漂着の浜辺から

囁きのような呟き。

七枚綴りの絵/三枚目の絵/水紋の天蓋・3

2006年02月26日 | 汀の画帳 (散文的文体演習)


 不意に風が吹いて、潮溜まりの水面を揺らした。水紋が、激しく形を変えた。私は顔を上げた。沖を、大きな黒い船が通り過ぎようとしていた。その船は、奇妙なほど静かに、空を切り取りながら航行していた。私は娘を見詰めた。娘は、じっと何かに耳を澄ましているようだった。


 ……あたしが結婚したのは、だから三十歳を随分過ぎてからだった。その頃にしては随分な晩婚で、見合いだったが、話があっただけ幸いだとさえ思った。そうして結婚したが、結婚して二年経っても三年経っても、子供は出来なかったから、あたしはもう子供を持つこともないだろう、あたしの血はあたしで終わるんだろうと思った。あたしはでもそれでも仕方ないと思っていた。その頃は日本は戦時下だったが、もう敗戦が濃厚になっていた。当時はそんなことは思わなかったが、もう負けかけていたんだ。あたしの主人も、ついには徴兵にあった。赤い紙をもらって出かけていって、ビルマで消息を絶った。一連隊が全滅だったというから、望みはないということだった。ずいぶんあっけなかった。だが、不思議なもので、もう生きて戻れないかもしれないという生物の本能のせいなのかね、あたしは妊娠していた。あたしにはたったひとり女の子が残されたんだ。戦争はまだ続いていた。空襲は数日に一度はあったし、そのたびにあたしは生まれながらにして父親を失っていた子供を抱え、防空壕に逃げ込まなければならなかった。天井の低い防空壕に子供の頭をよくぶつけたものだよ。そのせいでこの子の頭が悪くならなければいいと思ったね。戦争が終わった後、あたしはあちらこちらの世話になりながら子供を育て、やがて再婚した。そのときあたしはもう四十歳を過ぎていた。


 私が祖母の家で過ごしたのは、ちょうど七歳の頃だった。父と母は事業で忙しく、私と弟は祖母の家に預けられていた。祖母の家は新しく区画され、分譲された並びの、角にあった。小さな家だったが、部屋は三つあり、一人で住むには十分な大きさだった。家の前には、広く、田畑が広がっていた。
 私はそれまでも時々祖母の家に泊まりに行ったりはしていたが、ある時、当分はおばあちゃんの家に居て欲しいと母に言われた。それから私と弟は、飼っていた猫を抱えて、祖母の家に住む事になった。一番幼かった妹だけは、父母と行動を共にすることになった。
 最初の数日は落ち着かなかったのを覚えている。夏の暑い頃で、家の前が田んぼだったから、夜になると刷き出し窓の網戸にびっしりと、光を求めてやってきたウンカや羽虫がついていた。そして、その虫を狙ったヤモリもいつもやってきた。私はよく、窓際にだらりと寝転がって、蚊取り線香の香りを嗅ぎながら、ヤモリが虫を捕食するのを見ていた。
 連れて来た猫は、最初の日は、迷子になるからと絶対に外に出さないようにしようとしたのだが、祖母がドアを開けた隙を狙って、すっと逃げるように家から出て行ってしまった。猫を外に出してしまった祖母を私は責めたが、今にして思えば随分な言いがかりだった。猫はそれから一週間ほど帰ってこなかった。しかし、もう帰ってこないと諦めかけていたある朝、窓を開けたとたんにすっと何事もなかったかのように家に入り込んできた。おそらくは近所に挨拶でもして廻っていたのだろう。猫はそれから、夜になると出かけて、朝になると帰ってくるようになった。
 祖母の家で私が覚えたものは、トーストと珈琲だった。それまでは食卓にトーストや珈琲が並ぶということがなかったから、随分新鮮な気がしたものだ。日曜の朝、明るい居間でトーストを甘い珈琲に漬して食べるのが習慣になった。それまで私が育った家に比べて、祖母の家の居間は、光がよく入ったから、格段に明るかった。明るい日曜の朝の珈琲とトーストに、私は、優雅な気分を感じていたのだ。そう、あの頃日曜の朝のテレビのコマーシャルに、「洋菓子のパルナス」のものがあった。地方ローカルの洋菓子店のCMだったが、「モスクワの味」を謳う、どこか寂しいその曲と、儚さを感じさせる映像は、今でも印象に強く残っていて、離れない。