スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

妙手⑰&球の観念の発生

2011-09-04 19:06:09 | ポカと妙手etc
 第33期女流王将戦は本戦トーナメントの放映が先月より開始されています。1回戦第1局では,絶妙手というほどではないかもしれませんが妙手⑪で紹介した手を思い出す筋が出ました。
 かなり駆け引きある序盤から先手が三間飛車,後手が飯嶋流引き角戦法。後手の仕掛けに先手が巧妙な垂れ歩で応戦し,歩得を果たして優位に。
                         
 ここで▲7七金と上がったのは何か理由があったのでしょうが,緩手だったような気もします。後手は△6五金と進出。▲5四歩は先手の狙いの一着ですがそこで△1五歩(第2図)と突きました。
                         
 取れば△同香▲同香で△5六歩と打って飛車を召し取る狙い。そうなってはひどいですから▲9一角成として,△1六歩の取り込みに▲4六歩と逃げ道を作りましたが,△1七歩成と端を破られてしまいました。先手も香車を取りながら馬を作ってはいますが,ポイントは後手の方が大きいといえるでしょう。
 居飛車と振飛車の対抗形で玉側の香車を捨てて一歩を入手するという筋は,大概の場合はうまくいかないとしたものですが,この将棋はそれが成立しました。一遍に後手がよくなったというほどではないかもしれませんが,将棋も後手が勝っています。

 十全な観念がこうした特徴を含んでいなければならないということを考慮に入れた上で,スピノザが『知性改善論』で示している球の観念について考えてみれば,それがそうした条件を満たしているということが分かります。
 たとえば球という物体は,その面にあるどの点を任意に選択したとしても,その点から球の中心までの距離というのが一致します。したがって,もしもある知性が球の観念を十全に認識するということがあったとすれば,その観念のうちにはこのことを肯定するような意志作用というのが含まれていなければなりません。しかし一方で,あるものについて,その面の上にあるどの点も中心から等しい距離になるということを肯定するような意志作用というのは,球の観念のみを肯定し,その他の一切のものを肯定することはないでしょう。つまり球の観念とそれを肯定するこの意志作用というのは,一方がなければ他方が,逆に他方がなければ一方が,考えることができないような関係にあることになります。よって第二部定義二により,後に示すであろう条件はありますが,この段階では僕はこのことが,少なくとも球の本性に属するということは認めます。いい換えれば,その面の上にあるどの点も中心からの距離が等しいという認識は,球に関するある十全な認識であるとは認めます。
 しかし,この肯定は,知性のうちに球の観念が生じるということを説明できません。つまり能動と受動という観点からみるならば,その知性による能動ということをそれ自体として含むことはできないのです。一方,半円がその直径を中心にして一回転することを肯定するならば,この知性のうちには必然的に球の観念が発生することになります。したがって実は球を十全に認識するということは,このような半円の回転を肯定することのうちにあり,その面の上のどの任意の点も中心からの距離が等しくなるということは,半円の回転によって形成されるような球の観念から必然的に帰結するような特質なのだと考えられるわけです。実際に,半円の回転によって形成される観念のうちには面の上のどの点も中心から等しい距離であるという肯定を含むでしょうが,後者の肯定が前者の肯定を必然的に含んでいることにはならないからです。
コメント
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