スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

第三部諸感情の定義五&問診

2018-06-11 19:03:00 | 哲学
 第四部定理四五系一でとりあげられている諸々の感情affectusのうち,軽蔑というのは感情ではなく,ある種の仕方で事物を表象するimaginariことをいいます。感情ではないのですが,これは第三部諸感情の定義五で示されています。
                                
 「軽蔑とは精神が,ある事物の現在によって,その事物自身の中に在るものよりもむしろその事物自身の中にないものを表象するように動かされるほど,それほどわずかしか精神をとらえるところのない事物の表象である」。
 まずこの定義Definitioから分かるように,スピノザが軽蔑というのは,僕たちが軽蔑というような思惟作用と比べればずっと広きにわたります。僕たちは概ね人間に対して軽蔑するといういい方はしますが,人間以外のものに対して軽蔑するとはほぼいいません。ですがこの定義によれば,軽蔑される対象は事物となっていますから,人間に対して軽蔑するというのと同じような思惟作用が人間以外の事物に対しても発生するなら,それは一様に軽蔑であるということになります。ただし,第四部定理四五系一でいわれている軽蔑というのは,その直前の備考Scholiumを受けていますから,そこではスピノザは人間の人間に対する軽蔑だけを念頭に置いているということになるでしょう。
 ごく簡単にこの表象imaginatioが発生するシステムを,人間の人間に対する軽蔑の場合で説明しておきます。
 僕たちがある人間Aを表象し,何らかの理由,それもAのうちにあると表象されている理由によってAを立派な人間であると表象したとしましょう。次にBという別の人間を表象したときに,Aのうちにはあったと表象した立派さがBには欠けていると表象するなら,僕たちはそれがBには欠けているという理由,すなわちBのうちにはないAの立派さの表象のゆえにBを軽蔑するのです。
 通常は僕たちはXを表象すればXのうちにあるものについて思惟するのですが,この場合にようにむしろXのうちにはないものを思惟してしまうような場合は,僕たちはXを軽蔑していることになります。もちろんそれは,Xに対する否定的な表象だといえるでしょう。

 救急隊員は母を救急車内に搬送し,受け入れ先の病院を探しました。妹はKさんに任せることができる状況でしたので,僕も同乗しました。この状態なので緊急に手術をするというケースも考えられましたので,遅い時間になるかもしれないということはKさんにも伝えておきました。
 車内で隊員は受け入れ先の病院を探しました。3つの病院に断られた後に,みなと赤十字病院へ搬送されることが決定しました。このときのやり取りから僕が察するに,みなと赤十字病院は原則的には母のようにいくつかの病院を断られた上で依頼をするという規則があったのかもしれません。僕が搬送されたときは,ほかの病院への依頼を経ずに受け入れ先がすぐにみなと赤十字病院と決まったのですが,あれは元旦であったための特別な措置だったのではないでしょうか。
 ひとりの救急隊員がそうした病院との連絡を取っている間に,別の救急隊員が母に問診をしていました。そのときには母は,自身の排便の状況というのを積極的に話していました。これは母には父の死因となったのと同じ大腸癌があるということを強く匂わせるものでした。母が強い異常を感じたのはこの年の7月27日だったわけですが,母自身はもう1年以上前から,自分は大腸癌であろうという予測をもっていたそうです。僕はそのようなことは何も聞かされていませんでしたからこのときの母の話には驚きしかありませんでしたが,もしかしたら母は救急隊員に向けてという体で,僕に対して話していたのかもしれないと今は思います。
 最初に異常を感じたときに検査をしていればまた違った結果になったかもしれませんが,母は長生きをするということにはあまり強い意欲をもっている人間ではないということは僕にも漠然と感じられていましたから,そうと分かっていてそれを放置したというのは母らしかったという気がします。
 僕は昨年と一昨年の夏はさほど暑いと感じなかったのですが,母には昨年の夏はとても暑く感じられ,7年前のことが頭をよぎったといっています。7年前とは父の最期の夏のことです。以前から異常を感じていた母は,自分の生命はこれくらいと思っていたのです。
コメント
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