友和が3着。
 優勝した三重の浅井康太選手は7月の寛仁親王牌に続いて2度めのGⅠ優勝。アクシデントで後味の悪いレースとなり,多分に恵まれたのは事実。ただ,ホームで先に踏んでいたからアクシデントに巻き込まれずにすんだともいえ,その部分の積極性が好結果をもたらしたとはいえると思います。末もしっかりとしていて,まだまだ大きいところを勝てるであろう選手でしょう。

 『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』でスピノザが示している球の観念の発生を人間の精神mens humanaによる能動actioであると僕が考えるconcipereとき,注意しておいてもらいたいことがさらにもうひとつあります。
 これはスピノザ自身が当該の部分で述べていることでもありますが,自然のうちに形相的にformaliter,すなわち物体corpusとして球が現実的に実在するとしても,そのすべての球が半円が直径を中心にして一回転することによって現実的に発生したというわけではありません。これはそれ自体で明らかだと思います。いい換えれば,たとえば半円自体の本性essentiaのうちに,それが直径を中心として回転し,球が形成されるということが含まれているわけではないのです。したがって,もしも半円自体が回転するということをそれ単独で抽出するとすれば,それは十全な観念idea adaequataなどではありません。もしもこれがそれ単独で何らかの十全な観念であり得るとしたら,その観念の対象ideatumは半円であるとしか考えられないでしょうが,半円の本性にはこのことが含まれていないのですから,むしろこれは混乱した観念idea inadaequataであると考えるべきだと思います。
 半円の回転を肯定するような意志作用volitioというものが十全adaequatumであり得るのは,あくまでもそれが球の観念と直結しているからです。これは,半円の回転というものが,球の観念のみを肯定することができ,その他の一切の観念についてはそれを肯定できないということからも明らかだと思います。なぜならこのことのうちには,もしも球の観念がないならば,半円の回転を正しく肯定することは不可能であり,よって球の観念なしに半円の回転がそれ単独で知性intellectusのうちに生じるなら,それは混乱しているということが含まれているといえるからです。
 このことは,第二部定理三五からさらに明らかだといえるでしょう。誤謬errorというのはある認識cognitioの不足を意味しますが,半円の回転というのがある知性のうちで誤謬となるとすれば,それは球の観念という認識を欠いているからであると考えられるからです。つまり半円の回転は,球の観念の認識を含むことによって,初めて十全であるといえることになるのだと思います。なお,これについては上野修が『スピノザの世界』の2章で詳しく論じていますから,それも参考にしてほしいと思います。
                         
 僕が『知性改善論』における球の観念の発生を人間の精神の能動とみなすとき,以上のふたつの意味を含んでいます。その上で,僕の結論とマシュレの結論はこの点で一致するであろうと僕は考えていると理解してください。
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妙手⑰&球の観念の発生

2011-09-04 19:06:09 | ポカと妙手etc
 第33期女流王将戦は本戦トーナメントの放映が先月より開始されています。1回戦第1局では,絶妙手というほどではないかもしれませんが妙手⑪で紹介した手を思い出す筋が出ました。
 かなり駆け引きある序盤から先手が三間飛車,後手が飯嶋流引き角戦法。後手の仕掛けに先手が巧妙な垂れ歩で応戦し,歩得を果たして優位に。
                         
 ここで▲7七金と上がったのは何か理由があったのでしょうが,緩手だったような気もします。後手は△6五金と進出。▲5四歩は先手の狙いの一着ですがそこで△1五歩(第2図)と突きました。
                         
 取れば△同香▲同香で△5六歩と打って飛車を召し取る狙い。そうなってはひどいですから▲9一角成として,△1六歩の取り込みに▲4六歩と逃げ道を作りましたが,△1七歩成と端を破られてしまいました。先手も香車を取りながら馬を作ってはいますが,ポイントは後手の方が大きいといえるでしょう。
 居飛車と振飛車の対抗形で玉側の香車を捨てて一歩を入手するという筋は,大概の場合はうまくいかないとしたものですが,この将棋はそれが成立しました。一遍に後手がよくなったというほどではないかもしれませんが,将棋も後手が勝っています。

 十全な観念がこうした特徴を含んでいなければならないということを考慮に入れた上で,スピノザが『知性改善論』で示している球の観念について考えてみれば,それがそうした条件を満たしているということが分かります。
 たとえば球という物体は,その面にあるどの点を任意に選択したとしても,その点から球の中心までの距離というのが一致します。したがって,もしもある知性が球の観念を十全に認識するということがあったとすれば,その観念のうちにはこのことを肯定するような意志作用というのが含まれていなければなりません。しかし一方で,あるものについて,その面の上にあるどの点も中心から等しい距離になるということを肯定するような意志作用というのは,球の観念のみを肯定し,その他の一切のものを肯定することはないでしょう。つまり球の観念とそれを肯定するこの意志作用というのは,一方がなければ他方が,逆に他方がなければ一方が,考えることができないような関係にあることになります。よって第二部定義二により,後に示すであろう条件はありますが,この段階では僕はこのことが,少なくとも球の本性に属するということは認めます。いい換えれば,その面の上にあるどの点も中心からの距離が等しいという認識は,球に関するある十全な認識であるとは認めます。
 しかし,この肯定は,知性のうちに球の観念が生じるということを説明できません。つまり能動と受動という観点からみるならば,その知性による能動ということをそれ自体として含むことはできないのです。一方,半円がその直径を中心にして一回転することを肯定するならば,この知性のうちには必然的に球の観念が発生することになります。したがって実は球を十全に認識するということは,このような半円の回転を肯定することのうちにあり,その面の上のどの任意の点も中心からの距離が等しくなるということは,半円の回転によって形成されるような球の観念から必然的に帰結するような特質なのだと考えられるわけです。実際に,半円の回転によって形成される観念のうちには面の上のどの点も中心から等しい距離であるという肯定を含むでしょうが,後者の肯定が前者の肯定を必然的に含んでいることにはならないからです。
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神奈川新聞社賞戸塚記念&十全な観念

2011-09-02 20:47:19 | 地方競馬
 週初めから台風の影響が懸念された第40回戸塚記念でしたが,幸いにも開催には影響はありませんでした。
                         
 ヴェガスの発馬が悪く最後尾に。先手を奪ったのはナターレでしたが,1周目の3コーナーを回るとペースが落ち,ハバナマティーニ,ファジュル,エースフォンテン,タイセイヴィグラスまではほとんど差がなく続きました。
 ヴェガスは1コーナーを回ると早くも進出を開始。直線の入口では逃げるナターレの2番手まで押し上げましたがここまでで一杯。内からカンユウが2番手に上がりましたがこちらも目立った脚ではなく,悠々と逃げ切ってナターレの優勝。結果的にヴェガスが先行勢を一掃したようなレースとなり,2着は後方2番手から大外を追い込んだゴールドスガで,僅差の3着にも後方で待機していたハルサンサン。
 優勝したナターレは4月のクラウンカップ以来の勝利で南関東重賞2勝目。実績からは優勝候補の1頭。個人的には距離を案じていましたが,楽な逃げに持ち込んで克服しました。ロジータ記念を目標にするものと思われますが,牡馬相手に川崎で南関東重賞2勝ですから,有力馬の一角を占めることとなるでしょう。父はクロフネ,母の父がダンスインザダークで,祖母の姉にセントウルステークスを勝ち,フサイチゼノン,アグネスゴールド,リミットレスビッドと3頭の重賞勝ち馬の母となったエリザベスローズ。Nataleはイタリア語でクリスマス。
 騎乗した大井の的場文男騎手は5月の川崎マイラーズ以来の南関東重賞制覇で2005年以来の戸塚記念3勝目。管理している川崎の内田勝義調教師は初勝利。

 一方,僕がこのようにして人間の精神のうちに球の観念が形成される場合に,それを精神の能動とみなすのか精神の受動とみなすのかと問われるなら,これは精神の能動であると答えます。つまりこの球の場合では,僕とマシュレの間で意見の統一が図れるであろうと僕は考えているのです。
 僕がこれを精神の能動とみなす根拠を説明しましょう。簡単にいいますと,『知性改善論』の当該部分において,スピノザはこうして人間の精神のうちに形成される球の観念について,それは真の観念であるといっています。つまり第二部定義四によってこれは球の十全な観念なのです。しかるに僕は,人間の精神のうちにある十全な観念が生じるならば,それは人間の能動であると考えています。だからこの場合にもこれを人間の精神の能動であると結論します。
 ただし,ここではいくつかの注意点があります。そのうち最初のものは,十全な観念というものが,それ自体の内的特徴として含んでいるとされるようなものが,『エチカ』ないしはスピノザの哲学においてどのように規定されているのかということです。スピノザがそれを真の観念といっているからそれは十全な観念であるというのでは,あまりに根拠として薄弱でしょうから,これについてはきちんと考えておかなければなりません。
 スピノザの哲学において,ものの定義というのは,そのものの本性と発生とを含んでいなければならないというのが原則になっています。僕はこのことが,十全な観念にも妥当しなければならないと考えます。というのは,あるものの本性からは,そのものの諸々の特質が必然的に導き出されるのですが,ものの十全な観念というのは,そのものの特質というものがそこから必然的に導かれるような観念でなければならず,したがってあるものの特質の十全な観念というのはそのもの自体の十全な観念ではなく,そうした特質の十全な観念がそこから必然的に導かれるような観念,すなわちものの本性の十全な観念というものこそ,そのもの自体の十全な観念であると考えるからです。しかしそのとき,そのものの本性を十全に表現するのは,そのものの発生を含むような観念だけであると思うのです。
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スポニチ盃アフター5スター賞&球の場合

2011-09-01 18:49:36 | 地方競馬
 ここが転入初戦となる馬が5頭もいた火曜の第18回アフター5スター賞。おそらく上位人気になった筈のフジノウェーブが競走除外で15頭。
 発馬がよかったのはフジマサメモリー。しかし速力と枠順の差もあり,ブリーズフレイバーが難なく先手を奪うと2番手にはコアレスピューマ。久々の短距離戦でしたがマグニフィカもこれに続き,クラフィンライデンと内に潜り込んだダイワシークレットという隊形。前半の600mは34秒0のハイペースに。
 直線に入って粘る前2頭の間を突いたのがダイワシークレットでこれが先頭に。しかしこれの直後にいたタカオセンチュリーが豪快な伸び脚で外から交わして優勝。ダイワシークレットが2着。最後尾から大外を強襲したモアザンスマートが3着。JRAからの転入馬による上位独占となりました。
 優勝したタカオセンチュリーはJRA5勝。オープンでも2回の2着があり,実績はメンバー中最上位。ただ,1200mはただの1度も走ったことがなく,距離適性が最大の問題でした。わりと鮮やかに勝って,新境地の開拓といったところ。もちろんもっと長い距離でも対応は可能な筈。8歳馬ですから大きな上積みは期待できないでしょうが,南関東重賞レベルであれば,もう少しの間は優勝候補の一角を担うことになりそうです。父はテイエムオペラオー,フロリースカップモンテホープの分枝で,母の従弟に2000年の阪神スプリングジャンプを勝ったファンドリロバリー
 騎乗した大井の柏木健宏騎手は一昨年のローレル賞以来の南関東重賞2勝目。管理することになった大井の松浦裕之調教師は2007年の東京記念以来のこちらも南関東重賞2勝目。

 それではここからは,具体的にある人間の精神mens humanaによる事物の認識cognitioを題材として考察を進めていくことにします。最初に採用するのはスピノザが『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』の(七二)で言及しているもので,半円がその直径を中心に回転するということによって形成されるような球の観念ideaです。
                         
 このような仕方である人間の精神のうちに球の観念が生じるとき,これをマシュレがこの人間の精神の能動actio Mentisとみなすか精神の受動passioとみなすかといえば,おそらく精神の能動とみなすであろうと僕は思います。その根拠というのは,この半円の回転というのが,この人間の精神のうちに,純粋な思惟作用としてのみ生じていると考えられるからです。マシュレがそういういい方を好むか好まないかということを別にしていい換えるなら,この思惟作用に対応するような,延長の属性Extensionis attributumにおける同一個体が,回転している半円ではなくて,この思惟作用をなすときに生じている人間の身体運動であるからです。こういう場合には,マシュレはそれを人間の精神の能動であると考えると思われるのです。
 半円がその直径を中心に一回転するということは,半円の本性essentiaのうちには含まれていません。一方,現実的に物体corpusとして球が存在する場合に,その球がこのようにして生じたというものでもありません。したがってこの半円の回転というのは,物体としての半円が運動するという延長作用ではなくて,むしろこうしたことを認識する人間の思惟作用であるといえるわけです。ただし,これについては後でも詳しく説明することになるでしょうが,事前にひとつだけ注意しておいてほしいのは,僕がこれを精神の能動であるとマシュレはみなすであろうというとき,客観的有esse objectivumすなわち観念として実在するような半円を回転させるということだけを指示してそういっているわけではありません。あくまでも,この思惟作用によってこの人間の精神のうちに球の観念が形成されるというところまでを含んで,それを精神の能動とみなすであろうということです。というか,僕がマシュレがそうみなすという根拠は前半の部分の方に力点を置きます。ただ,それだけをもってしてこれを精神の能動といってしまうと,明らかに別の問題が発生しますので,その混乱を避けるための措置をこの段階では講じておくということです。
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