漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

月の雪原 / 第一部・雪原 / 8・死の家・7

2009年01月15日 | 月の雪原
 そうしてどれだけ進んだだろう。ふと、ツァーヴェは低い唸りのような音を聞いた気がした。思わず立ち止まり、伸び上がって、辺りを見渡した。すると遠くに黒いものが見えた。眼を凝らすと、それは確かに動いていて、こちらに向かっているようだった。
 ツァーヴェは息を呑み、信じられない気持ちでさらに伸び上がって眼を凝らしたが、間違いなかった。雪原の上を、一台の黒い自動車がゆっくりとした速度でこちらに向かってくる。そしてその自動車は、ツァーヴェには見覚えのあるものだった。
 あれは、アトレウスの車だ!
 ツァーヴェは疲れを忘れ、必死に車の方を目指した。もし今アトレウスに気付いてもらえなければ、もう自分はここで死んでしまうしかない。そんな切羽詰った気持ちだった。だが、遮るものもない平原だから車はすぐにツァーヴェに気付いたらしく、ゆっくりと方向を変えて、真っ直ぐにツァーヴェを目がけて進んできた。そしてツァーヴェのすぐ近くまで来ると停車し、中から、アトレウスが慌てたように飛び出してきた。
 「ツァーヴェ!」
 アトレウスはそう言って、じっと彼の顔を見た。上気したツァーヴェは、息を荒くしながら、大きく見開いた眼でアトレウスの顔を見ていたが、やがて抑えきれない涙が溢れてきた。そしてじっと突っ立ったまま、顔をくしゃくしゃにして、ぼろぼろと泣き続けた。アトレウスはそんなツァーヴェの肩を抱いて、言った。「大丈夫だ……。ともかく、寒いから車に入ろう」
 アトレウスに促されて助手席に滑り込んだツァーヴェは、それでもしばらくはボロボロと泣き続けていた。アトレウスは黙ってエンジンをかけ、車を出した。
 しばらくはそうして黙ったまま車を走らせていたが、やがてアトレウスが落ち着いた声で言った。「たった一人でこんなところにいるなんて、いったいどうした?」
 ツァーヴェは小さく頷いた。言葉が出てこなかった。
 「お母さんはどうした?きっと心配してるだろう?」
 ツァーヴェは唇を噛み締めた。身体が小さく震えて、止まらなかった。その様子を見ていたアトレウスは車を止めた。そしてツァーヴェが口を開くのを待った。随分してから、ツァーヴェはぽつりと、母が死んだことを告げた。
 「何だって?」アトレウスは明らかに動揺していた。「死んだって……オルガがか?」
 ツァーヴェは頷いた。それから今朝から今までのことを訥々と話した。
 「とりあえず家に行こう」ツァーヴェの話を聞き終えたアトレウスは言った。「とても信じられない気分だが。ツァーヴェ、辛かったろうな。だが、お前も命が危なかったんだぞ。さっきの場所から町までは、まだ随分と距離がある。もしかしたら、道に迷っているうちに日が暮れてしまったかもしれない。そうなったら、もう助からなかっただろう。この辺りの冬の夜がどれほど恐ろしいか、お前だって知っているだろう?今朝、俺はふと気になったんだ。それで、冬が本格的になる前にお前の家に行こうと思い立った。気まぐれを起こして、本当に良かったよ。虫のしらせというやつなんだろうな。お前は運のいい子だぞ。こんな奇跡は、めったにあるもんじゃない。だから、大丈夫だ。神様は、きっとお前を見ていてくれてるんだ」