スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

十全な認識への意欲&母の希望

2018-06-25 18:59:33 | 哲学
 僕は現実的に存在するある人間がXを混乱して認識することによって,Xを十全に認識してみようと思うということはあり得るという意味においては,混乱した観念idea inadaequataが十全な認識の契機となり得るということを全面的には否定しません。僕の読解ではドゥルーズGille Deleuzeは少なくともこのことは主張していて,そのゆえに僕はその主張に関しては全面的に否定はしません。ただし,これをいうためにはある条件を付さなければなりません。この場合でいえば,Xを十全に認識しようという意欲が,何を原因として発生するのかということです。
                                      
 僕は,Xの混乱した観念がXを十全に認識することへの意欲の原因であるということについてはこれを否定します。つまりAという人間が現実的に存在し,AがXを混乱して認識する,あるいは表象するimaginariと,このAの精神mensの一部はXの混乱した観念によって形成されます。これが契機となってAはXを十全に認識しようという意欲を有する場合があり得るということは僕は否定しません。ですがその意欲の原因は,Xの混乱した観念あるいはXの表象像imagoであるということは否定するということです。このとき,仮にAがXを表象しなかったらこの意欲がAのうちに発生することはなかったとしても,Xの混乱した観念がその意欲の原因であるということを僕は否定します。
 ではその意欲の原因を僕が何であると考えているのかといえば,それはAの精神のうちにある,事物を十全に認識しようとする意欲,第四部定理二六で示されているような,事物の十全な認識に向けられたコナトゥスconatusです。この現実的本性actualis essentiaは理性ratioの現実的本性とされていますから,Aの理性がこの意欲の原因であると僕は考えます。
 Xを混乱して認識することが,その人間が理性を働かせようとする契機とはなり得ます。ですが意欲自体は理性の現実的本性から生じるのであり,混乱した観念から生じるのではありません。

 僕は面談には参加していません。福祉事務所の方と妹と母の三者での面談であったからです。このとき,当面の課題となっていた,妹を通所施設まで送ることについて,具体的なことが決定され,28日ごろからはガイドヘルパーの方が迎えに来て,送ってもらうことになりました。もう少し遠くの未来,というのは具体的にいえば母の死後のことですが,それについては何も決めることができませんでした。ただ母は,妹は基本的にグループホームで生活するのがよいという希望を抱いているということは,面談の後に母から聞いた話で僕も理解しました。
 9月24日,日曜日。ガイドヘルパーを利用しました。この日はカラオケでした。妹が好むのはボーリングとカラオケで,従来はほぼ交互に行われていたのですが,この頃はほとんどがカラオケになっていました。これには理由があって,妹と一緒にガイドヘルパーを利用されている障害者の中に,腰痛を患っている方がいて,その方にとってボーリングはむしろ苦痛になっているからでした。
 この日は午後1時15分ごろにKさんが来訪されました。40分ほど母と話をして帰りました。
 9月25日,月曜日。この日も僕が妹を送りましたが,福祉事務所から,28日からの予定が早まって,明日から妹を送って行く手筈が整ったという連絡が来ました。ですから26日からは,基本的にガイドヘルパーが妹を通所施設まで送っています。この送りを担当するガイドヘルパーは全部で4人でした。妹は月曜から金曜まで通っていますが,木曜と金曜は同じ人でしたので,計4人ということです。これで基本的に僕が妹を送って行くということはなくなったのですが,こちらの都合もあって臨時でガイドヘルパーを断るというケースも生じています。それについてはその都度,記していくことにします。
 9月26日,火曜日。この日からガイドヘルパーによる送りのサービスが始まりました。サービスといってもこれは有料です。もし磯子区内から磯子区内に通うならバス代は不要だったようですが,妹の通所施設は中区で,この場合にはバス代も必要でした。バス代はガイドヘルパーに手渡すという形でした。
コメント
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