漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

E.ブルワ=リットン『ザノーニ』

2019年08月16日 | 読書録

 エドワード・ブルワ=リットン『ザノーニ(Ⅰ.Ⅱ)』(富山太佳夫・村田靖子訳/ゴシック叢書/国書刊行会)読了。

 時間がとれず、読了までに時間がかかりました。なかなか読むのも大変なところもありましたが、特に理解に苦しむことはなく、エンターティメント性のある小説でした。

 以下があらすじとなります。ネタバレ全開です

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 冒頭の序文で、この物語を公表した人物は、この物語はふとしたきっかけで古書店で知り合った、とある老紳士の手による暗号文で書かれた草稿であるとしている。この老紳士が何者であるのかは、読了後に推測できるようになる。
 名声には恵まれないが優れた音楽家であるピサ―ニの娘ヴィオーラ。父の死後、美貌の歌姫として名を馳せるようになった彼女は、その時社交界で噂の的になっていた美男子の富豪ザノーニと出会い、心を奪われる。しかしザノーニは彼女の求愛をやんわりとかわして、若い貴族であるグリンドンとの婚礼を勧める。グリンドンは絵をたしなむ貴族で、人は良いのだが、享楽的なところがある一方で慣習の縛りからはなかなか離れることはできない人物。ヴィオーラは彼に対しては全く魅力を感じず、かえってザノーニへの愛を募らせてゆく。また、ザノーニも彼女に対しては愛情を感じており、彼女をめぐる様々な謀略からことあるごとにその不思議な力で彼女を守ろうとする。
 ザノーニが彼女の愛を避けていたのは、実は自分は遥か昔から生きている不死の存在であり、それを維持するためには、俗世的なものから遠く離れている必要があったからである。しかし最終的に彼は彼女の愛を受け入れ、不死者から人間へと戻る決意をする。そして彼女との間には子供も生まれる。
 一方、グリンドンは最初はザノーニへのライバル心を募らせていたが、彼の幻視家としての存在に惹かれ、弟子入りを望むようになる。ザノーニは彼のために、自分の師であり現存の唯一の仲間でもあるメイナーを紹介する。メイナーは信じがたいほど昔から生きており、彼に言わせると、ヘルメス・トリスメギストスやパラケルススさえ「いいところまで行った」存在にすぎない。しかしグリンドンは、卑しい身分の女フィリーデに心を奪われるなど、その試練の最初ですでに躓き、破門されてしまう。しかし彼はその戸口までは進んだのであり、全く元のようには戻ることはできなくなっている。彼は自分を慕う妹の家に転がり込むが、最終的には自分の背後に潜む影に怯えた妹が、恐怖のあまり死んでしまうという結果を産むことになる。やがて彼はふたたびヴィオーラに会おうと試みる。そしてその結果、ヴィオーラもザノーニの背後にある影に怯えるようになり、子供をつれて、パリへと出奔してしまう。
 ちょうどその頃、パリではフランス革命の最中にあった。フィリーデとともに暮らすグリンドンは、罪の意識からつましい暮らしをしているヴィオーラを助けようするが、嫉妬に狂ったフィリーデと、長きに渡って常にグリンドンと因縁のあるジャン・ニコらの策略によってヴィオーラは収監されてしまう。グリンドンからヴィオーラの居場所を知らされたザノーニは、すでにほぼただの人間でしかなくなってはいたが、最後の力を使って彼女の救命を試みる。しかしそれには彼の命が引き換えとなる契約をもってする他はなかった。彼の策略は成功するが、命を救ったはずの彼女も、結局彼の後を追うように息絶え、子供だけが孤児となって残される。

(おそらく冒頭の老紳士は、グリンドンだと思われる)

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 深い叡智を持った不死の存在が、愛する女性に出会い、その超越性を捨てて、人間としての幸福を選び、自ら犠牲となっても愛する女性を救おうとする。
 ざっと要約するとそういう小説でした。ヴィム・ヴェンダースの映画『ベルリン・天使の詩』ともちょっと共通するモチーフですね。
 物語の序盤や転換のシーンなどの大げさな語り口にはやや辟易させられますし、なかなか面白くならない上に、物語そのものは、やや説得力を欠いた部分のあるラブロマンスなのですが、恐怖を象徴する「戸口に住まう者」や聖なる存在を象徴する「アドナイ」との交歓のシーンなどは非常にコズミックな神秘を感じさせてくれます。リットンの持つオカルトの知識がどれだけこの小説に反映されているのか、そもそもオカルティズムにさほど詳しいわけではない自分にはいまひとつわかりにくかったのですが、特に何の疑問もなく読めたので、今では特に特殊な考え方というわけでもない範囲なのではないかという気がしますし、ことさらそれを前面に出そうとしているわけでもない気もします。どちらかといえば、真に知の求道者であるメイナーよりも、人間の情感を選んだザノーニに対する共感的な眼差しの方に軸足があり、オカルティズム賛美とは真逆の印象さえ受けます。
 今読むと確かに冗長ですが、当時はなかなかエンターティメント性に富んだ小説で、フランス革命という史実と絡め、ロペスピエールやサン・ジェストといった実在の人物を登場させることで、なおさらそれぞれのキャラクターが立ち、興味を持って読まれたのではないかと想像しました。

 この小説の中で、興味深い人物をひとり挙げるとすれば、ジャン・ニコを推したいと思います。画家くずれの彼は非常に嫌な人物として描かれていますが、その執念深さと利己的な欲深さは最後までぶれることがありません。彼について書かれた文章で、面白い箇所がありました。
 
「学問にしろ、芸術にしろ、ある分野に没頭し、あるレベルに達しようと努力する者は、必ず、並の人間をはるかにうわまわる量のエネルギーを持っている。普段それは、その分野での野心の対象に差し向けられ、そのために、他の人間の営みにはまったく無関心になるものである。ところが、そうした目標達成の道が阻まれ、しかも、エネルギーの適切なはけ口がみつからないと、そのエネルギーは、その場でわき立ってその人間の全体に取り憑く。そして、もしそれが万全とした計画に使われるか、ある主義と良心にのっとって鈍化されるしかないと、社会の中の破壊的な危険分子となり、暴動や混乱を引き起こすことにもなりかねない。だからこそ、賢い君主が統治する国では――いや、しっかりとした構造を持つ国では、芸術や学問のために回路を開くことに必ず特別な注意を払うのだ。たとえ政治家自身は、絵を見てもただの色の塗ってある画布としか思わず、学問上の問題をただの手のこんだ謎としか考えないとしても、平和のために捧げられるべき才能が、政治的陰謀や私欲のためにのみ使われるとき、その国は最大の危機に直面する。栄誉にめぐまれない才能は、人間を敵にまわす(以下略)」

 ちょっとヒトラーを予感させるような文章ですが、学問や芸術に限らず、間違った方向へ暴発したエネルギーには、飢えだけがあって、たやすく歯止めをかけることが出来ないということでしょうか。

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