つらいと思う日々に

いたずらにわが身世にふる・・・

エゴイズム

2011-03-20 | Weblog
他人(ひと)よりぬきんでて優れていても、ぬきでることがなく、
並んで歩む。あるいは、一歩引きながら共に歩む。
いまさらながら人の繋がりを語るべくも無く、
人生を知り尽くしてきた人間たちが、未曾有の危機があるたびに、
周りを見て後ろを見て省みる。正しい進化のために、原始に戻されて
気づかされる。
争うな。我先にと。抜き出て何のためもなく、あえて言うなら自己満足のため。
エゴの先には、「そして、誰もいなくなった・・・」と落ちがつく。
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是諸法

2011-03-19 | Weblog
「日頃から」・・少しずつ、・・塵も積もれば、・・継続は力なり、・・繰り返しが法則である。
そのために、毎日同じことを繰り返して生きている。変わらず続いていくために絶対となり正しいとなっていく。
善い悪いに限らず、反復されていけば正しいものとなっていくために、善悪顛倒してしまえば、悪だらけになってしまい
救いようの無いものとなってしまう。

是という文字は、日(太陽)の運行が正しいという意味である。絶対西から日は上ることが無く、変わらずその動きが繰り返されるために法則となっている。
回っているために始まりが終わりになり、終わりが始まりとなって、無くなることがない動きとなっている。だから、是が絶対法則となって、
その法則によっての存在であるために、是諸法という。
是はエネルギーである。気である。私たちもそうである。だから、毎日同じことを繰り返して生きている。
めぐる変化が生死となって繰り返していく。常住の中での諸行無常である。
是が無くならないために、すべてがなくならないものとなっている。
この是が元に戻るものであるためにゼロとなり、浄化となっている。だから、減りもしないし増えもしない。

是が法則であるために、止まることなく動いている。
人がじっとしていられないのはそのためである。その動きが浄化の動きとなっているために、心臓は止まることなく動き、血液も体の中をめぐり、
たえず浄化して肉体は保たれている。あらゆる動きが正しい浄化となって生かされていく。
人生は浄化の行為となっているものであるが、無知であれば間違う。誤った浄化の行為となってしまえば、思いもよらない死となっていく。
誤った世界が繰り返し、救われなくなってしまう。誤りが正しいとなってしまうためである。善悪顛倒した世界が繰り広げられていく。

浄化が道理である。自然である。この道理を学んで正しい浄化の行為として生きていけば、苦の本から開放されていく。
病気も災いも避けて通られていく。

道理を見て、少しずつながらでもきれいを心がけていけば、きれいに生きられる。
身も心も行為も事柄もきれいなものに囲まれていく。すさんだものを見ずにすむ。
「日頃から」・・できる限り道徳に勉めて、浅ましき心を押さえ込んでいくことである。
苦しいことの多い人生でも、遭うべき苦にも遭わずにすむのが道理に適う生き方である。
「きれい」を身に心に行為に為して、事柄が「きれい」に出逢う。
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不便利

2011-03-18 | Weblog
便利は不便を強いる。
当たり前のようにある便利に囲まれている生活は、本来、
有ることが難しい事柄であるために、有り難いことであるとして感謝する。
有り難いことであるのに、あってあたりまえと感謝を忘れるために、
便利がごねて、不便に変わる。
どんなにささやかなことでも、意図して便利は創られている。
それに甘んじ過ぎれば仇となる。
「楽すれば楽が邪魔して楽ならず」となるように。
便利をよそに、あえて使わず、利を宿す。
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罪作り

2011-03-17 | Weblog
人の弱みに付け込んで
金儲けをしようとする人がいる。
悲しいかな下劣な輩がいるものだ。
同じ人間なのに、どうしてこうも品性の無いものが育つのかと
嘆く。
この世の中は運命共同体。何も悪いことをしていないものでも、
悪い奴らのために同じ裁きを受ける。
善いも悪いも無く一掃してしまうのが自然。
悪いものと一緒にいるというのは、理不尽なことになる。
だから、吾が身のために悪を戒めるのである。
自らを戒め、他を戒め、清浄を願うのである。

自然には慈悲がある。慈は天国で、悲は地獄である。慈と悲が合わさっての世である。
自然というのは自ら然ありである。
浄化の法である。善悪が無いために絶対善となっている。
是が自然、浄化された姿であるために、自然は美しい。
戒められて、自ら気づいてこそ正されていくものである。
気づかないものに真実は見えては来ない。
たとえば、私は何も悪いことはしていないといい、肉を食べる。
肉を食べるから商売となり、家畜は殺される。殺されるために生まれてくる動物は不幸せそのもの。
不幸せを決め付けられた動物の悲しみを、
仕方ないと人の勝手で決めつけて、私は何も悪いことはしていないといい、肉を食べる。その罪作りを
自然は戒める。
親を殺される、子を殺される、その悲しみを命は感じる。人以外でも。
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人間だもの

2011-03-15 | Weblog
とにもかくにも自分だけは安全でありたいと思うのが人である。
人というのはかくもそういうものだと知りながらも、そういうものではないという
人を求める。
人という姿と名を持つのなら、利己的であってはならない。
人間だものというのは、機械的確実さに非情を認める揺らぎの無さを嫌った言葉、
温かみのある癒しの言葉、正義の言葉である。
自分のために生きてこそ人の真実、だからこそ、利他に励んでその真実が守られることを、
浅はかながら知らないものである。

弱っている人の足許を見て私利を図れば、何をしても共倒れ。
利欲をなくして事に当たれば、初めて未来は開かれていく。
なりふり構わず手をつくして好まれて、そして、
人間だものと誇って言える。
人間だものは、謙虚であって頼もしい、そういう意味の言葉で遣う。
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ためされて

2011-03-14 | Weblog
弱り目に祟り目という。
悲しみや苦しみとに出遭い、辛く切ない思いを経験して、
二度と再びこのような不憫な思いはしたくないと、固く心に誓う。
時は半世紀ほど流れて、
平穏な日々を繰り返していく。幸せということが当たり前であり、便利であることが当然の如くにあって、
不思議とも思わなくなる。固く心に誓った悲劇の封印は、風化してポロポロとほころび始める。
あらゆるものとのつながりと、共存共栄を忘れ始め、まず自分の利を先んじる。
人の不幸は蜜の味と、知らず知らず欲がはりついて、競い争い蹴落とす社会が立ち上がってきたとき、
あちらこちらで歪が生まれ、補えど補えどがたがたと痛んだ姿になるばかり。
偽善がまかり通る世になってくれば、そもそも浄化の法則となっているエネルギーの法則との摩擦となって、
淘汰されはじめる。これは自然の道理である。
この道理を忘れて、驕り高ぶり、自然を人に合わせて変えていこうとしたとき、がたがたに痛んだ姿に、
踏んだりけったりの始末が現れる。

ミクロなものからマクロなものまで、偶然に出来上がったような形に見えても、実のところ
緻密に計らいがされ、形となっている。ある一定蔓延る悪魔があれど、支配することは無い。
それは、法則が善悪の無いものとなっているためである。

人は心で生きている。その心が邪に傾けば、常に修正される事態が生じる。
諸行無常であるために、戒め否められる。
試されて、心の無常を打ち破ったとき、突然の悲劇は二度と起こらない。
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生きてさえいれば

2011-03-13 | Weblog
災難に遭う。も、
生きてさえいればと思う。も、生きて、途方にくれ
数多くの悲しみに打ちのめされる。その現実は死の恐怖にも等しい。
いっそのこと死んでしまえばどんなに楽かと思えども、それは正しくは無い。
死が理解できずに死の恐怖に直面すれば、恐怖に犯されて、そのまま恐怖の世界が創られていき、あの世は地獄となっていく。
死んでいくことさえわからず、あるいは、あぁ~このまま死んでいくのかと、意識が穏やかに遠のいていくだけで、
恐怖が無ければ、あの世は恐怖となることが無い。
意識は肉体を離れて、意識の世界となっていく。
どう思っているかによって明と暗に分かれ、そこに、さまざまに縁に導かれて、意識の現象の世界となって繰り広げられていく。
明の扉、暗の扉の開けた世界が、心によって創られている。苦しみも楽しみも
心の持ち方によって選択できるものである。
心のあり方が、人の経験とならない死後のことであるために、心の持ち方を理解できずにいる。

普通に天寿を全うして死を迎えれば、脳はぼけていき、死の恐怖を思わない。
自然に、死が恐怖となることがなくなり、意識は肉体を離れていくものとなっている。
それが、恐怖から離れられ、あの世が地獄とならなくなっていく。
普通に死んでいく(時期が来れば)のに、死は恐怖とならなくなっていくようになっている。

死ぬときに、きれいな花畑を思い出し、好きな人とのひと時を思い出し、楽しい思い出を描いていれば、
あの世は、そのまま楽しくきれいな世界が現象となっていく。
けっして心配してはいけない。
あの世に未練を持っていけば、未練が苦となって、苦しみの世界となってしまうためである。

心の持ち方は、死んでからでは適わない。なぜなら、時間を持たない、空間を持たない、変わらない世界となっているためである。
だから、生きてさえいれば、心のあり方をただせるために‘生きてさえいれば’というのは正しい。
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苦楽おりなす世に於いて

2011-03-12 | Weblog
あるものに思いをこめて、あるものが創られる。
思いがあって作られていくために、その念いは精を招き、
作られた形に宿り
静かに眠る。
建物であれ、偶像であれ、人の役に立つために作られる。
精神的なものであれ、肉体的なものであれ、として、必要とされた思いによって創作されたものに、
敬意を払い感謝して扱い労われば、眠る精が目覚めて、
いかなる不測の事態にも、難なく済ましてくれる。優しくしてくれたものを困らせることが無い。
例えて、身代わりとなったりして楯となる。そしてまた、代わりなる楯をよびこむ。

道理に従えばよく道理に守られるように。

何もかも
日頃の行いによるものであり、地道な積み重ねが功を奏す。
それは正しい心により起こる。優しい心による。

身の回りの物言わぬ物、一つ一つの精を目覚めさせて、
その時々の、あなたが私が救われる。

この世の中では、
生きていくことは、善い人でも悪いことには出会う。が、
不幸中の幸いというふうに、悲しみは最小に済まされる。
善い人というのは。
人の身勝手な心理では、自然は計り知れないものである。
善いも悪いも無いために。
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私利私欲

2011-03-09 | Weblog
貢ぐものは貢ぐものに惹かれるものがあるために御調、貢がれるものは貢がれるものに惹かれ御調、贅沢となった。
惹かれるものとは我慾であった。
惹かれたものは贅を尽くしても、
さらに気を惹かせ、もっともっととせがむ。
御調させて当たり前と思い、税(みつぎもの)を義務と課した。
我慾は東奔西走して御調、やがて疲れて我を失った。そして、
贅(税)を嘆いて、やがて省いた。
互いの欲が競り合って、とうとう互いに崩れた。
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自己満足

2011-03-08 | Weblog
家の所有者であるとして税を払い続ける。
車を所有して税を払い続ける。他諸々。
高いお金を払って得たものであるのに、税を払い続けなければ
所有者で無くなり所有物で無くなる。
自己所有とは名ばかりで、実のところ借り物としての実態である。
金持ちも貧乏も
実のところ無一物。
物を縛れば、金の奴隷。

自己満足というのはつまらないものだ。

とらわれないで不自由を離れる。
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