単に1タイトルの行方だけにとどまらず,今後の将棋界の勢力図にも大きく影響してくるであろう第59期王座戦五番勝負が開幕しました。対戦成績は羽生善治王座が13勝,渡辺明竜王が15勝で,千日手が1局。
振駒で渡辺竜王の先手。すらすらと角換り相腰掛銀に。先手が4筋に飛車を回って角を打ち飛車のこびんを狙うと後手は6筋に飛車を回って角を打って後手玉のこびんを狙い,早々に飛車切り。とはいえこのあたりは前例もあり,新手を出したのは後手。先手は最も積極的と思える攻め合いを選択。それなりに進みましたので,夕食休憩明けすぐから観戦することにしました。
とりあえず▲3四桂は防ぐ必要があり,△3三銀もあるかとは思いましたがそれだと▲3四歩も生じますから△4三銀。そこで▲9三龍と桂馬を取り,△4四角に▲3八飛。後手は平然と△3五角。これには▲同飛でなければおかしいですが,少し時間を使いました。△同歩はこれ以外になく,▲4六角は継続手。今度は△同歩とすると角の王手に合駒が飛車しかありません。なので△4八飛は仕方ないと思います。ただ,無条件に質駒を入手できたのですから,ここは先手の方がよい筈だと思いました。▲4七銀打(第2図)はこの一手のように思います。
相変わらず△4六歩とはできないので歩しかない後手はどう指すか難しいところ。△6七歩成は検討していた手のひとつでした。ただ▲同金が桂馬にあたるのでどうかと考えていたのですが,先手は▲同銀で取りました。△7八飛成は本線。▲同銀の一手に△4六歩が詰めろ。▲6七角の王手桂取りで受けました。駒を使わず△1三王に▲7六角と桂馬を外し,さしあたってのピンチは解消。△4七歩成は当然ではないかと思います。手順に角も銀も取られましたから,ここではもう先手がいいとはいえない感じです。詰めろの連続で迫るか,△7五角を受けるかという選択だと考えていたら相当の時間を使って▲1五歩。△7五角に▲1四歩△2三王まで決めて,ここで▲8九桂(第3図)と受けに回りました。
△9三角は最も自然な手。この瞬間は先手玉が安全なので,先手としてはここで決めてしまいたい局面です。考えていませんでしたが▲1五桂と王手を掛けました。第3図の直前の手順を生かした手といえるでしょう。逃げ場所は2か所ですが△3三王だと上から縛って先手が勝てそうだと検討。ということで△1二王の方を考えていたのですが,指されたのは△3三王。これだと▲4五金△4四金▲3四歩△同銀▲同金同金▲4五銀まで一本道。そこで△4三金直は最善の粘りだと思います。▲3四桂は危険かもしれませんが最も自然。△同金に▲5二飛の詰めろ。△4二銀はこう受けるところで,▲2三金と打ち込みました。ここからまた一本道で△同銀▲同桂成△同金。▲5二飛成と切って△同王▲4三銀△5一王も変化の余地はなし。そこで▲6四香と縛りました。ここで受けがなくなった後手の投了。先手がうまく決めきりました。
この棋戦での羽生王座の連勝を19でストップさせ渡辺竜王が先勝。第二局は20日です。
以上が,僕がスピノザが『知性改善論』の(七二)に示している球の観念の発生を,人間の精神の能動とみなすことの根拠になります。しかし,こうした論拠によってそれを人間の精神の能動とみなすのであれば,マシュレのような立場からは,以下のような反論が寄せられてくるかもしれません。
ある十全な観念が人間の精神のうちに生じる場合に,それを能動的なものであるとみなすためには,その十全な観念が観念されたものideatumの発生を含んでいなければならないということは,それでよいかもしれません。しかし,このこと自体のうちには,すべての十全な観念が,その観念の対象ideatumの発生を含んでいなければならないということが含意されているというわけではありません。したがって,十全な観念があるといわれるとき,それがすべて直ちに人間の精神の能動を意味するということにはならないのです。とくに僕が理解する限りでのマシュレの立場というものは,人間の精神の能動にも受動にも属さないようなある思惟作用が存在するというものですから,こうした反論というのは,むしろ大いにあり得るように僕には思えます。というのは,そのような立場からすれば,観念の対象の発生を含むような十全な観念については,それを人間の精神の能動と認めるけれども,もしも対象の発生を含まないような十全な観念があるのだとすれば,そうした観念がある人間の精神のうちに発生するような場合にこそ,それはその人間の精神の能動ではないが,受動でもないようなある思惟作用なのだということが可能になってくるからです。
つまり,それが観念の対象とはまるで無関係な,純粋な思惟作用であるからそれは人間の精神の能動なのであると,僕が仮定したマシュレのような立場と,それが観念の対象となっているようなものの発生を含んでいるからそれは人間の精神の能動なのだとみなすような僕の立場というのは,スピノザが示した球の観念の発生の場合には,同じようにそれを人間の精神の能動であると結論するでしょうが,実際にはある隔たりがあるのだと考えなければなりません。したがって僕は,僕自身の立場からこの予想可能な反論に答えておかなくてはなりません。
振駒で渡辺竜王の先手。すらすらと角換り相腰掛銀に。先手が4筋に飛車を回って角を打ち飛車のこびんを狙うと後手は6筋に飛車を回って角を打って後手玉のこびんを狙い,早々に飛車切り。とはいえこのあたりは前例もあり,新手を出したのは後手。先手は最も積極的と思える攻め合いを選択。それなりに進みましたので,夕食休憩明けすぐから観戦することにしました。
とりあえず▲3四桂は防ぐ必要があり,△3三銀もあるかとは思いましたがそれだと▲3四歩も生じますから△4三銀。そこで▲9三龍と桂馬を取り,△4四角に▲3八飛。後手は平然と△3五角。これには▲同飛でなければおかしいですが,少し時間を使いました。△同歩はこれ以外になく,▲4六角は継続手。今度は△同歩とすると角の王手に合駒が飛車しかありません。なので△4八飛は仕方ないと思います。ただ,無条件に質駒を入手できたのですから,ここは先手の方がよい筈だと思いました。▲4七銀打(第2図)はこの一手のように思います。
相変わらず△4六歩とはできないので歩しかない後手はどう指すか難しいところ。△6七歩成は検討していた手のひとつでした。ただ▲同金が桂馬にあたるのでどうかと考えていたのですが,先手は▲同銀で取りました。△7八飛成は本線。▲同銀の一手に△4六歩が詰めろ。▲6七角の王手桂取りで受けました。駒を使わず△1三王に▲7六角と桂馬を外し,さしあたってのピンチは解消。△4七歩成は当然ではないかと思います。手順に角も銀も取られましたから,ここではもう先手がいいとはいえない感じです。詰めろの連続で迫るか,△7五角を受けるかという選択だと考えていたら相当の時間を使って▲1五歩。△7五角に▲1四歩△2三王まで決めて,ここで▲8九桂(第3図)と受けに回りました。
△9三角は最も自然な手。この瞬間は先手玉が安全なので,先手としてはここで決めてしまいたい局面です。考えていませんでしたが▲1五桂と王手を掛けました。第3図の直前の手順を生かした手といえるでしょう。逃げ場所は2か所ですが△3三王だと上から縛って先手が勝てそうだと検討。ということで△1二王の方を考えていたのですが,指されたのは△3三王。これだと▲4五金△4四金▲3四歩△同銀▲同金同金▲4五銀まで一本道。そこで△4三金直は最善の粘りだと思います。▲3四桂は危険かもしれませんが最も自然。△同金に▲5二飛の詰めろ。△4二銀はこう受けるところで,▲2三金と打ち込みました。ここからまた一本道で△同銀▲同桂成△同金。▲5二飛成と切って△同王▲4三銀△5一王も変化の余地はなし。そこで▲6四香と縛りました。ここで受けがなくなった後手の投了。先手がうまく決めきりました。
この棋戦での羽生王座の連勝を19でストップさせ渡辺竜王が先勝。第二局は20日です。
以上が,僕がスピノザが『知性改善論』の(七二)に示している球の観念の発生を,人間の精神の能動とみなすことの根拠になります。しかし,こうした論拠によってそれを人間の精神の能動とみなすのであれば,マシュレのような立場からは,以下のような反論が寄せられてくるかもしれません。
ある十全な観念が人間の精神のうちに生じる場合に,それを能動的なものであるとみなすためには,その十全な観念が観念されたものideatumの発生を含んでいなければならないということは,それでよいかもしれません。しかし,このこと自体のうちには,すべての十全な観念が,その観念の対象ideatumの発生を含んでいなければならないということが含意されているというわけではありません。したがって,十全な観念があるといわれるとき,それがすべて直ちに人間の精神の能動を意味するということにはならないのです。とくに僕が理解する限りでのマシュレの立場というものは,人間の精神の能動にも受動にも属さないようなある思惟作用が存在するというものですから,こうした反論というのは,むしろ大いにあり得るように僕には思えます。というのは,そのような立場からすれば,観念の対象の発生を含むような十全な観念については,それを人間の精神の能動と認めるけれども,もしも対象の発生を含まないような十全な観念があるのだとすれば,そうした観念がある人間の精神のうちに発生するような場合にこそ,それはその人間の精神の能動ではないが,受動でもないようなある思惟作用なのだということが可能になってくるからです。
つまり,それが観念の対象とはまるで無関係な,純粋な思惟作用であるからそれは人間の精神の能動なのであると,僕が仮定したマシュレのような立場と,それが観念の対象となっているようなものの発生を含んでいるからそれは人間の精神の能動なのだとみなすような僕の立場というのは,スピノザが示した球の観念の発生の場合には,同じようにそれを人間の精神の能動であると結論するでしょうが,実際にはある隔たりがあるのだと考えなければなりません。したがって僕は,僕自身の立場からこの予想可能な反論に答えておかなくてはなりません。