スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

東日本大震災被災地支援奈良記念&コペルニクス的転換

2011-09-16 18:33:01 | 競輪
 優勝候補と目された深谷が準決勝で敗退するという波乱になった奈良記念は13日が決勝でした。並びは木暮-中村の関東,福田に室井,山田-山口の岐阜,市田-佐藤の近畿で合志が単騎。
 前受けは山田。3番手に市田,5番手に木暮,合志を挟んで8番手に福田で周回。福田は残り3周から上昇し,残り2周では先頭に。ここから木暮が巻き返し,打鐘では福田を叩いて先行態勢に。これに合志が続き,4番手は福田でしたが山田がインを上昇し,この位置を奪いにいきました。さらに山田はバックにかけてインを上がっていき,木暮の横あたりまでいったのですが,後方に構えていた市田が外を踏み込むとこの捲りが豪快に決まり,そのまま抜け出して優勝。何とか食らいついた佐藤が2着に入って近畿のワンツー。直線は外を伸びた合志が3着。
 優勝した福井の市田佳寿浩選手は7月の福井記念に続いて記念競輪14勝目。昨年は2月に行われた奈良記念で優勝していて当地は連覇。道中は置かれる形となったのですが,隊列は短くなったのであまり問題なし。結果的にみてここでは脚力が明らかに上位でした。マーク戦が多くなっている現況ですが,まだ十分に自力を使えることも証明しましたし,これからも活躍していくであろうと思います。
                         

 僕は今回の考察の中で,第一部定義一の自己原因について,原因と結果とが同じものであるという主旨の説明をしてきました。しかし,第一部定理二五備考でスピノザが述べていることに鑑みれば,実はこうした説明というのは不適切なものであるということが分かります。これが僕がコペルニクス的転換ということばで表現した事柄です。ここからはなぜそうなるのかを順を追って考えていくことにします。これはおそらく名目的に考えた方が理解は容易い筈です。
 まず,第一部公理一の意味は,自然のうちには実体と実体の変状としての様態だけが存在するということです。
 次に,このうち実体は,第一部定義三から自己原因であることが理解できます。その存在,いい換えれば発生をほかのものに依拠せずに考えることが可能であるということは,それが自己原因であるということを直ちに意味するからです。
 一方,様態は第一部定義五により,少なくとも自己原因ではあり得ません。その存在ないしは発生がほかのものによって認識されるということは,様態が存在ないしは発生するために,必ず外部にその原因が実在する,というかここでは名目的に考えますので実在していなければならないということだからです。つまり様態は実在するなら必然的に,原因と結果とが別のものとして存在するということになります。
 第一部定理一は,自然のうちに存在するこれらふたつのもののうち,実体の方が様態に本性の上で先立たなければならないことを示しています。僕は第一部定理一の意味を,時間的な意味において実体が様態に先行するというようには理解しませんが,これらのことを重ね合わせれば,少なくとも自己原因であるものは,原因と結果とが別のものよりも,本性の上で先立っていなければならないということになるでしょう。
 よって,原因と結果が別のものによって自己原因を説明するということは,主客を転倒したような説明であるということになります。むしろ自己原因によって原因と結果とが説明されなければなりません。つまり自己原因とは原因と結果とが同一のものであるという説明は説明の順序として正確さを欠いています。そうではなくて,自己原因のある変種,それこそ変状として,原因と結果が別のものもあるというように説明されなければならないのです。

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