先生は自分と静との恋を応援してくれていて,そのことを先生にだけでなく静本人にも告白し,思いを前に進めるべきだと背中を押そうとしてくれているというようなKの誤解が生じた一因は,Kがこのような意味で人を愛するという気持ちを抱いたことが初めてであり,そのためにその気持ちに自分でどのような対処をすればよいのかが分かっていなかったということがあげられます。僕は『『こころ』の真相』で示されていたこの読解から,『白痴』のムイシュキン公爵のことを少しばかり連想しました。
僕の読解ではエヴゲーニイのムイシュキン観にはある誤りが含まれています。それは,エヴゲーニイはひとりの男がふたりの女を同時に愛することはできないという先入観があったために,ムイシュキンがナスターシャも愛しているしアグラーヤも愛しているということに気付かなかったという点にありました。しかし,ムイシュキンがナスターシャも愛することができたし同時にアグラーヤも愛することができたのは,ムイシュキンもまたKと同じように,このような感情を抱いたことがなかったために,ナスターシャに対してもアグラーヤに対しても同じような感情のままに接することになってしまったからではないかと思うようになったのです。いい換えれば,Kは自分が初めて抱いた感情に対してどのように対処すればよいのかがまったく分からなかったのに対し,ムイシュキンは初めて抱いた感情をKのようには重いものとして受け止めず,そのためにどう対処すればよいのかなどということには思い至らないまま,感情が求めているところを素直に表現することになったのかもしれません。つまり対処の仕方が分からないとKのように変な誤解を起こす方向に進み,逆に対処の仕方を考えなければムイシュキンのように真直ぐに感情を推し進める方向へと進むのであって,このふたりは現実的には真逆といえるような行動に出たのですが,ふたりの行動の原因となっている部分には,それが初めての感情であったという同一性を認めてもいいのかもしれないと今の僕は思うのです。
『罪と罰』のスメルジャコフとムイシュキンには共通項があり,スメルジャコフとKにも共通項があるというのが僕の見立てです。そしてKとムイシュキンにも,共通項があるのかもしれません。
僕は母が最初に訴えた症状を7年前の小脳出血と関連させて表象しました。しかし母がそれと関連付けて表象しなかった理由がここから分かります。すなわち母にはこの時点で,それよりもっと強くその症状と結び付きやすい表象像imagoがあったからです。いうまでもなくそれは,母が自分が罹患していると予測していた大腸癌です。
第二部定理一六系二は,僕たちが事物を現実的に存在するものと認識するその事物の表象像すなわちその事物の観念ideaは,その事物の本性naturaより自分の身体corpusの状態を多く示すといっています。なおかつそうした事物の表象像は,第二部定理一七により,その事物が現実的に存在することを排除する刺激を受けるまで,観想され続けられるのです。僕にとっては母の小脳出血を排除するような別の表象像は存在していませんでした。ですが母の場合には大腸癌という新たな表象像が小脳出血の表象像を排除していたのです。このことによって,その表象像をどんな表象像と連結させるのかという点で,僕と母との間には相違が生じたと説明することができます。
さらに第四部定理九は,原因が現在という時点で存在すると認識される表象像から生じる感情affectusは,現在という時点においては存在しないと認識される表象像から生じる感情よりも強くなるということを示しています。したがって母の場合,小脳出血はその時点では現実的には存在しないと認識されている表象像であったのに対し,大腸癌というのはその時点で存在すると認識されていた表象像だったわけですから,小脳出血の表象像から生じる感情よりも,大腸癌の表象像から生じる感情の方がずっと強かったのです。ですから母がこのときの症状を大腸癌と結び付けて表象し,そのことについて救急隊員に対して,もしくはそのような体で僕に対して積極的に話したというのは,このような哲学的観点から自然なことであった,あるいは必然的なことであったということができます。
みなと赤十字時病院に搬送された母は救急介護室に入りました。僕はその部屋の近くにある待合室で,呼ばれるのを待っていました。正確な時間は覚えていませんが,2時間半から3時間は待っていた筈です。
僕の読解ではエヴゲーニイのムイシュキン観にはある誤りが含まれています。それは,エヴゲーニイはひとりの男がふたりの女を同時に愛することはできないという先入観があったために,ムイシュキンがナスターシャも愛しているしアグラーヤも愛しているということに気付かなかったという点にありました。しかし,ムイシュキンがナスターシャも愛することができたし同時にアグラーヤも愛することができたのは,ムイシュキンもまたKと同じように,このような感情を抱いたことがなかったために,ナスターシャに対してもアグラーヤに対しても同じような感情のままに接することになってしまったからではないかと思うようになったのです。いい換えれば,Kは自分が初めて抱いた感情に対してどのように対処すればよいのかがまったく分からなかったのに対し,ムイシュキンは初めて抱いた感情をKのようには重いものとして受け止めず,そのためにどう対処すればよいのかなどということには思い至らないまま,感情が求めているところを素直に表現することになったのかもしれません。つまり対処の仕方が分からないとKのように変な誤解を起こす方向に進み,逆に対処の仕方を考えなければムイシュキンのように真直ぐに感情を推し進める方向へと進むのであって,このふたりは現実的には真逆といえるような行動に出たのですが,ふたりの行動の原因となっている部分には,それが初めての感情であったという同一性を認めてもいいのかもしれないと今の僕は思うのです。
『罪と罰』のスメルジャコフとムイシュキンには共通項があり,スメルジャコフとKにも共通項があるというのが僕の見立てです。そしてKとムイシュキンにも,共通項があるのかもしれません。
僕は母が最初に訴えた症状を7年前の小脳出血と関連させて表象しました。しかし母がそれと関連付けて表象しなかった理由がここから分かります。すなわち母にはこの時点で,それよりもっと強くその症状と結び付きやすい表象像imagoがあったからです。いうまでもなくそれは,母が自分が罹患していると予測していた大腸癌です。
第二部定理一六系二は,僕たちが事物を現実的に存在するものと認識するその事物の表象像すなわちその事物の観念ideaは,その事物の本性naturaより自分の身体corpusの状態を多く示すといっています。なおかつそうした事物の表象像は,第二部定理一七により,その事物が現実的に存在することを排除する刺激を受けるまで,観想され続けられるのです。僕にとっては母の小脳出血を排除するような別の表象像は存在していませんでした。ですが母の場合には大腸癌という新たな表象像が小脳出血の表象像を排除していたのです。このことによって,その表象像をどんな表象像と連結させるのかという点で,僕と母との間には相違が生じたと説明することができます。
さらに第四部定理九は,原因が現在という時点で存在すると認識される表象像から生じる感情affectusは,現在という時点においては存在しないと認識される表象像から生じる感情よりも強くなるということを示しています。したがって母の場合,小脳出血はその時点では現実的には存在しないと認識されている表象像であったのに対し,大腸癌というのはその時点で存在すると認識されていた表象像だったわけですから,小脳出血の表象像から生じる感情よりも,大腸癌の表象像から生じる感情の方がずっと強かったのです。ですから母がこのときの症状を大腸癌と結び付けて表象し,そのことについて救急隊員に対して,もしくはそのような体で僕に対して積極的に話したというのは,このような哲学的観点から自然なことであった,あるいは必然的なことであったということができます。
みなと赤十字時病院に搬送された母は救急介護室に入りました。僕はその部屋の近くにある待合室で,呼ばれるのを待っていました。正確な時間は覚えていませんが,2時間半から3時間は待っていた筈です。