漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

七枚綴りの絵/三枚目の絵/水紋の天蓋・最終回

2006年02月27日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)
 ……娘が結婚して、子供を三人授かった。あたしには孫ができた。絶えるのかと思っていた血が繋がった。そのうち孫たちもどんどんと成長し、結婚して、さらに子供が生まれた。血はさらに分かれ、広がった。あたしの血は、もう当分は絶える心配はないだろう。皆はあたしのことを幸せだと言ってくれる。あたしは、おかげさまでと言う。だが、実をいうと、もうあたしにはその先のことはそれほど興味がないんだ。あたしの血が続いて行くということは、嬉しい事は嬉しいが、本当に、なんだかとても遠い気がするよ。血の重みは確かに重いが、時間はもっと重いね。どんどんと忘れて行くし、強い気持ちが消えて行く。あたしが本当に気に掛かっているのは、一つか、せいぜい二つ先までで、その先はなんだか夢物語のようだと思うことがあるんだよ。それに、遥かな未来のことを思うと、自分と血が繋がっていないだろう子孫まで、全てが自分の血の末裔のような気がしてくる。こう言うと随分大層なことのようだが、それはもう、関心があるとかないとかいう、そんな問題じゃないんだろうね。何となく願っているだけ。諦めているのと、ほとんど変わらないかもしれないね。皆が幸せで、ずっと未来まで人々が繁栄してくれればいいと思う。そうは思うけれども、そうね、それはもう個人的な感情とは呼べない気がするよ。それは多分、生物としての本能なんだろうね。もうそれだけでしかないんだろうね。
 あたしには波の音に未来を託したいという気持ちがあるよ。実際のところ、他にあたしの言葉を聞いてくれるものがあるとは思えない。だから、波の音に未来を託したいと言うよ。じっと一人で座っていると、あたしが幼い頃に空腹を満たした海岸、そこに意識は戻って行くんだ。その波の音が、ずっと昔と、ずっと未来を貫いて、響いている。


 私は祖母の家に預けられていた頃、よく買ってもらったアメリカンドッグの味を思い出そうとしていた。近所のスーパーの店先で売っていたアメリカンドッグ。甘いドーナツ生地と、ケチャップの味。最後に木グシにこびりついた、カリカリになった生地まで齧った。それから私は、やはりそこでよく買ってもらったソフトクリームのことを考えた。止せばいいのに、コーンの尻を齧って、そこからソフトクリームを吸って食べたりしていた。上手く吸えずに、溶け出したソフトクリームは、アスファルトの上に点々と染みをつけた。
 アメリカンドッグを食べてみたい。ソフトクリームを食べてみたい。あの場所で。そう思った。気が付くと、目の前の、潮だまりの中の祖母の部屋に私は意識を飛ばしていた。意識は、水紋の天蓋を破って、祖母の家の居間に滑り込んでいた。私は祖母と向かい合って座っていた。祖母は少し頭を傾けて、眠っているようだった。私はそっと立ち上がり、襖を開いて、廊下に出た。そして玄関の扉を開いた。するとそれを待っていたかのように、すっと猫が足をすり抜けて入ってきた。夜の散歩から帰ってきたのだ。私は家の外に出た。そして、門の外から家を見上げた。
 私は突然思い出した。
 私はかつて、やはりこうしてこの家を見上げたことがあった。
 この家で過ごしたのは、随分長く感じるが、今にして思えばたった半年ほど。そのあと、両親の事業が失敗して、逃げるように皆で別の土地に移ったのだ。長い間、仕方なく置き去りにしてきた猫のことを思い出して悲しんだりしていたが、それも次第に過去のものとなった。やがて、父と母は別れ、私と弟と妹は母と祖母によって育てられることとなった。そしてその新しい土地で私達は成長した。
 高校生の時だった。私はふと思い立って、一人で電車とバスを乗り継ぎ、この家を目指したことがあった。なぜそんなことをしたのか、今ではよく覚えていない。失恋したとか、そんなはっきりとした理由はなかった。ただ、どうしようもないほど切実な気持ちだったのだけは覚えている。やはり暑い夏だった。私は汗をかきながら、バスでこの場所までやってきた。
 家はまだそこにあった。十年も経っていたから、さすがに古くはなっていたし、多少改築もされていたが、基本的にはそのままに、そこにあった。蝉の声が聞こえていた。田の稲穂を、風が撫でている音が聞こえていた。私は表札を読んだ。見知らぬ名前がそこにある。
 私が家の前に立っていたのは、せいぜい一分ほどだったと思う。激しく動揺して、それ以上そこにいることが出来なかった。辺りは昼下がりの気だるさに包まれていて、誰の姿も見えない。ただ影がそちこちに黒々と横たわっているだけだった。踵を返した私は、そのまま再びバス停を目指して歩いた。


 不意に娘が私の手を引いた。私は我に返った。そして空を見上げた。空には、雲がまるで水紋のような模様を形作っていた。大気の流れが速いのか、その文様が揺れている。強い風が吹いた。波が強く岩場に打ち付けている。潮が満ちてきているし、波が強くなってきている。これ以上ここに居ては危ないかもしれない。私は立ち上がり、娘の手を引いた。
 でも、おばあちゃんが。娘は言った。私は構わず、娘の手を引いた。
 その時、さっと波がやってきた。私達は慌てて後ろに後ずさった。波は潮だまりを越えて、私達の足を少し濡らした。私達は慌てて、階段を目指した。
 私達が岩場から離れると、大きな波がやってきて、岩場を洗っていった。