J・S・レ・ファニュ「ワイルダーの手」(日夏響訳/世界幻想文学大系・国書刊行会刊)読了。
19世紀のヴィクトリア朝時代にウィルキー・コリンズらとともに人気を博した作家J・S・レ・ファニュが、1864年に発表した長編小説。なんと、これに負けないほどのボリュームを持ち、最大の傑作とされる長編小説「アンクル・サイラス」と同年の発表ということで、いささか驚かされる。よほど旺盛な創造力に満ちた時期だったのか、それとも長く平行して書かれていたものがたまたま同時期に完成したものなのかは分からないけれども。
正直に言えば、読む前は、古くさくて冗長で読みにくいんだろうなと覚悟していたのだが、いざ読んでみるとそれは全くの杞憂で(とは言うもののまあ確かに古くないといえば嘘になるが、それは時代ものだと考えれば特に気になるほどのものではなく)、むしろその語りの上手さと構成の巧みさ、それにリーダビリティの良さに舌を巻きながら、夢中になって読み耽ることになった。
以下、簡単なあらすじを紹介すると――
舞台はイングランドの田舎。その土地で最も有力な貴族がブランドン家で、いわば本家に当たる。その分家で、力を持っている一族がワイルダー家とレイク家。ところで、ブランドン家の跡継ぎに男子がおらず、未成年の美少女ドーカス・ブランドンが本家の資産を受け継ぐということになったことから、それを狙う分家のワイルダー家の長男マーク・ワイルダー(結構イヤな奴。ちなみに、彼の弟ウィリアム・ワイルダーは貧しい牧師で、結婚しており、病気で命も危ぶまれている幼い子どもがいるのだが、若い頃に書物を出版するためにこしらえた借金に今なお悩まされている)が、彼女と婚姻を結ぶことで、自分の資産とブランドン家の資産を統合して莫大な力を持つことを企む。そしてその話は実際にトントン拍子に進んで行くのだが、そこにやはり資産を目当てにした、レイク家の放蕩者、スタンリー・レイクが突然都会から舞い戻ってきて、絡んでくる(彼の妹のレイチェル・レイクはやはり美しい女性で、ドーカスととても仲が良い)。そうして、ドーカスとマークの婚姻が近づいてきたある日、突然マークが失踪してしまう。婚姻は宙に浮き、混迷する彼らのもとに、失踪したマークからの手紙が届き始める。しかし、彼自身は決してその姿を見せないで、移動を続け、手紙を送り続ける。やがてその手紙の中で、婚約の解消が告げられ、ドーカスも実はもともとスタンリーのことが好きであったことから、今度はスタンリーとドーカスの結婚が進められることになる。一方、そうした一族のゴタゴタに、敏腕だが腹に一物ある弁護士ラーキンは、その背後にある秘密に旨味を嗅ぎつけ、法律の許すギリギリのやりかたで、スタンリーからは地所の一部を、いよいよ窮したウィリアムからは、騙して財産復帰権を奪おうと奔走する…。
基本的にはブラントン家の財産をめぐる静かな争いが物語のテーマとなっているのだが、そこにマーク・ワイルダーの失踪という謎が絡んできて、全体としてはゴシック的陰鬱さに彩られたミステリー、あるいはサスペンスと言った方が正確なのかもしれないが、そういった作品になっている。ここで言葉を濁したのは、おそらくは犯人もそのトリックも読者が最初に考えたそのまんまだからで、そういった意味では、ミステリーとして読むとしたら、きっと物足りないかもしれないからである。物語には明白な探偵役は出てこないし、強いていえば弁護士のラーキンがそうだが、これも彼の身勝手な企みのために色々と嗅ぎまわって手に入れた事実から想像した「かりそめの真相」を持つにすぎず、すべてが彼によって解決されるわけではない。真実は、もともと最初から内在していた破綻が次第に隠蔽に耐え切れなくなり、自ずと真相が表面に押し出されてきて、運命のような偶然によって突然明らかにされる。したがって、これは多分、ミステリーとしてではなく、ゴシック趣味に彩られたスリリングな物語として読むべきなのだと思う。同時期に書かれた多くの長大な物語と同じように勧善懲悪で(ウィリアムのエピソードなんて、ハラハラして読んだ)、読後感も決して悪くないが、主な登場人物たちは誰をとっても、ほとんど共感のできないような人物ばかりで、それだけにむしろ「わかりみの深い」存在感があるというのも、物語としての深みになっている。
語り手がやや混乱するところがあったりという欠点もないではないけれども、物語は本当にゆったりと始まり、それが次第に支流が集まって太くなり、緊迫感に溢れた大きな流れになってゆく感じで、次第にページを繰る手が早くなる。しかも、レ・ファニュの状況描写、風景描写が簡潔でありながら非常に的確で、読み手の創造力を刺激するため、鮮やかな映像すら目の前に浮かぶようである。レ・ファニュの他の作品の、誰の訳文でも、この点は変わらない。クライマックスの、絵画的でドラマチックな鮮やかさも見事である。解説を読むと、レ・ファニュが最初に才能の片鱗を見せたのが六歳のときに『ポンチ』という雑誌の挿絵を真似て描いたスケッチと小文であったというから、物語とともにイメージを喚起させる能力は、そもそも天性のものだったのかもしれないと思った。
もうひとつ、これはぜひとも書きたかったのだけれど、全てとは言わないにせよ、ほぼ確実にゴシック・ロマンスには恋愛の要素が出てくる。それこそがゴシック・ロマンスだからである。この「ワイルダーの手」にももちろん出てはくるのだけれど、興味深いのは、最終的にその「愛」が成就するのが、なんと女性同士であるということである。時代的にも、もちろんはっきりとレズビアニズムが描かれているとまでは言えないのだが、ほぼそう読んでかまわないのではないかと思えるだけの描写が、何度も伏線としても挿入されつつ、最終的になされている。この「ワイルダーの手」が書かれたのが1864年。そしてレ・ファニュが、吸血鬼小説の歴史に燦然と輝く「カーミラ」で初めて同性愛的な要素を吸血鬼ものに持ち込んだのが、約8年後の1872年。この作品は、「カーミラ」に先行している。つまり言いたいのは、レ・ファニュには、そもそも百合的なものを好む嗜好があったのではないか、ということである。したがって、「カーミラ」は、もともとそういった感性を持つレ・ファニュだからこそ必然的に生まれた作品なのではないかという気がする。
そういった意味でも、レ・ファニュは現代のゴスに非常に近い、「逸脱する感性」を持った作家だと思うし、ただの前時代的な作家ではなく、今また改めて注目を集めるに値する、稀代のストーリー・テラーであるとも思う。現在はその長編はすべて絶版になり、古書価も高騰して、なかなか読まれづらい状況になってはいるが、再評価を期待している。
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