スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

竜王戦&無限連鎖

2011-09-12 23:10:37 | 将棋
 渡辺明竜王によって築かれている盤石の牙城を崩しに向かうのは展望で対抗に挙げた久保利明二冠かそれとも名前を出さなかった丸山忠久九段か。第24期竜王戦挑戦者決定戦三番勝負第三局。
 振駒で久保二冠の先手。先手の三間飛車石田流に後手が左美濃という,最近はよく見られるようになった戦型。後手が銀冠にして先手から仕掛けるのも定跡通り。そこで後手が手を変えました。この後,飛車角交換となり,先手は端攻めを敢行。ほぼ無条件に詰めました。後手は戦いを望まないような姿勢に終始し,先手がそれに乗じて捌きに出る展開に。この後,やや不思議に感じる手順があった末に第1図となりここから検討を開始。
                         
 先手は▲1八香打。これは攻めの狙いもありますが,後手が端から反撃してくるのを緩和した意味も含んだ一手だと思います。すぐには襲いかかれそうもないので△9九飛成と香車を取ったのは予想通り。▲6四馬と▲8一馬は両方とも有力と思えましたが指されたのは検討していなかった▲3六歩。△3五桂を防ぎながら場合によっては馬を引きつける含みでしょうか。ここはどう指すかまったく分かりませんでしたが△2一桂と端からの強襲を受けました。これは先手も馬を引くのではないかと思いましたが攻めに出る▲5二銀。△4二銀と受けました。▲6二馬と逃げる手を考えていましたが▲6一馬。次の△3五歩は△2一桂のところであるかなと思っていた手。▲4三銀成を考えていて,実際は不成でしたがこれは同じこと。形として△同銀だろうと思いましたが△同金。▲6四馬と引く手を考えていたら▲4八金寄として,△3六歩に▲3七歩と埋めました。△同歩成は当然に思えます。応手は▲同銀(第2図)。
                         
 後手は△3六歩と叩き▲同銀に△7五飛と回るのかと思いきや△3四香。これは▲2五銀とは取れないので▲6四馬で攻め合いを目指しましたが,これは後手が勝てそうな展開になったと感じました。△3六香は自然で▲3七歩はこれしかなさそう。△同香成に▲同馬では何をやっているのか分かりませんから▲同桂は仕方なさそう。再び△3六歩。▲2五桂は止むを得ないかと思います。一旦は△同桂と取る手といきなり△3七銀と打ち込む手の両方が有力に思え,指されたのは前者。局面として可能な手は▲同金,▲同馬,▲1七王のみっつですが,どれを指しても先手が粘れそうにありません。ということで検討はここで終了。先手の手順を尽くした反撃で僕が考えていたよりきわどくなり,検討を再開することにはなりましたが,事件にはなってなく,後手の勝ちとなりました。
 1組優勝は挑戦者になれないというジンクスを破って丸山九段が挑戦者に。6年連続で羽生世代が挑戦するシリーズは来月13日と14日に第一局が指されます。

 まず,球の観念の無限連鎖というのがどういうものであるのかを具体的に確認しておきます。
 第一部公理四により,球が十全に認識されるためには,その発生としての半円の回転の観念が不可欠です。このとき,回転というのは,観念を離れて形相的に考えた場合には物体のある運動です。したがってそれは岩波文庫版でいえば111ページの第二部自然学①補助定理三によって説明されることになります。ただし,ここでは純粋な思惟作用としての回転というのを考えているのであって,また,僕が理解するマシュレの立場というのは,それがまさに純粋な知性作用であるがゆえにこうして発生する球の観念を人間の精神の能動とみなすということにあります。よってここの部分に関しては今は無視してもよいだろうと思います。
 一方,半円の観念の方ですが,この観念が人間の精神の本性のうちに含まれると考えることができないのは,球の観念の場合と同様です。よってある人間の精神のうちに半円の十全な観念が現実的に実在するためには,やはり第一部公理四により,その観念の発生を含んでいるような原因というのが不可欠であるということになります。
 そこでこれを,円を直径で二分割した図形と考えてみます。これは半円の発生を明らかに含みますから,スピノザがいう意味で半円の定義として相応しいと僕は考えます。このとき,二分割というのは形相的に考えれば半円の回転と同じようにある運動でしょうが,回転を無視してもよいということと同じ理由によって現在の考察の上では視点に入れなくても構わないだろうと思います。しかし円の観念に関してはそういうわけにはいきません。これは,球の観念の発生の場合に半円の観念に関してはそれを無視するわけにはいかなかったことと同じです。したがって人間の精神のうちに円の十全な観念がなければならないということになるのでしょうが,円の観念が人間の精神の本性のうちに含まれているわけではないということは,やはり半円の場合と同じです。したがって人間の精神のうちに円の十全な観念があるためにはその発生を含むような原因が必要であり,ということになって,結果的にはこの関係というのが無限に連鎖していくということになります。
コメント
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