スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

エヴゲーニイ&品詞

2013-08-02 18:58:44 | 歌・小説
 『白痴』でムイシュキン公爵がもつ子どもの二面性の悪しき面を鋭く指摘し,批判する存在のエヴゲーニイ。『白痴』を読み返して,この人物が有する重要性は,意外に大きいものであると思うようになりました。
                         
 『白痴』は最後,ムイシュキンとナスターシャ・フィリッポヴナを巡って恋の争いを演じたロゴージンが,当のナスターシャを殺してしまって終幕します。はっきりと描写されてはいないのですが,おそらくこのショックにより,ムイシュキンは字義通りの意味で白痴となってしまいます。ドストエフスキー神の似姿,とくにキリストの似姿としてムイシュキンを描こうとしたのだとすれば,キリストが白痴になってしまったということになるわけで,これはこれで随分と思いきった結末にしたものだと思わざるを得ません。
 この白痴となったムイシュキンの面倒をみるのがエヴゲーニイです。エヴゲーニイはムイシュキンが白痴になったこと,またその契機となった事件を知らずにいました。それを教えられたエヴゲーニイはムイシュキンに強い同情を寄せ,尽力してスイスの診療所に入れました。ムイシュキンは元々この診療所に入所していました。ムイシュキンがロゴージンに自分が性的不能者であることを示唆したのは汽車の中ですが,これは診療所からロシアへと帰る途中だったのです。
 単に診療所に入れただけでなく,エヴゲーニイは少なくとも数ヶ月に1度はムイシュキンの見舞いにも通っています。つまりエヴゲーニイは,ムイシュキンを批判したけれども,ひとりの人間としてはむしろ好感を抱いていたということです。
 僕は以前は,エヴゲーニイのムイシュキン観には致命的な誤りがあるというようにだけ理解していました。しかし,エヴゲーニイを通してムイシュキンを読み込むと,違った面が現れてくるのかもしれません。

 積極的および消極的という語が,使われるべき文脈がどのようなものでなければならないかということのほかに,もうひとつ,別の注意点が必要となります。それは各々の語が,どのような品詞として用いられるべきなのかということに関係します。いい換えれば,積極的ないしは消極的ということばが実際に使用される文章において,その被修飾語が名詞であると理解するべきなのか,それとも動詞であると理解されるべきであるのかということが,やはりこの場合にも問題として生じてきます。前者であるなら積極的と消極的は,形容詞であるということになりますし,後者であるなら,それらは副詞であるということになるのです。
 僕の考えだけいえば,スピノザの哲学に則して考えるということであれば,積極的も消極的も副詞として動詞を修飾すると理解するべきだと思います。このことは,スピノザの哲学とある程度の関係をもたせようとするならば,特殊性と一般性がスピノザの哲学においてはどのように把握されなければならないのかということと連関します。ただし,僕はここではこの点に関しては強硬に主張するつもりはありません。というのも,このことは,積極的ないしは消極的ということが,観念としてどう認識されなければならないのかということよりは,一定の文法においてそれらのことばがどのように用いられなければならないのか,あるいは現にどのように用いられているのかということと関係してくるからです。どのような言語を使用してそれらの語を用いるとしても,その強弱に差はあるかもしれませんが文法の規制というのはどうしても生じるのであり,それを超越してことばを用いるということは,現実的な問題として不可能です。したがって,ことばと観念とは異なるものだということを常に念頭に置いておくならば,各々のことばが形容詞として用いられるのか,副詞として用いられるのかということ自体は,大した問題とはなりません。むしろこの場合にも重要なのは,品詞としてそれらがどうあるべきなのかということであるよりは,限定の文脈においては積極的という語は,どんな品詞として捕えられようとも使用することはできないということであり,そこでは消極的ということばが,やはりその品詞とは無関係に選択されなければならないということです。
コメント
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