漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

月の雪原 / 第一部・雪原 / 8・死の家・6

2009年01月02日 | 月の雪原
 だが長く呆けている余裕はなかった。進むにせよ退くにせよ、出来るだけ早く心を決めなければならない。ツァーヴェは一分ばかり立ち尽くし、ちょっと後ろを振り向いて自分の進んできた道を見詰めたが、そのまま意を決して向き直ると、前に向かって勢いよく雪を蹴って滑り出した。
 平原の雪は一面白く滑らかで、強い照り返しを放っていた。眩しくて眼を細めると、まるで自分が遥か北の海の上を進んでいるような気分になった。もっとも、ツァーヴェは海を見たことはない。ツァーヴェにとって海とは、父がくれた絵本に描かれていた北の海だった。歩きながら、ツァーヴェは絵本の物語を思い出していた。彼が繰り返し読んだ絵本の中の冷たい海の上には、無数の流氷が浮かんでいた。その氷の海の向こうから、一人の男が氷の上を渡って駆けて来るのだ。男はオーロラから海上に滑り落ちたのだった。やがて男は氷を渡って、その果ての大地にたどり着き、出合った白熊と友情を交わし、その地に住みつくようになる。時が経って、あるとき氷の海の向こうから、流氷に乗った一人の女が現れる。女は口がきけないが、美しい娘で、やがて二人は結婚し、息子をもうける。だが、友情を交わしたはずの白熊がそれを面白く思わず、男の眼の前で彼の妻に爪をかけて殺してしまう。そこで初めて男は、妻が実はアザラシであったことを知る。海上で男を見初めたアザラシが、姿を変えて男のもとにやってきたのだった。友と妻を同時に失い、悲しみに沈んだ男は、息子を連れて、さらに流氷に乗って北へ向かうのだ。
 随分と長い時間一心に滑り続けた気がして、ツァーヴェは立ち止まり、辺りを見渡した。そして自分が、本当にただ広い場所の只中にぽつりといるのだということに今更ながら気付き、酷く心細くなった。心なしか、光もやや翳り始めている気もした。もう戻ることは出来ないんだとツァーヴェは自分に言い聞かせ、先に進んだ。心には一抹の余裕もなかった。泣くことさえ忘れて、ただどこかへ辿りつくことだけを願っていた。だが、いくら進んでも先は見えない。何処までも真っ白な世界があるだけだった。